明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常143 国葬をめぐって

こんにちは。

 

安部元首相の国葬が終わりましたね。報道を見ていると、その内容以上に国葬が行われたことへの賛否をめぐる動きに時間が割かれているようです。個人的には、国葬という形式で行われたことには反対の立場なのですが、だんだん故人が可哀相に思えてくる始末ですよ。

私が否定的な立場をとる主な理由は、他の方とほぼ同様で、ひとつには手続きや法的根拠があいまいであること、そしてもうひとつは巨額の国費を使うことの是非です。

しかし、肯定派あるいは政府側から見れば、これらはそれぞれそれなりの根拠や背景があります。まず第一に、法的根拠等が不明確であるという点ですが、もともと国葬は制度として正式に定められたものではありませんので、ある程度あいまいさが残るのは止むを得ないのかもしれません。もっと言えば、日本において総理大臣は国家元首ではなく、国会議員の中から投票で選ばれたに過ぎません。そして「三権の長」‘内閣、国会、最高裁判所)の一人にすぎないのです。つまり、実態としては国を最高レベルで代表する人物であっても、制度としてそのような位置づけにはなっていないのです。このように、制度上の位置づけと実態が異なることが、あいまいさのひとつの遠因になっていると思うのです。例えば、エリザベス女王という国家元首国葬について、異議を唱えるイギリス人はいないですよね?

もう一点の費用については、高額すぎるという点とそもそも国費から出すべきではないという二つの論点が出されていますが、内閣が責任をもって決定したのなら、それに基づいてある程度の費用を内閣官房予算等から出費することは可能なのかもしれません。ただ、今回の費用は現在発表されているだけで約16億6000万円で、これはエリザベス女王国葬の費用である13億円をはるかに上回るものです。これでは、高すぎるという批判が出るのもやむを得ないですよね。(しかも、最終的にはもっと多額になるのではないか、と疑っている人が多いのが現実です。)

なお、費用の内訳は、警備費用が約8億円、外国からの要人接遇が約6億円だそうです。それぞれ、ある程度費用がかかるのは理解できますが、それでも「なんだかなあ」と思ってしまいます。ただ、この中で注目しておきたいのが警備費用です。今回の狙撃事件を受けて、警察や要人等の警備体制を大幅に見直したはずで、その結果がこの数字でしょう。だとしたら、今後さまざまな大きな催しがあるときの警備にかかる費用は、今回同様、大変大きなものにならざるを得ないのです。そして、私達はそのことを肝に銘じておかなければならないのでしょう。(誤解のないように付言しておきますが、私は警備なんか軽いものでよい、と言っているわけではありません)もちろん、どのような警備体制をとるのかはトップ・シークレットかもしれませんが、ある程度は費用の明細を公開するよう、求めていくべきではないでしょうか。

なお、今回の国葬は、警察にとっては、新たな警備体制のテスト・ケースとしての意味を持っていたことは明らかです。何事もなかったので、関係者はほっと一息ついているでしょうが、より効果的・効率的な警備体制の構築をめざしてほしいものです。

ところで、今回の国葬、ほとんどすべてのテレビで生中継をしていたようですが、最初から最後まですべてきちんと見た人はどのぐらいいらっしゃるのでしょうか。

今回の次第(流れ)はおおよそ以下のようになります。

・国歌演奏

・黙とう

・個人の生前の姿の紹介(映写)

・追悼の辞(内閣総理大臣衆議院議長参議院議長、最高裁判所長官、友人代表)

・皇室の方々による拝礼と献花

・主要参列者による献花

・御遺骨お見送り

よく言えばシンプルですが、あまりにも淡々と、そして粛々とした進行で、テレビの前で見ている側としては、長時間集中して見続けるのは、ちょっと辛いかもしれないな、というのが正直な感想です。実際、所要時間は予定よりも大幅に長引いてしまったようで、参列していた人からも、後刻ちょっとした不満が表明されたようです。

このあたりも、エリザベス女王の時と比べてしまいますね。ただ、国費を使っている以上、この儀式に宗教的な色合いを出すことは一切できませんし、演出も控えめにせざるを得なかったでしょう。国費を一切使わなかったら、もっと個人の人となりをクローズアップできるような儀式にすることも可能だったかもしれないな、と思います。国葬が行われたことは、故人やご遺族にとっては名誉なことでしょうが、形としては、もっと望ましい内容にすることができたらよかったのにな、とも感じてしまうのは、私だけでしょうか。

いずれにしても、今回のことを「もう終わったこと」とはせずに、今後のためのケース・スタディとしてしっかり検証していくべきですね。

 

私自身は、何にもとらわれない、何にも縛られないような現世とのおわかれをしたいと思っています・・・私のことなんて、どうでもよいですよね。失礼しました。 笑

 

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうごあいました。