明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常134 夏の終わりに想う事

こんにちは。

 

今週木曜日は、4週間に1度の血液内科の通院日でした。検査結果は、まずまず、といったところで、そんなに良くもなっていないが、悪くもなっていない、という感じです。しかし、お盆明けの病院は異常なほどの混み方で、血液検査の結果が出るまで約2時間待たされました。(普段はおおよそ1時間程度です。)まあ、今回は少し検査項目が増えたことも一因だとは思いますが、それもあって、なんだかくたくたになってしまいました。自分はたいしたことはしていないんですけどね。

五山の送り火も終わり、京都の夏もラスト・スパートに入ります。といっても、しばらくは暑さが続くのですが。それはともかく、3年ぶりの本格点火となった今年の五山の送り火ですが、せっかくだから、というわけで、如意ヶ嶽の大文字を見に行ってきました。送り火という行事、もともとはお盆にかかわる宗教行事ですが、今や祇園祭と並んで京都の夏の風物詩であり、重要な観光資源ともなっています。私は小学生時代、鴨川の傍に住んでいましたので、毎年当たり前のように大文字を見ていましたが、その時は点火の10分ぐらい前にふらっと河原に出かけ、そこでなんとなく燃える大の字を見ていたものです。しかし、今や時代が変わり、鑑賞スポットとして人気のある「鴨川デルタ」(上流から流れてきた加茂川と高野川が合流して鴨川となる付近)は、2時間近く前から場所取りのための人が集まってくるそうです。私が到着したのは点火の約1時間前、午後7時前後でしたが、すでにたくさんの人が集まって、交通規制も行われつつありました。ところが、その頃から天候が急変し、7時30分ごろからは雷を伴う土砂降りとなってしまいました。事前にスマホで雲の動きを察知していましたので、私は間一髪濡れないで済む場所に避難しましたが、河原でシートを広げ、飲み物や食べ物を楽しんでいた人達は大変だっただろうと思います。

しかし、これもご先祖様の力添えなのでしょうか。7時50分頃にはすっかり雨はあがっていました。点火そのものは当初の予定より少し遅れましたが、無事8時10分ごろに見事な大の字が夜空に浮かんだのです。

鴨川デルタ近くの出町橋付近から


ナマ大文字を見たのは本当に久しぶりだったのですが、その予想(というか、以前の記憶)を超える雄大さと威厳は、人々から言葉を失わせる迫力のあるものでした。宗派、宗教によってはお盆という行事はまったく行われませんし、私自身も宗教に関してはまったくの無信仰なのですが、それでも、どこか敬虔な気持ちが心の奥底から芽生えてくることは隠しようがなかったのです。戦国時代の頃からはじまったとされる送り火ですが、今日まで大切に守られてきた意味がなんとなく分かったような気がします。

さて、京都の子供たちにとっては、送り火を「ああ、もうすぐ夏休みが終わってしまう」という気持ちで眺めるものでもあります。しかし、彼等には8月中にもうひとつ大きなお楽しみが待っています。それは「地蔵盆」と呼ばれる行事です。といっても、関西以外にお住まいの方にはピンとこないかもしれませんね。

京都は昔から地蔵信仰が非常に盛んで、今でも街を歩いていると、あちこちにお地蔵さんが佇んでいるのを見ることができます。家と家の狭い境界線に立っていたり、駐車場の隅に立っていたり、中には、ビルの一角に設けられた専用の用地で大事に祭られているものもあります。いずれも小さなものですから、観光客の方はあまり気が付かないかもしれませんが、一度気になりだすと、どうしてこんなにたくさんあるのだろうか、と疑問に思われるようです。

普通、お地蔵さんの管理や清掃は、町内会の方によって行われます。つまり、これぞ地域に根ざした信仰なのです。仏教に属する地蔵菩薩は、もともと人々を救済する存在として敬われてきたのですが、それがいわゆる道祖神信仰とも結びついて、今のような形になったと言われています。つまり、これもまた、ひとつの宗教の枠組みを超えた存在なのですね。ただ、普段はごくさりげなく、そして目立たない存在なのです。そして、そのお地蔵さんがクローズアップされるのが地蔵盆なのです。毎年8月23、24日の両日、地蔵菩薩の縁日が行われるのですが、その日程に合わせて、子供たち(主に小学生高学年まで)を主役にした行事として開催されるのが地蔵盆なのです。(正確には、縁日は毎月24日なのですが、お盆に最も近いこの時期の行事をとくに地蔵盆と呼ぶようになったそうです。)現在では必ずしもこの日程にこだわることなく、その周辺の週末に行われることも多くなっていますが、いずれにしろ、子供たちにとっては夏休み最後の「お楽しみ」イベントなわけです。

といっても何か特別なことがあるわけではありません。町内会単位で、駐車場や公園の一角、あるいはお寺の境内などを借り切って、この2日間は自由に出入りし、そこでゲームをしたり、スイカやお菓子を食べたり、抽選会があったり。時には盆踊りもあったり・・・といった他愛のない遊びが一日中続きます。お寺で行われる場合は、坊さんのお経を聞く時間や「数珠回し」というものも行われたりしますが、それ以外、宗教色はまったくありません。町内会の子たちは、同学年なら顔を合わせたり遊んだりする機会も多いかもしれませんが、他学年の子たちとは、そんなに親しく遊ぶ機会は少ないのが普通でしょう。それが地蔵盆の期間の交流で一気に親密になったりするのです。そして、それをすべて準備し、取り仕切っているのは、町内会・自治会の長老やご意見番の方々です。つまり、地蔵盆は、町内会という組織がある程度しっかりしていないと成立しない行事なのです。時期が時期ですから、宿題の残りが気になっている子もいますが、それでも、みんな地蔵盆を思いっきり満喫していました。私の住んでいた町内会は、いつも集団登校していましたから、他学年の子もすべて顔見知りでしたが、こんな機会がなければ、一緒に遊ぶことは滅多になかったかもしれません。

地蔵盆の起源は、平安時代にまで遡ることができるようですが、本格的に京都の町に広がったのは、室町時代初期、足利尊氏が将軍だったころと言われていますから、大文字以上の歴史を持っているということができるのかもしれません。

 

考えてみると、この地蔵盆にせよ、五山の送り火にせよ、そして祇園祭にせよ、地元の人たちの多大な労力の積み重ねがなければ、決して実現することはできません。そして、それを数百年も続けてきたことには、やはり大きな意味があると言わざるを得ません。しかし、今はどこの町内会も高齢化が進み、やむを得ず他の町から人手を借りてきてなんとか継続しているというものもあります。(とくに、祇園祭の山や鉾はその維持・管理にけた違いの費用と労力、時間が必要ですから、大変だろうと思います。)もちろん、行政や企業の支援が全くないわけではありませんが、基本的にはすべて地元に任されているのです。それでもこれらの行事を続けていくというところに「町の底力」を感じるのです。おそらく、皆さんのお住まいの地域でも、似たようなコミュニティの力はあるでしょうね。できれば、そういった力を大切に守っていきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。