明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常129 ジェンダー・ギャップ

 

こんにちは。

 

夏真っ盛りという感じで、今週は連日猛暑が続くようですが、皆さん、体調を崩したりしてはいませんか? こう暑いと、寝るときにもエアコンが欲しくなってしまいますが、私は夜中じゅうエアコンをつけっ放しにするとことはしないようにしています。たしかに、快適に眠りにつくことはできるのですが、寝ている間全然汗をかかないまま朝を迎えると、どうも次の日は体がだるく感じてしまうからです。寝る前にタイマーを2時間程度かけ、夜中とか明け方に暑くて起きてしまったら、とりあえず窓を開けます。そして起床後しばらくもなるべく自然の風に身を委ね、どうしても必要なら扇風機を回します。そして、いよいよエアコンのリモコンに手を伸ばすのは本格的に暑くなってきてから、というようにしています。もちろん、体調は人によって異なりますし、夜中でも熱中症の危険性はありますから、我慢するのは禁物ですが、いずれにせよ、この季節の体調管理は難しいですね。

 

ところで、2週間ほど前になりますが、世界経済フォーラム(WEF)が、各国の男女格差の現状を評価した「Global Gender Gap Report」(世界男女格差報告書)の2022年版を発表しました。それによると、日本のジェンダー・ギャップ指数は146カ国中116位(前年は156カ国中120位)で、主要7カ国(G7)で最下位だったそうです。全体順位は昨年より若干上昇していますが、これは調査対象となった国が減少してしまったこと(主にコロナの影響)が関係しているのであって、日本のスコアは0.650、世界全体の平均である0.681を大きく下回っているという現状は変わっていません。

ちなみに世界全体のランキングは以下のようになっています。

この指数は4つの分野で測定しているのですが、日本のそれぞれの指数を全体1位のアイスランドを比較したのが下のチャートです。これを見ると、日本は教育および健康の分野ではまずまずの実績を挙げているものの、経済や政治の分野での男女平等の達成度がかなり低いと見なされているようです。今回の参議院選挙では女性の議員が若干増えたようですが、まだまだですよね。


 日本で男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年ですから、社会全体にもっと男女平等の土壌を育てていかなければならないという風潮が広がったのは随分前になるわけですが、いまだにこのような状況にとどまっているのは何故なのでしょうか。

その要因については、すでに多くの分析がなされていますし、私の所属する学会でもさまざまな角度からの議論が進んでいますが、このブログは論文ではありませんのでそれらを紹介したり、評価したりすることはしません。ただ、こういったニュースに接するたびに思い出す個人的な経験がありますので、それを書きたいと思います。

 それは今から20年ほど前だったと思います。ある日本を代表する、誰でも名前を知っている企業が、はじめて女性総合職を採用することになりました。そしてその第1号として、私の指導するゼミに所属していた女子学生が見事採用されたのです。もちろん本人は大喜びで、その企業への就職を決めました。おそらく色々とやりたい仕事もあったでしょう。そして希望に満ちていたと思います。

 ところが、入社してから1年ほど経ったある日、突然彼女から連絡がありました。「今度結婚することになったが、それにともなって会社を辞めなければならなくなりそうだ。」と言うのです。少し冗談を言ったりしながら気持ちを落ち着かせて、詳しく事情を聞くと、次のようなことがわかりました。その会社はもともと典型的なファミリー企業(同族企業)で、非常に保守的な体質だったのですが、当時の人事担当者が「21世紀を生き抜いていくには、女性の能力と知見、感覚が絶対に必要になる」と粘り強くトップを説得し、ようやくのことで女性総合職誕生となったのですが、入り口はそうやって整備されても、実際の職場の雰囲気は旧態依然としたままだったようなのです。「新しい女の子が入ってきた」ということで大事にはされたのですが、それ以上の期待はされず、ずっと違和感を持ったまま仕事を続けていたのです。そして決定的になったのが、結婚話なのです。お相手の方は、彼女が入社してから知り合った職場の先輩だそうですが、この会社では、社内結婚の場合、男性は次の人事異動で地方または海外への転勤を命じられるのが慣例となっており、他方で女性の方は異動は認められないこと、そして夫の赴任先に一緒に行くことが前提となっている、ということでした。つまり、彼女にとっての選択肢は、退職して専業主婦になること、あるいは結婚そのものをあきらめること、という二つの道しかなかったのです。

 もちろん、会社のこうした古臭い体質と戦う、ということもあり得ないことではありません。実際、私は彼女が入社するときにお世話になった人事担当者に少し電話で話を伺ったりしました。しかし、こうしたことは簡単に解決できるわけではありませんし、結婚を目前に控えた彼女にとって、「風潮を変える」というのはあまりにも非現実的です。そして結局、入社してからわずか1年半ほどでの退職を選んだのです。

 このことは、彼女にとってだけではなく、会社にとっても大きな損失になったでしょう。せっかくの女性総合職なのに、しっかりと一人前の仕事ができるようになる前に退職してしまったのですから、獲得した人材を活かせなかったという意味で、随分もったいないことをしてしまったものです。そしてそれは、結局のところ、女性社員を活かすための環境整備や職場・社員の意識が育っていなかったために、起きてしまったことなのです。

この話はずいぶん前のことですので、今ではある程度は改善されているかもしれません。しかし、日本の多くの会社や官公庁で、似たような事情のために、男女平等が進んでいないところは多いのではないでしょうか。例えば、育児休業を取得するのが、いまだに女性側が圧倒的で、男性社員はきわめて少数にとどまっていることなどは、その表れでしょう。制度をいくつか導入しただけでは、男女平等は進まないのです。

こうした傾向を根本的に改善するためには、社会の仕組みそのものを見直す必要があります。そして、本当の意味での平等な社会の在り方というのはどのようなものなのか、幅広い視点から考えていく必要があります。つまり、法律や条例で数値目標を作ったり、既存の管理体制に接ぎ木のように様々な制度をつけ足して、それで「ダイバーシティ・マネジメント」と標榜したりしているようでは、なかなか解決への道は開かれないでしょう。

ただ、ここまでの話に抜け落ちている点がもう一つ指摘しておかなければなりません。それはLGDBの議論に象徴される「性の多様性」という問題です。またこれに連動して「家庭というものの形の多様化」という問題も浮かび上がってきます。つまり、「男と女」という性別二元論を前提にして話を進めてしまうと、思わぬところで行き詰ってしまう可能性があるのです。

もちろん、今の段階では「そこまで考える余裕はない。まずは従来型の枠組みでの男女平等を」という考えもわからないではありません。しかし、その先にも解決すべき問題が控えていることは、強く意識しておかなければならないのです。そうでないと、結局のところ現実後追い型、対処療法型の解決策の積み上げに終始してしまうかもしれない、ということを頭に入れたうえで、この社会の未来図を描いていく必要があるのです。

この問題、まだまだ考えるべきことはたくさんありますね。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常128 キース・ジャレットの決断

こんにちは。

 

コロナ感染に加えてサル痘騒ぎが勃発。ということで相変わらずなんどか騒々しい世の中ですね。まあサル痘のほうは今のところさほど脅威ではなく、自然治癒することの方が多いようなので、あまり神経質にならないことが大事でしょうね。

それにしても「行動制限のない夏休み」っていうのも、なんだか引っかかるフレーズです。たしかに、今は緊急事態宣言等は出ていませんが、宣言にせよ、まん延防止等重点措置にせよ、私たち個人の生活が何らかの形で法的に制限されるものではありません。昨年、一昨年の一昨年の夏も「お願い」や「要請」はあったものの、最終的にどのように行動するのかは個人の判断に任されていたはずです。ですから、数は例年よりも少なかったでしょうが、レジャーや旅行に出かけた人はいたのです。

そして、「最終的には個人の判断が重要」ということは、今年の夏もまったく同じなのです。このように書くと、重箱の隅をつつくような、あるいは細かな言い回しに難癖をつけるような表現のように感じられるかもしれませんが、私はもっと本質的な問題ではないかと思っています。つまり、現代の日本社会では、個人が自身の判断で動く、という行動パターンを取りにくく、「上」からのお達し(命令ではないに沿って行動するということが当たり前の社会になっているな、と感じるのです。同調圧力のような問題もあるのでしょうが、こういう時にこそ、自分の考えと行動に責任を持つ、という姿勢が大事になってくるのではないでしょうか。もちろんそのためには、きちんと情報を集めて、それを読み解く、という作業が必要ですが。

 

さて、今回の本題は、前回と関連するものです。前回は吉田拓郎さんの「引き際」について書きましたが、もう一人、最近音楽活動からの引退を発表したミュージシャンについて私なりの感想を書いておきたいと思います。

それは、キース・ジャレットというジャズ・ミュージシャンです。ジャズに興味がなくても名前ぐらいは聞いたことがある、という方もいらっしゃると思います。

1945年生まれのキースは、1970年前後からの長きにわたって、アメリカ・ジャズ界を代表するピアニストとして活躍してきました。ヨーロッパ(ドイツ)からの移民にルーツをもつキースですが、幼い時からゴスペルやブルースなど、「アフリカン・アメリカン」系の音楽に大きな影響を受け、10歳台半ばからさまざまなジャズ・グループで活躍するようになり、1970年にマイルス・デイヴィスのバンドに加入以降、一気にその名前を世界中で知られるようになりました。マイルスのバンドに在籍したのはわずか2年ほどでしたが、脱退後も、いくつかのグループを自身で結成し、ジャズ界に新風を送り込むと同時に、ソロ・ピアニストとしても何枚もの名盤を残しています。さらに、クラシックにも深く傾倒し、モーツアルトやバッハの作品を録音しています。つまり、1970年代から2010年代にかけて、常に陽の当たる場所で活動を続けてきたのです。

そんな彼が、今後ピアノ演奏活動を行うことができないと宣言したのが、2020年でした。実は、その数年前から脳卒中を2回発症してしまい、半身麻痺の状態を脱することが不可能と判断されたようでした。キースの体調がさほど芳しいものではないことは、その少し前から伝えられてはいましたが、まさかいきなり引退宣言をするとは思われておらず、世界中のジャズ・ファンは大きな衝撃を受けたものです。そして、「まだ完全引退には年齢的にもったいないだろう」とか「リハビリで何とかならないのか」という声が多く寄せられたのです。

