明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常170 今さら考える「大学の役割」

こんにちは。

 

今回はまず前回の補足から。

前回の投稿の中で神戸市長田の震災復興が思うような形で進んでいないという主旨のことを書きました。しかし、これはこの地区がさびれてしまったという意味ではありません。大きな災害があったにもかかわらず元気に営業している店はたくさんありますし、新たにこの地区に移り住んできた方も少なからずいらっしゃるようです。商店街も、以前ほどではないにせよ、少しずつ活気は戻っています。ただ、行政主導で「再開発」されたビルは地元でもあまり人気がないようです。もともと小さな工場や商店が良い意味でごちゃごちゃと密集していたが故にあった賑わいは、そこには見られなくなっています。この地区の復興計画は震災後わずか2か月の間に大枠が作成されたそうです。そこには神戸市の多大な努力があったことは間違いありませんが、復興を急ぐことと地域住民がそれに納得あるいは満足し、本当の意味での活気が街に戻ることとの両立がいかに難しいのかを、この事例は物語っているのです。

 

さて、今回は前々回からの流れで、大学というものに焦点を当てたいと思います。

日本において、学生たちは何を求めて大学に入学してくるのでしょうか。建前を書けば、高校までに学んだことの中で自分が興味を持ったことをさらに深めていく、ということになるのでしょうが、残念ながら、そんな純粋な志をもっている学生の数はそんなに多くありません。学部や専門分野によっても異なりますが、まず自分は理系タイプか文系タイプか(というより、はっきり言ってしまえば数学が比較的得意か、それとも苦手か)を見定めたうえで、それぞれの中で、自分が模擬試験で得た偏差値等を参考にして、進学する大学や学部を決めていく、というのが一般的なようです。もちろん、そこに家庭の事情や経済的事情が加わることは言うまでもありません。(ただし、医学系や教員養成系、実技系や芸術系の学部は初めから将来進むべき道を見定めている学生の方が圧倒的に多いはずです。また、最近増えてきた文理融合タイプの学部の場合も、特定の目的意識をもって入学してくる学生が少なくないのだろうと思います。) つまり、大学とは文字通り最高レベルの研究を行い、それを教育する場であり、学生はそれを修得することこそが本来の目的であるはずなのですが、そういった目的は副次的なものとなり、履歴書的な意味での自分のキャリを積み重ねる手段として捉えられているのです。だからこそ、大学卒業後の進路、すなわち就職についても「就職に有利な大学」とか「多くの会社社長や官僚を輩出している大学」などが注目を集めたりするのです。

教育基本法では「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探求して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する」ものと規定されています。しかし、たいていの人はこれが形式的な定義づけに過ぎないと思っているのではないでしょうか。そして、このようなギャップが、日本における大学の役割を曖昧なものにしているひとつの要因なのです。

 しかし、現実と建前のギャップは大学そして大学教員側にもあります。

大学の教員は、ほとんどの場合、研究者になることを目指して大学院等で勉強を続け、その成果を評価されて、現在のポストを得た人達です。実務経験を持っている人が大学教員になる場合も、たいていの場合は、自分の実務経験を理論的・学問的に整理し、これを精緻化しようとすることが大きな目標だろうと思います。つまり、ざっくり言ってしまえば、ほとんどの大学教員はあくまで研究者志向であって、初めから教育者志向を持っている人は珍しいのです。

しかしいったん大学教員としてのポストを得たならば、そこで要求されるのは研究と同等の、あるいはそれ以上のウエイトを持って、学生の教育・指導に力を注ぐことなのです。また最近は、自身の知見・経験を活かした様々な積極的な社会貢献・地域貢献も必須となっています。彼らが仕事に費やす時間の多くは教育や社会貢献のためのものとなっており、もっともやりたかったはずの研究活動は、その時間の隙間を見つけて行っている、という場合も珍しくないのです。そして、教育活動等が「自分の性に合っている」と感じることのできた人はまだ幸せなのですが、より強い研究職志向の人の中には「学生の相手は苦手だ」と明言する人も少なからずいるのが現状です。もちろん、学生の前で面と向かってそんなことを言う人は少ないと思いますが、教員同士の何気ない会話の中でそんなことをふと漏らす人には、私も出会ったことが一度や二度ではありません。

