明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常67 人間魚雷「回天」

こんにちは。

 

今日で、ダラキューロによる治療第5クールが終了しました。来週はお休みで、再来週から第6クールですが、正月休みを挟むことになるので、若干変則的になるようです。薬による副作用は今のところ顕著なものはありませんが、まあ今夜あたりから現れてくるものもあるようなので、とにかくしばらくは、おとなしくしているつもりです。

 

さて、今回は前回の続き、というか補足です。

瀬戸内海には実に多くの島が浮かんでいますが、その中に、山口県周南市の沖合約10kmに、大津島という細長い島があります。橋はかかっていませんので、本州との往来には、一日7往復あるフェリーを使うしかありません。そのせいか、観光客の数は少なく、大変落ち着いた雰囲気の島です。

この島はかつて、大津島本島と馬島というふたつの島で構成されていましたが、ある事情で埋め立てられ、ひとつの島になったという歴史があります。そして、その事情とは、太平洋戦争時における人間魚雷「回天」の発射基地を作るとともに、訓練基地も含めて周辺を整備する、というものだったのです。瀬戸内地方が比較的穏やかな気候であったこと、当時の巨大軍事拠点であった呉がすぐ近くにあったことなどが、ここが基地として選ばれた理由だったようです。

では「回天」とはどのような兵器だったのか。ごく簡単に言えば、魚雷に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操縦装置によって、敵艦に体当たりする、というものでした。戦闘機に大量の爆弾と片道分だけの燃料を積み込んで、敵の拠点に突っ込んでいく「神風特攻隊」という特殊飛行機部隊は有名ですよね。あれの魚雷バージョンだと思えば、間違いないようです。爆弾を積むために、全長は14mほどありましたが、直径はわずか1mなので、居住空間としての快適性はゼロ。というか、そもそも一度出撃したら、二度と帰ってこないということを前提につくられたものだったのです。ちなみに「回天」という名前には、「天を回らし戦局を逆転させる」という思いが込められていたそうで、既に戦況が相当悪化していたことを如実に物語っています。

ところがこの「回天」、配備され、実用段階に至ったのが1944年9月ということで、結局は、幸か不幸か、さほどの戦果をあげることなく、終戦を迎えてしまいます。つまり、厳しい訓練を受け、相当の覚悟をしていたにもかかわらず、出撃せずに生き残った人たちが相当数いたのです。そして、その証言を収めたビデオを、大津島にある「回天記念館」で見ることができる、というわけです。

彼等がどんな思いで訓練を受けていたのか、そして戦後は、どんな思いで生き続けたのか。そのことを想像すると、本当にやり切れない気持ちになります。稼働期間は1年弱だったとはいえ、実際に出撃し、命を散らすことになった人もある程度いらっしゃることは事実であり、そんな簡単に「生き残って良かった」などと手放しで喜ぶことはできなかったでしょう。

なお、現地の神社では今でも毎年慰霊祭が開かれているそうです。

ここは、周辺に有名観光地があるわけではありませんが、一度訪れてみる価値はあると思います。

どうしようもない病気によって「自分は死ぬかもしれない」と思った経験のある身としては、どんな理由があるにせよ、他人の命を奪おうとする行為やその道具、さらに言うならば自分の命を奪うような行為も、激しく憎悪してしまいます。

皆さんは、谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」という詩をご存じでしょうか。著作権配慮の観点から、ここに転載することは控えますが、武満徹がとてもシンプルながら、とても印象的な曲をつけており、ジャンルを超えてさまざまな歌手が歌い継いでいます。ご存じのない方は、ぜひ一度聴いてみてください。

 

今回は、かなり重い話になってしまいました。次回は少し軽い話題を書くつもりですので、また、おつきあいください。

 

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。