たしかに、過去にはジストニアや重度の腱鞘炎を発症し、再起不能ではないかと思われていたのに、リハビリの結果見事復活したピアニストはたくさんいます。また、事故や病気で右手の自由を失いながら、左手だけで演奏することを選んだピアニストも、ジャズ、クラシックを問わず、何人もいらっしゃいます。さらに言うならば、そうした人のために、左手だけで演奏することを想定して作られた曲も多数あります。(もっとも有名なのは、ラヴェル作曲の「左手のためのピアノ協奏曲」でしょう。)

キースという人はもともと完璧主義的なところがあり、ライヴにおいても、自分の思うような演奏ができなかったり、客席の様子(例えば聴衆の発する咳など)が気になったりすると、演奏を止めてしまうようなところがありました。プロモーターからすれば、大変扱いにくいミュージシャンだったわけですが、逆に言えば、それだけ、ひとつひとつのパフフォーマンスに真剣勝負で挑んでいたのです。そんな人ですから、以前のようなパフォーマンスをできなくなった自分の身体が許せなかったのかもしれません。年齢を考えれば、これから長年のリハビリを行うというのは現実的ではない、という判断もあるかもしれません。

いずれにせよ、詳しい病状を知らないままに「まだできるはずだ」などと言うこと自体、とても無責任の発言でしょう。これほどの才能ある人はそんなには出てきませんから、もう新譜を聴けないことを残念に思う気持ちは私も同じですが、一人の人間としての「引き際」というものを考えれば、私達にできることは、彼の決断を静かに受け入れることだけなのです。

ただ、この引退が必ずしも自分で望んだものではなく、そこに断腸の思いがあったとしたら、気の毒という言葉では片づけられないほど残念なことです。

前回の投稿でも書きましたが、「引き際」を自分の意志で決めることができる人は幸せですよね。

 

最後に、私の愛聴するキース・ジャレットのアルバムを3枚挙げておきます。

1 「ケルン・コンサート」:ピアノ・ソロのライヴ盤です。タイトル通り、ドイツのケルンで行われたコンサートの実況録音盤ですが、会場はジャズ・コンサートのそれとは全く異なり、まるでクラシックの会場のような静寂さと凛とした雰囲気が漂っています。キースのピアノは、1曲目の出だしから、一気に聴く者の心をわし掴みにするほど、美しさと緊張感に溢れています。

2 「マイ・ソング」:北欧のミュージシャン達と一緒に作ったアルバム。とても暖かな雰囲気が心地よく、ピアノの音も非常に柔らかです。とくに、アルバム・タイトルになっている曲はメロディの美しさと親しみやすさもあって、ジャズ史上屈指の名曲のひとつにも数えられています。

3 「バイバイ・ブラックバード」:恩師であったマイルス・デイヴィスを励ますため制作したアルバムですが、直後にマイルスは没してしまったため、実質的には追悼アルバムになってしまいました。しかし、内容は非常にファンキーで、キースをはじめとする演奏者たちは、リラックスした中で、アグレッシブな演奏を展開しています。ストレートなジャズがお好みの方には、3枚の中でもっともお勧めです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常127 吉田拓郎という生き方

こんにちは。

 

新型コロナウイルスの感染拡大がとまりませんね。ここのところ、さまざまなイベントが開催されていたことも一つの要因かと思いますが、今回の変異種の感染力は驚異的なようです。とくに若年層の感染が増えているということで、そこから家族への感染がどんどん広がっているとの見方もあります。

実は、私もちょっと影響を受けています。本当は、来週週末、学会のため東京に出かける予定があり、ホテルも確保していたのですが、自身の免疫力の問題を考慮して、断念することにしました。まあ、学会そのものは「ハイブリッド方式」で開催されることになりましたので、自宅にいても参加はできるようです。でも、なんだか萎える話ですね。

 

さて、少し気を取り直して、今回は久しぶりに音楽の話です。とは言っても、クラシックではありません。

先日、地上波のテレビで「LOVELOVあいしてる 最終回」という番組がありました。この番組は、もともと1996年から2001年まで放映されたのですが、大変評価が高かったのか、その後数回特別番組が放送されています。

この番組が特徴的だったのは、放映開始当時まだ17歳だったKinKi Kids堂本光一堂本剛・・・彼らはまだレコード・デビュー前でした)および篠原ともえさんという、非常に若いタレントをメインに据えるとともに、その共演者として、吉田拓郎さんを据えたことでした。Kinkiの二人は、その後ジャニーズ事務所の看板タレントになり、最近ではソロでも精力的に活動しています。そして篠原さんは、当時はキャピキャピ・キャラの「シノラー」として一世を風靡していましたが、今ではすっかり大人の女性になったばかりか、日本を代表するファッション・デザイナーの一人に数えられるようになっていることは、ご存じの方も多いでしょう。

この当時、吉田拓郎さんがテレビ番組に出演することはめったになく、ましてやバラエティ番組に毎週出演して、若い他の出演者と絡む、ということで、それだけで、もう大きな話題となったものです。後日談として、彼は、「やるのなら超一流のミュージシャンを揃えて、毎週ちゃんと演奏させることを条件としたら、本当に実現してしまった。」と語っています。たしかに、そのミュージシャンはとてつもない大物ばかりで、名前を上げれば、キリがないほどです。彼らがちらっと映るのだけを楽しみにテレビを見ていた人も多いそうです。(私がこの番組を見始めたきっかけもそれでした。)

そんな番組が今回「最終回」と銘打って放送されたのは、吉田拓郎さんが自身「最後になる」というアルバムを発表するとともに、「テレビへの出演もこれが最後」と宣言し、その最後にこの番組を選んだからのようです。彼によれば、「50歳台からの自分は、この番組の共演者たち3人のおかげで充実したものになったし、色々と教えられた」と語っています。そういう理由で、あえて歌番組ではなく、バラエティ番組を選んだ、というところに色々と感じさせられるところがあります。実際、今回の番組の中で、彼はこれまではごまかして語らなかったような本音を色々と語っていました。

さて、吉田拓郎さんと言えば、私達の世代にとっては、まさにリアルタイムで色々な歌を聴いてきた、レジェンドの一人です。さほど熱心なファンではなかった私でも、かなり多くの曲を知っていますし、歌えるものも少なくありません。そんな彼が、いよいよミュージシャンとしての終わりを迎えつつあることは、大変感慨深いものです。彼は1946年生まれですから、今年で76歳ということになります。歌手引退の年齢としては決して早すぎることはないのかもしれませんが、テレビでその声を聴く限り、まだまだやれそうなのに・・・と思ってしまった人は多いはずです。番組の中でも、「すぐに復活するんじゃないの?」という声が、泉谷しげるさん他から多く寄せられていました。

しかし、彼の最後となるアルバムのタイトルが「ah-面白かった」だと知った時、私は、この人は本気なのだな、と思いました。これって未練を残している人のセリフじゃないですよね。ラジオ出演やこれまでのライヴの発表などはあるかもしれませんが、おそらく新譜を作ることはないのでしょう。

今の拓郎さんを見ていて感じることが二つあります。

ひとつは、「引き際」について。上にも書いたように、彼にはまだ体力的には余裕がありそうです。にもかかわらず、というか、だからこそ、今のうちに自分で幕を引く、醜態はさらさない、という彼の生き方、そしてそこに通底する美学があるように思うのです。

ぼろぼろになるまで現役を続けるのか、それとも花のあるうちにリタイアするのか、というのは誰にでも選択を迫られる時期があるはずです。個人によって価値観は異なりますから、どちらがよいのかという答えは安直には出せませんが、少なくとも自らの意志でそれを決めることができるだけでも、幸せなのかもしれません。

もうひとつは、上にも書いたある程度以上の年齢になってから「年下の連中に教わった。今の自分があるのは彼らのおかげだ。」と言い切ることができる潔さです。人間誰でも、自分の積み重ねてきた人生にはそれなりの自負があるでしょうから、とくに歳を重ねれば重ねるほど、こういうことをはっきりと言いにくくなってしまうような気がします。このあたりに、拓郎さんの「カッコよさ」があるような気がするのです。

 

最後に、私なりの拓郎ベスト3ソングを挙げておきましょう。といっても、さほど多くの曲を知っているわけではないので、偏りがあることはご容赦ください。

1「落陽」・・・吉田拓郎と言えば、この歌でしょう。詞は岡本おさみ氏によるものですが、詩曲、歌い方、アレンジすべてが「拓郎節」に溢れています。イントロだけで泣けてくる人もいるほどです。

2「雪」・・・拓郎さんが「猫」というフォーク・グループのために作った曲ですが、自分でも歌っています。「落陽」とは異なり、とても繊細な、そして内省的な世界が印象的です。拓郎さんの「アナザー・ワールド」でしょうか。

3「今日までそして明日から」・・・ほとんど展開らしい展開のないメロディ、そして同じような言葉が繰り返される詞。にもかかわらず、じっくりと味わうと、実に深い内容を含んでいる佳曲です。

番外編「永遠の嘘をついてくれ」・・・これは中島みゆきさんの作詞作曲です。拓郎さんが一時大変落ち込んでいたときにみゆきさんに曲を書いてくれるよう依頼したところ、思いきり背中をけ飛ばすような曲が仕上がってきたということのようです。この二人、一度だけ(多分)ステージで協演し、この歌を歌っています。私はたまたまテレビで見たのですが、それはとても感動的な場面でした。今でもネットには残っているかもしれません。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常126 大原孫三郎という人物

こんにちは。

 

ここ数日は悪天候が続いていますね。水害や土砂災害が出ている地域もあるようですが、皆さんのお住まいの地域は大丈夫でしょうか。それにしても、この調子だと、梅雨明け宣言の日付の訂正があるかもしれませんね。

(数年前でしたが、今年とは逆のパターン、つまり8月になってから「もう梅雨は空けていました」という間の抜けた発表があったと記憶しています。)

なお、私の住んでいる地域は、今日は本格的な暑さが戻ってきています。いよいよ(やっと?)夏本番と言うところでしょうか。

 

