明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常86 あなたにとっての「学び」とは?

こんにちは。

 

北京の冬季オリンピックが始まりましたね。当たり前のことですが、冬の協議はすべて「滑る」競技なので、一瞬のミスで終わってしまうことも多々ありますから、選手には相当の集中力が要求されるでしょう。そんな阿呆なことをぼーっと思いながら、チラチラとテレビを見ています。

このオリンピックについては、色々と論評や批判がありますが、開会式の演出そのものは、おおむねとてもよくできたものだったのではないでしょうか。聖火ランナーウイグル族のスキー選手を起用したところは、露骨な政治的意図が感じられましたが、その他、とくに映像面の演出はとても優れていたと思います。全体の時間が少し短めだったのもよかったですね。

 

ところで、今日は抽象的な話題になります。若干読みにくいかもしれませんので、あらかじめご容赦ください。

先日、知人で、時々このブログも読んでいただいている梶山亮子さんというキャリア・コンサルタントの方から、「学びの入り口の探し方」と題する玉稿を送って頂きました。この方、実は以前私の元で社会人大学院生として学んでおられた方で、狭い意味では、私が「教え」、彼女が「学ぶ」という関係だったのですが、社会人としてのキャリアが豊富な方で、私自身も随分勉強になったものです。

彼女は、学びの入り口には2つあると言います。ひとつは身近な人から得られるもの、そしてもうひとつは目的を達成するためのものです。このうち、後者については目的がはっきりしている、つまり学んだことをどのように活かしていくのかの道筋が最初から明確なので、比較的わかりやすいですね。これに対して前者は、必ずしも「学ぶ」ことを前提にしていない日常的なコミュニケーション等も含めて考えなければならないので、かなり広範囲で多様なものになります。プログラム化することも困難です。しかし、実はそこに大きな意味があることは、テレワーク推進のために、職場の同僚との対話が減ってしまっている方の多くが感じておられるのではないでしょうか。私自身、この2年間ほとんどの学会や研究会がオンライン開催になってしまって「つまらないなあ」と思ってしまうのは、こういった学びが減っているからだろうと思います。ただ、後者についても、例えば資格取得のための勉強のつもりで読んでいた本から想定外の「学び」を得るということもありますよね。

そんなわけですから、基本的には「学び」の入り口あるいはルートは多種多様なものであった方がよいだろうと思います。最近の学生は何かを調べようとすると、すぐにインターネットによる検索に頼りがちですが、それだけが道筋ではありません。まずは「マルチ・ルート」を意識することでしょう。(要するに、アンテナを幅広く張り巡らす、ということです。)

ただ、そうやって得られたものは、そのままでは決して自分のものにはなりません。得られた「データ」(客観的なもの)を自分の価値基準や主観的意図に基づいて、自分にとって有用な「情報」へと変換していかなければならないのです。

コロナ禍のために直接的対人コミュニケーションが減っている現状では、まずはその不足、欠乏をどうやって補っていくのかが当面の課題なのですが、いずれにせよ、集めたデータをパソコンのハードディスクに保管しておくだけでは、さほど意味はないのです。

実は、この「データを情報へと変換する」(一般には、情報処理と呼ばれる作業ですね)という行為こそがとても重要であり、本当の意味での「学び」につながるのではないか、と思います。そして、この変換プロセスを正しく機能させるには、自分自身の立ち位置を客観的に把握しておくことが必要です。これは「メタ認知」とも呼ばれるものです。

ちなみに、メタ認知とは、「自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」などと定義されます。ご参考まで。

これがしっかりしていないと、溢れかえるデータに振り回されて自分を見失うかもしれません。あるいは、知らず知らずのうちに極論、暴論に走ってしまう、などということが起きてしまいます。そしてその結果のひとつが、ネットにおける「炎上」という現象だろうと思います。ところが、「すぐに役に立つ」ことを念頭に置いた教育では、このような「自分の基準を正しく作り、認識する」ことをまったく教えない傾向にあります。

 

結局、「学ぶ」とは「知る」→「整理・分析する」→「身につける」という一連のプロセスの総称であり、それらをきちんと認識したうえで学んでいかなければ、他者にとっても有用な「発信」はできないような気がします。これを学校で教えるのは大変難しいことでしょうが、そのきっかけを与えるような教育は、もっと見直されるべきではないでしょうか。

 

今回は面倒くさい文章になってしまいました。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。