明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常93 「美しい」ということについて

こんにちは。

 

まずは、前回に引き続いて京都散歩の巻。

下の写真は、城南宮という神社にあるしだれ梅です。京都市南部に位置し、平安遷都以来の歴史を有する神社ですが、周辺に観光スポットがないせいか、数ある京都の寺社の中では、さほど有名な存在ではないかもしれません。ただ、神苑は見事で、季節折々の花が咲き誇りますし、年中行事として伝統の「曲水の宴」が開かれたりもします。京都にはたくさんの梅が見事なスポットがありますが、これだけ見事なしだれ梅は珍しいかもしれません。その美しさに惹かれる人はとても多いようです。

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人は美しい風景や絵画、音楽等に接するとき、どこに「美しさ」を感じるのでしょうか。もちろん、対象そのものがもつ絶対的な美しさに惹かれる、というパターンもあるでしょう。他方で、その背景や裏側にある「何か」を豊かに想像あるいはは妄想し、そこから美しさを感じ取る、というパターンもあります。そしてこの場合、これを鑑賞する人間の想像の余地が大きければ大きいほど、言い換えれば解釈の仕方が様々であればあるほど、人はそこに魅入られてしまうように思うのです。「こんな風にも見えるし、あんなふうにも解釈できる」というわけですね。例えば、満開のしだれ梅はもちろん堂々としていて素晴らしいのですが、散ってしまった花びらにも美しさ、というか「もののあはれ」のような情緒を感じますよね。それは色々に感じられるからこそ、おもしろいのです。

 

話は違いますが、フェルメールの有名な絵画のひとつに、「窓辺で手紙を読む女」というのがあるのはご存じでしょうか。フェルメールと言えば、部屋の中に差し込む光を効果的に描く、印象的な絵を思いうかべますが、この絵でも、左側の窓からの光の中で手紙を読む女性が描かれています。しかしその表情はさほどはっきりとしているわけではなく、私たちは「この手紙はいったい誰からの、そしてどのような内容のものなのだろうか」と想像することになります。見るたびにその印象は変わってくるかもしれません。そしてそれがこの絵の大きな魅力のひとつになってきたような気がするのです。

しかし、近年の科学技術の進展は著しく、この絵の背景にある壁には元々弓矢を持ったキューピッドの立像が描かれていたことが分かりました。当初はフェルメール自身が塗りつぶしたものと思われていたのですが、実は彼の死後に誰かによって手を加えられてしまったことも判明し、このたびこれをはがす修復作業が行われたのです。現れたキューピッド(愛の神)は、地面に転がる仮面を踏みつけているのですが、これは偽装や偽善を乗り越える誠実な愛の証しとして解釈できるそうです。そのことから、女性が読んでいる手紙は愛しい人からの恋文である、と考えられるようになったそうです。

このことは、作者がこの絵に込めた思いがようやく解明された、ということで美術界では大きな話題になっており、今、東京で行われている「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」でこの実物を見ることができます。

(どんな絵か、写真を張りつけようかと思ったのですが、権利関係のことがよくわからないので、止めておきます。フェルメール著作権がないことは当然ですが。。。 気になる方は、ご自分でネット検索等してみてください。)

私は、こうした科学技術の進歩にも、そしてフェルメール研究の深化にも敬意を払いますが、他方で、壁が塗りこめられていて謎に満ちていた絵の方が「ひょっとしたら面白かったかも」とも思ってしまいます。何が正解なのかはよくわかりませんが、少なくとも芸術分野に関する限り、解釈が明解なものとなり、それが唯一絶対のものとされていくことが、人間の想像力醸成という観点からすると、必ずしも、豊かなことであるとは限らないような気がするのです。

 

今回は、ちょっと独りよがりな文章で、失礼しました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。なお、ちょっと所用が立て込んでいたり、左目の白内障手術があったりするため、多分これから10日間ほどはブログ投稿をお休みさせていただきます。

それでは、また。