さて、前回の投稿で銀閣寺のことに触れましたが、そこで書き忘れたことをひとつ。

多くの観光客は、銀閣寺を訪れた後、哲学の道の方へと歩を進めます。たしかに、ここにもいくつもの見どころがあり、とても気持ちの良いところですが、実は、この付近にもう一か所隠れたスポットがあります。それは「白沙村荘・橋本関雪記念館」という見事な日本庭園と小さな美術館が一体となったところです。ここは日本画橋本関雪(1883―1945)が自身の制作を行うアトリエとして造営した邸宅です。10000平方メートルの敷地内には大正〜昭和初期に建築された居宅、日本画の制作を行っていた3つの画室、茶室、持仏堂などの建造物が点在しています。また、彼の作品を展示する小さな美術館が併設されています。橋本関雪といってもご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、中国の文人画の影響を色濃く受けながらも、独自の手法で日本画に新たな境地を開いた人で、展示されている絵はいずれも大変見応えがあります。また、蓮の葉が浮かぶ静かな池のそばで佇むのも一興です。何よりも、訪れる人が少なく、ゆっくりできるので、密を避けたい人、人ごみにつかれた人にはお勧めです。場所は、銀閣寺を出て、そのまままっすぐ進み、哲学の道の方には曲がらずにバス停「銀閣寺道」を目指していけば、その途中、左手です。銀閣寺からは徒歩で5分ぐらいでしょうか。

 

ところで美術館には、国や自治体が設立・運営している公立美術館と橋本関雪や堂本印象のようにアーティスト自身が私財等でつくったものの他に、資産家や富豪、あるいは企業がつくったものがあります。その目的は、社会的ステータスを高めようとするもの、事業で得た利益を社会に還元しようとするもの、財団を作って節税対策とするもの、単に自分の金に糸目をつけない趣味・道楽の延長、というように様々だと思いますが、いずれにせよ、独自の建物を建て、美術品を収集して、これを安定的に管理運営していくには相当の資金が必要ですので、現代社会では、大企業の創業者等限られた人にしかできないことです。

そして、その先駆けとなったのが、おそらく岡山県倉敷市にある大原美術館だろうと思います。ここは、倉敷紡績(現、クラボウ)と倉敷絹織(現、クラレ)の創始者である大原孫三郎氏が「日本に本格的な西洋絵画を紹介したい」という思いから、画家であった児島虎次郎をヨーロッパに派遣し、数多くの絵画や彫刻等を買い付けさせて、収集した名品を公開している美術館で、今や岡山県で一二を争う観光スポットとなっています。また、そのすぐ近くにある倉敷アイビー・スクエアは、現在ホテルとして営業していますが、もともとは倉敷紡績の工場だった建物です。つまり、多くの人が訪れる「倉敷美観地区」と呼ばれるエリアそのものが、大原氏によって作られたものだというわけです。美術館を建てるにあたって、孫三郎氏にどのような意図があったのか、本当のところはよくわかりません。(表向きの理由は上に書いたとおりですが、それだけが理由なのかどうかはよくわかりません。)しかし、少なくとも結果として、倉敷という街を一大観光地にした、つまり地方活性化に大きく寄与したことは、大変な功績と言って差し支えないでしょう。

それだけではありません。孫三郎氏という人は、経営者であり、資産家でありながら、働く人や市民のことにも気を配っていたようで、倉敷紡績の付属機関として倉敷中央病院を開業し、さらには研究機関として大原奨農会農業研究所(現、岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現、大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現、法政大学大原社会問題研究所)、教育機関として倉敷商業補習学校(現、岡山県立倉敷商業高等学校)などを次々と設立したのです。彼がどれだけ幅広い視野を持ち、社会全体を見据えていたのかがよくわかりますね。またご子息である総一郎氏もこの理念を受け継ぎ、各事業をさらに推進するのに大きな役割を果たしておられます。

第二次大戦後、GHQによって大原家は「財閥」と認定されてしまったため、営利企業の経営からは完全に身を引くことになりますが、この親子の尽力がどれだけ後世に大きな影響をもたらしたのかは、そのほとんどが今でも精力的に活動を行っていることからも推察できるところです。

ひるがえって、現代の日本にこういった視野と行動力をもつ企業経営者はどれだけいらっしゃるのでしょうか。

自分の資産で宇宙に飛び立つのもかまいませんし、その宇宙船にアーティストを載せていく、というのも結構なことですが、現代の富裕層と呼ばれる方々には、社会全体にとって未来に向けての「タネ」となるような活動に取り組んでもらいたいものです。それは、単なる寄付や一過性の奉仕活動よりも、はるかに大きな意味を持つはずですから。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常125 銀閣寺の美しさ

こんにちは。

 

さて、前回の続きで、今回は銀閣寺について少し書いていきます。

私が銀閣寺を訪れたのは、金閣寺参拝の約1週間後、どちらもまだ人出が比較的少ない午前9時前後でした。予想通り、人はまだ少なかったのですが、修学旅行生たちが次々に訪れていました。最近の修学旅行は、グループ単位での行動が主流になっているようで、タクシー?を利用していますね。運転手さんはガイド役を務めると同時に、要所要所でグループの記念写真を撮っていました。おそらく、生徒たちは宿に帰ったから、あの写真を先生に見せてちゃんと計画通りにコースを回ったことのアリバイにしているんでしょうね。それはいいのですが、運転手さんによっては、かなり大きな声で説明をするうえ、他の人の声に敗けまいとしてさらに大きな声で説明するために、静かな境内が、一瞬にして喧騒に包まれてしまうという具合で、ちょっと迷惑してしまいます。ちなみに、肝心の生徒たちのほとんどは、やる気なさそうにその後をついていくだけで、自主自立的な言動はほとんど見られないです。まあ、これは仕方ないですね。中学生や高校生に寺や神社の雰囲気を味わえ、といっても無理かもしれません。でも、年齢を重ねてから再訪すると、きっと違った印象を持つものだよ、と心の中でつぶやいた私です。

写真が少しゆがんでしまいました。すいません。


さて、銀閣寺です。銀閣寺の正式名称は慈照寺金閣寺と同様、相国寺塔頭寺院です。もともとは足利義政によって造営された山荘東山殿ですが、義政の没後、臨済宗の寺院となったという歴史を有しています。銀閣寺の名称は、言うまでもなく、銀閣(観音殿)に由来しますが、この建物、一度も銀箔を貼り付けられたことはないのですが、江戸時代頃から、金閣に対峙するものとしてこの名前が定着したようです。ただ、創建当時は塗られている黒漆が光っていて、それを銀の輝きにたとえたのではないか、という説もあります。

京都を代表する観光地のひとつとして、全国的にも有名な銀閣ですが、金閣と同じようなイメージを持ってここを訪れると、拍子抜け、というか肩透かしを喰ったような気分になる人もいるかもしれません。まったく銀が使われていないだけでなく、建物そのものは二層(金閣は三層)で、かなり小ぶりな印象を与えるからです。

しかし銀閣を建物だけに注目してみるのは正しい鑑賞方法ではありません。その手前には、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘と円錐台形の向月台が、銀閣に寄り添うように配置されているのです。そして、その芸術的な風情とともに味わってこそ、銀閣の姿はその凛とした姿でもって私達に迫ってくるのです。(ただし、これらは創建当初からあったものではなく、江戸時代に作られたものであろう、と推定されています。)

足利義政という人は、政治にはまったく興味を示さなった一方で、文化芸術への関心は非常に高く、秀でた才能を有していたようで、彼が形作った室町時代後期の文化はいわゆる「詫び、さび」をもっとも体現したものとして、東山文化と呼ばれていることは、中学や高校の日本史の教科書にも説明されていますが、その象徴として銀閣を見ると、銀箔が貼り付けられなかったのは、資金不足という経済的事情によるのではなく、義政の文化的志向に基づくものだったのだろうと思います。足利家はもちろん武家ですが、公家や禅宗の中で培われてきた文化を、それぞれの立場とは無関係に融合しようとする彼のめざす方向は、それまでにはまったくなかった新たな美の形を追求したものなのです。ですから、それを身近に感じられる銀閣寺は、決して「がっかりスポット」ではないのです。金閣が威容を誇る「完璧なる美」であるとすれば、銀閣は一見質素にも見える佇まいの中にじわじわと染み出してくるような美しさを感じさせる存在なのです。

ただ、金閣と比較するとどうしても地味な印象は免れません。もしこの建物が「銀閣」と呼ばれなかったら、現在ほどメジャーな観光スポットにはならなかったでしょう。ネーミングやブランディングの大事さがわかりますね。

ところで、金閣銀閣があるのなら、銅閣があってもよいのではないか、というのは誰もが持つ素朴な疑問ですね。調べてみると、ちゃんと地元で銅閣と呼ばれて親しまれている建物がありました。それは、祇園・八坂神社近くにある大雲院という寺院の境内にある祇園閣という建物です。この建物は、高さ36mという堂々たるもので、少し遠くからでもはっきりとその姿を見ることができるのですが、さほど有名ではありません。もともと大倉財閥(大成建設、帝国ホテル、ホテルオークラ等)の創始者である大倉喜八郎男爵が祇園祭の鉾を模して建てたのですが、昭和初期の建設という京都では比較的新しい物であることに加え、普段は非公開となっているためかもしれません。ロケーションは抜群なので、銅閣という名称がもう少し定着していれば、もっと有名になったのかもしれませんね。

祇園閣(通称:銅閣) Wikipedoaより転載



そんなわけで、今後も、観光客が戻ってくると訪れにくくなってしまうところを狙って、寺院や神社を巡っていきたいと思っています。でも、コロナ・ウイルスの再燃で、どうしようかと思案する今日この頃です。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常124 金閣寺の輝き

こんにちは。

 

参議院選挙はなんとか無事に終わりましたね。その結果については、色々と報道やら分析が出ていますが、ここではそれは取り上げません。肝心なのは、今回当選した人達がこれから6年間どのような活動をするのか、ということですから、その任期が終わった時に評価すれば良いのです。

