明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常117 未来の自動車

こんにちは。

 

梅雨に入ってから妙に気温の低い日が何日かありましたが、この週末から徐々に気温が高くなり、本格的な?蒸し暑さがやってきそうです。皆さん、体調には気をつけておられますか?

前回投稿の最後の方で「鉄腕アトム」に出てくる空飛ぶ自動車のことを少し書きましたが、今回はその続きです。

正直な話、自動車が空を飛ぶ時代というのは、おそらくかなり遠い将来の話でしょうね。技術的な問題もありますが、それ以上に厄介なのは、それにともなう環境整備、法整備でしょう。空中を飛び回るモノをいかにして秩序正しく通行させるのか? ちょっと想像しただけでも課題は山のようにありそうです。空を飛ぶ、といっても地上から数十cm程度に抑えるようにすれば、導入に向けての動きは加速化するかもしれませんが。

今の自動車業界で、それよりも力が入れられているのは、ガソリンに代わる燃料で動く自動車の開発、そして自動運転技術のふたつでしょう。

このうち、脱ガソリンについては、環境問題や石油供給の不安定性といった差し迫った問題もありますので、各社とも本格的に取り組んではいますが、周辺産業も含めて大きな業界再編にもつながるため、今後どのように展開していくのか、まだはっきりとした道筋は読めません。

今のように、ガソリン車が主流になったのはいつ頃なのだろうか?と思って調べてみたところ、ほとんどが手工業的に作られていた、つまり大量生産が開始される前の19世紀末には、まだ蒸気、ガソリン、電気の3つの方式が主導権争いをしていたようです。ところが、1897年のフランスでの自動車レースでガソリン自動車が蒸気自動車に圧勝し、その性能を世界中にアピールすることに成功しました。また、1901年にはアメリカのテキサス州で油田が発見されてガソリンの供給が安定するようになりました。さらに、当時の電気自動車や蒸気自動車は構造上の問題を多く抱えていて、それをクリアできずに、急速に衰退していったそうです、そして決定的だったのは、フォードによる大量生産車であるT型モデルの大成功だったでしょう。

なお、こうした初期の自動車については、愛知県長久手市にあるトヨタ博物館に行けば、かなりたくさんの車種を見ることができますし、写真も自由に撮ることができます。これは、自動車と言うものにさほど興味を持っていない方にとっても面白いものだと思います。

もうひとつの動きである自動運転ですが、こちらも本格導入にはなかなか高いハードルが待ち構えているようです。

日本では、自動運転の定義について、下の図のように5段階で考えられています。理想を言えば、すべての操作をシステム(自動車)側が行うレベル5の完全自動化が望ましいことは言うまでもありません。これが実現すれば、いわゆる交通弱者の方でも気軽に自動車を利用することができるようになり、バリアフリー社会の促進に大きく貢献することは間違いありません。高齢者の操作ミスによる不幸な事故も激減するでしょう。しかし、万が一の事故や危険にどのように備えるのか、という安全面での課題を考えると、誰もが免許なしで自動車を一人で利用できる、という将来像はかなり非現実的です。これに対応した法整備もすすめる必要がありますから、その道のりはまだまだ遠いと言わざるを得ません。

公益財団法人 自動車技術開(JSAE)の資料より


実際に各メーカーが取り組んでいくのは、せいぜいレベル3あたり、つまりシステムと人間のハイブリッド運転ということになるでしょう。

ただ、現在の道路の混雑状況などを考えると、いずれにせよさまざまな原因による不慮の事故への対応は欠かすことはできず、開発者にとっては大きな課題としてのしかかり続けるのです。

ここで、少し発想を変えてみる必要がありそうです。そもそも体重60kgから80kg程度の人間を総重量1~2トンにも及ぶ機械で運搬することが、効率的と言えるのでしょうか。たとえガソリン以外で動く自動車が主流になったとしても、燃料面での供給安定という課題がついて回ることも変わりません。現在広まりつつあるカー・シェアリングなどはこの問題を解決する糸口になるでしょうが、根本的解決とまで言えるのかどうか、もう少し検討する必要がありそうです。

電気自動車の開発で最先端を行く、とされるアメリカの新興自動車メーカー、テスラ社の会長であるイーロン・マスク氏は、5月に行われたイベントで「人間より安全な水準での自動運転の達成にきわめて近づいている。私の最良の予測では、今年度実現できるようにみえる。」と話しています。彼の場合は、これまでも色々と話のアドバルーンを上げて、それに対する世間の反応を見る、ということをやってきましたので、この発言を額面通りに受け取っている人はほとんどいないようです。しかし、「また虚言を・・・」などと馬鹿にするのではなく、技術的な到達レベルを踏まえたうえで、それを実験場や試走用のコースではなく、実際の道路状況や社会状況の中で、どのように活かしていくのか、という発想に基づいた前向きな検討が政治の場などに求められるのではないでしょうか。未来の交通手段を社会の中でどのように位置づけていくのか。それは社会を住みやすいものにしていくための重要な検討課題なのです。

近所の神社では紫陽花が満開です(本文とは全く関係ありません)

 

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。