明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常108 島唄の魅力

こんにちは。

 

皆さんは、沖縄の歌というと、どんな曲を思い浮かべるでしょうか? もちろん世代によっても異なるでしょうが、ザ・ブームThe BOOM)が大ヒットさせた「島唄」(宮沢和史作詞・作曲)が真っ先に出てくる人も多いのではないでしょうか? しかし、実は宮沢さんは沖縄出身ではなく、海のない山梨県で生まれ育った方です。たしかに、この曲の冒頭部分は、いわゆる沖縄音階(曲全体がド・ミ・ファ・ソ・シの5音で作られていて、レとラは基本的に用いない音階のことです。)で作られています。試しに、お手元に何か楽器がある方は、上の5音を順に鳴らしてみてください。ほとんどそのまま、「島唄」の冒頭部分のメロディになります。

しかしこの曲、展開部分からはこうした制約から外れて、普通の西洋音階の音楽になります。つまりこの歌、宮沢さんが沖縄への憧れを抱きながら、自分はその地元の人(うちなーんちゅ)にはなれない、という思いの中で作られた曲なのです。

しかし、そうした事情を知らないで、沖縄民謡の教室や師匠の家を訪れて、「島唄」をやりたい、と希望する人が続出したそうです。

さて、ここからが面白いところなのですが、普通、このような希望を聞いた民謡の先生は「あんなものは民謡ではない!」と突っぱねるところでしょう。当初はたしかにそのような門前払いも多かったようなのですが、次第に「これが沖縄民謡への興味を広げるきっかけになってくれれば」と、受け入れるようになり、沖縄でもスタンダードな曲のひとつとして定着していったのです。つまり、伝統的な沖縄民謡という文化の中に、西洋音楽が溶け込んでいったのです。

なお、石垣島出身の3人組のバンドBEGINのリーダー比嘉栄昇さんは「BOOMさんの『島唄』は画期的だった。それまでは沖縄のミュージシャンは本土でどう歌えばよいか分からず、本土のミュージシャンも沖縄で歌うのは遠慮があった。その橋渡しをポンとしてくれたのがBOOMさんの『島唄』です。ありがたかった。」と述べているそうです。

ただ、このように沖縄音楽との融合が果たされたのは、必ずしもこれが初めてというわけではありません。沖縄の側から積極的に異文化を取り入れていこうとする動きは色々あったのです。

1970年代から80年代には沖縄本島コザ出身の喜納昌吉さんが、自身のバンドであるチャンプルーズを率いて、強烈なビートに乗せた「ハイサイおじさん」や今もバラードの名曲としてしばしば取り上げられる「花」を大ヒットさせ、沖縄のミュージシャンの存在を本土の音楽好きに強く印象づけました。また、同じ時代に活躍したりんけんバンドのリーダーであった照屋林賢さんは、民謡演奏を主とする音楽家であったお父さん、お祖父さんの影響を強く受けながら、それを現代に息づかせるための工夫を様々に行いました。

他方で、沖縄にはアメリカ軍基地がある関係で、アメリカの音楽が本土よりも直接入ってくることも多かったようで、とくにハードロックのバンドはたくさん生まれています。「紫」や「コンディション・グリーン」といったバンドは1970年代から現代まで活動し続けているそうですから、ちょっと驚きですね。そして、彼らのサウンドは、本場アメリカやイギリスのロックの影響を強烈に受けながらも、やはりそこに沖縄の風土や雰囲気を感じさせるものとなっている、と評価されています。

