明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常172 御苑に近き学び舎に

こんにちは。

 

今回の寒波はとくに西日本、関西地区に大きな影響をもたらしたようですね、私の住む地域でも、珍しく、積もった雪が翌日まで融けず、ガチガチに凍ってしまって、道路や鉄道に相当大きな支障をもたらしました。転倒事故やスリップ事故が多発したようです。また、線路のポイント故障で10時間以上列車に閉じ込められて、体調を崩した方もいらっしゃったそうです。さまざまな被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。

 

さて、今回のタイトルは何のことか、さっぱりわからない方がおそらくほとんどでしょう。これは作家荒木源氏による2019年の著作のタイトルです。荒木氏は「ちょんまげぷりん」「オケ老人!」などの娯楽小説(映画化もされていますね)で人気を博している方ですが、この小説は少し雰囲気が異なりますし、発行元も京都新聞出版センターというローカルな出版社です。たまたまネットでこの本を見つけたのですが、タイトルを見てちょっとびっくりしました。というのは、この言葉、私が卒業した小学校の校歌の一節だったからです。ひょっとして、と思って調べてみると、やはり荒木氏は同じ小学校卒業で、私より5年ほど後輩にあたるようです。ということは、私が6年生の時に彼は1年生だったはずで、同時期に通っていたことになりますね。(ちなみに、この荒木氏、中学校・高校も私と同じでした。)

そしてこの本は、私達が卒業した小学校の設立の経緯を、フィクション、ノンフイクションを交えながら小説化したものだったのです。

京都市は、明治維新天皇が江戸(東京)に移られて、一気に活気がなくなってしまった時期がありました。公家の人々はもちろん、これまで天皇家等を相手に商売していた人達(
いわゆる皇室御用達)の多くが東京に移っていったのです。例えば、ようかんで有名な虎屋は、今でこそ東京土産としても重宝されていますが、もともと京都が本店で、今でも御所のすぐ近くに店があります。このような変化は、京都の経済を停滞させただけでなく、社会的不安の増大による治安の悪化をも招いたのです。

東京に移った政府も、そんな京都を荒れ放題になるのを放置しておくわけにはいかなかったのでしょう。なんといっても、つい最近まで天皇がお住まいになる「都」だったのですから。相当の資金援助が行われました。それによって、京都は何をやったのか、と言いますと、主なものとして以下が挙げられます。

① 琵琶湖疎水の建設・開通

② いち早い電気事業の開始

➂ 子供に教育を施すための学校の設置

①は琵琶湖から人工河川(運河)を京都に引き込み、水道事業とするものです。これは今でも水が流れています。琵琶湖が近畿の水がめと言われるのは、この琵琶湖疎水のおかげです。そして②は、その水を使った水力発電から始まっています。これも、小規模ながらいまだに稼働中の発電所が、関西電力によって運用されています。また、それを利用して、日本初の市内電車が走ったのも京都です。

 そして➂です。当時の京都にはもちろん寺子屋は多数ありました。しかしそれは、比較的経済的余裕のある家庭の子どもしか通うことができないものでしたし、京都全体としては、決して初等教育が充実して行われていたわけではありません。

そこで、1869年(明治元年)、京都じゅうに大号令がかけられ、市内中心地域すべてに学校が作られることになったのです。具体的には、当時の住民自治組織であった番組(ばんぐみ)単位で学校を作るというもので、その数は上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)あわせて66校の設置が計画され、その設計図のモデルも示されました。また、資金に関しては京都府から相当の額が各番組に支給・無利子融資されましたが、それだけでは足りず、番組内で寄付金を募る形で集められました。金額は番組によって異なりますが、おおよそ半分の額は各番組で独自に調達せざるを得なかったようです。そして、資金調達が簡単ではない2つの番組が共同で学校を建てることも認められ、結果的には、翌1870年(明治2年)末までに、計画された全地域を網羅して、64校が開校したのです。これを「番組小学校」と呼んでいます。計画からわずか2年で、すべての番組で資金を集め、用地を確保し、教員を集め、校舎建設を行ったのですから、たいしたものです。(用地や教員の確保は、各番組が担いました。)ちなみに、私の卒業した小学校は、この年の12月22日、年末ギリギリに、しんがりの64番目の番組小学校として開校しています。

なぜ、こんな大事業が行われたのか、というと、まず、すべての子ども達が等しく教育を受けられる体制を整え、それを京都という町の新たな発展の礎にしようとした、ということになります。とはいえ、はじめからすべての番組で賛成が得られたわけではありません。とにかく大きな資金が必要な事業で、住民からの寄付を募ることによって何とか成立するような状態でしたから、「そんなものを建てるより、商売の援助を優先すべきだ」という声は、当初相当根強かったようです。そこで、学校にコミュニティ・センター的な役割を持たせたり、火の見やぐらを設置したりして、「地域のために幅広く役に立つものだ」という意識を植え付けさせていき、なんとか賛成・推進へと方向転換させていったようです。

学校の建設や運営は各番組にとって、経済面だけではなく、さまざまな面で相当の負担であったことはたしかです。しかし、京都市京都府が資金を出すこと以外の援助をしなかったことから、逆に、自分たちの望むような形でこれを運営していくことが可能になったのです。つまり、行政に下手な口出しをさせない、ということですね。例えば、子供たちに教える教科については、現在でいうところの国語と算数が基本となることはすべての学校に共通していましたが、その他、各地域の特性(商業地域か、職人の多い町か、それとも住宅地か、等)に合わせて、さまざまな特色のある科目が設定されたようです。

こうして、行政側と各番組が時に協力し合ったり、時に反目しあったりしてできあがった学校の体制ですが、なんといっても特徴的なのが、街を活性化するための教育の基本として、まず初等教育に手をつけたことです。前々回の投稿で大学のことについて書きましたし、日本の文部行政はどうしても高等教育に大きな力を注ぐ方向で動く傾向がありますが、本当の基礎はすべての子どもが受けることのできる初等教育にこそあるのだ、ということを当時の人々は、さまざまな議論や実践を通じて認識していったのです。番組小学校がスタートした当初、これに通う子供は該当する子供の20%程度だったのですが、それから10年も経たないうちに、就学率が50%に達し、せっかく作った校舎が手狭になってしまって、改修・移転を迫られることになったところもかなりあったそうですから、人々の認識がそれだけ広がったと言って良いのでしょう。

もちろん、これは実際に行われた教育が質の高いものであったということがうかがえる話でもあるのですが、翻って、現代における初等教育の今後の方向性と社会全体における位置づけを考えるうえでも、大いに参考にできることではないか、と思うのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。