明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常125 銀閣寺の美しさ

こんにちは。

 

さて、前回の続きで、今回は銀閣寺について少し書いていきます。

私が銀閣寺を訪れたのは、金閣寺参拝の約1週間後、どちらもまだ人出が比較的少ない午前9時前後でした。予想通り、人はまだ少なかったのですが、修学旅行生たちが次々に訪れていました。最近の修学旅行は、グループ単位での行動が主流になっているようで、タクシー?を利用していますね。運転手さんはガイド役を務めると同時に、要所要所でグループの記念写真を撮っていました。おそらく、生徒たちは宿に帰ったから、あの写真を先生に見せてちゃんと計画通りにコースを回ったことのアリバイにしているんでしょうね。それはいいのですが、運転手さんによっては、かなり大きな声で説明をするうえ、他の人の声に敗けまいとしてさらに大きな声で説明するために、静かな境内が、一瞬にして喧騒に包まれてしまうという具合で、ちょっと迷惑してしまいます。ちなみに、肝心の生徒たちのほとんどは、やる気なさそうにその後をついていくだけで、自主自立的な言動はほとんど見られないです。まあ、これは仕方ないですね。中学生や高校生に寺や神社の雰囲気を味わえ、といっても無理かもしれません。でも、年齢を重ねてから再訪すると、きっと違った印象を持つものだよ、と心の中でつぶやいた私です。

写真が少しゆがんでしまいました。すいません。


さて、銀閣寺です。銀閣寺の正式名称は慈照寺金閣寺と同様、相国寺塔頭寺院です。もともとは足利義政によって造営された山荘東山殿ですが、義政の没後、臨済宗の寺院となったという歴史を有しています。銀閣寺の名称は、言うまでもなく、銀閣(観音殿)に由来しますが、この建物、一度も銀箔を貼り付けられたことはないのですが、江戸時代頃から、金閣に対峙するものとしてこの名前が定着したようです。ただ、創建当時は塗られている黒漆が光っていて、それを銀の輝きにたとえたのではないか、という説もあります。

京都を代表する観光地のひとつとして、全国的にも有名な銀閣ですが、金閣と同じようなイメージを持ってここを訪れると、拍子抜け、というか肩透かしを喰ったような気分になる人もいるかもしれません。まったく銀が使われていないだけでなく、建物そのものは二層(金閣は三層)で、かなり小ぶりな印象を与えるからです。

しかし銀閣を建物だけに注目してみるのは正しい鑑賞方法ではありません。その手前には、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘と円錐台形の向月台が、銀閣に寄り添うように配置されているのです。そして、その芸術的な風情とともに味わってこそ、銀閣の姿はその凛とした姿でもって私達に迫ってくるのです。(ただし、これらは創建当初からあったものではなく、江戸時代に作られたものであろう、と推定されています。)

足利義政という人は、政治にはまったく興味を示さなった一方で、文化芸術への関心は非常に高く、秀でた才能を有していたようで、彼が形作った室町時代後期の文化はいわゆる「詫び、さび」をもっとも体現したものとして、東山文化と呼ばれていることは、中学や高校の日本史の教科書にも説明されていますが、その象徴として銀閣を見ると、銀箔が貼り付けられなかったのは、資金不足という経済的事情によるのではなく、義政の文化的志向に基づくものだったのだろうと思います。足利家はもちろん武家ですが、公家や禅宗の中で培われてきた文化を、それぞれの立場とは無関係に融合しようとする彼のめざす方向は、それまでにはまったくなかった新たな美の形を追求したものなのです。ですから、それを身近に感じられる銀閣寺は、決して「がっかりスポット」ではないのです。金閣が威容を誇る「完璧なる美」であるとすれば、銀閣は一見質素にも見える佇まいの中にじわじわと染み出してくるような美しさを感じさせる存在なのです。

ただ、金閣と比較するとどうしても地味な印象は免れません。もしこの建物が「銀閣」と呼ばれなかったら、現在ほどメジャーな観光スポットにはならなかったでしょう。ネーミングやブランディングの大事さがわかりますね。

ところで、金閣銀閣があるのなら、銅閣があってもよいのではないか、というのは誰もが持つ素朴な疑問ですね。調べてみると、ちゃんと地元で銅閣と呼ばれて親しまれている建物がありました。それは、祇園・八坂神社近くにある大雲院という寺院の境内にある祇園閣という建物です。この建物は、高さ36mという堂々たるもので、少し遠くからでもはっきりとその姿を見ることができるのですが、さほど有名ではありません。もともと大倉財閥(大成建設、帝国ホテル、ホテルオークラ等)の創始者である大倉喜八郎男爵が祇園祭の鉾を模して建てたのですが、昭和初期の建設という京都では比較的新しい物であることに加え、普段は非公開となっているためかもしれません。ロケーションは抜群なので、銅閣という名称がもう少し定着していれば、もっと有名になったのかもしれませんね。

祇園閣(通称:銅閣) Wikipedoaより転載



そんなわけで、今後も、観光客が戻ってくると訪れにくくなってしまうところを狙って、寺院や神社を巡っていきたいと思っています。でも、コロナ・ウイルスの再燃で、どうしようかと思案する今日この頃です。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。