と、ここまで書いて思ったのですが、国会議員に限らず、地方議員に関しても、その任期中にどのような政治信念をもって、どのような活動を行い、実績を残したのか、ある程度客観的にデータとして示してくれる仕組みは作れないものでしょうか。とくに、その議員が引き続き立候補する場合は、必須にすべきだと思います。こういうことを書くとすぐに「議員は表に出せないような活動も行っている」という反論が出てきそうですが、私は別に客観的なデータだけで評価すべきだと言うつもりはありません。具体的に書けないことがあるのなら、それはそれで議員自身が何となく匂わせるような表現のできる自由記述欄を設ければ良いのです。最終的に評価を行うのは有権者ですから、議員側には、評価に必要な情報をきちんと出してもらう、ということだけを求めるだけ。そういう仕組みがあれば、私達は議員という存在について、もう少し身近な存在として見ることができるような気がするのですが、いかがでしょうか。

閑話休題。 前回新型コロナ再燃について少し書きましたが、案の定、かなり感染は拡大しているようで、プロ野球のヤクルト・スワローズでは27人もの陽性者が出てしまったそうです。日本のプロ野球球団は登録できる選手が最大60名、その他監督やコーチ、スタッフ等を含めても100人から150人程度という集団ですから、その中でこの人数の感染はかなりの脅威です。感染力が強いということは、それだけクラスターが発生しやすいということですから、私達も十分注意したいものですね。

 

さて、今回の本題はちょっと生臭い話から離れたいと思います。

しばらく前のことになりますが、コロナ患者がまだ増加傾向には転じておらず、しかも外国人観光客が増えていない時期を見計らって、「今のうちだ」と思い、普段なら観光客で溢れかえるようなところに行ってきました。それは金閣寺です。

足利義満が建てたこの寺院、正式名称は鹿苑寺となっており、室町時代における京都五山の第二位にあたる相国寺塔頭(たっちゅう)寺院と位置付けられています。ちなみに、塔頭とは、本山の祖師や門徒高僧の死後(あるいは引退後)、その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院のことです。つまり、多くの場合は、本山である大寺院の境内やすぐそばに建てられるのですが、離れた場所に建てられる場合もあるようです。鹿苑寺の場合は、もともと足利義満の別邸として建てられ、その死後に寺院となったという歴史なので、上に書いた塔頭の説明とは少し異なりますが、将軍が住んでいたところ、ということでやや特別な扱いとなったようです。

鹿苑寺金閣寺と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかはよくわかりませんが、そんなに最近の話ではありません。それだけ、この寺院の象徴的存在である金閣(正式名称は舎利殿)の存在感が圧倒的だ、ということでしょう。

この金閣古今東西の多くの人を魅了してきました。また、1950年には、当時この寺の学僧であった21歳の若者によって放火され、全焼しています。その衝撃は大変大きかったらしく、例えば高名な日本画川端龍子は、急きょ東京から駆け付け、取材やスケッチを行った結果を「金閣炎上」という大作に仕上げています。また、当時この寺のすぐ近くに住んでいた堂本印象は、京都市消防局の依頼を受ける形で、国宝防火週間(火災の約1か月後)のポスターを制作しています。余談ですが、堂本氏が住んでいた隣接地には、現在、堂本印象美術館があります。立命館大学衣笠キャンパスの目の前で、金閣寺龍安寺のちょうど中間地点という非常に良い立地にもかかわらず、観光客はさほど多くないようです。

また、三島由紀夫金閣寺』、水上勉『五番町夕霧廊』など、この事件を題材として書かれた小説も多数あります。さらに、これらの小説を原作としたドラマや映画も何本も作られています。(水上氏は、その後さらに取材を重ねて、犯人やその家族像に迫ったノンフィクション『金閣炎上』も上梓しています。)


おそらく、これほどの衝撃を与えた放火事件は他にないでしょう。では、なぜそれほどのインパクトがあったのでしょうか? もちろん、国宝の焼失という大きな事件であったのはたしかですが、今回訪れてみて、焼け落ちたのが金閣であったということの意味が何となく分かったような気がしました。

金閣そのものは、三層構造のとても美しい建物です。総重量約20kgの金箔を貼られたその外観は、威風堂々という言葉がこれほどふさわしいものがあるだろうか、と思わせるほどの威容です。しかし、それと同時に注目しなければならないのが、金閣の手前に広がる約2000坪の鏡湖池。その静かな水面に映る金閣の姿は、輝きを倍加する役割を果たしています。また、背後に広がる北山とその緑は、いわゆる借景なのでしょうが、金閣を正面から見た時の高さや角度など、すべてが計算しつくされた美しさを感じます。つまり、ここにはおよそ考えうる美の極致がある、と言っても過言ではないのかもしれません。金閣は、ただキラキラしているから美しいのではないのです。(実際、放火当時、金閣の金箔はかなり剝げ落ちてしまっており、さほどキラキラしてはいなかったそうです。にもかかわらず、その美しさは人々を魅了していたのです。)

その見事さは、見方によっては、魔性をも感じさせます。この圧倒的な美しさに心を奪われてしまった人は、放火犯のように、「金閣を自分のものにするか、そうでなければ、この魔性のような存在に自分が取り込まれてしまうか」といったような感覚に襲われても不思議ではないのかもしれない。そんなことを想った次第です。

それでは、これに対峙するように建てられた銀閣寺はどうなのだろうか、という新たな関心が湧いてきます。というわけで、次回は銀閣寺について書いていくつもりです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常123 BA4とBA5

こんにちは。

 

7月8日、安部元首相が銃撃され、死亡するというショッキングな事件が起きました。これを書いている時点では、犯人はその場で逮捕されたということぐらいしかわかっていませんので、これ以上憶測で色々と書くことは差し控えますが、今はただ、故人のご冥福をお祈りします。

ただ、こんな時に揚げ足取りみたいになってしまい、大変失礼だとは思いますが、テレビで流されるさまざまなコメントの中で少し気になったことがありますので、書いておきます。それは「これは民主主義に対する卑劣な挑戦だ」というものです。たしかに、安部氏の政治信条を暴力でもって封じ込めようとしたのなら、それは個人の人権や思想を根幹に据える現代の民主主義を冒涜するものです。しかし、たとえ民主主義を標榜していない社会であっても、人の命を奪おうとする行為は、そこにどんな理由があったとしても、立派な重大犯罪であり、厳しく罰せられなければならないはずなのです。これがもし、政治家以外の人間を標的とした事件だったら、識者やマスコミは「民主主義」という言葉を安直に使うでしょうか。今回の事件は、一人の政治信条や思想を標的にしたものである以前に、一人の人間の命をやすやすと奪ってしまったという意味で、とても衝撃的だったのです。

 

今回の参議院選挙を見ていて改めて気がつくのですが、現在の日本の政党には「民主」をその名前に使っているところが、非常に多いですね。どうやら、政治家は民主主義という言葉が大好きなようです。現代において、民主主義という概念を正面から否定するような議論はほとんどありません。しかし、現代社会においてこの言葉の持つ意味をもう少しきちんと整理し、考えてから、使うべきではないでしょうか。

 

さて、気分を変えて本題に、といっても今回は少し重い話題になってしまいます。

先週あたりから新型コロナの新規感染者数が各地で急速に増加していますね。ヨーロッパの各地等でもじわじわと感染者が増えているようです。

今回の増加の主な原因は、オミクロン株の変異株であるBA4およびBA5と呼ばれるもののが、これまで主流であったBA2株から急速に置き換わりつつあるためである、というのが専門家の見立てです。例えば、イギリスやアメリカでは既に新規感染者の約半数がこうした新しい変異株によるものだと報告されています。BA4BA5ともに、最初に見つかったのはアフリカ大陸のようですが、それが次第に世界中に広がってきているということですね。

ではそれはどんな特徴を持つのでしょうか? まだデータも少なく、詳細なことはわかっていないようですが、おおまかにまとめてしまえば、以下の通りとなります。

BA2よりも1.4倍程度という高い成長率となっている、つまり、それだけ感染力が強い。

・感染者数の増加に伴い、入院患者数も増加傾向が見られるが、重症化リスクについてはまだよくわかっていない。(BA2株とほぼ同じだというデータもあります。)

・罹患した場合の症状は、鼻水、のどの痛み、頭痛、疲労感など、これまでの感染と大きな違いはない。

・従来のオミクロン株(BA1およびBA2)に感染した人でも、再感染するリスクはある。

BA4およびBA5に感染した人のワクチン接種状況を見ると、BA2の場合と大きな差は見られない。つまり、同じ程度には効果があると考えられる。したがって、既存のワクチンを接種することの意味は薄れていない。ただし、3回目のワクチン接種を受けた人でも、感染するリスクはある。(これは、昨年ワクチン接種が始まった当初から言われていたことで、ウイルスを完全にシャットアウトできるものではありません。)

 

ここで書いたことには、すべて「今のところ」という前提がついています。まだ症例そのものが必ずしも多くないのですから、これは仕方ありませんね。いずれにしろ注意が必要なことには変わりありません。とくに世代別の重症化リスクについては、今後、細かな情報をだしていってもらいたいものです。

 

この夏になって、一昨年、昨年と控えられてきた各種の大きなイベントが次々と通常通りに開催されることが決定しています。日本に限らず、「コロナ疲れ」(あるいは「コロナ慣れ」)は相当なものになっていますし、伝統的な祭などは3年も中止してしまうと伝承すべきものが失われてしまう、という危機感がありますので、ある程度止むを得ないのかもしれません。しかし、一度緩んだ気持ちを立て直すのには相当のエネルギーが必要となります。今後の推移を見ていかなければなりませんが、8月から9月にかけて、事態が悪い方向に進んでしまうこともある程度想定して、今のうちに締め直すべきところは締め直していかなければならないですね。

暑くなって、マスクを着け続けるのはうっとうしい季節になりましたが、必要に応じて、小まめに着脱するようこころがけたいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常122 改めて、多発性骨髄腫罹患の経緯を書きます

こんにちは。

 

前回お伝えしましたように、このブログを開始して、1年が経ちました。もともと、他人に読んでもらうためというよりは、自分の備忘録的なものとして書き始めましたので、考えていたより多くの方に読んで頂けて、本当に感謝しています。また、長期入院中にきちんと話をすることができなかった知人・友人にも読んでいただいている方がいらっしゃるようで、少しは埋め合わせができたのかな、と思って居ります。