私の場合は、幸いにも授業やその準備、そして学生指導といった仕事は、とくにストレスを感じるものではありませんでした。授業の計画を立てるのは楽しい作業でしたし、授業そのものは自分の個性や考えを表現する良い機会でした。また、学生との対話の中では、自分が考えもしなかった新たな発見もしばしばありました。しかしこれは結果論であって、正直なところ「この仕事が性に合っているかどうかは、経験してみないとわからない」のです。このギャップに苦しんでいる人は、けっこう多いかもしれない、と感じています。

この件に関しては、私自身が長年現場にいたので、まだまだ書きたいことはあるのですが、あまり長くなりすぎてもいけませんので、さしあたって、どのような方向に問題解決の糸口を見出せばよいのか、ということを自分なりに整理しておきます。

ひとつは、研究志向大学と教育志向大学をはっきりと区分することです。さらに、研究志向といっても、世界のトップを狙うような先端的研究志向と、もっと地味な基礎的研究、あるいは地域に根差した研究に特化する大学など、いくつかに分類する必要があります。また、教育志向といっても、どのような学生を対象にするのか(例えば、世界を飛び回るようなビジネスマン等の養成か、地域密着型の仕事をしようとする人の養成か、あるいは起業家養成か、留学生教育主体かなど)によって、大学の機能は大きく変わってくるはずです。

第二に、上に書いたような分類を行っても、そこに序列づけ、ランク付けを行わないことです。これは、行政、大学関係者、学生や受験生、そしてそれ以外の方すべてに必要な意識改革であり、制度改革です。先にも書きましたように、教員の多くは研究職志向ですから、どうしても研究志向大学の方が上になると思ってしまいがちです。また、当事者だけでなく、世間の見る目も、そのような傾向が強いことは否定できないでしょう。政府の予算配分等においても同様のことが起きています。例えば、文部科学省は今年秋に向けて「国際卓越研究大学」を指定する予定です。そのこと自体はけっこうなことなのですが、これに選ばれた大学にはかなり多額の財政支援が見込まれており、その割を食って配分される予算(国公立大学の場合は運営費交付金など、私学の場合は私学助成金)が減額されてしまう大学が出てくることが懸念されます。「富める大学」と「貧しい大学」の格差はますます広がってしまうかもしれないのです。さらに言うならば、選ばれた大学の中でも、財政的に潤うのはおそらく特定の研究プロジェクト等だけであり、大学内格差も広がってしまう可能性はおおいにあると思います。

お金の問題だけでしたらまだ良いのですが、上に書いたようなランク付けがよりはっきりしてしまい、各大学はそれぞれの個性を打ち出してアピールすることが難しくなってしまうならば、大きな問題です。そのようなことが起きないようにするために、大学の価値や役割をひとつの物差しだけで測ることがないようにする必要があるのです。

地方の比較的新しい私立大学の中には、独自のカラーを打ち出して全国的な知名度を上げているところもあります。例えば「入学時の偏差値が低くても全員が良い就職ができるような教育を徹底する」ことをうたい文句にする金沢工業大学、徹底した英語教育で注目される秋田の国際教養大学などは良い例でしょう。先端的研究ばかりに目を向けるのではなく、こうした取組こそがもっと評価され、他大学に波及していくべきなのです。

まったくの個人的な意見ですが、上に書いたふたつの条件がそろえば、日本における大学というものの役割、位置づけは現在よりかなりはっきりしたものになり、社会も大学に何を期待すればよいのか、明確になってくるだろうと思うのです。ただ、それにはおそらくかなり長い年月が必要でしょう。しかし、今世紀後半にでもそんな社会になれば、日本社会を取り巻く閉塞感そのものも少しは解消されるのではないでしょうか。それぐらい、教育をめぐる問題が社会に及ぼす影響は大きいのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。