前回の投稿で、沖縄という地が周辺諸国との交流を重ねながら発展してきたことを書きましたが、それは文化・芸能の面でも同様です。沖縄料理にゴーヤ・チャンプルーというのがあるのはご存じですよね? この「チャンプルー」とは簡単に言えば、「ごちゃまぜ」という意味で、沖縄文化の特徴をそのまま表した言葉なのです。今回の投稿では音楽のことばかり紹介しましたが、彫刻、美術、工芸、染色など他のジャンルも同様で、日本、中国、朝鮮、東南アジアその他の国々との交流の中で、それらを取り入れ、なおかつ、軸となる伝統的な独自文化の大切さを見失うことなく、発展させてきたのです。どのような文化を取り入れても、歴史の中で受け継がれてきたものの価値は揺るぎない、という力強さに、沖縄文化の真の魅力があり、そこに私達は惹かれるのだろうと思います。

ちなみに、本来の沖縄民謡である島唄は、例えば沖縄本島石垣島竹富島などでそれぞれ少しずつ異なっており、それがきちんと現代にまで受け継がれています。石垣島の場合は、自ら三線を弾きながら、少し憂いを帯びた節回しで歌うスタイルがけっこう多いようですが、竹富島では、三線は使わず、その代わりに太鼓をたたきながら、荒々しく、そして力強く歌われるのが一般的なのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常107 沖縄・・・

こんにちは。

 

今回はまず近況報告から。

白内障手術についてですが、術後の経過は順調で、眼科でのチェックも次第に間隔が空いてきています。数日前に受診したのですが、次回は7月中旬ということで、あまりにも先のことなので忘れてしまいそうです。まあ、忘れられるぐらい回復したら、それはそれでOKなのかもしれませんね。でも、感染症を含めて、油断だけはしないように、と思っています。

 

ところで、5月15日は沖縄がアメリカから日本に返還された記念日です。今年はちょうど50周年ということで、テレビや新聞でも頻繁に取り上げられていますので、皆さんもはっきりと認識しておられることでしょう。

今から50年前、たしかこの日は特別に祝日になったと記憶しています。まだ少年だった私は、連休が終わったところなのに、また祝日で学校が休みになってラッキー!と思ったぐらいの貧弱な意識しかなかったように覚えていますが、あれから50年経った今も、沖縄はいくつもの問題を抱えたままです。その最大のものがアメリカ軍基地問題であり、その次にあげられるのが、雇用問題、つまり「働くところがない」ために、若者がどんどん生まれ故郷から去ってしまっているということでしょう。

以前、沖縄出身で、よく私の研究室を訪ねてきてくれていた女子学生(私の指導するゼミに所属していたわけではありません)がいたのですが、将来の希望として「沖縄のためになるような仕事をしたい」と言っていましたので、できれば、自分が沖縄で就職するだけでなく、雇用そのものを増やすことを促進するような仕事に就いてほしい、と話したことがあります。今、彼女は東京で働いていますが、仕事の要領を覚えて、仕事に対する自信ができたら、数年後には故郷に帰って、元気に働いてくれることでしょう。(そういえば、最近全然連絡を取っていないことに、今気がつきました。近日中に一度LINEで近況を聞いてみることにします。)

ただ、今回はこうした問題を深堀りすることは止めておきます。両方とも、本気で書き出したら、本一冊分の文字数になってしまいますから。それよりも、最近の報道に接していて少し気になったことをひとつだけ取り上げます。

「沖縄復帰」とか「本土への返還」という言葉がよくつかわれていますが、誰でも知っているように、沖縄、というか琉球は古来からの日本の領土だったわけではありません。たくさんの島々がそれぞれ別の政治形態をもっていたこの地が「琉球王国」として統一されたのが約600年前で、その後は日本を含む周辺諸国との交流を重ねながら海洋王国として独自の発展を遂げたのです。2019年に火災で大きな被害が出てしまった首里城は、その中心であり、シンボルだったのです。

ただ、東南アジア諸国や中国、朝鮮、日本等さまざまな国と近い位置にあったことに加え、そもそも領土が地続きではなく、小さな島に分かれているという事情もあって、その統治は必ずしも絶対的な権力の上に成り立っていたわけではないのです。細かな歴史の変遷は省略しますが、1600年代からは、表向きは中国(当時は清)の支配下にありながら、内実は、日本の薩摩藩徳川幕府の従属国となり、それでもなお「王国」としての体制は維持する、という複雑なものとなったのです。

