明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常155 配られたカード

こんにちは。

 

今日は、少し前の投稿で書きましたPET-CT検査の結果から「異常かもしれない」とされた左の首あたりの再検査のため、耳鼻咽喉科に行ってきました。結果は来週にならないとわかりませんが、少なくとも喉の部分には異常は見られなさそうです。この検査結果次第では、さらに全身麻酔をかけての生体検査を行う必要が出てくるかもしれないとのことです。これまでに何回か死にかけている身としては、これぐらいではさほど動揺しなくなっています。心配であることはたしかですが、必要以上に気に病んでも仕方ないですしね。何よりも、今のところ何の自覚症状もありません。

 

さて、今回は少し雰囲気を変えて、スヌーピーの残した名言からひとつ紹介したいと思います。

誰もが知っているスヌーピー。1950年以来約半世紀にわたってアメリカで連載された漫画「ピーナッツ」に出てくるイヌで、犬小屋の上で仰向けになって寝ていたりするシーンが有名なため、何となくほんわかしたキャラクターのように思われていますが、実は、時々含蓄のある、あるいは哲学的なセリフをしゃべります。

 

ルーシー「Sometimes I wonder you can stand being just a dog ….」

(時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。)

 

スヌーピー「You play with the cards you’re dealt …whatever that means. 」

(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。)

(日本語訳は詩人の谷川俊太郎さんです。)

 

ここからは私の解釈ですが、このスヌーピーの言葉には二つの意味があると思うのです。

ひとつは言葉通り、今の自分の立場を踏まえて考え、行動していくしか、方法はないということです。そしてもうひとつは、「もう一度配られたカードをよく見てみよう。そこにどんな意味が込められているのか、ちゃんと確認しないと駄目だよ・・・」ということです。

折角「配られたカード」という言葉を使ってくれているので、ポーカーを例に出してこの意味を考えましょう。

配られた5枚のカードが、例えば「8のワンペア」だったとします。普通ならば、3枚交換ですよね。新しく配られたカードが全部「はずれ」でも相手の手札次第では勝負に持ち込めるかもしれないし、うまくすればツー・ペア」や「スリー・カード」になるかもしれない。そう考えるのが当たり前です。少なくともロイヤル・ストレート・フラッシュをめざすような手ではありません。

ただ、こちらが3枚交換をした時点で、そのような状況であることは、相手にも何となく悟られてしまいます。それは、できれば避けたいとことですよね。

そこで、もう一度自分の手札を眺めてみる必要があるのです。今交換しようとした3枚は果たして本当に「捨てるべきカード」なのでしょうか。これを変更することによって、ひょっとするともっと大きな手に化けるのかもしれない。そんな可能性はまったくないのでしょうか。たとえ可能性は小さくても、そんなことを考えてみるのは楽しいものです。そして何よりも、3枚交換以外の選択をした場合、相手はこちらが何を考えているのか、わからなくなって迷いだす、という効果も得ることができます。

実際にどのような行動をとるべきなのかは、ケース・バイ・ケースでしょう。しかし、「配られたカード」の中での選択肢を色々模索することには大きな意味があります。スヌーピーはそんなことも踏まえて、この言葉を発したのではないでしょうか。スヌーピー自身、「どうせ自分は犬だから」とあきらめず、人間とコミュニケーションをとっているのです。彼がどうやって人間の言葉を操れるようになったのかはわかりませんが。

 

現在の自分の状況を冷静に見つめること、そしてその現状を前提にして、これからできることは何なのか、そこにどのような選択肢があるのかを考えることは、私たちが生きていくうえで、いつも必要なことでしょう。「これが運命だ」と早々にあきらめて何もしないことも、「運命に逆らってやる」と闇雲(やみくも)に悪あがきをすることも、スヌーピーに言わせれば「なにをやってるんだ。君には君のできることがあるじゃないか。」ということになるのでしょうね。

私も、現在の病気の状況はきちんと受け止めたうえで、「明日を生きる」ことを考えていきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。