明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常114 「擦り合わせ」の音楽

こんにちは。

 

関東地方では、早くも梅雨入りしたそうですね。最近は、季節の進み方が「一歩一歩」という感じではなく、一足跳びに1か月、2か月ぐらい先へ進んだり、また逆戻りしたり、というような極端な感じになっていますが、「開花宣言」とか「梅雨入り宣言」などという言葉を聞くと、何となく「ああ、もうそういう季節なのか」と実感できます。

 

前回の投稿で、合唱という音楽をめぐる状況について書きましたが、もっとも肝心なことを書き忘れていました。それは「合唱音楽の魅力」です。

クラシック音楽における合唱のルーツは、中世ヨーロッパにおける教会で歌われていた聖歌の数々でしょう。その後、ルネサンス期、バロック期を通じて次第に洗練化するとともに、宗教的内容を扱わない曲(世俗曲)も多く作られるようになりました。また、国によってもその発展の仕方は異なっていたため、一言で合唱と言っても、ずいぶんバリエーションに富むものとなりました。

現代のヨーロッパでとくに合唱が盛んなのは、豊かで深く、柔らかい響きを特徴とするスウェーデンフィンランドなど北欧諸国、中世から少人数で歌う合唱曲がたくさん作られ、学生のグループ等で歌い継がれるとともに、学究的分析も進んでいるイギリス、広く市民が歌えるような簡単なコーラスがブラームスシューマンなどロマン派の著名作曲家によって作られているドイツなどです。スウェーデンの合唱指揮者故エリック・エリクソンは「合唱の神様」とも称されて、その弟子たちや彼のつくった合唱団が今も世界中で活躍しています。イギリスではケンブリッジ大学キングズ・カレッジでの活動がとくに盛んで、その卒業生による6人組コーラス・グループ「キングズ・シンガーズ」は、クラシックに限らず、ジャズやポップスなど非常に幅広いレパートリーで私達を楽しませてくれています。そしてもちろん、他の国々でもそれぞれ面白い作品や演奏団体は多数あります。

日本では、宗教曲としてつくられた合唱曲はさほど多くありませんが、その代わり、堀口大學北原白秋中原中也草野心平など、名のある詩人の作品を歌詞とする独自の味わい深い作品が多く作られるようになりました。また、もっぱら合唱曲ばかりを書く作曲家が現れたのもおもしろい展開です。前回ご紹介した多田武彦氏は、京都大学男声合唱団の出身で、卒業後銀行マンとしての仕事の傍ら、数多くの男声合唱曲を作曲しています。

このように、色々と異なる点はあるのですが、すべての合唱に共通しているのは、「ヒトの声が重なり合うことによる新たな魅力」です。人間はそれぞれ声帯も体格も異なるので、一人一人出す声は異なります。どんなにヴォイス・トレーニングを積んでも、誰かとまったく同じ歌声になるということはありません。ですから、団員が一斉に声を出すと、「誰の声でもない、新たな歌声」が生まれます。もちろん、それを美しい響きにしていくためには、それなりの練習と工夫が必要ですが、誰か一人ががんばればそれで何とかなるというものではありません。たとえ団員それぞれの理想とする声や音楽性は異なっていても、全員でひとつの楽譜に基づいて歌を紡いでいくことによって、決して一人では達することのできない領域にまで、自分たちの音楽を高めることができるかもしれないのです。そしてそのためには、練習を重ねることにより、歌声をひとつの響きへと擦り合わせていくことが求められるのです。このことにこそ、器楽奏者あるいはソロ歌手が味わうことのできない合唱の魅力があるのです。100人を超える大合唱でも、1パート一人ずつの少人数アンサンブルでも、このことには変わりありません。

 

ここまで書いたことは、クラッシックにおける合唱を念頭に置いています。しかし、ジャズ・コーラスも、ポップスにおけるコーラスも、基本的には同じだと思います。山下達郎さんのように「一人アカペラ」をやっている人もいますが、これは、スタジオ・ワークとしては非常に面白いでしょうし、かなり音域が広くないと成立しないものですが、基本的に、自分の声を重ねているだけですから、声が交りやすいのは当たり前ですし、他人と擦り合わせていくという合唱音楽のだいご味はありません。勝手な想像ですが、山下達郎さんも、本当は自分と同レベルで歌える人を集めてコーラスすることを望んでいるのではないか、と思うのです。

単にいくつかのパーツを組み合わせるのではなく、それを擦り合わせていくという作業は、非常に人間的な営みであり、そこにさまざまなアプローチが生まれる。だからこそ合唱という音楽の形態に惹かれる。合唱に魅力を感じる人はそんなふうに考えているのではないか、というのが私なりのとりあえずの結論なのです。

 

今回も、最後まで読んでくださってありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常113 合唱音楽に未来はあるのか?

こんにちは。

 

季節が一ヶ月ほど進んでしまったのではないか、と思えるような高い気温が続き、熱中症で倒れる人が続出しているようですが、皆さん、お変わりなくお過ごしでしょうか。よく言われることですが、結局「水分をたくさん撮る」ことに尽きるみたいですね。お茶などは利尿作用があって、水分補給には向いていないので、なるべく「水」を取るよう心がけたいものです。

 

さて、今回は久しぶりに音楽ネタです。

以前、私が趣味として合唱団に入っていたことは書いたと思います。

音楽にさほど興味のない方と話していて「合唱をしています」と言うと、たいていの場合、相手はどうやって話題をつなげていけばよいのか戸惑ってしまい、「えっと、第九とか・・・?」と聞いてこられます。ベートーヴェン交響曲第9番は俗に「合唱付き」などと呼ばれますし、第4楽章で歌われる「歓喜の歌」のメロディを知らない人はいませんから、まあ、仕方のないことなのですが、演奏時間70分を超えるこの大曲で、合唱が出てくるのは最終楽章15分ほどだけです。実際のステージでは、それまで合唱団はオーケストラの後ろに座って、なるべく動かないようにしながら、ひたすら出番を待つ、ということになります。また、この曲の合唱はやたらとキーガ高く、歌うのはけっこう大変なのです。そんなわけで、実は私はこの曲をステージで歌ったことはありません。

いや、上に書いたのは単なる言い訳です。実際、素晴らしい曲だし、ハマってしまう人は毎年これを歌わないと、年が越せないようです。そういう意味では、やはり合唱曲の代表格といっても間違いではないでしょう。

ただ、合唱というジャンル、クラシック音楽の中でもあまり重要な位置を占めているとは考えられていないようです。教会でのミサで歌われる宗教曲の伝統があるヨーロッパでは少し事情は異なるようですが、少なくとも日本ではクラシックと言えば交響曲、あとはショパンピアノ曲・・・といった風潮が根強くあります。合唱経験者なら誰でも知っているような曲や作曲家も、かなりクラシック音楽を聴いている人でさえ、よく知らないというのが現実なのです。「筑後川」や「蔵王」といった曲、多田武彦高田三郎の名前、知らないですよね?(やや自虐です)

なぜそんなことになっているのでしょうか? 大きく分けて、三つの要因があるように思います。

ひとつは、合唱が学校の音楽教育に無理やりといった感じで組み込まれており、いやでもそれに参加させられる、という経験をもつ人が多いことです。皆さんの中にも、中学あるいは高校時代にいやいやクラス対抗合唱コンクールで歌わされ、それがトラウマになっているという方がいらっしゃるのではないでしょうか。そんな経験があったら、もう一度合唱に触れてみようなどとは考えないですよね。

もうひとつは、プロの声楽家の中にも合唱を軽んじる傾向が少なからずある、ということです。彼らは、合唱をソロでは歌う力のない人がやるものだ、という考えに陥っている傾向があります。つまり、ちゃんと聴こうとせずに、馬鹿にしているのですね。

最後に指摘しなくてはならないのが、プロの合唱団を維持運営することがむずかしい、ということです。合唱を演奏するにはある程度の人数が必要で、コンスタントに演奏活動をしていくには相当のコストがかかります。また上に書いたような事情で、合唱のプロとしてやっていこうとする人の数そのものがさほど多くありません。加えて、合唱音楽にあまり人気がない、となると常設のプロ合唱団をつくることはとてもむずかしいことは、容易に想像できますよね。私の知る限り、コンスタントに活動を続けているのは、日本では東京混声合唱団、日本合唱協会など、数えるほどしかありません。

というわけで、日本で合唱音楽を支えているのは、主にアマチュア合唱団ということになるのです。指導者がプロである場合はありますが、それも少数派で、「学生時代からやっていて、好きで好きでたまらない」という人が自ら合唱団をつくり、指揮台に立ち、運営にも深くかかわっているという例の方がおそらく圧倒的に多いと思われます。

こうした団の演奏会は、身内や友人、他の合唱団団員等が来てくれますので、それなりに集客を見込めます。しかし、合唱にさほど興味のない人へのアピールという面では少し弱い、というのが現実で、かなり「閉じられた世界」の中で活動が続けられています。そのために、外部の人間は余計に入っていきにくい、という悪循環が生まれてしまうのです。それだけ、「特殊な世界」になってしまっているのですね。