それが崩れたのは、明治になってからです。1872年には日本側が一方的に琉球藩を設置し、次いで1879(明治12)年には日本軍が首里城を占拠し、沖縄県を設置し、これによって、琉球王国は完全に終焉となったのです。ただ、このような行為に対して琉球の人々がもろ手を挙げて嬉しがったということではなく、また、当然ながら清も大きな不満を表明しました。それが収まり、日本の一地域として落ち着きを見せていったのは、日清戦争終了後のことのようです。

もちろん現在では、その当時の事を知る人はいらっしゃらないでしょうし、沖縄の人々に、こうした経緯をきちんと理解している人がどのぐらいいらっしゃるのかもよくわかりません。私自身、今さら「あそこはもともと日本ではなかった」などと主張するつもりもありません。ただ、沖縄県が設置された4月4日について、現地では後世にきちんと伝える、ということがなされているのか、少し気になった次第です。

また、昨今のウクライナ情勢と重なり合って見えてしまうところがあるのも事実です。そう思うと、大変複雑な思いに駆られてしまうのは私だけでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

次回、もう少しだけ沖縄について書く予定です。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常106 その道は選んでほしくなかった

こんにちは。

 

このブログの第70回の投稿(2021年12月19日)で、神田沙也加さんのことを取り上げました。まだまだ自分で切り拓ける未来の選択肢がたくさんあったはずの若い彼女が、決して後戻りのできない道を選んでしまったことを大変切なく思いながら、その文章を書いたものです。

これに対して、60歳台に入った、私とほぼ同世代の方が同じような道を選んでしまう、というニュースに連続して接すると、神田さんの時とは少し違った、もっと心の奥底が締め付けられるような苦しさにおそわれるものです。

人は誰でも多かれ少なかれ悩みを抱えているものです。そしてそれは、決してひとつではないだろうと思います。ただ、その悩みのモトが比較的はっきりしていて、その数もさほど多くないときには、自力で、あるいは他人の力を借りながら、解決していくことはある程度可能だと思います。

しかし、悩みが幾重にも重なりあい、それらが互いに関連しあっているために、到底そこから抜け出すことができないように思えてしまった時、人は絶望してしまうのかもしれません。ちょうど、糸が複雑に絡み合い、こんがらがってしまい、ほどけなくなった状況に似ているかもしれません。そのような時、無理やり糸を引っ張っても決してほどけることはありませんよね。落ち着いて、ひとうひとつの結び目を丁寧にほどいていけば、時間はかかっても、必ずなんとかなるはずなのですが、絶望の淵に追い込まれた人にそのような余裕があるはずはありません。

ましてや、人生も後半戦、終盤戦に入った年齢になってくると、「どんなにがんばっても、この先報われる事なんてないだろう」と思ってしまうのも無理はないことなのかもしれません。

ですから、後戻りできない道を選んでしまった方には「ゆっくり休んでください」としか言うことができません。

ただ、それでも「生きていく」という選択をする方を、私は尊いと思います。未来に対して、いくつもの可能性を残しながら、少しでも満ち足りた人生を求めてもがいていく姿勢は、同時に、それまでの人生をき見据え、肯定するべきところをきちんと肯定するものであり、とても気高い行為だと思えるからです。

人生は、あくまで一人ひとりのモノですから、他人のそれと比べることはできません。それでも、あえて書かせてもらえれば、病気で死の淵をさまよったことのある私のような人間には、自分で幕を下ろしてしまった方とは少し異なる死生観があるような気がするのです。

前出の神田沙也加さんに関する投稿の中で、私は、亡くなった方が後で後悔するような住みよい世界を作っていくしかない、と書きましたが、その思いは今も変わっていません。ですから、戦争なんかをしている場合ではない、と強く思う次第です。