他方で、最近になってこのブログをお知りになった方もいらっしゃるようなので、改めて、自己紹介をさせていただきます。

私は元大学教員で、約2年前までは某国立大学の文系学部で教鞭をとっておりました。現在は、特定の職業にはついておりません。このブログを書くきっかけは、多発性骨髄腫という比較的患者数の少ない病気に罹患した経験を、ちゃんと残しておこうと思ったからです。そういうわけですので、なるべく包み隠さず、余計な装飾も加えずに、ひとつの私的な記録として読んでいただければ幸いです。とは言っても、これまで120本にも及ぶ投稿のどこから読めばよいのか、と戸惑う方もいらっしゃるかもしれません。

私の病気に関する投稿は、主に通し番号00から33あたりに集中的に書いています。その、おおよその経過は次の通りです。

2013年頃            腰痛に悩まされるようになる。

2014年6月         総合病院で精密検査を受けた結果、即日多発性骨髄腫ステージ3と診断され、そのまま入院となる。

2014年10月       放射線療法、化学療法、造血幹細胞自家移植という一連の治療が終わり、退院。しかし、直後に肺炎を患いわずか3日ほどで病院に逆戻り。

2014年11月       ようやく退院。(この間に体重は約10kg減) その後、産業医と相談して、2015年3月末まで休職し、自宅療養を続けることになる。

2015年4月         職場復帰。

2017年頃から     がん細胞に再活性化兆候が見られたため、レブラミドによる治療を開始。

2018年4月         通勤途中に、突然倒れて心肺停止状態となる。心筋梗塞と思われるが、多発性骨髄腫の新興に伴うアミロイドシスの可能性もあり。

2018年5月末     埋め込み型除細動器(ICD)を心臓のそばに埋め込み、無事退位。

        職場復帰。

2020年3月         まだ定年前ではあったが、健康上のことを考えて、退職。

2020年6月         引っ越し。これに伴い、通院する病院も変更。

2021年6月         レブラミドの効果が次第に弱まってきていたので、新薬であるダラキューロを中心とした治療に切り替え。

2022年2月         両眼の白内障が進行したため、手術。長年のステロイド抗がん剤服用も大きな要因と考えられる。

 

こうした経緯をほぼ時系列に沿って33までに書いているのですが、その後は、病気や治療に関する状況を時折織り交ぜながら、それ以外の一般的な話題を積極的に取り上げるようになっています。テーマはかなり多岐にわたりますが、なるべく専門的になりすぎないようにしているつもりです。あくまで私見に基づく文章ですので、もし偏った見方をしている所があれば、ご容赦ください。

             

ところで、今度の日曜日は参議院選挙ですね。この暑い気候の中でも、選挙カーは元気に走り回っているようです。あの、拡声器を使って候補者名をひたすら連呼するタイプの活動は、暑さをますます助長しているようで、正直なところ、うんざりしてしまいます。「名前を覚えてもらわなくては、何も始まらない」というのはわかるのですが、それだけで終わってしまっても、やはり何も始まらないと思うのですが、いかがでしょうか。

日本以外の国で、あのような選挙カーはほとんど見かけないそうですね。明確に違法とされている国もたくさんあるそうです。ただ、例えばアメリカでは選挙カーは使われていない代わりに、戸別訪問による活動は法的に認められているそうです。

うーん、どちらがまだマシなのか、よくわかりませえんね。

 

実は、私は現在の政党政治のあり方に大きな疑問を持っています。というか、限界を感じています。現在、日本では無所属の候補者以外はすべてどこかの政党に所属していますので、その発言や行動は党議によってある程度拘束されます。それ自体は、組織に所属することの代償として、止むを得ないことだと思うのですが、問題は、その党議等と自分自身の考えとに食い違いが出てきたときどうするのか、ということです。党議の定めるところに対して、いつもあらゆる事項で賛成する人ばかりだとはちょっと思えないですよね。そんなに簡単に離党することはできない、とすれば、そこに何らかの妥協、擦り合わせが必要になります。おそらく、どんな政党に所属していても、個人として身も心もすべてをささげているのでないかぎり、必ずこのようなことに直面する場面は出てきます。しかし、例えばテレビ等の討論番組では、与野党ともに、その党の考え方を代弁するような話しぶりばかりが目立ち、個人の姿が見えてこないと感じてしまうのです。

今回の各候補者が、この問題(ざっきり言ってしまえば、個人と組織の関係性についての問題です)を自分自身の課題としてどのように考え、行動するのか、という点がまったく見えないところに、何ともはっきりしないモヤモヤ感が残るのです

とはいえ、投票には行くつもりです。行動しなければ、「無関心」というレッテルを貼られるのと同じ扱いになってしまいますから。

 

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常121 なくなる仕事と残る仕事

こんにちは。

 

今年も半分が過ぎてしまいました。この時期の代表的な行事として、茅の輪くぐりというのがありますね。これは、神社の参道の鳥居などに、茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの大きな輪を作り、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願するというものです。また、一年の半分が無事過ぎたことに感謝するという意味もあるようです。 素戔嗚尊スサノオノミコト)に由来するといわれ、そのくぐり方には決まった作法があります。全国各地、けっこう多くの神社で行われているようなので、皆さんのお住まいのお近くにやっている神社がありましたら、少し暑さの和らいでいる時間帯に訪れてみてもよいかもしれません。ただ、中には自動車に乗ったまま参拝できる巨大な茅の輪を設けている神社もあるみたいですが、それってどうなんでしょうね? たしかに、暑さを避けられるという意味では、現代に即してはいますが、なんだか神様に怒られそうな気がします。(笑)

 

前回の投稿ではカルカントという職業について書きました。人力で“ふいご”を動かすパイプオルガンそのものは現代でも少しは残っていますが、カルカントを専業とする人は、おそらくほとんど残っていないでしょう。

このように、機械や技術の発達によって、人間が従事していた仕事がなくなる、というのは古今東西、さまざまな現場で起きてきたことです。古くは、産業革命による動力の発達によって、工場の機械が蒸気機関等で動かされるようになったことが有名です。この時には、仕事を奪われまいとした労働者が、機械を破壊するなどの暴力行為に及んだことがいくつも記録に残っています。また、ある力自慢の労働者が機械と作業のスピード競争に挑み、勝負には勝ったものの、その直後に体調を崩して亡くなるという笑えない悲惨な事故も起きたようです。

また近年では、コンピュータやAIの発達、普及によって「将来亡くなってしまう仕事」というリストがさまざまな人によって発表されて、その仕事に従事している人々を不安のどん底へと追いやっています。

これについては、ネットで調べてみると、本当にさまざまなリストが出てくるのですが、そのほとんどは出典が明記されておらず、記事を書いた人の主観に基づくものが多いようなので、それを具体的に紹介することはあえてしません。ただ、共通して言えることは、判断や意思決定をまったく必要としない単純労働や、AIの学習能力によって十分に人間の判断能力にとって代わることができると思われるような仕事がなくなると考えられていることです。とくに単純労働であるにもかかわらず、非常に体力を要求される仕事や危険な場所での作業が必要な仕事などは、人権の観点からも、この傾向がとくに強くなっていると言えるでしょう。そして逆に、対人コミュニケーションが必須となる仕事は「残っていく仕事」とみなされる風潮が強いようです。医療や介護の現場などはその典型でしょうね。

もちろんこれらの現場でも、「機械に任せられることはなるべく機械で」という傾向は既に相当広まっています。しかし仕事の主役はあくまで人間です。それは、単に最終判断は人間が行う、ということだけを意味しているのではありません。このブログでもしばしば書いてきましたが、患者や介護サービスを受ける人間にとって、ちょっとしたコミュニケーションがどれだけ救いになるか、私自身身に染みて実感してきたところなのです。こればかりは、いくら「おしゃべりロボット」が発達しても、簡単には置き換えられないでしょうね。余談ですが、先日携帯電話のショップに行くと、少し前まで大きな顔をしていたペッパー君が、電源を抜かれ、段ボール箱の中に片づけられていました。でも他方で、フロントでの対応を全部ロボットが行う「変なホテル」(H.I.S.グループが展開)とかができてきていますので、将来はどうなるかわかりません。

私は、こうした論調に、大枠では賛成です。というか、我々個人がどのように思っても、コンピュータへの置き換えはどんどん加速化していくでしょう。これから職業選択をしようとする人は、このことを意識しておく必要があるのは事実です。

こうした流れの中で、仕事を失ってしまう人が多数出てきてしまうのもある程度やむを得ないことです。ただ、雇用主は「不要になったから退職してもらう」という単純な発想ではなく、その人の経験や蓄積を少しでも生かせる新たな職場・仕事づくりに取り組んでもらいたいものです。

それは、単に「仕事探しのお手伝いをせよ」というものではありません。時代の波の中で、あまり必要とされなくなった仕事であっても、それまでの時代には確実に世の中から必要とされていたものですし、その積み重ね、そこから得られた知恵などを無視してしまうことは、歴史の断絶であり、過去から何も学ばないことになってしまう、と言う意味で、危うさを感じてしまうのです。前回投稿の最後の方にも少し書きましたが、人力で動くパイプオルガンが現在でも残っているのには、それなりの意味があるのです。

現代の私達の生活は、決して現代になっていきなり確立されたものではなく、長い歴史の流れの中でスクラップ・アンド・ビルドを繰り返しながら、少しずつ進化してきたものです。しかも、そのスクラップは単なる「ゴミ箱行き」ではなく、そこに集約されたさまざまな英知が新しい様式の中に取り込まれていく、という形での進化なのです。そのことを忘れた技術ン発展はあり得ない、と私は思っています。