実は、先日京都府合唱祭という大きなイベントに出かけてきました。これは京都府合唱連盟に属する大小数十団体が一堂に会して、それぞれ10分ほどの演奏を披露する、というもので、どこの都道府県でも似たようなイベントがこの時期に開催されています。ただ、京都の場合は、参加団体がとても多く、ローム・シアター(以前の名前は京都会館)にあるふたつのホールで、朝から夕方までびっしりとプログラムが組まれるという大々的な催しになっているのです。つまり、これをある程度チェックすれば、各団体の現状をおおよそ把握できるわけです。

そんなにたくさんの演奏を聴いたわけではないのですが、参加者はみんな元気でしたし、少人数でも頑張っている団体はたくさんありました。この2年ほどは練習も思うようにはできなかったでしょうし、ステージでもマスクをつけたまま演奏しているところも多く、その意味では不完全燃焼だったかもしれませんが、さまざまな制約がある中では、よくやっていたというのが正直な感想です。実は、高校や大学ではどこでも合唱団の人数が激減しており、演奏活動を継続していくのは大変なはずですが、まだまだ衰退してしまうようなことはないな、とホッとしたものです。

ただ、相変わらず合唱が「閉じられた世界」であることには変わりがなかったのも事実です。色々と工夫はしているようでしたが、それが一般の音楽ファンにどれだけ届いていたのか。吹奏楽の場合はアニメ「響けユーフォニアム」の大ヒットもあり、けっこう入団希望者が増加しているようなのですが・・・

この点については、もう少し考えていきたいと思っています。

 

合唱に関しては、まだまだ書きたいネタがたくさんありますが、それはまた別の機会に。

ただ、少しでも「聴いてみようかな」と思った方のために、初心者でも入りやすく、その美しさに感動してしまう作品を3曲だけ紹介しておきます。

J.S.バッハ 「マタイ受難曲」より 第1曲「来たれ、娘たちよ」

・W.A.モーツアフト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

多田武彦 男声合唱組曲「雨」より 第6曲「雨」

マタイ受難曲」は演奏時間が全部で3時間にも及ぶ大曲ですが、第1曲だけでも十分その魅力とバッハの凄さがわかると思います。モーツアルトは5分強の短くて美しい曲、多田武彦組曲で演奏時間は全部で20分以上ですが、これもとりあえず最終曲である第6曲だけでも聴く価値はあります。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常112 誤送金問題から考える過疎化社会の問題

こんにちは。

 

この1週間ほど、色々と行事や用事が立て込んでいて、投稿が遅れてしまいました。まあ、予定どおりスケジュールをこなすことができたので、体調はまずまず、ということになるのでしょう。でも、気温や湿度が高くなってきたこの時期、一日中マスクをしたままでいるのは、やっぱり疲れますね。人の少ないところや他人との会話をしない状況では、マスクを外すことが推奨されつつあるようですが、これまでのクセで、ついつい外すのを忘れるんですよね。

あちこちをウロウロいている間に色々なことを考えていましたが、今回はとりあえず、時事ネタに関連する話題を取り上げます。

先月来、山口県阿武町で起きた4600万円にも上る誤送金問題と、それを知っていたにもかかわらず「全額を他の口座に移してしまったので返せない」という人物のことがマスコミを騒がせました。そして、その使い道がネットカジノ(オンライン・カジノ)という普段私達にとってあまり馴染みのないものだ、ということが、さらに騒ぎを大きくしてしまいました。

6月2日現在、約9割に当たる4300万円ほどを取り返すことができた、ということで、この大騒ぎは落ち着いてきています。もちろん、残りのお金の問題もありますし、これでこの人の罪はどうなるのか?とか、そもそも誤った手続きをしてしまった町の責任や再発防止策はどうなるのか?といった問題は残っていますし、これまでほとんどこと明るみに出ることのなかったネットカジノの存在に注目が集まったことで、新たな疑問や問題点も指摘されています。また、個人的には、取り返したお金は、本当に誤って送金されたものがそのまま帰ってきたとみなしてよいのか、いささか疑問に思っています。つまり、カジノ側あるいは決済代行業者が捜査の手から免れるために自腹を切った、ということなら、これは彼等から町への寄付とみなすべきではないだろうか、そうすると、これは「返済されたお金」ではない、ということになる・・・という疑問です。このあたりは、まったくの素人なので、どのように理解すべきなのか、正直なところよくわかりません。

ただ、今回は、このような問題を深堀りすることはあえて避けて、何となく軽く扱われている他の問題について少し書いていきます。

今回事件の舞台となった阿武町は、山口県北部に位置していて、人口は、1950年代には10000人を超えていましたが、現在では3000人強という小さな町です。観光地としてにぎわう萩市に隣接していますが、阿武町自体はかなり過疎化・高齢化が進む、典型的な「田舎町」といってもよいでしょう。ただ、それだけに住民お互いの顔が「見える」という特徴があります。

全国の過疎に悩む自治体に共通することですが、阿武町は空き家バンクや子育て支援といった施策によって、他地域からの移住・定住促進を積極的にアピールしているようで、実際その効果はかなり上がっているようです。いわゆる「田舎暮らし」に憧れる人たちの間では、阿武町の取組はしばらく前からかなり注目されていたそうです。そして、今回の事件の主役になってしまった人物も、空き家バンク制度を利用して数年前から阿武町で暮らすようになったことは、マスコミでも大きく取り上げられましたから、ご存じの方も多いでしょう。

さて、問題はここからです。過疎が進み、しかも高齢化率がかなり高い地域は、たいていかなり「閉鎖性」の強いところだと言えます。少し乱暴な言い方をすれば、「よそ者」に対する警戒心が強いのです。これはある程度やむを得ないことかもしれません。このような制度を利用して新たに住み始めた人達については、はっきりとその顔が「見えない」ために、古くから暮らす人々とどうしても区別してしまいがちになることは避けられないからです。もちろん、ほとんどの移住者は決して「良からぬ人物」ではないでしょう。しかし、一度でも今回の事件のようなことが起きてしまうと、「だからよそ者は信用できないのだ」とか「何を考えているかわからない」といった意識が生まれてきてしまう可能性が高いと思うのです。それだけ、地域における本当の意味での交流促進あるいはコミュニティ作りはむずかしいのです。

もちろん、移住者は移住者同士で固まってしまう、というのもあり得ない選択肢ではありません。単に町の税収を増やしたい、というのであれば、それでもかまわないのです。しかし、それでは本当の「賑わい」を取り戻すことはできません。もともと生まれ育った環境が異なっていても、交流を深めていくことで、お互いに刺激が生まれ、地域全体が新たな活気に満ちたものになっていくことこそが、望まれる姿でしょう。

阿武町の場合は、萩市とも協調して「定住自立圏共生ビジョン」を掲げ、次なる一手に向けて模索・検討を続けています。しかし、最も重要なのは、これまでその地域で暮らしてきた人たち自身の意識や行動ではないでしょうか。それによって、移住者にとっても、そこが「住めば都」になるのだろうと思うのです。それぞれの多様性(diversity)は大事にしながら、ひとつの地域としてのまとまりを形成していくための包摂(inclusion)を目指すことが、たとえ人口減少に見舞われても、そこからさまざまな発信をすることのできる活力の源になるのではないか、と思うのです。

今回の事件が、全国の過疎地域で「よそ者排除」の風潮を助長するようなことにならないことを祈るばかりです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常111 ジェネリック医薬品をめぐって

こんにちは。

 

一昨日は血液内科の診察・治療のための通院でしたが、前々回の投稿でお知らせしたように、予定通り、免疫ブログリン補充療法(免疫力を上げる治療)であるハイゼントラという薬剤の注射を受けてきました。それ以外にも、いつものダラキューロの注射治療もあり、その両方が腹部への皮下注射でした。ただ、腹部はあまり細かい神経は通っておらず、痛みはほとんどありません。ハイゼントラは45分血殿長い時間をかけての注射(もちろん手動ではなく、電動ポンプを用います。そんな長時間の注射、手動で行ったら、看護師さんの過重負担になってしまいますよね。

まあ、そんなわけで治療は問題なく終わり、今のところ目立った副作用も出ていません。効果があったかどうかは、次回(来月)の検査結果を見ないとわかりません。

 

ところで、医療機関における治療にはさまざまな薬剤が必要なことは言うまでもありませんが、昨年ごろからその供給体制等について、ちょっとした問題が表面化しているのはご存じでしょうか。それはジェネリック医薬品をめぐる問題です。以前も少しご紹介しましたが、ジェネリック医薬品とは、「新薬(先発医薬品)」の特許が切れたあとに販売される、新薬と同じ有効成分・品質・効き目・安全性が同等であると国から認められた薬品で、後発医薬品とも呼ばれます。先発医薬品は、長い年月(通常10 ~ 15 年)と、数百億円以上といわれる費用をかけて開発されるので、これを開発した製薬会社は、特許の出願によりおよそ 20 ~ 25 年間(特許期間)その薬を独占的に製造・販売する権利が与 えられます。もちろん、この期間を超えても信頼度の高さやその他の要因によって生産され、売れ続ける薬品もたくさんありますが、途中で開発を断念し、先行投資が無駄になってしまうこともよくあるようです。

