明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常115 「多様性」はむずかしい

こんにちは。

 

この6月で、多発性骨髄腫と診断され、入院してから、8年が経過しました。私にとっては人生初の長期入院になった当時のことは、既にこのブログの00回から30回あたりで詳しく書きましたが、今でもかなり鮮明に色々なことを覚えています。それまで当たり前と思っていた日常が、実はまったく当たり前ではないこと、だからこそ、一日一日の積み重ねをもっと大事にしなくてはならない、と痛感させられたのもこの時でした。(もっとも、現在、毎日そんなことを考えながら日常を送っているのか、と問われると、いささか怪しいのですが)ともあれ、余命2年、5年生存率20%と宣告されたわけですから、今こうしして日常生活を送ることができているだけでも、感謝感謝です。

 

さて、今回は色々と考えさせられるニュースについて、少しコメントしていこうと思います。それは、近年もてはやされる「多様性」をめぐっての話です。

今年4月、奈良県視覚障害をもつ方が踏切内で列車に接触し、死亡してしまうという痛ましい事故が起きました。報道によると、この方は、踏切の途中で立ち止まり、そこから引き返そうとしていて事故にあったそうです。おそらく、途中で自分の進むべき方向がわからなくなってしまったのでしょうね。

日本におけるバリアフリー化の状況は、20年前と比べるとめざましい改善がなされています。例えば、主要駅における旅客施設における障害者用トイレの整備は0.1%から88.6%へ、段差解消は28.9%から91.9%へと上昇しているというデータもあります。またホーム等の点字ブロック設置率も78.9%になっているそうです。しかし、踏切については、これまであまり手が付けてこられなかったようです。

この事故を受けて、国土交通省は、新たにガイドラインを定め、踏切の手前に点字ブロックを設置するとともに、踏切内にも凹凸の誘導表示(点字ブロックとは異なるもののようです)を設けることを、道路管理者に求めることになりました。

言うまでもないことですが、白い杖が必要な人など視覚障害者にとっては、点字ブロックは道路を安全に歩く上での命綱のようなものです。時折、その上に自転車を止めたり、荷物を置いたりしているところがあったりしますが、これはいわば「通せんぼ」をしているようなもので、厳しく取り締まられるべきものだと思います。

また、ほとんどどの踏切では列車通過時に警告音等が鳴りますので、それをまったく知らずに事故にあう人はほとんどいないかもしれません。しかし、踏切の中で何かのトラブルがあったり、迷ってしまったりした場合は、非常に危険ですから、誘導装置が設けられることは、大変望ましいことだと言えるでしょう。

ただ、問題もあります。点字ブロックを設置することは、いわば道路にデコボコを作ることになるため、足の不自由な方にとっては、逆に大きな障害になりかねません。つまずく原因にもなりますし、車いすのスムーズな通行の妨げにもなります。また、車いすだけでなく、ベビーカーなども、点字ブロックによって思わぬ転倒事故に見舞われることがあるようです。

もちろん、このような問題を認識している関係者は多く、点字ブロックそのものの改善に向けての研究は進んでいるようです。ただ、いざ設置しようとすると、工事費用などの問題もあり、なかなか進んでいないのが実情です。視覚障害者と足の不自由な方の安全を両立させることは、一般に思われている以上にむずかしい問題をはらんでいるのです。

さて、この問題はいわゆる「多様性推進」にかかわる問題のひとつとして捉えることができます。多様性を認める社会とは、さまざまな立場や考え方、そして身体的特徴をもつ人をすべて平等に扱っていくことが求められる社会です。理想としてのそのような社会の姿を頭から否定する人はめったにいないでしょうが、実際にこれを進めようとすると、上に書いた例のように、それぞれの立場の人の求める方向性が異なってしまい、あるいは利害が対立することによって、それをひとつにまとめていくことの難しさが浮かび上がってくるのです。

では、どうすればよいのでしょうか?

教育や保育、さらには組織論の立場では、多様性を進める際には、それと同時に包摂(inclusion)、つまり「全体として包み込む」ことが必要だという認識が広まっています。この考え方においては、あらゆる社会的弱者を、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込んでいくことがめざされます。

ただ、こうした言葉の定義だけで物事が解決するわけではありません。私は、「受容」こそが大切だと思っています。障害者にとっても、今はそうでない人にとっても、現代社会を生きていくうえで、まったく何の制約や障害がない、ということはありえません。道路を歩いている時でも同じです。他人と共存、協調しながら生きていくには、互いの立場を想像し、それを尊重すること、そのためには、必要に応じて互いに一歩ずつ退いて行動したり、考えたりする、ということが求められるのです。(ここで私はあえて「想像」という言葉を使いました。本当は「理解」と書くべきなのでしょうが、他人の立場を本当に理解するというのは、そんなに簡単なことではありませんから、せめて「想像」することによって「理解」に少しでも近づければ、との思いを持っているため、この言葉を選んだ次第です。)

自分の権利が侵害されていると感じたならば、それについて異議を唱えていくことはもちろん必要でしょう。そうしなければ、他人は「わかってくれない」ことも、世の中には多いのですから。ただ、自己主張とは、自分の権利を主張することだけではないのです。そのことを忘れないで、生活していきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。