もうひとつ、少し別の観点で危機感を覚えることがあります。

それは、仕事を進めていくうえで機械が主となり、その補助的作業を行う人間は、機械の都合やスピードに合わせて作業することを強いられる、という危機感です。かつてチャップリンは映画「モダン・タイムス」の中で、ベルトコンベアによる作業に振り回され、翻弄されてしまう人間を描きましたが、これはフィクションではありません。彼は実際にフォード社の最新鋭工場を見学し、そこで得たインスピレーションを喜劇という形に昇華させたのです。チャップリンは喜劇役者でしたから、そこに笑いを盛り込むことに注力しましたが、実際のオートメーション化された工場では、これは喜劇ではなく、ある種の悲劇となってしまった例も数多くあるのです。労働や作業が、人間的な営みでなくなってしまったら、この世界はいったい誰が主役になるのでしょうか。

便利で拘高速の機械に安易に飛びつくのではなく、これからの社会の中で機械と人間の関係をどのように設計していくのか、改めて考えてみるべきだと思うのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

実は、7月3日で、このブログを書き始めてからちょうど一年になります。今後とも、できるだけ今のペースで色々書いていきますので、よろしくお願いします。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常120 カルカントという職業

こんにちは。

 

全国ほとんどの地域で梅雨が明けました。そして連日最高気温が35℃を超える

猛暑日が続く、とのことで、早くも夏バテ気味の方も多いのではないでしょうか。

気になるのは、体調だけでなく、電力需給の逼迫状況ですね。今後、真夏になって水不足という事態が訪れたら、どうなるのだろうか、と心配になってきます。ただ、ここで注意しなければならないのは、「こういう電力需給の状況なのだから、原発再稼働の安全基準を緩和せよ」という声が上がってくることです。実際、各電力会社の株主総会では、そのような発言が少なくない株主からあったそうです。もちろん、電力不足は私達の生活に大きな影響をもたらしてしまいますので、何とか工夫をしていかなければならないのは確かですが、原発の安全性の問題は、それとはまったく別の問題として対応しなければなりません。このあたりは、議論をごちゃごちゃにしないで、冷静に対応してもらいたいものですね。個人的には、今夏はとにかく電力会社間の融通等を最大限利用して乗り切るとして、長期的には、こういう機会を、次世代エネルギーによる発電拡大に向けて、もっと本格的に取り組む契機としてほしいと願っています。

 

こんな暑い日、寺院や神社、教会といったところを訪れると、その門をくぐっただけで何となく涼やかな気持ちになるのは何故でしょうか。あの、凛とした雰囲気が人間の精神に何らかの作用をもたらすのでしょうか。

神社の傍にある森を散策するのも、お寺の本堂に座って仏さまと対峙するのも良いですが、教会の椅子に座って、何も考えずに佇む、というのも実に気持ちの休まるものです。そしてそんな時、パイプオルガンの音色が聴こえてきたら、最高ですね。あの、柔らかだけど堂々とした音は、その場の空気をソフトなものにするとともに、私達の背筋を伸ばしてくれるものです。それは「癒し」などという使い古された言葉を超えたものだと思います。

ところで、パイプオルガンという楽器、どうやって音を出しているか、ご存じでしょうか。鍵盤楽器ですから、演奏者は手足を使って鍵盤を操作しているのは当たり前ですが、問題は、実際に音が出るパイプにどうやって風を送り込んでいるか、です。オルガンは、大きさの如何にかかわらず、風を送り込まなければ音は出ません。皆さんの中にも、小学校時代の音楽の時間に、足踏みオルガンを弾いた経験のある方はたくさんいらっしゃるでしょう。あれも、足元のペダルを踏むことによって、風を送り込んでいるわけですね。つまり“ふいご”が必要なわけです。

パイプオルガンはたいていの場合、かなり大きな装置ですので、風を送るのも大変なことです。この楽器が発明されてからしばらくの間は、水力を使って“ふいご"を動かしていました。しかし、これでは安定した風量にならないという欠陥があったようです。そこで、中世以降は、下の絵のように、人力で”ふいご“を動かし、安定的に、そして曲調に合わせて自在に風を送る方式が主流になりました。この、”ふいご“を動かし続ける人のことをカルカントと言います。1曲の演奏の間、絶え間なく安定した風を送り込まなければならないので、相当の体力と技術が必要だったのです、その働き次第で演奏の質は大きく変わったようですが、あくまで「裏方」ですので、名前が残るわけではありません。そもそも、音楽家とは認められていませんでした。

それでも、彼らがいなければ、オルガニストがいくら頑張っても音は出ないわけです。例えばバッハはよく夜中にオルガンを弾くことがあったそうですが、カルカントは、それにつきあって、夜中まで仕事をすることがしばしばであったという記録が残っています。音楽学者の故磯山雅氏は「音楽史を裏から支える大切な存在であった」と指摘しています。

また、19世紀に活躍したドイツの大作曲家ブルックナーの場合は、実弟がカルカントを務めていたそうです。この人は職人としてのプライドが非常に高い人であったらしく、「兄貴がどれだけ偉いのか知らないが、俺がいなければ、結局あいつは何もできないのさ」という言葉を残しているそうです。

電動モーターによって“ふいご”を動かすようになったのは、20世紀になってからで、それとともにカルカントという職業は消えていったのです。もっとも、今でもヨーロッパには人力で“ふいご”を動かすオルガンが、数は少ないものの残っているそうです。電動モーターの発する機械音や振動を嫌う傾向がまだ残っているということでしょうね。

 

ここまで書いてきて、さらに思うこともありますが、それは次回に回しましょう。

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常119 免疫力で夏を乗りきれ!

こんにちは。

 

急に真夏のような暑さになってきましたね。我が家のあるマンションでも、先日室内で熱中症で倒れられた方がいらっしゃったようで、救急車が出動してきていました。皆さん、くれぐれもお気を付けください。

 

さて、今日はまず前回の補足を少しだけ。

上方落語の大看板であった故桂米朝師匠はこんな言葉を残しているそうです。

「マイクロホンを通した時、声は音になります。」

つまり、人の発する声とともに聴こえてくるはずの息遣いや雰囲気などが、電子回路を通すと薄まってしまい、伝わりにくくなるということですね。米朝師匠自身、大きな会場ではもちろんマイクを使われていたので、頭からこれを否定しているわけではありません。しかし、そういうことを頭に置いたうえで、喋っていく必要があるということが言いたかったのだと思います。これは、Zoom等で仕事に関する打ち合わせや会議をするときにも共通しているのかもしれません。

 

ところで、今回の本題はこれとは全く違って、久しぶりに少し健康に関する話題を取り上げます。

約1か月前、5月21日の投稿(第109回)で、私自身の免疫力がどうやら低空飛行のままであること、そしてそのひとつの指標であるigGを上げるために、ハイゼントラという薬剤を注射することになったということを書きました。それから1か月経って、先日の通院治療で、血液検査をしたところ、igGの値は、前回168から255へと上昇していました。効果があったと言えるようなのですが、標準値は861-1747なので、まだまだ低いままです。主治医は最低でも400を超えるまではこのまま続けましょう、と仰っていましたので、この注射(前にも書きましたが、注射と言いながら、1回約30-40分かかります。)は継続されることになり、病院での滞在時間も長いままとなります。まあ、腹部への皮下注射なので、まったくと言って良いほど痛みはありませんし、ずっと仰向けに寝たままでいればよいだけなので、それ自体は苦痛ではありませんが。

 

ところで、このブログでも免疫力と言う言葉を何回も使ってきましたが、そもそも免疫力とは何なのでしょうか。身体をウイルスや細菌の侵入を防ぎ、病気にかかりにくくする力、というアバウトな説明は誰でもできるでしょう。一般に、この力がアップしたりダウンしたりしている状況は、白血球の値でおおよそ知ることができます。抗がん剤をはじめとする多くの薬剤は、白血球の値を下げてしまうという副作用をもっているため、より注意が必要なのです。また、移植した臓器や組織(骨髄、心臓、腎臓、肝臓など)に対する拒絶反応の抑制、[関節リウマチ、アレルギー性喘息の長期的抑制などの治療の一環として、免疫抑制剤が使われることもあります。こうした場合、当然ながら免疫力は相当低下することになってしまいます。つまり、ひとつの病気を抑えようとしても、他のリスクが増大してしまう、ということですね。

なお、免疫力をつかさどる免疫グロブリンは、体内で発生したがん細胞などにも対応します。したがって、igA、igG等の値が急激に上昇しているとしたら、それは必ずしも良い兆候ではなく、体内でがん細胞が見つかって、それへの対応のために免疫グロブリンががんばっている、ということになるのかもしれないのです。がんの再発はこうした値の変化で見つかることも多いようです。

だからこそ、普段からなるべく免疫力を高めておかなければならない、ということになるのです。すでに薬の副作用などによって免疫力が低下している場合は、私のように「補充療法」が必要になる事もありますが、そうでない方の場合は、何よりも普段からの生活習慣が大事、というのが医師の方々の共通した意見です。そう考えると、暑い夏こそ、免疫力を鍛える良いチャンスなのだ、ということになります。冷たい飲み物の摂りすぎや冷房による身体の冷やしすぎを避け、バランスよい食事と適度な睡眠を心がけるといった熱中症を避けるための方法として一般的に言われていることが、免疫力アップにも有効だそうです。

また、暑いからと言ってシャワーだけで済ませるのではなく、きちんと風呂(40度程度で10分)に入ることも大事みたいですね。これは、私もなかなか実践できていませんが。

 

まだ6月。今年の夏がどのような夏になるのかわかりませんが、体調には十分留意しながら、乗り切っていきたいものですね。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常118 リモート・ワークはアリか?ナシか?