他方で、後発メーカーが同じ成分によって「ジェネリック医薬品」を販売するケースも多い、と言うことになります。ジェネリックの場合は、開発費用が格段に低く抑えられることから、価格もかなり抑えられることが、普及の大きな要因でしょう。

国から認められている薬品の価格は、そのまま国の負担する社会保障費にもかかわってきますので、国(厚生労働省)としては、少しでもジェネリック医薬品の普及拡大を推進したいところなのです。その背景には、日本の財政支出に占める社会保障費、とくに医療費の割合が年々増大していること、そして下の図にあるように、約10年前には諸外国に比べて日本に対応がかなり遅れていたことが挙げられます。

OECDの資料より


厚生労働省は、2020年9月までに、その使用割合を80%にするというかなりハードルの高い目標を掲げたのですが、その後、このような薬品を製造するメーカーが急増したこともあり、日本のジェネリック普及率は、下図のように急激に上昇して、今に至っているのです。ただし、国民医療費に占める薬剤費の比率は22.0%程度で、であり、2000年代半ば以降安さほど変化していないそうです。これは主に、医療そのものがどんどん高度化していることに依るものとでしょう。いわゆる高度医療には、ジェネリックはあまり関係しません。

日本におけるジェネリック医薬品の使用割合(厚生労働省の資料による)


さて、ジェネリックに話を戻しましょう。現在、これについては、いくつかの不安・懸念材料があります。

ひとつは、その効果についてです。ジェネリックの有効成分そのものは先発のものと同じですから、基本的にはその効果には差はないはずです。しかい、有効成分以外の添加物には各社で違いがあるようです。添加物は主に有効成分のコーティングに使われますが、それによって、思わぬ副作用が出たり、効果が弱いと感じたりすることがあるようです。ただし、薬品の効き方には個人差があるため、一概にジェネリックは品質がイマイチと言うことにはなりません。こればかりは、実際に使用している患者が感じたことを素直に医師に相談して、解決していくしかないでしょうね。

ただ、昨年あたりからその品質そのものの信頼性を揺るがす事件が立て続けに起きています。それは、小林化工(福井県)、日医工富山県)2社で、相次いで、未承認薬品の混合、査察に備えての品質検査に関する二重帳簿の作成、本来の手順として認められていない手法による検査の状態か等の不正が見つかり、長期間にわたる業務停止処分を受けたことです。これに端を発し、いくつかの他メーカーでも不正が発覚し、いずれも重い処分が下されています。この一連の事件を受けて、業界全体が検査体制の見直しを徹底することが求められるに至ったことは、ジェネリックにとって大きな痛手となった事は言うまでもありません。

問題はこれにとどまりません。このことによって、昨年頃からジェネリック医薬品の供給体制をめぐって、いくつかの大きな問題が出てきているのです。とくに日医工は業界トップの規模を誇る企業であったため、その事業停止の影響は極めて大きいものとなりました。

これに追い打ちをかけたのが、2021年12月に大阪で起きた4日間にわたる大規模な倉庫火災によって、多くの医薬品が肺となってしまったことです。もともと、この業界には比較的規模の小さな企業が多いため、生産体制、流通ルートともにさほど確固たるものではなく、こうした事件が立て続けに起きると、あっという間にその影響は大きくなってしまうのです。またたくまに市場では「ジェネリック医薬品不足」が起き、市場末端である町の薬局では、「薬の奪い合い」が加速化してしまいました。そしてそれは、当然ながら、これを利用する私達にも少なからぬ影響をもたらしたのです。

厚生労働省は、各社に生産増強への協力を求めており、それに応じる姿勢を見せているところも多いようですが、原材料仕入れの見直しや自社の製造体制の再構築、場合によっては新規工場建設等が必要となるため、この問題はそんなに簡単には解決しないようです。もともと、生産コストが安いことを最大の魅力と感じていた企業にとっては、検査体制の件も含めて、前向きに対処することに若干の躊躇を覚えている所もあるかもしれません。

私はジェネリック医薬品やそれを製造するメーカーそのものを問題視するつもりはまったくありません。ただ、一般論として、どのような業界にでも言えることなのですが、急速な発展拡大には、その成功要因を分析して、もてはやすだけではなく、どこかで無理が生じているのではないか、何か暴かれては困るようなことが潜んでいるのではないか、という目を持つことも大事だと思うのです。

 

今回は、かなり理屈っぽい話になってしまいました。最後まで読んでくださった方には、感謝申し上げます。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常110 バタフライ・エフェクト

こんにちは。

 

ニュースを見ていると、相変わらずあまり楽しくなれない話題ばかりが取り上げられていて、しかも最近は、その分析の仕方も各社ほとんど同じようになっています。正直なところ、だんだん見る気が失せてくる今日この頃です。皆さん、ちゃんとニュースは見てますか?

ニュースではなく、20世紀の歴史を振り返る感じの番組ですが、現在NHK総合テレビで「映像の世紀バタフライ・エフェクト」という番組を月曜22時から放送されています。「映像の世紀」という番組は、もともと20世紀にあった様々な社会的事象を貴重な映像とともに振り返り、そこから歴史の重みを感じさせる番組で、NHKアメリカABCの共同制作でした。1993年から定期的に放送されていたのですが、ジャズ・ピアニスト加古隆さんの作曲・演奏した「パリは燃えているか」が印象的であったこともあって、大変評価が高かったのです。何回か再放送されましたし、DVDにもなっています。また、再編集した番組も放送されています。おそらくご覧になった方もたくさんおられるでしょう。

ちなみに、「パリは燃えているか」という曲は、既に敗戦濃厚となっていたヒトラーが1944年に、占領していたパリの街を「敵に渡すくらいなら灰にしろ。跡形もなく燃やせ!」というめちゃくちゃな指令を出したにもかかわらず、当時パリ軍事総督を務めていたコルティッツ司令官は、それを得策ではないと考え、無視し続けたことに痺れを切らして、ベルリンから「Brennt Paris ?(パリは燃えているのか?)」と叫んだ、という逸話に触発されて作曲したものだそうです。なんとなくですが、この番組の主旨・雰囲気にとてもフィットした曲で、これを機会に加古さんがジャズ・ファン以外にも注目されるようになったのは納得できるところです。

少し話がそれましたが、今年4月から放送されている「映像の世紀バタフライ・エフェクト」という番組は、同じような趣旨をもちながら、その時代の荒波の中で生きる個人をクローズアップした内容となっています。といっても、一人の有名人の生涯をただ追いかけるだけでなく、歴史の流れで翻弄され、あるいは抗い続けた個人(あるいは複数の人々)の行動を、重要なトピックスとの関係に触れながら考察していくというものです。例えば、近頃退任したドイツのメルケル前首相を取り上げた回では、彼女が東ドイツで一介の物理学者としてのキャリアを歩み始めた頃の話から、政治に目覚めた話、ベルリンの壁崩壊前後の彼女の行動とその後を紹介するだけでなく、彼女が政治に目覚めるきっかけのひとつにもなっている歌手ニナ・ハーゲン、これとは別に、デモで東ドイツでの自由を訴えた学生のカトリン・ハッテンハウワーといった人たちの活動や運命をそこに絡めながら、とても見応えのある番組になっていました。メルケルは、退任する際に軍楽隊にニナ・ハーゲンの曲の演奏を依頼したのですが、ポピュラー曲を演奏したことのない軍楽隊は非常に慌てた、などというほっこりするエピソードも織り交ぜられていて、歴史にさほど興味のない人でも、途中で見飽きることのないつくりになっていました。

もちろん、放送時間の都合で重要なエピソードが省略されていたり、やや一方的なものの見方になっているかな、と思ったりするところもありますが、そういったことを差し引いても、見る価値は十分あると思います。

これまでに既に6話が放送済みですが、オンデマンドやNHKプラス(見逃し配信)で視聴することはできると思います。見逃した方、お勧めします。

なお、バタフライ・エフェクトとは、もともと力学系の用語で、ある状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の状態が大きく異なってしまうという現象 を指すそうです。

なぜ「バタフライ」なのか、というと、気象学者エドワード・ローレンツの「ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきが、テキサスで竜巻を引き起こすか?」という問いかけに由来しています。

具体的にみていくと、

ブラジルで一羽の蝶が羽ばたく。

→ 小鹿がその様子に興味を持ち、何度も飛び跳ねる。

→ ライオンがその様子に気づき、小鹿を狙い近づいていく。

→ ライオンに気づいたシカの群れが逃げ惑う。

→ それが大きな風を起こす。

→ 海に向かった風が上昇気流をつくる。

→ 竜巻が発生する。 という流れになります。この例だけ見ると、何だか「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいに思えてしまいますが、大事なのは、当初の予想や想像を超えて(というより、予想する価値さえないと思われたような小さな動き、と表現した方がよいかもしれません)大きな変化が生じることがある、ということでしょう。

