明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常94 親鸞のキャリア形成

こんにちは。

 

ご無沙汰しております。

私にとって、2月中旬からのおよそ一ヶ月半は、白内障の手術を受けたり、3回目のワクチン接種があったり、また、骨髄検査というちょっとハードな検査に臨んだり、というなかなかに気の休まらない日々が続いていましたが、ようやくそれらにも目途がつきつつあります。左目の手術は今週火曜日に無事終わり、明日にはやっと保護眼帯を外すことができ、洗髪洗顔も可能となります。やれやれ、ですね。

目の方は、術後の経過は非常に順調なのですが、とにかく急にすべてのものが明るく見えるようになったもので、まだ戸惑い気味です。両目でモノを見たり、本を読んだりするときに、うまく焦点を合わせることができないことも時々あるのですが、これはまあ慣れていくしかないでしょう。経過を見るために、まだしばらくは定期的に眼科に通わなくてはいけないようですが、とにかく、心配事がひとつ減ったことにほっとしています。

そうこうしているうちに、昼間の気温が20度を超える日が出てきたりして、すっかり春の様相になってきましたね。桜の便りもちらほらと聞かれるようになりました。

ただ、そんなふうに季節が一歩ずつ進んでいるのに、ロシアとウクライナの攻防は相変わらずです。最近は、ウクライナ軍がロシア側を押し返しているのではないか、という報道もあり、これを応援する声は、日本に限らず、世界中で多くなっているようです。もともと侵攻された側であるウクライナを応援する気持ちは、わからないではないのですが、私自身はこれを手放しに喜ぶ気にはなれません。アメリカやNATOが後ろについているとはいえ、両国の軍事力や経済力にはもともと大きな差があります。プーチン大統領の気質から考えても、このままずるずると撤退ということにはならないでしょう。となると、戦局はかなり長期化、泥沼化する恐れが出てきます。その結果、大きな被害を被うるのは両国の一般市民と兵士たちなのです。(兵士たちは、武器こそ手にはしていますが、地元に帰れば一般市民であることには変わりませんし、彼等にも家族はいます。そういう意味では、兵士たちの命がそうでない人たちの命よりも軽いなどということは決してないのです。)

谷川俊太郎の詩にこんな一節があります。

   死んだ兵士の残したものは

   壊れた銃とゆがんだ地球

   他には何も残せなかった

   平和ひとつ残せなかった

(「死んだ男の残したものは」より抜粋)

 

今戦わなければ、祖国がなくなってしまう」というウクライナの人々の気持ちは、もちろんよくわかります。しかし他方で、武力や経済制裁による解決は、必ず後世にしこりを残してしまいます。それは、これまで世界中で行われてきた多くの戦争の経験がはっきりと物語っています。プーチンという人に対して「理性的になれ」というのはとても難しいことなのかもしれませんが、なんとか対話による解決をめざすべく、すべての国には努力を続けてもらいたいものです。

 

気を取り直して、少し他の話題を。

間もなく4月になりますが、これはこの春大学や高校等を卒業した新社会人達が新たなキャリアを踏み出す時期です。ただ、最近は新卒で企業に就職しても、そのまま定年まで勤め続ける、という人はかなり減っています。彼等もそのことは十分承知していますから、「これで大船に乗ったようなものだ」と考えている人は、おそらくほとんどいないでしょう。自分のキャリア構築は自己責任で、というのがこれからの当たり前の考え方になっていくのでしょうね。

ただ、キャリア構築というのは、必ずしも計画した通り、予定した通りにはいかないものです。さまざまな偶然の出会いや想定外の出来事、環境変化などによって、人生の進路は大きく変わっていくものです。むしろ、そうした偶然性によって決まることの方が多い、、といっても過言ではありません。

一人だけ、象徴的な例を紹介しましょう。

親鸞といえば浄土真宗を開いた日本における仏教史上最も重要な人物の一人であることは誰でも知っていることですが、この人、実は何回か人生を大きく左右されるような出来事に遭遇しています。

一度は、9歳で入山し、その後20年間も修行を続けた比叡山延暦寺で。彼は幼くして仏の道に入ることを決心し、頼みこんで比叡山に入ったのですが、どうも当時の延暦寺をめぐる状況やその雰囲気は、彼が思い描いていたものとは少し異なっていたようです。20年間経っても悟りの境地にはほど遠く、煩悩を断ち切ることもできず、苦しんだのです。現代に当てはめれば、理想だと思って就職した会社がどうも自分に合わず、「何か違うなあ」と思いながら20も経過してしまった、いうところですね。

その後、下山した彼はしばらくの間「迷い道」するのですが、縁あって、法然(浄土宗を開いた人ですね)の弟子になることを決意し、これがその後の人生を決定づけることになります。法然は念仏を唱えることを軸にした教え(専修念仏)で、その頃既に京都ではかなり人気のある存在ではありましたが、親鸞はおそらくその教えだけではなく、生き方や考え方、人柄すべてに心を奪われたのでしょう。もちろん、二人の出会いは、純粋に偶然であるということはできないのですが、いずれにせよ、ここまで人生を変える存在にはなかなか出会えるものではありませんね。

その後、念仏の教えは朝廷や因習に囚われる既存の仏教界からはいわば「異端」あるいは「邪教」とみなされて、法然およびその高弟達は死罪、あるいは京都からの追放(流罪)ということになってしまいます。(承元の法難) 専修念仏崩壊の危機です。しかし、法然親鸞は、むしろこれを「念仏の教えを地方に広く普及させる機会だ」と前向きにとらえ、その活動を継続していったのです。その結果、現在でも全国に浄土真宗の寺院はたくさんあるのです。現代に例えれば、左遷されても、その赴任先で自分を活かし、あるいは自分を成長させようとした、ということになります。

今回は、親鸞のキャリア形成という視点からごく簡単に紹介しましたので、浄土真宗の教えや浄土宗との相違等についてはすべて割愛します。とにかく、親鸞が、ずいぶん大きな波に揉まれる中で、不安にかられながらも何とか自らの道を切り開いていったことだけでもわかっていただければ幸いです。彼がそれを貫徹できたのは「仏の道を進むのだ」という強い思い、ただそれだけです。決してはじめから明確な人生設計図や確固たる自信があったわけではないのです。

現代人も、どんなキャリアを進むにせよ、そこに自分にとっての芯になるような「何か」が必要でしょうね。

 

少し長くなってしまいましたが、今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。