こんにちは。
毎日暑い日が続きますね。
マスコミも連日この話題を取りあげていますが、ちょっと気になることがあります。というのは、毎日、最高気温を記録した地域を紹介しているのですが、誰でも知っているように、気象庁の発表する気温は風通しの良い日陰でのものです。ですから、実際の体感気温はもっと高く、すでに多くの場所で40℃をはるかに超えてしまっているはずなのです。つまり、「どこにいても暑い」のが実情なのです。
また、もっとも気をつけなければならない熱中症に関しては、気温が高ければ高いほどリスクが高まるという単純なものではありません。たとえ30℃以下であっても、熱中症への予防策は、35℃を上回った場合と基本的には変わるものではありません。しかし、数字のマジックとは怖いもので、「○○市の本日の最高気温は38℃でした。」などというとニュースを聞くと、「私の住んでいる地域はこれよりはマシだ。」と思い、何となく安心してしまっている人が案外多いのではないでしょうか。
「日本で一番暑い」等というニュースはたしかにインパクトがありますが、それに振り回されてしまうことは、この猛暑の本質を見誤ることになりかねません。さしあたっては、自分の体調管理を怠らないようにすることが、私達にとってもっとも重要ですね。夏の気候はまだまだ続きますが、おそらく来年以降はもっと猛暑になってくるかもしれません。
ところで、前回書きました左足の水ぶくれについてですが、その後も回復は順調で、傷跡の皮膚再生は進んでいますし、痛みはほとんどなくなってきました。ただ、この10日間ほど通院以外ほとんど外出していなかったため、外を歩くのはまだ慎重になってしまいます。少しずつ歩く距離を長くして、完全な日常生活に戻れるよう努力していかねば・・・と思っています。とはいえ、この猛暑のため昼間に用もないのに外出するのはためらわれる・・・むずかしいところですね。(笑)まあとにかく、感染症等の危険はかなり減ってきているようで、一安心しているところです。
実は、この水ぶくれ騒動の素少し前、倉敷にある大原美術館に行ってきました。ここを訪れるのは2回目です。ただ、前回は高松から倉敷へと電車で向かおうとしたまさにその時、大きな地震に見舞われ、瀬戸大橋が長時間にわたって不通になるという事態に陥ってしまったため、倉敷で十分な時間が取れなかったのです。この地震は後に芸予地震と呼ばれることになるのですが、もう23年も前のことになるんですね。いやあ、あの時は、高松駅で3時間ほど足止めを食らったうえに、運行再開後も瀬戸大橋を時速20㎞という超鈍足でゆっくり走る満員電車に辟易としたものです。
それはさておき、大原美術館は倉敷紡績の経営者だった大原孫三郎氏が建てたことで良く知られていますね。大原孫三郎氏については、このブログ126回(2022年7月20日)でも取り上げましたので、未読の方は一読いただければ幸いです。
この美術館に収蔵されている多くの絵画は、児島虎次郎氏という画家が大原の命を受けて、ヨーロッパで買い付けてきたものです。そのため、児島と言えば、大原というパトロンを得て自由に海外をまわっていた人物というイメージが強いようです。
しかし、今回この美術館を訪れて非常に印象に残ったのが、児島氏の画家としてのただならぬ才能でした。
もちろんここには、エル・グレコをはじめとして、マティス、ゴーギャン、モネその他の名だたるヨーロッパの画家の作品が展示されているのですが、訪れた人々がはじめに目にする第1展示室には児島氏の作品が多数展示されています。つまり、美術館側が彼に最大限の敬意を払っていることが良くわかるのです。そしてそれらの多くは、既に名声を得ていた上記の画家たちに勝るとも劣らない素晴らしいものだったのです。一般には、この人の画力、業績を過小評価しているような気がします。実際にこの美術館を訪れれば、そのことを痛感させられます。
現在、大原美術館は『異文化は共鳴するのか?』と題する特別展示を開催しています。その解説等にはっきりと示されているわけではありませんが、関係者の皆さんの頭には企画段階から児島虎次郎をひとつの柱にすることがあったのだろうと思います。ちなみに、そのチラシには以下のように記されています。
「児島にとって、異文化とは他者であると同時に、自身の中に共存し、混交し、創作の原動力を生み出すもの、つまり、自己の重要な一部であったと言えるでしょう。」
彼は、フランス、スペイン、中国、日本等の各地をめぐりながら、その地の人々や文化を描いているのですが、個人的にとくに印象に残ったのは、それぞれの土地における「光」の描き方でした。当然ながら、児島氏はヨーロッパで多くの名画を鑑賞し、そこから多くのことを学び、吸収したのですが、単にそれらを模倣しただけではありません。例えばスペインの地に降り注ぐ眩しくも、どこかにほの暗さを感じる太陽の光と、日本の晴れ渡った空に輝く柔らかい太陽との相違、またそれに伴ってそれぞれの土地で生まれる「影」の相違を見事に描写しているのです。それは、彼がヨーロッパや中国で学んできたものを自分自身の血肉として消化していたことの証なのだと思った次第です。
「光」という形のないものを描くことは、古今東西の画家にとって、悩ましい課題であり、同時に、腕(すなわち個性と技術)の見せどころだったわけですが、児島氏はその課題をクリアした、当時としては稀有な日本画家であることを強く感じさせられた鑑賞体験でした。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。