この番組では、個人の行動をここでいう「わずかな変化」と位置付けて、それが歴史の大きな潮流にもたらす影響が、本人の想像を超えて大きくなることがあるのだ、という思いが、番組タイトルに込められているのでしょうね。単に現代世界史の「学び直し」として視聴するだけではなく、そのような製作意図を噛みしめながら見るべき番組なのかもしれません。

 

なんだか番組宣伝みたいになってしまいましたが、番組表を注意深く見ていると、まだまだこうした良質の番組が作られていることがわかり、何だかほっとします。ちなみに、5月23日放送予定のテーマは「スターリンプーチン」となっています。これも興味深いですね。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常109 免疫力の話

こんにちは。

 

今回は、まず前回の補足からです。それは沖縄音階に関連することです。

沖縄民謡等はたいていの場合「レ」と「ラ」を使わないとご紹介しましたが、これはもちろん、西洋の音階に無理やり当てはめて五線譜に書き起こした場合の話です。実際には、西洋音階には出てこない中間的な音も出てきますので、聴き方によっては、それが「レ」や「ラ」に聴こえる場合はあります。民謡というものがもともと西洋音階や音楽理論に基づいて作られているわけではないのですから、これは当たり前ですね。

ついでに書いておきますと、日本本土の民謡やわらべ歌の多くは、「ファ」と「シ」がほとんど使われていません。この2つの音は「ド」から数えてそれぞれ4番目、7番目になるので、俗にヨナ抜き音階とも称されます。もちろん、これも西洋の音階に当てはめれば、ということです。このような音階に慣れ親しんでいた明治時代初期の日本人は、西洋音楽になかなか馴染めず、とくに音階を歌わせると、「ド・レ・ミ」までは正確に歌えても、「ファ」になると急にまったく音程が取れなくなった、という逸話がありますが、本当なのでしょうか?? ただ、仮にこれが本当だとすると、明治時代後半には、日本人の作曲家によって次々に西洋音階に基づく曲が作られていたのですから、日本人の順応力はたいしたものだ、ということになるのかもしれませんね。

さて、少し呑気な話題を取り上げてしまいましたが、そんなことをしているうちに、このブログでも紹介した、私と同じ多発性骨髄腫の治療を行っている宮川花子さん、佐野史郎さんが、復帰に向けて着実に歩みだしておられるようです。

佐野さんはロックバンド「くるい」のプロモーション・ビデオへの出演を手始めとして、体調に留意しながら役者としての仕事に復帰していく予定だそうです。また、宮川花子さんは先日行われた吉本興業の大きなイベントで舞台復帰されて、リハビリが続く中、以前と変わらないパワフルな「しゃべり」を披露されたようです。

お二人ともまだまだ体調と相談しながらの仕事、ということになるでしょうが、とにかくめでたいことです。ただ、この病気に「完治」と言う言葉は今のところありません。また、体力や免疫力の低下もありますので、くれぐれも無理をなさらないように、と願うばかりです。私の経験からも、「油断大敵」ということだけは強く言えます。なお、私が退院直後に肺炎にかかってしまい、わずか数日で病院に逆戻りする羽目になった顛末は、このブログ第17回(2021年7月14日)に書きましたので、よろしければご覧ください。

ところで、現在の私ですが、体調に大きな変化はないものの、通院するたびに行っている血液検査でひとつ気がかりなことが出てきています。それは体内に細菌やウイルスが入って、深刻な影響をもたらすことを防ぎ、これを排除するという重要な機能を持つ免疫グロブリン(ig)というたんぱく質の値があまり上がってこない、つまり簡単に言えば免疫力が低下したままである、ということです。igにはいくつかの種類があるのですが、私の場合、igGという、抗原に対する抗体を作るうえで最も重要なものの値がとくに低いようです。

igGは、血液中に最も多く存在し、量的には免疫グロブリン全体の約80%を占め、液性免疫の主役です。図に示すように、それは2本の軽鎖〔けいさ〕と2本の重鎖〔じゅうさ〕が結合したY字型をしています。このY字構造は、角度で0から180度近くまで開閉でき、大きな細菌・ウイルスとの結合にも柔軟に対応できます。ツノのようになっている先端部分(抗原結合部=Fab部)で細菌やウイルスなどと結合し、それら病原体の動きを止めるわけです。ここの作用を「中和」と呼んでいます。

igG  日本血液製剤協会ホームページより転載


悪性腫瘍、とくに血液系のガンや急性感染症などに罹患した場合は、それをなんとか抑えようとして、igGは非常に高い値になってしまいます。つまり、こうした病気の指標としてもこの値が使われるのです。逆に低い場合は、免疫不全、つまりさまざまな感染症へのリスクが高くなるのです。

ではどうするのか、というと、幸いなことに皮下注射によってこれを補充する、という比較的簡便な方法があるのです。そんなわけで、次回(来週)の通院から、おおむね1ヶ月に1回、免疫グロブリン補充療法として、ハイゼントラという薬剤の注射を受けることになりました。注射ですから、自分でやらなければならないことは特にないのですが、1回の注射40~50分かかるそうで、またまた病院滞在時間が長くなってしまうようです。(本当は、自分で注射するという選択肢もあるのですが、もちろんそれなりのトレーニングが必要です。すでに定期的に通院している人の場合は、ほとんどの人が病院で打ってもらっているそうです。)、

説明書を読む限り、大きな副作用等はあまりみられないようですが、どうなることやら・・・これについては、またこのブログでご報告します。

たいていの病気で怖いのは、その病気そのものというよりは、感染症や合併症によって、思わぬ形で体調が悪化することです。新型コロナ・ウイルスもまだ落ち着きを見せる、と言えるまでには患者数が減っていない現状ですし、気をつけていきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常108 島唄の魅力

こんにちは。

 

皆さんは、沖縄の歌というと、どんな曲を思い浮かべるでしょうか? もちろん世代によっても異なるでしょうが、ザ・ブームThe BOOM)が大ヒットさせた「島唄」(宮沢和史作詞・作曲)が真っ先に出てくる人も多いのではないでしょうか? しかし、実は宮沢さんは沖縄出身ではなく、海のない山梨県で生まれ育った方です。たしかに、この曲の冒頭部分は、いわゆる沖縄音階(曲全体がド・ミ・ファ・ソ・シの5音で作られていて、レとラは基本的に用いない音階のことです。)で作られています。試しに、お手元に何か楽器がある方は、上の5音を順に鳴らしてみてください。ほとんどそのまま、「島唄」の冒頭部分のメロディになります。

しかしこの曲、展開部分からはこうした制約から外れて、普通の西洋音階の音楽になります。つまりこの歌、宮沢さんが沖縄への憧れを抱きながら、自分はその地元の人(うちなーんちゅ)にはなれない、という思いの中で作られた曲なのです。

しかし、そうした事情を知らないで、沖縄民謡の教室や師匠の家を訪れて、「島唄」をやりたい、と希望する人が続出したそうです。

さて、ここからが面白いところなのですが、普通、このような希望を聞いた民謡の先生は「あんなものは民謡ではない!」と突っぱねるところでしょう。当初はたしかにそのような門前払いも多かったようなのですが、次第に「これが沖縄民謡への興味を広げるきっかけになってくれれば」と、受け入れるようになり、沖縄でもスタンダードな曲のひとつとして定着していったのです。つまり、伝統的な沖縄民謡という文化の中に、西洋音楽が溶け込んでいったのです。

なお、石垣島出身の3人組のバンドBEGINのリーダー比嘉栄昇さんは「BOOMさんの『島唄』は画期的だった。それまでは沖縄のミュージシャンは本土でどう歌えばよいか分からず、本土のミュージシャンも沖縄で歌うのは遠慮があった。その橋渡しをポンとしてくれたのがBOOMさんの『島唄』です。ありがたかった。」と述べているそうです。

ただ、このように沖縄音楽との融合が果たされたのは、必ずしもこれが初めてというわけではありません。沖縄の側から積極的に異文化を取り入れていこうとする動きは色々あったのです。

1970年代から80年代には沖縄本島コザ出身の喜納昌吉さんが、自身のバンドであるチャンプルーズを率いて、強烈なビートに乗せた「ハイサイおじさん」や今もバラードの名曲としてしばしば取り上げられる「花」を大ヒットさせ、沖縄のミュージシャンの存在を本土の音楽好きに強く印象づけました。また、同じ時代に活躍したりんけんバンドのリーダーであった照屋林賢さんは、民謡演奏を主とする音楽家であったお父さん、お祖父さんの影響を強く受けながら、それを現代に息づかせるための工夫を様々に行いました。

他方で、沖縄にはアメリカ軍基地がある関係で、アメリカの音楽が本土よりも直接入ってくることも多かったようで、とくにハードロックのバンドはたくさん生まれています。「紫」や「コンディション・グリーン」といったバンドは1970年代から現代まで活動し続けているそうですから、ちょっと驚きですね。そして、彼らのサウンドは、本場アメリカやイギリスのロックの影響を強烈に受けながらも、やはりそこに沖縄の風土や雰囲気を感じさせるものとなっている、と評価されています。

