明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常107 沖縄・・・

こんにちは。

 

今回はまず近況報告から。

白内障手術についてですが、術後の経過は順調で、眼科でのチェックも次第に間隔が空いてきています。数日前に受診したのですが、次回は7月中旬ということで、あまりにも先のことなので忘れてしまいそうです。まあ、忘れられるぐらい回復したら、それはそれでOKなのかもしれませんね。でも、感染症を含めて、油断だけはしないように、と思っています。

 

ところで、5月15日は沖縄がアメリカから日本に返還された記念日です。今年はちょうど50周年ということで、テレビや新聞でも頻繁に取り上げられていますので、皆さんもはっきりと認識しておられることでしょう。

今から50年前、たしかこの日は特別に祝日になったと記憶しています。まだ少年だった私は、連休が終わったところなのに、また祝日で学校が休みになってラッキー!と思ったぐらいの貧弱な意識しかなかったように覚えていますが、あれから50年経った今も、沖縄はいくつもの問題を抱えたままです。その最大のものがアメリカ軍基地問題であり、その次にあげられるのが、雇用問題、つまり「働くところがない」ために、若者がどんどん生まれ故郷から去ってしまっているということでしょう。

以前、沖縄出身で、よく私の研究室を訪ねてきてくれていた女子学生(私の指導するゼミに所属していたわけではありません)がいたのですが、将来の希望として「沖縄のためになるような仕事をしたい」と言っていましたので、できれば、自分が沖縄で就職するだけでなく、雇用そのものを増やすことを促進するような仕事に就いてほしい、と話したことがあります。今、彼女は東京で働いていますが、仕事の要領を覚えて、仕事に対する自信ができたら、数年後には故郷に帰って、元気に働いてくれることでしょう。(そういえば、最近全然連絡を取っていないことに、今気がつきました。近日中に一度LINEで近況を聞いてみることにします。)

ただ、今回はこうした問題を深堀りすることは止めておきます。両方とも、本気で書き出したら、本一冊分の文字数になってしまいますから。それよりも、最近の報道に接していて少し気になったことをひとつだけ取り上げます。

「沖縄復帰」とか「本土への返還」という言葉がよくつかわれていますが、誰でも知っているように、沖縄、というか琉球は古来からの日本の領土だったわけではありません。たくさんの島々がそれぞれ別の政治形態をもっていたこの地が「琉球王国」として統一されたのが約600年前で、その後は日本を含む周辺諸国との交流を重ねながら海洋王国として独自の発展を遂げたのです。2019年に火災で大きな被害が出てしまった首里城は、その中心であり、シンボルだったのです。

ただ、東南アジア諸国や中国、朝鮮、日本等さまざまな国と近い位置にあったことに加え、そもそも領土が地続きではなく、小さな島に分かれているという事情もあって、その統治は必ずしも絶対的な権力の上に成り立っていたわけではないのです。細かな歴史の変遷は省略しますが、1600年代からは、表向きは中国(当時は清)の支配下にありながら、内実は、日本の薩摩藩徳川幕府の従属国となり、それでもなお「王国」としての体制は維持する、という複雑なものとなったのです。

それが崩れたのは、明治になってからです。1872年には日本側が一方的に琉球藩を設置し、次いで1879(明治12)年には日本軍が首里城を占拠し、沖縄県を設置し、これによって、琉球王国は完全に終焉となったのです。ただ、このような行為に対して琉球の人々がもろ手を挙げて嬉しがったということではなく、また、当然ながら清も大きな不満を表明しました。それが収まり、日本の一地域として落ち着きを見せていったのは、日清戦争終了後のことのようです。

もちろん現在では、その当時の事を知る人はいらっしゃらないでしょうし、沖縄の人々に、こうした経緯をきちんと理解している人がどのぐらいいらっしゃるのかもよくわかりません。私自身、今さら「あそこはもともと日本ではなかった」などと主張するつもりもありません。ただ、沖縄県が設置された4月4日について、現地では後世にきちんと伝える、ということがなされているのか、少し気になった次第です。

また、昨今のウクライナ情勢と重なり合って見えてしまうところがあるのも事実です。そう思うと、大変複雑な思いに駆られてしまうのは私だけでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

次回、もう少しだけ沖縄について書く予定です。