明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常18 自己流リハビリ

 こんにちは。

前回の投稿までで、ようやく退院許可が出るところまで話を進めることができました。

結局、一時退院をはさんで約5か月強の入院となったわけで、本当に長い日々でした。ですから、退院の日は、それなりの感慨もありました。今思い返してみると、少し懐かしいな、と感じることもたしかです。ただ、その後も通院治療のため、この病院を訪れているのですが、自分の病室のあった病棟に足を踏み入れることは、決してしませんでした。顔なじみの看護師さん達に挨拶をしたい、という気持ちもなくはなかったのですが、それをしてしまうと、また入院に戻るきっかけになってしまいそうな気がして、自重したのです。

ただ、そんな懐かしさを感じるようになるのは、もう少し先のことで、退院直後はそれどころではなかったというのが本当のところです。

退院したといっても、食欲が完全に戻ったわけではありません。それに、不規則に吐き気に襲われる、ということもしばらく続いたのです。退院時には、食事に関する特別の指示はなかったので、自分が食べやすいと思うものから順に食べていく、という自己流の方法で、胃腸を次第に戻していくしかありませんでした。結局、完全に元通りの食欲と食事量に戻ったのは、退院から1か月と少し経ってから、つまり、もう年末に近づいたころでした。まあ、正月までこんな調子だったら嫌だなあ、と思っていたので、普通におせち料理を食べられたことには、心底ほっとしました。

もうひとつ、少し歩くのも下手をするとふらつく、というのはさすがにヤバいと思い、毎日少しずつ歩く練習をしました。最初は2~3分歩くだけで、息が上がっていたのですが、次の電柱まで、次の標識まで、と少しずつ距離を伸ばしていったのです。我が家から徒歩5分ぐらいのところにビジネスホテルがあったので、そのロビーでしばらく休憩してから自宅に戻る、というコースで散歩したことも何回もありました。

ところで、外の道を歩いていて気がついたことがあります。ちょっとした段差や道路のくぼみ、そして点字ブロックなどが、足腰の弱い人間にとって、いかに怖い存在なのか、思い知らされました。患者の安全を第一に考えて設計されている病院内とは大きな差です。退院に備えて病院内を歩く、という自己流リハビリを行っていたのですが、ほとんど役に立たなかったと言えるでしょう。もちろん、自動車や自転車も走っていますしね。

それはともかくとして、足腰の筋力の回復は、食事量とも連動する話なので、上に書いたような散歩と食欲の回復にともなって、次第に普通に歩けるようになっていきましたが、それもやはり退院から3週間ぐらいかかったように覚えています。

 

さて、私が退院時に病院側から受けた指示は、大変一般的なもので、「適度な運動を心がけましょう。」「食事は、なるべく塩分を控えめにしましょう。」というようなものでした。言い方を変えると、本当の意味での日常生活に戻るためのリハビリや食事計画についての指示、示唆は、まったくと言ってよいほど、ありませんでした。私はこの病院に対して、本当にお世話になりましたし、スタッフの皆さんは毎日気持ちよく接していただいたので、いくら感謝しても足りない、と思っているのですが、この点だけは、不満として残ってしまいました。あれから7年も経っていますので、今は体制が変わっているかもしれませんが・・・。

入院する病院を選べる余裕があるなら、リハビリの体制が整っているところを探すことをお勧めします。

ちなみに、また後日お伝えしますが、この4年後、2か月弱入院した病院は、そういう意味では、かなり充実した体制と設備をもっていました。そのおかげで、退院後の職場復帰が非常にスムーズにいったのです。

 

さて、本日ご紹介した自己流リハビリを進める一方で、職場復帰するための具体的な計画を考えるために、産業医の先生や職場の同僚、先輩に相談することが必要でした

産業医といっても、どのような役割を担っているのか、ピンとこない人もいらっしゃると思いますので、次回は、これについて少し詳しく書いていきます。

 

今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。