前回の投稿で、沖縄という地が周辺諸国との交流を重ねながら発展してきたことを書きましたが、それは文化・芸能の面でも同様です。沖縄料理にゴーヤ・チャンプルーというのがあるのはご存じですよね? この「チャンプルー」とは簡単に言えば、「ごちゃまぜ」という意味で、沖縄文化の特徴をそのまま表した言葉なのです。今回の投稿では音楽のことばかり紹介しましたが、彫刻、美術、工芸、染色など他のジャンルも同様で、日本、中国、朝鮮、東南アジアその他の国々との交流の中で、それらを取り入れ、なおかつ、軸となる伝統的な独自文化の大切さを見失うことなく、発展させてきたのです。どのような文化を取り入れても、歴史の中で受け継がれてきたものの価値は揺るぎない、という力強さに、沖縄文化の真の魅力があり、そこに私達は惹かれるのだろうと思います。

ちなみに、本来の沖縄民謡である島唄は、例えば沖縄本島石垣島竹富島などでそれぞれ少しずつ異なっており、それがきちんと現代にまで受け継がれています。石垣島の場合は、自ら三線を弾きながら、少し憂いを帯びた節回しで歌うスタイルがけっこう多いようですが、竹富島では、三線は使わず、その代わりに太鼓をたたきながら、荒々しく、そして力強く歌われるのが一般的なのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常107 沖縄・・・

こんにちは。

 

今回はまず近況報告から。

白内障手術についてですが、術後の経過は順調で、眼科でのチェックも次第に間隔が空いてきています。数日前に受診したのですが、次回は7月中旬ということで、あまりにも先のことなので忘れてしまいそうです。まあ、忘れられるぐらい回復したら、それはそれでOKなのかもしれませんね。でも、感染症を含めて、油断だけはしないように、と思っています。

 

ところで、5月15日は沖縄がアメリカから日本に返還された記念日です。今年はちょうど50周年ということで、テレビや新聞でも頻繁に取り上げられていますので、皆さんもはっきりと認識しておられることでしょう。

今から50年前、たしかこの日は特別に祝日になったと記憶しています。まだ少年だった私は、連休が終わったところなのに、また祝日で学校が休みになってラッキー!と思ったぐらいの貧弱な意識しかなかったように覚えていますが、あれから50年経った今も、沖縄はいくつもの問題を抱えたままです。その最大のものがアメリカ軍基地問題であり、その次にあげられるのが、雇用問題、つまり「働くところがない」ために、若者がどんどん生まれ故郷から去ってしまっているということでしょう。

以前、沖縄出身で、よく私の研究室を訪ねてきてくれていた女子学生(私の指導するゼミに所属していたわけではありません)がいたのですが、将来の希望として「沖縄のためになるような仕事をしたい」と言っていましたので、できれば、自分が沖縄で就職するだけでなく、雇用そのものを増やすことを促進するような仕事に就いてほしい、と話したことがあります。今、彼女は東京で働いていますが、仕事の要領を覚えて、仕事に対する自信ができたら、数年後には故郷に帰って、元気に働いてくれることでしょう。(そういえば、最近全然連絡を取っていないことに、今気がつきました。近日中に一度LINEで近況を聞いてみることにします。)

ただ、今回はこうした問題を深堀りすることは止めておきます。両方とも、本気で書き出したら、本一冊分の文字数になってしまいますから。それよりも、最近の報道に接していて少し気になったことをひとつだけ取り上げます。

「沖縄復帰」とか「本土への返還」という言葉がよくつかわれていますが、誰でも知っているように、沖縄、というか琉球は古来からの日本の領土だったわけではありません。たくさんの島々がそれぞれ別の政治形態をもっていたこの地が「琉球王国」として統一されたのが約600年前で、その後は日本を含む周辺諸国との交流を重ねながら海洋王国として独自の発展を遂げたのです。2019年に火災で大きな被害が出てしまった首里城は、その中心であり、シンボルだったのです。

ただ、東南アジア諸国や中国、朝鮮、日本等さまざまな国と近い位置にあったことに加え、そもそも領土が地続きではなく、小さな島に分かれているという事情もあって、その統治は必ずしも絶対的な権力の上に成り立っていたわけではないのです。細かな歴史の変遷は省略しますが、1600年代からは、表向きは中国(当時は清)の支配下にありながら、内実は、日本の薩摩藩徳川幕府の従属国となり、それでもなお「王国」としての体制は維持する、という複雑なものとなったのです。

それが崩れたのは、明治になってからです。1872年には日本側が一方的に琉球藩を設置し、次いで1879(明治12)年には日本軍が首里城を占拠し、沖縄県を設置し、これによって、琉球王国は完全に終焉となったのです。ただ、このような行為に対して琉球の人々がもろ手を挙げて嬉しがったということではなく、また、当然ながら清も大きな不満を表明しました。それが収まり、日本の一地域として落ち着きを見せていったのは、日清戦争終了後のことのようです。

もちろん現在では、その当時の事を知る人はいらっしゃらないでしょうし、沖縄の人々に、こうした経緯をきちんと理解している人がどのぐらいいらっしゃるのかもよくわかりません。私自身、今さら「あそこはもともと日本ではなかった」などと主張するつもりもありません。ただ、沖縄県が設置された4月4日について、現地では後世にきちんと伝える、ということがなされているのか、少し気になった次第です。

また、昨今のウクライナ情勢と重なり合って見えてしまうところがあるのも事実です。そう思うと、大変複雑な思いに駆られてしまうのは私だけでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

次回、もう少しだけ沖縄について書く予定です。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常106 その道は選んでほしくなかった

こんにちは。

 

このブログの第70回の投稿(2021年12月19日)で、神田沙也加さんのことを取り上げました。まだまだ自分で切り拓ける未来の選択肢がたくさんあったはずの若い彼女が、決して後戻りのできない道を選んでしまったことを大変切なく思いながら、その文章を書いたものです。

これに対して、60歳台に入った、私とほぼ同世代の方が同じような道を選んでしまう、というニュースに連続して接すると、神田さんの時とは少し違った、もっと心の奥底が締め付けられるような苦しさにおそわれるものです。

人は誰でも多かれ少なかれ悩みを抱えているものです。そしてそれは、決してひとつではないだろうと思います。ただ、その悩みのモトが比較的はっきりしていて、その数もさほど多くないときには、自力で、あるいは他人の力を借りながら、解決していくことはある程度可能だと思います。

しかし、悩みが幾重にも重なりあい、それらが互いに関連しあっているために、到底そこから抜け出すことができないように思えてしまった時、人は絶望してしまうのかもしれません。ちょうど、糸が複雑に絡み合い、こんがらがってしまい、ほどけなくなった状況に似ているかもしれません。そのような時、無理やり糸を引っ張っても決してほどけることはありませんよね。落ち着いて、ひとうひとつの結び目を丁寧にほどいていけば、時間はかかっても、必ずなんとかなるはずなのですが、絶望の淵に追い込まれた人にそのような余裕があるはずはありません。

ましてや、人生も後半戦、終盤戦に入った年齢になってくると、「どんなにがんばっても、この先報われる事なんてないだろう」と思ってしまうのも無理はないことなのかもしれません。

ですから、後戻りできない道を選んでしまった方には「ゆっくり休んでください」としか言うことができません。

ただ、それでも「生きていく」という選択をする方を、私は尊いと思います。未来に対して、いくつもの可能性を残しながら、少しでも満ち足りた人生を求めてもがいていく姿勢は、同時に、それまでの人生をき見据え、肯定するべきところをきちんと肯定するものであり、とても気高い行為だと思えるからです。

人生は、あくまで一人ひとりのモノですから、他人のそれと比べることはできません。それでも、あえて書かせてもらえれば、病気で死の淵をさまよったことのある私のような人間には、自分で幕を下ろしてしまった方とは少し異なる死生観があるような気がするのです。

前出の神田沙也加さんに関する投稿の中で、私は、亡くなった方が後で後悔するような住みよい世界を作っていくしかない、と書きましたが、その思いは今も変わっていません。ですから、戦争なんかをしている場合ではない、と強く思う次第です。

 

今回は、大変湿っぽくなってしまい、失礼しました。

末筆となりましたが、渡辺裕之さん、上島竜平さんのご冥福をお祈りいたします。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常105 災い転じと福となす

こんにちは。

 

GWも終わってしまいましたね。後半は、かなり気温の高い日が多かったので、行楽にお出かけになった方は、疲れが残っているのではないでしょうか。明日から通常通りの仕事が再開される方は、くれぐれも無理をせず、体調と相談しながら、徐々にペースを元に戻すことを考えてください。この後、しばらく連休はありませんので。

 

さて、数回前に鉄道ネタの投稿をしましたが、今回もそんな感じで書いていこうと思っています。今回の舞台は近畿日本鉄道近鉄)です。

近鉄といっても、関西、そして名古屋近辺の方以外にはあまり馴染みがないかもしれませんが、営業キロ(運賃計算上の路線の長さ。実測値は若干異なることがあります)508.1kmを誇る日本最大の私鉄で、下の簡略図のように、大阪、名古屋、京都、奈良、伊勢志摩、吉野山等の大都市や観光地を結んでいます。また、大阪難波阪神電鉄と相互乗り入れを行っているため、神戸でも近鉄の車両を見ることができます。

