明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常78 「公平な入試」は可能か?

こんにちは。

 

また急に寒くなりましたね。今晩から明日にかけて、もっと寒くなるかもしれない、という予報も出ています。まあ1月中旬ですから、これぐらい当たり前のことかもしれません。

私のダラキューロを中心に据えた治療は、今日で第6クールが終了しました。治療開始前には、この薬が功を奏する確率は6割とか7割とか聞いていたように記憶しているのですが、今のところ、大変うまくいっているようです。しかし、このブログに何回も書いてきましたように、多発性骨髄腫という病気は今のところ「完治」に至ることはほとんど期待できませんので、ぬか喜びせずに、そして新型コロナの感染に気をつけながら、この冬を過ごしていきたいと思っています。

 

ところで、今週末は大学入試センター試験です。入試というのは、誰もが通る道でありながら、無事通過してしまうと、あまり興味を示さなくなる方が多いように思いますが、私はその運営にもかかわっていたので、仕事を辞めた今でも、その動向は今でも何となく気になるものです。

そういうわけでコロナ禍の中で行われる今年の大学入試には、いやでも関心を持たざるを得ません。とくに今回は文部科学省の新しい方針が次々と示されて、ニュースとしてかなり取り上げられています。直近では、1月11日付で、センター入試をコロナ感染のために受験できなくても、二次試験(各大学で行われる個別試験・・このふたつの試験結果を合わせて合否判定材料とするのがもっとも一般的な国公立大学の入試方法です。もちろん、推薦入試等、例外はありますが)の結果だけで合否判定する救済策を検討するように、という要請が各大学になされたそうです。(コロナ・スキップという表現を用いているマスコミもあります。)

実際にコロナ感染に怯える受験生にとって、このような措置は救いの手になるのかもしれません。彼等にとっての安心材料が少しでも増えることは、望ましいことでしょう。

ただ、通常通りの試験を受ける受験生との公平性の問題は、どうしても残ってしまいます。また、受験科目の多いセンター入試を回避する手段としてこれを悪用する者が出てこないとは限りません。しかも今回は、場合によっては医師の診断書の提出も免除するかもしれない、とのことですので、かなり大きな抜け道がある、というのが正直な印象です。その他にも色々とクリアすべき課題はあるのですが、直前になって対応を迫られる各大学の苦労も、はかり知れません。ただでさえも、ノロ・ウイルス対応やインフルエンザ対応で別室受験等を考えなければならないのに、このうえコロナ対応をどのように進めればよいのか、おそらく、今週は毎日のように会議が行われて、関係者の皆さんは頭を抱えておられるでしょう。

私は、感染対策としての特別対応については、まったく否定するつもりはありません。まあ、もっと早めに方針が示されればよかった、とは思いますが、オミクロン株の急激な拡大を考えると、ある程度やむを得ないかもしれません。

それはまあ良いのですが、受験生やそのご両親、高校側の大きな戸惑いの最大の要因は「公平性は保たれるのか」という点だろうと思います。せっかくの救済措置が新たな疑心暗鬼や不信感、不公平感を生んでしまったら、たしかに元も子もありません。ちょっと大げさに言えば、大学入試そのものの信頼性にかかわる問題になってしまうリスクもあるのです。

ただ、これまで行われてきた入試が本当に完全な公平性を担保する形で行われてきたのか、というと、決してそんなことはありません。わかりやすい例を挙げるなら、各受験生の自宅から受験会場までの移動時間、移動距離にはずいぶんバラつきがあります。二次試験の個別入試は、自分でその大学を受けるという選択をしているのですから、まったく問題はありませんが、センター入試の場合はセンター側で会場が決められてしまいます。そして受験会場は主に全国の大学が使用されますが、地理的に見てそんなにバランスよく配置されるわけではなく、居住地域によっては、泊りがけになる受験生も少なくありません。でも、たいていの人は「しょうがない」と思ってあきらめていますよね。

また、受験会場というか教室の中でも不公平はついて回ります。例えば指定された席が窓側か廊下側かで温度や風の具合は異なります。さらに言えば、教室によって、環境が異なることも珍しくありません。

その他、細かなことを書いていけば、ずいぶんたくさんの問題はありますし、受験生はみんなそれを「不公平だ」と不満を言うのではなく、多少の不公平が生まれることはやむを得ないことと納得して、試験の臨んでいるのです。

つまり、本当に大事なのは公平性ではなく、当事者が納得するかどうか、そのための説明がきちんとなされているのか、ということなのです。完全な公平性を実現することが困難であるならば、次善の対策をとることによって、大きな不信感を抱かれないようにし、その姿勢を示すことこそ、今、文部科学省や各大学に求められる姿勢なのです。なるべく公平性を保つ努力は必要ですが、それだけが指標ではないということですね。

 

ここから下に書くことはまったくの私論で、少し乱暴と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、あえて書いておきます。

大学入試は、社会に出ていくための準備である大学での勉学の門をたたくという、いわば入入口の入り口のような段階です。そして実社会では、どうみても不公平だと思わざるを得ないようなことは本当にたくさんあります。しかし、それらのすべてを完全に除去することはおそらく不可能です。それよりも、現状を嘆いたり、怒りに拳を固めたりするのではなく、ある程度はそれを受け入れたうえで、自分にできることを考えていく。そんな姿勢が、社会人として生き抜き、力を発揮していくために重要なポイントだと思うのです。なお、どうしてもリカバーできず、その人の人生にとって取り除くことのできない障害になってしまうような不公平はなくしていく努力が必要であることは言うまでもありません。人種差別や性差別問題などはその典型ですよね。

 

今日も少し長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださいありがとうございました。