明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常131 指揮者の役割

 

こんにちは。

 

最近は猛暑か、そうでなければ大雨という極端な天候が続いていますね。今回の大雨で被害に遭われた方、そして熱中症で倒れられた方には、心よりお見舞い申し上げます。それにしても、なんだか息苦しい夏ですね。

 

前回は女性指揮者のことを書きましたが、そもそもオーケストラにおいて指揮者の役割って何なんでしょうか。よく考えると、指揮者というのは少し特殊な存在です。「演奏家」であるのにもかかわらず自分では一切音や声を出しません。もちろん、練習中は言葉や身振り手振りも交えて、さまざまな指示を出していますが、いざ本番となると、当たり前の話ですが、一切音を発することはできません。もし、事前に指示していたのとは異なるテンポやタイミングで団員たちが演奏し始めても、指揮者はどうしようもありません。いかにもそれが自分の出した指示であったというような涼しい顔をして、出てくる音に合わせて体を動かす(踊る?)ことしかできないのです。練習中どんなに専制君主のように振舞っていたとしても、肝心の本番では、団員たちの出す音が優先されてしまう。ある意味では、ずいぶん不安定なポジションになるわけですね。

そんなこともあってでしょうか。「オーケストラに指揮者は必要なのか」という疑問は、よく聞きます。しかし、指揮者の役割とは、そもそも音の「入り」や「切り」、強弱、テンポなどを指示することだけではないのです。そういった指示だけならば、団員の中のリーダーが要所要所で軽く合図するだけで、およそ事足りてしまいます。オーケストラの場合、演奏者は両手がふさがっていますが、それでも体を少し大きく動かす(たとえば、ヴァイオリンの弓を少し大きな動作で動かす)で全体に合図を出すことは十分可能です。ですから、ある程度以上の演奏レベルを持つ団体ならば、まったく指揮者がいなくても演奏は可能なのです。これはもちろん、吹奏楽団や合唱団でも同じことです。

 ただ、こうしたリーダーたちが出せるのはあくまで「合図」であって、曲の雰囲気を作り上げていくところまでは、とても手が回りません。自分自身も演奏しなくてはいけないのですから、これは当然でしょう。また、曲の細かいニュアンスとなると、それぞれの団員で捉え方は異なってきますので、これをひとつにまとめあげることは、とうてい無理でしょう。スタジオでの録音等ならいざ知らず、観客の入っているコンサートのステージでは、プレイイング・マネージャーを務めることができる能力を持つ人はおそらくほんの一握りだろうと思うのです。そんなわけなので、指揮者なしで演奏する場合、曲調にあまり変化のない、つまらない演奏になってしまうことが多々あります。逆に、指揮者が最大限の能力を発揮した場合、同じ曲を同じ楽団が演奏しても、指揮者が異なれば、ずいぶん違った雰囲気の演奏になるのです。

そういうわけで、指揮者の役割、重要性はある程度見えてきます。といっても、彼は団員の総意に基づいて音楽づくりをしているのではありません。とくにプロの団体の場合、演奏会のためのリハーサルの時間は限られていますので、その時間を効率的に使うためには、しっかりと楽譜を読み込んで、作曲家の意図を理解したうえで、その曲のイメージをつくりあげ、自分の音楽観も加味しながら、その曲をどのように演奏するのか、細かくプランを立てる必要があります。つまり、事前の勉強には非常に時間をかけ、入念に準備するからこそ、リハーサルや本番を成功に導くことができるのです。

そうなると、場合によっては、あるいは人によっては、独裁者のように振舞っていかざるを得なくなります。過去には「暴君」と呼ばれ、自分の気に入らない団員を次々に解雇し、メンバーの入れ替えを行って、楽団全体を自分好みに仕立てていった名指揮者もいます。例えば、19世紀後半から20世紀前半にかけて主にアメリカで活躍したトスカニーニは、リハーサル中に激高し、団員を名指しで罵倒したり、指揮棒やインク瓶、懐中時計などを投げつけたりしたことも珍しくなかったそうです。それでも彼の作り出す音楽の素晴らしさには、誰もが納得せざるを得なかったようです。

しかし現代社会であまりにも強引な手法を取ってしまうと、逆に団員たちからそっぽを向かれてしまい、協力者、理解者がいなくなるということにもなりかねません。というか、トスカニーニのようなことをしたら、ハラスメントで裁判沙汰になってしまいます。ですから、団員たちとの良好なコミュニケーションを構築していく、というのも、指揮者の重要な仕事になっているのです。

もっとも、トスカニーニについて少しフォローしておきますと、彼は何よりも自分の思い描く音楽に対して真正面から取り組むことを最優先していたのであって、決して団員たちをいじめようと思っていたわけではないようです。彼は次のような言葉を残しています。

「私の決定はどんなに苦しくとも翻らない。私の考え方、動き方はただ一つ。妥協は嫌いだ。私は人生で自ら刻したまっすぐな道を歩き、これからも常に歩み続ける。」

こんな風に言い切られてしまったら、もう周囲は反論できませんね。

 専業の指揮者が登場したのは、そんなに大昔のことではありません。19世紀中ごろに活躍したハンス・フォン・ビューローというドイツ人がその先駆的存在と言われています。

この人は、ワーグナーの弟子であり、そのオペラを数多く上演しているのですが、彼の出現する前は、作曲者自身が指揮台に立つことが一般的だったようです。(もちろん、今でも自分で作った曲を自分で指揮している人はたくさんいます。)ご存じの方も多いと思いますが、ワーグナーの曲というのは非常に複雑で、単にテンポを指示すれば事足りるというものではありません。ワーグナーの伝えたかったことを汲み取り、それを再現するうえで、彼のような存在はとても重要だったのです。ベルリン・フィル・ハーモニーの初代常任指揮者にも就任しているビューローは、まさに、現代における指揮者像を形作った人なのです。(ただ、余談になりますが、この人、自分の奥さんを師匠であるワーグナーに奪われるという気の毒な逸話も残っています。ちなみに、この奥さん、作曲家であり、名ピアニストでもあったリストの娘さんです。リスト自身、若いころはかなり浮名を流した人ですので、その血が娘にも流れているのだろうか、などと言われ、クラシック界最大のスキャンダルのひとつとして現代にまで語り継がれています。)ただ、上にも書いたように、求められる指揮者の姿というものも時代によって少しずつ変化してきています。また、音楽の形式もどんどん多様なものになってきているため、その中での指揮者の役割もまた非常に多様なものになってきているようです。さらに、あえて指揮者を置かないで演奏するパターンも存在しますので、必ずしも「指揮者は絶対に必要だ」とは言えなくなってきているのです。

というわけで、次回は「指揮者のいないオーケストラ」について書きたいと思っています。音楽にあまり興味のない方には申し訳ありませんが、これは組織におけるリーダーシップ論にも通じる話ですので、よろしければ、またこのブログを覗いてみてください。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。まだまだ暑い日が続きますが、体調には気を付けて乗り切っていきましょう。