この会社、近鉄としての設立は1944年ですが、各地にあった小規模な鉄道会社を合併しながら巨大化してきており、そのルーツは約110年前にまでさかのぼります。巨大化することによって、さまざまなバリエーションの特急電車を走らせることができ、路線によっては赤字を抱えているものの、特急電車の稼ぎによって、利益を出している状況です。

近鉄の主要路線図


ただ、合併を行ってきた弊害もあります。それは、同じ会社なのに、線路幅(ゲージ:つまりレールとレールの幅)が異なるものが混在してしまっているということです。

少しだけ基本知識を書いておきますと、鉄道の線路幅には日本に現存するものだけでも、以下のものがあります。

標準軌:ゲージ1435mm

狭軌:1067mm

ナローゲージ:762mm

またヨーロッパには、標準軌よりも幅の広い「広軌」と呼ばれるものもあります。

どの線路幅にするかは、それぞれの路線の地理上の特性や鉄道会社の財政状況によって決められるのですが、総じて、幅が広いほど安定した高速走行が可能で、車内もゆったりとしているのに対して、狭いほど小回りが利くカーブの多い路線に向いていて、トンネルや橋の規模が小さくなる分、建設費は安上がりになる、ということが挙げられます。

JRの各路線は、新幹線およびミニ新幹線標準軌である以外は、すべて狭軌です。これに対して私鉄は様々なのですが、関西には標準軌を採用する会社が多いのに対して、関東では狭軌で列車を走らせているところが多いようです。そして、当たり前のことですが、ゲージが異なるところを一台の列車が直通することはできず、乗り換え等の対応が必要になります。(フリー・ゲージ・トレインという方式も研究されていますが、技術的にかなり困難らしく、今のところ実現していません。)

近鉄の場合、現在は南大阪線大阪阿部野橋~吉野)が狭軌である以外は、ほとんどが標準軌です。しかし、1950年代半ばまでは、異なる会社が合併した弊害で、もっとばらばらでした。特に問題となったのが、名古屋線近鉄名古屋~伊勢中川)が狭軌であったことです。このことによって、名古屋から大阪への乗り換えなしの直通特急を走らせることができませんでした。新幹線がまだない時代、もしこの路線を実現できれば、国鉄から多くの乗客を奪うことができるのに・・・と当時の近鉄関係者は歯ぎしりしていたそうです。

そんななか、1959年9月、伊勢湾台風が日本列島を襲い、大きな被害が出てしまいました。死者・行方不明者合計5000名にのぼるこの台風の被害は、近鉄にも大打撃となったのです。つまり、名古屋側の海抜の低い多くの地域で線路が水没し、また橋脚が流されるなどしてしまったのです。その被害額がいかに甚大なものであったのかは想像に難くありません。

しかし、当時の佐伯勇社長は、めげない人でした。どうせ復旧工事をしなければならないのなら、いっそのこと、この機会に名古屋から伊勢中川までをすべて標準軌に作り直して、悲願であった名阪特急を実現させよう、と社内に大号令をかけたのです。そして、なんとわずか3か月ほどで、この大工事を完了させてしまったのです。現代だったら、「そんな突貫工事をして大丈夫なのか?」と問われるところかもしれませんが、当時はそういったことには社会は比較的無頓着で、この決断、行動力は絶賛されたのです。

なお、東海道新幹線が1964年に開通してからは、近鉄の有利さはかなり失われてしまいましたが、大阪市の南部の中心であるミナミまで名古屋から乗り換えなしで行けること、そして料金がJRよりもかなり安いこと、かなり贅沢なつくりの車両を投入していること等によって、この区間を利用する人は、今でもかなり多いのです。ちなみに、名古屋から大阪難波までの所要時間は2時間10~20分です。新幹線を利用すれば、30分以上短縮できますが、新大阪駅での乗り換えが必要なことに加え、そこからは大阪メトロ御堂筋線という非常に混雑した路線を利用しなければならないことを考えると、ミナミへ行くのなら近鉄特急、と考える人が多いことは十分に理解できます。

伊勢湾台風などという大規模な自然災害を予想し、あるいはこれに備えることには限界があります。ある程度の被害が出てしまうのは止むを得ないことかもしれません。ただ、それを単なるピンチと考え、その対応に追われるのではなく、次へのステップを踏み出すチャンスと捉えることができる人は、未来を自分の手で切り拓いていく力を持っている人、と言うことができるのでしょうね。色々と厄介なことが起きる現代社会こそ、そんな人(あるいはリーダー)が必要であると思います。

 

今回も最後まで読んでいただき、まことにありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常104 京都国際写真祭に行ってきました

こんにちは。

 

今回は少しGWらしい、というか、まだこれといった予定がない方の参考になるかもしれない情報を。

京都では5月8日(日)までの会期で、「京都国際写真祭」(京都グラフィ)が開かれています。10年前から始まったこのイベント、そのホームページには、「日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。」と書かれていますが、要するに、最新の感覚に基づく写真家たちの作品を、京都の伝統的な建物 ―寺院、町屋、大正時代の銀行等―  に展示する、というのが主な内容です。今年は市内10か所で開催されていて、その中には、商店街そのものが会場になっている所もあります。言ってみれば、「伝統と革新の融合」ということになるのですが、実際に鑑賞していくと、それほど単純な図式ではないことがすぐにわかります。 西洋で生まれた写真芸術の中でも、とくに革新的なもの、斬新なものは、決して日本の伝統に寄り添おうとはしません。むしろ対立的なコンセプトではないか、と思われるものもたくさんあります。しかし、そこに生まれる緊張感と衝突こそが、新たな感覚を呼び起こさせるきっかけとなっているのです。

なかにはとても刺激的、というか斬新を超えて突飛とも言える作品もあります。

下の写真を見て、なんだかおわかりでしょうか?


これは200年以上続く帯問屋さんの会場で見たものですが、真ん中の球体は人間の頭で、実は、この店のご主人です。写真家の要求に従って泥の中に頭ごと突っ込んで、そこから顔を出したところを後ろから撮った写真なのです。しかも、それを、伝統的な手法で、細かく裁断して糸にして、帯として織りあげたのがこれなのです。

「こんな帯、誰が締めるんだ???」という素朴な疑問も湧きますが、そんなことはおかまいなしに、とにかくこれまでの「何か」を打ち破り、壊していこうとする意図がはっきりと感じられます。にもかかわらず、帯をつくる手法そのものはきちんと伝統にのっとっているのがが面白いですね。

京都という町は、保守的という一般的なイメージとは裏腹に、案外革新的なことが好きで、昔からこういった「遊び」をおもしろがり、受け入れてきた町です。京都観光を考えておられる方は、こんな側面もあることを頭の隅に置いておくと、街中を散策するときのモノの見方が少し変わるかもしれません。

 

京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp/about/

 

下のネコ君は作品ではありません。(笑) 会場入り口付近にいたのですが、あまりにもサマになっていたので、思わず写真を撮ってしまいました。

 

皆さん

、よい連休をお過ごしください。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常103 今に生きるタイタニック号の教訓

こんにちは。

 

2022年も3分の1が終わりGWが始まりましたね。ニュースを見ている限り、昨年よりはかなり人出が多いようですが、コロナ第6波がまだ十分に収まったと言える状況ではないので、この後が若干心配になります。まあ、皆さん、そんなことはわかっていながら、束の間の連休を享受しよう、と言うことでしょうね。それはそれで、アリだと思います。

 

さて、GWにはあまりふさわしくない話題ですが、前回に続き、海難事故から考えさせられたことについて、少し書いていこうと思います。

史上最悪の海難事故と言えば、誰もが知っているタイタニック号の遭難事故が挙げられるでしょう。当時世界最大の規模を誇るとも言われたこの豪華客船は、1912年4月にイギリス・サウサンプトンからアメリカ合衆国・ニューヨークに向けて航海中の4日目に、北大西洋で巨大氷山と衝突し、わずか2時間40分後にはあえなく沈没してしまいました。犠牲者数は1,513人にのぼり、無事生還したのは710人だったそうです。

この事故については、レオナルド・デカプリオ主演の映画が大ヒットしましたので、よくご存じの方も多いと思いますが、色々と裏話もあるようです。とくに近年囁かれているのは、これが「仕組まれた事故」だったという説です。

理由は、二つ挙げられています。第一に、当時、同じ船会社が所有していた大規模客船「オリンピック号」があったのですが、これが既に数回事故を起こしていて、近い将来廃船にするしかない運命だったのです。しかし、それでは保険金が十分に出ない、ということで、修理用ドックで新造船であるタイタニックと入れ替えた、というのです。ちなみに両船は瓜二つに作られていたそうです。真新しいタイタニック号が沈没したことにすれば、保険金の額はケタ違いになる、ということで、オリンピック号はその犠牲にされたというのがひとつの説です。

もうひとつは、当時この船の所有者であったJ.P.モルガン(アメリカのビジネス史を少しでもかじったことのある人なら、誰でも知っている名前です。)が、自分のビジネス上のライバルたちを船に招待したうえで、自分は土壇場になって乗船をキャンセルし、結果的に、ライバルたちを海に沈めた、というものです。