こんにちは。

 

前回は自動車の将来に関しての投稿となりましたが、実は、私は免許すら持っていません。そういう個人的な立場から言わせてもらえれば、公共交通がしっかりと維持されて、多くの人に利用される事こそが、望ましい将来、ということになります。最近は、過疎化の進む地域を中心に、鉄道やバスの路線廃止が続いていますが、これはますます過疎化を助長するものではないか、と憂慮しています。なるべく維持・管理コストがかからない、そして住民のニーズに細やかに対応できるような小回りの利く交通機関が開発、普及されていくといいのですが。例えば、一部の地域で導入が始まっているオンデマンド・バス(乗車希望があった時だけ運行される小型のバス)などは、ひとつの方向性かもしれません。高齢者の免許返上を促進させるためにも、どのようなシステムが使い勝手が良いのか、真剣に議論するべき時代はすでに来ているのです。

 

この件については、もっと真剣に考えていく必要がありますが、今回はそのことではなく、前回ご紹介したテスラ社のマスク会長の別の発言を取り上げたいと思います。

マスク氏は先ごろ全従業員に対し、「リモート勤務を希望する人は週に最低40時間オフィスで勤務しなければならない。さもなくばテスラを退社してもらう。」という通達を出したそうです。週40時間といえば、日本でもアメリカでも標準的な勤務時間数ですから、これは実質的に「リモート・ワーク禁止令」ということになります。つまり、近年急速に進んだリモート・ワーク(在宅勤務など)を真っ向から否定したわけですね。彼は、物理的に存在する職場で働くのに比べて、それが効率的にも生産的にもなり得ないと主張しているそうです。

私はこの記事を読んで、最初非常に意外な気がしました。テスラという新興企業で、しかも最新技術を武器とする企業のトップとしては、ずいぶん時代遅れの考え方だな、と思ったのです。ちなみに、日本のデータになってしまいますが、今年4月現在で、従業員30人以上の東京都内企業においては既に約3分の2がリモート・ワークを実施しているそうです。しかし、彼はツイッター上で「仕事のためにオフィスに行くというのは時代遅れの概念だと考える人に何か伝えることはあるか」と問われたところ、「そうした人は、どこかよそで働くふりをすればよい」と皮肉交じりに答えており、反リモート・ワークの姿勢はかなり明確なようです。どうも、会社の目の届かないところにいる従業員は「何をしているかわからない」という疑いの目で見ているようです。

たしかに、例えば自宅で仕事をしている、と主張されても、それを逐一管理することは、会社側に不可能です。しかし、毎日オフィスまで出向かなくてもよい、ということは通勤に要する費用、時間、そしてエネルギーが温存され、他に回せるようになるため、これを推進してほしいという声はよく聞きます。社会全体としても、道路の渋滞や電車の混雑を緩和できることになるのなら、前向きに取り組むべき課題と言えるでしょう。

また、もっと本質的な問題として、「働き方・働かせ方」そして「会社への貢献の評価」のあり方を問い直すのが、リモート・ワークなのです。

現在、企業での従業員に対する評価は、勤務時間ではなく、その内容、つまり成果(必ずしも目に見える結果だけではありません)によって行う傾向が次第に広まっています。もちろん、これにも色々課題は山積しており、その最大のものは「どうやって成果を測定するのか?」というものです。また、評価の結果について、従業員が納得できるような仕組みづくりにも工夫が必要です。例えば、丁寧な説明・議論と、従業員側から反論や疑問があった時には、これに真摯に対応することが求められます。しかし、それには評価する側、つまり管理職側の負担は大変重くなってしまう、という副次的な問題も発生しています。

さらに、評価結果をその人の処遇や賃金などにどのように反映させるのか、ということも大きな課題です。ある時点での評価が低くても、それをリカバーすることのできるような配慮も必要とされています。

ただ、それでも「やれるところからやっていこう」というのが最近の流れでしょう。では、なぜ今回のような通達がなされたのでしょうか?

ひとつには、企業内での制度のバラつきによる不平不満を抑える必要があったのかもしれない、ということが考えられます。実はマスク氏も少し指摘しているのですが、工場で働く労働者など、リモート・ワークを行うことが不可能な部門がある場合、従業員間で不平不満が発生することは十分予測できます。自分は毎日出勤しなければならないのに、他方で会社にほとんど顔を出さない同僚がいるとしたら、あまり良い気がしない人がいても不思議はないですよね。

もうひとつは、リモート・ワークばかりになってしまうと、仕事を進めていく上での組織としての一体感はどうしても失われがちになることが懸念されます。コロナ禍で在宅での仕事が増えた結果、同僚と雑談する機会も減ってしまい、「一緒に仕事をする」という感覚が薄れてしまった人が多いことは、すでに多くの会社で報告されているとおりです。(ただし、テスラの場合、そのようなチームワークを主体とした働き方をしているのかどうかは不明です。)

テスラ社での人事評価がどのように行われているのか、私は全く知りませんが、まさかマスク氏も「オフィスに出社してさえすれば、ちゃんと働いてくれる」と安直に考えているわけではないだろうと思います。色々とウラの事情はあるのかもしれませんが、上に書いたふたつが大きな要因ではないのかな、というのが私の想像です。(まあ、リモートをいっさい認めないというのは、どう考えても行き過ぎですが)

 

インターネットは本当に便利なモノで、この2年間もそれによって社会は何とか回っています。ただ、対面で進められる直接的なコミュニケーションがあることによって、ヒトは相互に高め合うことができますし、仕事の質そのものも向上するはずです。

私達は、ネットを通じてできること、ネット経由だからこそできること、そしてその限界を整理していくことが必要なのでしょう。ちなみに、私が以前インタビューしたある中小規模の建設会社では、ウェブ・カメラやZoomなどを最大限活用することによって、現場と管理部門のコミュニケーションを進められるよう、腐心しているそうです。「建設業だからリモートでは何もできない」と言ってはいられない、ということでした。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常117 未来の自動車

こんにちは。

 

梅雨に入ってから妙に気温の低い日が何日かありましたが、この週末から徐々に気温が高くなり、本格的な?蒸し暑さがやってきそうです。皆さん、体調には気をつけておられますか?

前回投稿の最後の方で「鉄腕アトム」に出てくる空飛ぶ自動車のことを少し書きましたが、今回はその続きです。

正直な話、自動車が空を飛ぶ時代というのは、おそらくかなり遠い将来の話でしょうね。技術的な問題もありますが、それ以上に厄介なのは、それにともなう環境整備、法整備でしょう。空中を飛び回るモノをいかにして秩序正しく通行させるのか? ちょっと想像しただけでも課題は山のようにありそうです。空を飛ぶ、といっても地上から数十cm程度に抑えるようにすれば、導入に向けての動きは加速化するかもしれませんが。

今の自動車業界で、それよりも力が入れられているのは、ガソリンに代わる燃料で動く自動車の開発、そして自動運転技術のふたつでしょう。

このうち、脱ガソリンについては、環境問題や石油供給の不安定性といった差し迫った問題もありますので、各社とも本格的に取り組んではいますが、周辺産業も含めて大きな業界再編にもつながるため、今後どのように展開していくのか、まだはっきりとした道筋は読めません。

今のように、ガソリン車が主流になったのはいつ頃なのだろうか?と思って調べてみたところ、ほとんどが手工業的に作られていた、つまり大量生産が開始される前の19世紀末には、まだ蒸気、ガソリン、電気の3つの方式が主導権争いをしていたようです。ところが、1897年のフランスでの自動車レースでガソリン自動車が蒸気自動車に圧勝し、その性能を世界中にアピールすることに成功しました。また、1901年にはアメリカのテキサス州で油田が発見されてガソリンの供給が安定するようになりました。さらに、当時の電気自動車や蒸気自動車は構造上の問題を多く抱えていて、それをクリアできずに、急速に衰退していったそうです、そして決定的だったのは、フォードによる大量生産車であるT型モデルの大成功だったでしょう。

なお、こうした初期の自動車については、愛知県長久手市にあるトヨタ博物館に行けば、かなりたくさんの車種を見ることができますし、写真も自由に撮ることができます。これは、自動車と言うものにさほど興味を持っていない方にとっても面白いものだと思います。

もうひとつの動きである自動運転ですが、こちらも本格導入にはなかなか高いハードルが待ち構えているようです。

日本では、自動運転の定義について、下の図のように5段階で考えられています。理想を言えば、すべての操作をシステム(自動車)側が行うレベル5の完全自動化が望ましいことは言うまでもありません。これが実現すれば、いわゆる交通弱者の方でも気軽に自動車を利用することができるようになり、バリアフリー社会の促進に大きく貢献することは間違いありません。高齢者の操作ミスによる不幸な事故も激減するでしょう。しかし、万が一の事故や危険にどのように備えるのか、という安全面での課題を考えると、誰もが免許なしで自動車を一人で利用できる、という将来像はかなり非現実的です。これに対応した法整備もすすめる必要がありますから、その道のりはまだまだ遠いと言わざるを得ません。

公益財団法人 自動車技術開(JSAE)の資料より


実際に各メーカーが取り組んでいくのは、せいぜいレベル3あたり、つまりシステムと人間のハイブリッド運転ということになるでしょう。

ただ、現在の道路の混雑状況などを考えると、いずれにせよさまざまな原因による不慮の事故への対応は欠かすことはできず、開発者にとっては大きな課題としてのしかかり続けるのです。

ここで、少し発想を変えてみる必要がありそうです。そもそも体重60kgから80kg程度の人間を総重量1~2トンにも及ぶ機械で運搬することが、効率的と言えるのでしょうか。たとえガソリン以外で動く自動車が主流になったとしても、燃料面での供給安定という課題がついて回ることも変わりません。現在広まりつつあるカー・シェアリングなどはこの問題を解決する糸口になるでしょうが、根本的解決とまで言えるのかどうか、もう少し検討する必要がありそうです。

電気自動車の開発で最先端を行く、とされるアメリカの新興自動車メーカー、テスラ社の会長であるイーロン・マスク氏は、5月に行われたイベントで「人間より安全な水準での自動運転の達成にきわめて近づいている。私の最良の予測では、今年度実現できるようにみえる。」と話しています。彼の場合は、これまでも色々と話のアドバルーンを上げて、それに対する世間の反応を見る、ということをやってきましたので、この発言を額面通りに受け取っている人はほとんどいないようです。しかし、「また虚言を・・・」などと馬鹿にするのではなく、技術的な到達レベルを踏まえたうえで、それを実験場や試走用のコースではなく、実際の道路状況や社会状況の中で、どのように活かしていくのか、という発想に基づいた前向きな検討が政治の場などに求められるのではないでしょうか。未来の交通手段を社会の中でどのように位置づけていくのか。それは社会を住みやすいものにしていくための重要な検討課題なのです。

近所の神社では紫陽花が満開です(本文とは全く関係ありません)

 

