明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常24 新展開は突然やってくる

こんにちは。

 

本法に暑い日が続きますね。スマホには、毎日のように「熱中症警戒アラート」が来ています。「できるだけ外出を控えるように」という言葉も聞き飽きてきました。そんなことを言われても、どうしても外出しなければならないときもありますよね。なんだか、今年の夏は思い出に残るうんざりした夏になってしまいそうです。

 

さて、話を2017年頃に戻しましょう。

この年の初めころから、レブラミドとレナデックスを中心とした治療が本格的に始まったわけですが、私の日常にさほど変化があったわけではありません。レナデックスの副作用と思われる食欲不振と下痢は毎週のようにやってきましたが、ほとんどの場合は2日ほどで回復しましたし、仕事や日常生活に大きな支障が出るほどではありませんでした。2年ほど前から企画していた本(学会の友人達との共著)も出版にまでこぎつけることができました。そして何よりも、これらの薬の効果はかなりあったようで、がん細胞の動きを抑えることには成功したようです。

多発性骨髄腫という病気は、付随してできる腫瘍が大きくならなってくると、これが神経を圧迫するために腰に痛みが走るようになるのですが、それがないと、まったくといってよいほど自覚症状はありません。もちろん、外見ですぐわかるような体調の変化もありません。このため、病気が進行しているかどうかは、血液検査等のデータで判断するしかないのですが、この頃、毎月の通院で行われる検査結果はずっと良好を維持していました。もちろん、病気のことを忘れたことはありませんが、「ひょっとすると、このまま寛解の状態をキープしていけるのではないか。」という考えが浮かんだことも事実です。

 

しかし、人間の身体というのはそう単純にはできていないようです。新たな不調は思わぬ形でやってきたのです。

2018年4月、新年度が始まり、最初の授業を行うはずだったある朝、私は出勤途中にいきなり気を失い、ぶっ倒れてしまい、救急車で緊急搬送される、という事態に陥りました。後から聞いた話では、心肺停止状態になっていたようで、幸いなことに、倒れた場所が非常に人通りの多い場所で、なおかつAEDがすぐ近くに設置されていたため、そのおかげで何とか一命を取り留めたのです。また、病院に運ばれてからも、一度は血圧が異常に低下し、危ない状態だったそうですが、これは病院側の適切な措置で助けられました。(つまり、一日に二回死にかけたのです。)

私自身は、気を失っていましたし、その後は容態を安定させるために、強制的に眠らされていたようなので、すべて後から聞いた話になってしまうのですが、最初に自分の身に起きた話を聞いたときは、まだ実感がはっきりと沸いていなかったせいもあり、「せっかくの初救急車だったのに、意識がなくて、もったいないことをした」という、のんびりした、そして、心配してくださった方々には怒られそうなことを考えてしまったものです。

それはともかく、私がはっきりと意識を取り戻したのは、緊急入院から約10日後、病院(多発性骨髄腫でお世話になっていた病院とは別の病院)のICUのベッドの上でした。そんなに長く意識を失ったのは、もちろん初めての経験でしたが、ずっと長い夢を見続けていたような気がします。さらに、意識を取り戻してからも、「夢かうつつか」というような状況がしばらく続いたものです。

これについては、機会を改めてご紹介しますが、とにかく、意識は戻っても、手足はあまり自由には動きませんでしたし、最初は、言葉を発するのも大変でした。なにしろ、人と喋るのは久しぶりだったので、色々と話したい、という思いは強いのですが、うまく声を発することができなかったのです。たった10日間とはいえ、筋肉の衰えは恐ろしいものですね。その後、手、続いて足の順に、少しずつ動くようになりました。同時に、少しずつリハビリも開始されました。幸いなことに、転倒した時にさほど頭を強打していなかったことと、AEDによる処置が素早く適切であったことから、脳の働きには影響はなく、後遺症が残ることもありませんでしたが、一歩間違えれば、命は取り留めたとしても、半身不随になっていたかもしれない、と思うと、少し恐ろしくなります。

 

今回はここまで。いきなり倒れてしまったことの原因については、実は今でもはっきりした診断は下されていないのですが、ふたつの可能性が指摘されています。それについては、次回、少し詳しくご紹介します。

 

今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。