これらの説については、状況証拠がいくつかあげられているものの、確証を得るところまでには至っていません。また、110年も経った現在、それを暴いても、あまり大きな意味はないかもしれません。

それよりも注目しておきたいのは、乗員、乗客のほとんどが「こんな大きな船が沈むなんて。・・・まさか・・・」と思っていたようだ、という事実です。少なくとも、氷山と衝突してしばらくの間は、さほどの危機感を抱かなかった人が多数にのぼるようです。

まあ、無理もないのかもしれません。巨大客船だから、沈むなどとは考えにくいし、万が一事故があっても、避難のための備えはちゃんとしているだろう、と考えてしまうのが通常の感覚かもしれません。しかし、実際には救命ボートの数がまったく足りていないなど、設備面でも大きな不備があり、乗員たちが不慣れだったこともあって、被害が大きくなってしまったのです。

この事故から私達が学ばなければならないのは、「安心しきってしまう」ことの怖さでしょう。めったなことは起きない、と思っていても、ごく稀にであっても起きてしまうのが事故というものです。企業や組織については、よく「危機管理意識の欠如」ということが叫ばれますが、翻って自分自身のことを考えてみると、日頃からどれだけ危機意識をもって生活しているか、というと自信がなくなってきてしまいます。

危機意識と言うのは、結局のところ、想像力を豊かにすることによって生まれてくるものだろうと思います。つまり、これを磨くことこそが、危機管理を高いレベルにしていくもっとも有効な方法なのです。

ただ、想像力というやつは、ぼんやりしているだけでは生まれませんし、ルーティン・ワークに忙殺されるだけの日々を送っていても磨けません。

では、どうすればよいのか?

答えはひとつだけではないでしょうし、ヒトによって異なってくるはずです。ただ、共通して言えることは、意識して、なるべく自分の視野を広げていくことではないでしょうか。それが、たとえ今の生活や仕事に直接関係のないことであっても、あるいは、人生の最後まで何の役にも立たないことであっても、視野、あるいは関心の範囲を広げていくことは、決して無駄にはならないと思います。

大きな事故や事件が起きるたびに感じることですが、加害者や責任者を責めているだけでは、そこからは何も生まれない、と思っています。責任の所在をはっきりさせないといけないのは当然のことですが。

 

今回は、最後なんだか説教臭くなってしまって申し訳ありません。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常102 「命を預けるー命を預かる」ということ

こんにちは。

 

最近、我が家の近くは、小鳥たちが朝からさえずっていて、その鳴き声で起きることも、しばしばです。どこにいるのかな、と思って窓の外を見てみると、すぐ近くの電柱のてっぺんに止まっていたりして、街の中にもかかわらず、ちょっとした自然の営みを感じます。今の時期は、木々の緑もだんだんと勢いを増してきていますし、一年の中でもっとも生命力あふれた時期ですね。

そんな中ですが、またまた悲惨な事故を報じるニュースが流れています。皆さんご存じのように、北海道知床半島で、観光船が沈没し、乗客と乗組員合計26人のうち、約半数の死亡が確認され、残りの方々もいまだに消息が判明していない、ということです。

知床半島は、人間が足を踏み入れられるのは途中までで、その先は船に乗って海の上から観光するしかありません。ただ、クマやシカ等自然の姿を観察できる機会は多いようですし、直接海に落ちる珍しい滝があったりして、非常に人気の高いところです。私も随分以前から行きたいと思いつつ、いまだに実現できていないスポットです。北海道でも端にあるので、けっこう遠いんですよね。網走までは2回行ったことがあるんですけど。

さて、4月の北海道の海は、まだまだ冬の様相を呈していて、水温はかなり低いですし、しばしば荒れ模様になります。このあたりの桜の見ごろは、例年、ゴールデン・ウィークあるいはそれを過ぎてからということのようなので、季節感はだいたいわかります。

そんな感じですから、冬の間休業していた観光船をいつから再開するのかは難しいところであるのはたしかです。どの船会社もゴールデン・ウィークには間に合わせたいという点では共通しているでしょうが、それをいつまで前倒しするのかは、結局それぞれの会社の判断にならざるを得ないのかもしれません。そして、観光客は「船会社が大丈夫だと判断しているのだから、まさか事故になるようなことはないだろう。」と思って、乗船するわけです。

しかし、今回はまったく大丈夫ではなかったわけです。しかも、ウトロ港(知床観光の拠点)周辺の人々が「今日は危ないから出港しない方がよい」と進言していたにもかかわらず、船は出てしまったのです。現時点で会社側の法的責任ははっきりしていませんが、船の準備をしながら、切符を発券して、客を桟橋に誘導し、乗船させる、ということがすべて船長の独断でできるわけはありませんので、会社としての責任、そして今回のことにかかわった複数の社員の共同責任ということを免れることはできないでしょう。もちろん、事故を起こした第一責任者は船長ということになりますが。

誰に責任があるのかは、いずれ明らかにされるでしょうから、ここではさて置くとして、大事なのは「なんとかなるだろう。」という甘い判断があり、万が一に備えての体制が不十分だったことです。これでは、はっきり言ってプロと失格です。プロとは、船を巧みに操る、ということや狭い意味での「客の満足」をめざす、といったことを指すのではありません。それと同様に、あるいはそれ以上に重要なのが、人の命を預かるプロ、という意識なのです。

もちろん、これは観光船に限った事ではなく、あらゆる交通機関に従事している人々とその運営会社に共通することです。去る4月25日はJR福知山線(愛称は宝塚線)で脱線事故があり、107人もの方が犠牲になってからちょうど17年にあたります。この場合は、ほぼ並行して走る阪急電鉄宝塚線とのスピード競争が過熱しすぎて、1分の遅れも許されないという強迫観念にさらされた運転手によるスピードの出しすぎが直接的な原因とされていますが、会社側に乗客サービスというものを狭く捉え過ぎて、運行上の安全こそが最優先されるべきだという考えが欠如していたことが、その根幹にあるのです。そういう意味ではやはり人の命を預かる者(会社)としてのプロとして猛省しなければならない事故だったのです。

ただ、運用・運営する側に「命を預かる」という意識が大事なのと同時に、私達にももう少し「命を預ける」という意識が必要なのかもしれません。例えば、私達が病院に行くとき、医師や看護師の指示や判断が適切でなかったら命にかかわってしまう、ということをよく知っていますから、彼らの話はしっかり聞き、理解このブログでも、何度も書いてきましたが、疑問点があれば遠慮なく尋ねるべきですし、必要に応じて、セカンド・オピニオンを求めることも大事です。「自分の命にかかわることなのですから、当然ですよね。「命を預けるー預かる」という関係であるという点では、病院も交通機関も同じわけですから、少なくとも同程度の意識を、私達利用者・顧客側も持った方がよいような気がするのです。

私は、今回の知床での事故が「危険かもしれないのに、乗った方も乗った方だろう」と言いたいわけではありません。ただ、もしも「せっかく遠くまで来たのに・・知床なんて次にいつ来れるかわからない。。。」といった声が聞こえてくれば、会社側も、多少無理してでもこれに応じようとするかもしれません。そういった言い訳を会社側にさせないためにも、私達は「モノ言う顧客」」(やたらとクレームを持ち込むという意味ではありません)でなければならないのです。

繰り返しますが、今回のことで、乗客側には何の責任もありません。ただ、「他人に命を預ける」とはどういうことなのか、きちんと考えることによって、私達が「賢い顧客」になっていくことが、サービスを提供する側の意識を高めさせることにつながるのではないか、と考える次第です。

 

今回の事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、たとえわずかでも生存されている方がいらっしゃることを祈ってやみません。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常101 米寿と虎屋のようかん

こんにちは。

 

あと一週間でゴールデン・ウィークですね。皆さんは、何か計画を立てておられるでしょうか。新幹線や飛行機の予約状況は、昨年よりはかなりマシになっているようですが、それでもコロナ前に比べると、まだまだ低調のようですね。まあ、感染状況を見てから決めようと思っていた方も多いでしょうから、これからもう少し予約が入るのかもしれません。ただ、いずれにせよ例年よりは近場の旅行が増えるのは仕方ないかもしれませんね。早く、日本が元の姿に戻るといいのですが・・・でも、どこへ行っても人だらけ、という連休も、それはそれであまり歓迎したくはありません。むずかしいところですね。

 

ところで、大変私的なことで申し訳ありませんが、先日、母が無事米寿を迎えました。米寿の祝いは、室町時代に生まれた日本独特の風習だそうですが、365日×88=32120日という日数の重みは半端なものではありません。その一日一日に彼女の想いが詰まっており、その積み重ねの上に今日という日があるわけですから、よく考えると、すごいことです。