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常116 スマホの機種変更をめぐって

こんにちは。

 

いよいよ梅雨本番になってきましたね 。皆さん、気象病ってご存じですか? 気候や天気の変化が原因でおこる身体の不調、とくに頭痛やだるさ、むくみ等が出る症状の総称で、とくにこの時期にはこれに苦しめられる人が大変多くなるようです。日本全体で、潜在的な気象病患者数は1000万人近くにも上ると言われていますから、相当なものです。皆さん、どうかご自愛ください。ちなみに、私も低気圧が近づいている時軽い症状が出ることがよくあります。ただ、眠くなるという程度なので、かなり軽いほうだとは思いますが。

 

ところで、先日スマホの機種変更をしてきました。これまでのものは、購入して約4年経つのですが、とくに大きな不具合はなく、まあまあ満足して使ってきました。ところが、先週あたりから、画面が白く濁るようになってきて、大変見にくくなってしまったのです。どうやら液晶画面そのものの劣化が原因のようです。他には故障個所はないため、機種変にはあまり乗り気ではなかったのですが、画面だけを交換するにしてもそれなりに費用がかかりそうでしたし、まずメーカーに送って正確な診断をしてもらうにも「2~3週間かかるかもしれない」ということで、ショップ側としてはあまり勧める気はなさそうでした。まあ、これまでの使用期間を考えると、いずれにせよ近い将来変更を迫られるのは間違いないところです。そんなわけで、この際思い切って新しい機種にした次第です。

まあ、スマホ(携帯)を使っている以上は、何年かに一度はいやでも機種変を迫られるので、そのこと自体はしょうがいないと思っています。ただ、いつも思うことですが、ショップで手続をしようとすると、なぜあんなに時間がかかるのでしょうか。今回は、修理をした場合の相談をしたせいもあって、約2時間の所要時間。その後、データ移行をしてもらうために、また約2時間待たされました。(この時間は、ショップにいなくてもかまわないので、ご飯を食べに行ったりしていましたが)

私の場合、まだ一回の説明で何とかおおよそのことは理解できますし、わからない所はすぐに「わからない」と聞き直すことができますが、年配の方やそもそもネット等をほとんど利用したことがない方、さらには外国人の方などが、スマホを新規契約したり、プランについて問い合わせたりするには、かなりの高いハードルがあります。店員さんの説明をさらにかみ砕いて本人に説明し、なおかつ余計なオプションをつけられないように注意することのできるような人が、一緒にショップに行かないと、自分の思うような機種。プランを選択することは、困難をきわめることになりそうです。

自治体や企業への各種問い合わせや申請などがネットを通じて行うよう推奨されている現在、スマホやインターネットがライフラインあるいはインフラのひとつになっていると言っても過言ではないでしょう。そうならば、もう少し手軽にできないものかなあ、と思うのです。もちろん、ショップの店員さんは非常に丁寧で、気持ちの良い対応をしてくれていますので、そのこと自体には不満はないのですが・・・

最近は、ネットで新機種を購入できるようになっているようですが、あれって使いやすいのでしょうか? 経験のある方、ぜひ教えて頂きたいです。

 

現在、電話と言えば携帯電話が中心になってきていて、ビジネスで利用する以外では、固定電話の利用はかなり減少しているのではないでしょうか。私の家でも、固定電話にかかってくる電話の大半はなんらかの勧誘や商品売込みの電話です。周囲には、固定電話を解約してしまった人も珍しくありません。学生ならそれも当然かもしれませんが、ふつうの社会人でもそのような傾向は広まっているのです。さらに言うならば、最近はスマホで「電話する」ということ自体も減っていて、知人・友人との連絡はもっぱらLINEなどを使うことが多くなっているのも、おそらく私だけではないでしょう。この調子でいくと、10年後、20年後の連絡・伝達手段はどのように変化しているのでしょうね? 私は最先端の電子機器に飛びつくつもりはまったくありませんが、なんとか時代の変化に最後尾からでもついていきたいものです。

そういえば、手塚治虫さんの代表作「鉄腕アトム」の中で描かれている電話は、昔懐かしい黒電話だということをご存じでしょうか。1952年から1958年にかけて漫画雑誌に連載され、1963年から1966年にはアニメ化され、そのテレビ放送の平均視聴率は27.4%にも達した大ヒット作ですが、この漫画(アニメ)、舞台は21世紀となっており、かなりSF的な要素も含まれています。アトムというヒト型ロボットが人間と共存し、人間と同じように喜んだり悩んだりする、というだけでも十分にSF的なのですが、その背景として描かれている場面も、例えば自動車が空を飛んでいたり、というように、手塚さんが未来を空想しながら描いたことがよくわかります。ところが電話は当時一般に普及していた黒電話なのです。さすがの手塚さんも携帯電話がこんなにも広く使われるようになるとは想像できなかったのでしょうね。

最近は、明るい未来を想像しにくい時代になったせいか、「鉄腕アトム」のような夢のある未来漫画は少なくなっているようですが、改めて目を通してみると、新たな発見があって面白いですよ。

 

今回は、半ば独り言のような文章になってしまいました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常115 「多様性」はむずかしい

こんにちは。

 

この6月で、多発性骨髄腫と診断され、入院してから、8年が経過しました。私にとっては人生初の長期入院になった当時のことは、既にこのブログの00回から30回あたりで詳しく書きましたが、今でもかなり鮮明に色々なことを覚えています。それまで当たり前と思っていた日常が、実はまったく当たり前ではないこと、だからこそ、一日一日の積み重ねをもっと大事にしなくてはならない、と痛感させられたのもこの時でした。(もっとも、現在、毎日そんなことを考えながら日常を送っているのか、と問われると、いささか怪しいのですが)ともあれ、余命2年、5年生存率20%と宣告されたわけですから、今こうしして日常生活を送ることができているだけでも、感謝感謝です。

 

さて、今回は色々と考えさせられるニュースについて、少しコメントしていこうと思います。それは、近年もてはやされる「多様性」をめぐっての話です。

今年4月、奈良県視覚障害をもつ方が踏切内で列車に接触し、死亡してしまうという痛ましい事故が起きました。報道によると、この方は、踏切の途中で立ち止まり、そこから引き返そうとしていて事故にあったそうです。おそらく、途中で自分の進むべき方向がわからなくなってしまったのでしょうね。

日本におけるバリアフリー化の状況は、20年前と比べるとめざましい改善がなされています。例えば、主要駅における旅客施設における障害者用トイレの整備は0.1%から88.6%へ、段差解消は28.9%から91.9%へと上昇しているというデータもあります。またホーム等の点字ブロック設置率も78.9%になっているそうです。しかし、踏切については、これまであまり手が付けてこられなかったようです。

この事故を受けて、国土交通省は、新たにガイドラインを定め、踏切の手前に点字ブロックを設置するとともに、踏切内にも凹凸の誘導表示(点字ブロックとは異なるもののようです)を設けることを、道路管理者に求めることになりました。

言うまでもないことですが、白い杖が必要な人など視覚障害者にとっては、点字ブロックは道路を安全に歩く上での命綱のようなものです。時折、その上に自転車を止めたり、荷物を置いたりしているところがあったりしますが、これはいわば「通せんぼ」をしているようなもので、厳しく取り締まられるべきものだと思います。

また、ほとんどどの踏切では列車通過時に警告音等が鳴りますので、それをまったく知らずに事故にあう人はほとんどいないかもしれません。しかし、踏切の中で何かのトラブルがあったり、迷ってしまったりした場合は、非常に危険ですから、誘導装置が設けられることは、大変望ましいことだと言えるでしょう。

ただ、問題もあります。点字ブロックを設置することは、いわば道路にデコボコを作ることになるため、足の不自由な方にとっては、逆に大きな障害になりかねません。つまずく原因にもなりますし、車いすのスムーズな通行の妨げにもなります。また、車いすだけでなく、ベビーカーなども、点字ブロックによって思わぬ転倒事故に見舞われることがあるようです。

もちろん、このような問題を認識している関係者は多く、点字ブロックそのものの改善に向けての研究は進んでいるようです。ただ、いざ設置しようとすると、工事費用などの問題もあり、なかなか進んでいないのが実情です。視覚障害者と足の不自由な方の安全を両立させることは、一般に思われている以上にむずかしい問題をはらんでいるのです。

さて、この問題はいわゆる「多様性推進」にかかわる問題のひとつとして捉えることができます。多様性を認める社会とは、さまざまな立場や考え方、そして身体的特徴をもつ人をすべて平等に扱っていくことが求められる社会です。理想としてのそのような社会の姿を頭から否定する人はめったにいないでしょうが、実際にこれを進めようとすると、上に書いた例のように、それぞれの立場の人の求める方向性が異なってしまい、あるいは利害が対立することによって、それをひとつにまとめていくことの難しさが浮かび上がってくるのです。

では、どうすればよいのでしょうか?

教育や保育、さらには組織論の立場では、多様性を進める際には、それと同時に包摂(inclusion)、つまり「全体として包み込む」ことが必要だという認識が広まっています。この考え方においては、あらゆる社会的弱者を、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込んでいくことがめざされます。

ただ、こうした言葉の定義だけで物事が解決するわけではありません。私は、「受容」こそが大切だと思っています。障害者にとっても、今はそうでない人にとっても、現代社会を生きていくうえで、まったく何の制約や障害がない、ということはありえません。道路を歩いている時でも同じです。他人と共存、協調しながら生きていくには、互いの立場を想像し、それを尊重すること、そのためには、必要に応じて互いに一歩ずつ退いて行動したり、考えたりする、ということが求められるのです。(ここで私はあえて「想像」という言葉を使いました。本当は「理解」と書くべきなのでしょうが、他人の立場を本当に理解するというのは、そんなに簡単なことではありませんから、せめて「想像」することによって「理解」に少しでも近づければ、との思いを持っているため、この言葉を選んだ次第です。)

自分の権利が侵害されていると感じたならば、それについて異議を唱えていくことはもちろん必要でしょう。そうしなければ、他人は「わかってくれない」ことも、世の中には多いのですから。ただ、自己主張とは、自分の権利を主張することだけではないのです。そのことを忘れないで、生活していきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。