日本は高齢化社会を迎え、85歳以上の方が男女合わせて既に65万人以上にものぼっています。この人達のほとんどはいわゆる労働力人口とは見なされないため、ともすれば、その比率がどんどん大きくなることを単純に日本の将来に向けてのマイナス要素とみなしてしまう傾向があります。たしかに、GDPの上昇には寄与しないかもしれませんし、社会保障費の増加要因としては大きな問題であることは事実です。しかし、そうした経済的な側面だけに目を奪われるのではなく、この人達の積み上げてきた有形無形のモノを貴重な資産と捉え、それをもっと活かした社会形成という考え方が広まると良いのにな、と思います。

また、年齢を重ねても、なお色々と新しいことにチャレンジしている方がたくさんいらっしゃることも、単に「高齢者のわりにはすごいね」というのではなく、年齢というものを超越したライフスタイルとして、見ていくべきではないでしょうか。

ちなみに、母は今でも日本画を習い、一年に一枚はかなり大きな絵を仕上げています。

 

そんなわけで、先日の誕生日にはちょっとしたサプライズのプレゼントを用意しました。

京都に虎屋という和菓子屋さんがあります。創業は室町時代後期で、現当主は17代目にあたるそうですから、老舗の多い京都でも指折りの歴史を持つ店でしょう。こちらの商品、とくにようかんは、長年にわたっていわゆる「皇室御用達」を務め、皇室だけではなく日本の上流階級に幅広く重用されたようで、明治の世になって天皇が東京に移られた時には、一緒に本店を東京に移したほどです。ただ、今でも京都の人々は「虎屋は京都の店だ」という誇りをもっており、京都御所のすぐそばに、こじんまりとはしていますが、とても上品で格式の高さをうかがわせる店を構えています。

この虎屋さん、あまり知られてはいないのですが、オートクチュールという特注品を扱っています。客側の要望に沿ったデザインで、羊羹をベースにした世界にひとつしかない和菓子を作ってくれるのです。そこで、昨年、母が描いて、ある展覧会で入選した絵を元にして、一辺が13cm程度の和菓子に仕立ててもらったのです。

実物は、下の写真の通りですが、思っていた以上の出来で、虎屋さんの技術の高さに驚かされました。そして母は、自分の絵を元にした、ということで、大変喜び、何度も「食べるのがもったいない」と言っておりました。まあ、そう言いながら、写真を撮り終わると、あっという間に包丁を入れていましたが・・・(笑)

虎屋さんの作った菓子

菓子のデザインの元になった母の絵



大切な方への贈り物として、このような一点物を選ぶのも悪くないですね。

ちなみに、お値段ですが、もちろん格安ではありませんが、おそらく皆さんが想像しているよりは、かなりリーズナブルだと思います。実際にオーダーするためには、職人さんとの打ち合わせ等も必要になるので、遠方の方にはちょっと難しいかもしれませんが。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常100 鉄道に未来はあるのか?

こんにちは。

 

タイトルにありますように、今回の投稿のナンバリングが100となりました。とは言っても、実はこれが103本目の投稿となります。最初の挨拶にあたる00があるのに加え、カウント間違いで16と36がそれぞれ重複してしまっているからです。(これは既に修正済みです。)いずれにせよ、拙い、そしてしばしば長ったらしい文章をいつも読んでくださりありがとうございます。

 

さて、実は私は子供の頃から鉄道にかなり興味を持っています。いわゆる「鉄オタ」というほどではありませんし、やたらにお金と時間がかかる「乗り鉄」でもなければ、線路内に無断で入ったりして迷惑をかけている「撮り鉄」でもありません。ではどのような志向なのか、というと「時刻表好き」なのです。「乗換案内」等のアプリが普及した現在は、時刻表を使う人はかなり減ってしまいましたし、私自身もほとんど手にすることはなくなりましたが、小学生・中学生の頃は時刻表1冊あれば、一日中でもそれを眺めて、自分だけの妄想旅行の世界に入っていけたものでした。安上がりの趣味ですね。

意外に思う人もいるかもしれませんが、あの当時、鉄道弘済会日本交通公社という2社から毎月発行される時刻表は、日本におけるすべての雑誌売り上げのトップを競っていたものです。ちなみに、旧国鉄時代には数回、全国の鉄道網に及ぶ大規模なダイヤ改正(白紙改正、と言います。)が行われたのですが、その月の時刻表は、今でも大変人気があり、復刻版が電子書籍で発行されているぐらいですから、鉄道ファンの数というのはあなどれないものなのです。昭和36年(1961年)10月と昭和43年(1968年)10月に行われたダイヤ改正(それぞれ「サンロクトオ」、「ヨンサントオ」という俗称が現在も残っているぐらい大規模なダイヤ改正でした。)に関する時刻表はとくに人気があるようです。

そんな私にとってけっこうショッキングなニュースが先日流れてきました。それは、JR西日本が極端に採算の悪化している17路線区の収支状況を公表し、「このままではJR西日本の経営努力だけで路線を維持するのは難しくなる。沿線自治体との協議を行っていく。」と。発表したのです。例えば、中国山地の山間を走る芸備線東条~備後落合間における2019年度の輸送密度(1キロあたりの1日平均輸送人員)は11に過ぎません。また同区間の営業係数(100円を稼ぐために費用がいくら必要かを示す数字)は25416、つまり100円の収入に2万5416円を要する計算になります。これでは、民間企業としては「やってられない」となるのは当然かもしれません。この数字そのものを検討するのが今回の目的ではありませんので、詳細は割愛しますが、ワースト10を見ると、山陰地方にこれに該当する路線区間が多いことがよくわかります。

JR西日本でとくに採算が悪化している路線区


国鉄からJRに経営が移管する以前から、極端な赤字路線に関して廃止あるいは第三セクターへの転換がかなりの数行われてきました。とくに北海道では、全盛時に比べて見る影もない、と表現したくなるぐらい、路線数が減ってしまいました。つまり、今回の問題は、これまでにもしばしば浮上してきたことなのです。日本の公共交通における鉄道の役割はどんどん小さくなってきたのです。鉄道ファンとしては寂しいことですが、道路網の整備等を考慮すると、止むを得ないことなのかもしれません。なお、山陰地方でこれまで路線が維持されてきたのは、代替交通機関の整備が困難である等との理由によるものだったのです。

しかし、コロナ禍の影響で、これまで「稼ぎ手」とされてきた大都市近郊路線や新幹線さえも乗客数が減っており、民間企業であるJR西日本としては、公共交通の維持という社会的使命を認識しつつも、「背に腹は代えられない」ということが上記の発表につながったのです。ちなみに、JR西日本の大株主は、ほとんど銀行や投資会社等であり、企業の社会的役割よりも経営の健全化を優先しようとするのも、これまたやむを得ないと言えるのかもしれません。

ただ、JR側はこれらの数字を即廃止等に結びつけようとしているわけではないようです。記者会見での社長の発言を聞く限り、あくまで単独での努力だけでは困難なので、関係者等との議論の出発点としたい、ということのようなのです。

これまでの経緯や現状を踏まえると、最悪の場合、不採算路線を順次廃止するという選択肢も現実味を帯びてくるかもしれません。大変残念なことなのですが、ここではそういった個人的感情は抑えて、私なりに鉄道そして駅の役割やそれがもたらす地域へのプラスの効果を考えてみたいと思います。

鉄道を単なる輸送機関と捉えれば、代替措置としてバスを走らせることで問題は解決します。いや、バスの方が小回りが利くし、必要に応じて停留所の数を増やすことができる、という点では、その方が良いという判断もあり得ます。管理費用もかなり抑えられます。バスの欠点としては、鉄道に比べて一度に輸送できる人数が少ないこと、そして道路状況や天候によっては定時運行が維持しにくい時がある、といった点でしょうか。これらをどのように判断するのかは、それぞれの地域の事情にもよりますから、一概に結論を出すことはできません。

他方、駅というものの役割についても考えなければいけません。鉄道の駅には、きちんと列車が走り、そこそこの需要があれば、多くの人が集まってきます。すると、そこにはそうしたお客さんを目当てにした店が並ぶようになるでしょう。最近は、JR自身が「駅ナカビジネス」に積極的になっているぐらいです。また、乗客同士あるいは乗客と駅周辺に住む人々との交流も生まれる可能性があります。つまり、駅というものは、単に列車が停車して人が乗り降りするだけではなく、それらの人人々行き来することから様々な可能性を生み出すものでもあるのです。言い換えれば、その地域における大事な拠点となりうるのです。ですから、これをうまく活用できれば、それを起爆剤あるいは核として、地域における「街づくり」が進むかもしれないのです。

ただ、そのためには様々な工夫が必要ですし、それをJRの努力だけに期待することは難しいでしょう。だからこそ、鉄道会社と地域自治体等との綿密な協議が必要であり、それは単なる「乗客数増加策」の検討に留まってはいけないのです。

将来的に、どの程度鉄道というものの必要性が残っていくのか、私にもよくわかりません。しかし、例えば貨物輸送の分野ではモーダル・シフト(トラック等の自動車で行われている貨物輸送を環境負荷の小さい鉄道や船舶の利用へと転換すること)が注目されるなど、その役割や価値が見直される動きもあります。

関係者の皆さんには、目の前にある数字だけに振り回されずに、これからの日本社会あるいは地域社会をどのように作り直していくのか、という幅広い観点から議論をしていただきたいものです。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。