 

今回は、大変湿っぽくなってしまい、失礼しました。

末筆となりましたが、渡辺裕之さん、上島竜平さんのご冥福をお祈りいたします。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常105 災い転じと福となす

こんにちは。

 

GWも終わってしまいましたね。後半は、かなり気温の高い日が多かったので、行楽にお出かけになった方は、疲れが残っているのではないでしょうか。明日から通常通りの仕事が再開される方は、くれぐれも無理をせず、体調と相談しながら、徐々にペースを元に戻すことを考えてください。この後、しばらく連休はありませんので。

 

さて、数回前に鉄道ネタの投稿をしましたが、今回もそんな感じで書いていこうと思っています。今回の舞台は近畿日本鉄道近鉄)です。

近鉄といっても、関西、そして名古屋近辺の方以外にはあまり馴染みがないかもしれませんが、営業キロ(運賃計算上の路線の長さ。実測値は若干異なることがあります)508.1kmを誇る日本最大の私鉄で、下の簡略図のように、大阪、名古屋、京都、奈良、伊勢志摩、吉野山等の大都市や観光地を結んでいます。また、大阪難波阪神電鉄と相互乗り入れを行っているため、神戸でも近鉄の車両を見ることができます。

この会社、近鉄としての設立は1944年ですが、各地にあった小規模な鉄道会社を合併しながら巨大化してきており、そのルーツは約110年前にまでさかのぼります。巨大化することによって、さまざまなバリエーションの特急電車を走らせることができ、路線によっては赤字を抱えているものの、特急電車の稼ぎによって、利益を出している状況です。

近鉄の主要路線図


ただ、合併を行ってきた弊害もあります。それは、同じ会社なのに、線路幅(ゲージ:つまりレールとレールの幅)が異なるものが混在してしまっているということです。

少しだけ基本知識を書いておきますと、鉄道の線路幅には日本に現存するものだけでも、以下のものがあります。

標準軌:ゲージ1435mm

狭軌:1067mm

ナローゲージ:762mm

またヨーロッパには、標準軌よりも幅の広い「広軌」と呼ばれるものもあります。

どの線路幅にするかは、それぞれの路線の地理上の特性や鉄道会社の財政状況によって決められるのですが、総じて、幅が広いほど安定した高速走行が可能で、車内もゆったりとしているのに対して、狭いほど小回りが利くカーブの多い路線に向いていて、トンネルや橋の規模が小さくなる分、建設費は安上がりになる、ということが挙げられます。

JRの各路線は、新幹線およびミニ新幹線標準軌である以外は、すべて狭軌です。これに対して私鉄は様々なのですが、関西には標準軌を採用する会社が多いのに対して、関東では狭軌で列車を走らせているところが多いようです。そして、当たり前のことですが、ゲージが異なるところを一台の列車が直通することはできず、乗り換え等の対応が必要になります。(フリー・ゲージ・トレインという方式も研究されていますが、技術的にかなり困難らしく、今のところ実現していません。)

近鉄の場合、現在は南大阪線大阪阿部野橋~吉野)が狭軌である以外は、ほとんどが標準軌です。しかし、1950年代半ばまでは、異なる会社が合併した弊害で、もっとばらばらでした。特に問題となったのが、名古屋線近鉄名古屋~伊勢中川)が狭軌であったことです。このことによって、名古屋から大阪への乗り換えなしの直通特急を走らせることができませんでした。新幹線がまだない時代、もしこの路線を実現できれば、国鉄から多くの乗客を奪うことができるのに・・・と当時の近鉄関係者は歯ぎしりしていたそうです。

そんななか、1959年9月、伊勢湾台風が日本列島を襲い、大きな被害が出てしまいました。死者・行方不明者合計5000名にのぼるこの台風の被害は、近鉄にも大打撃となったのです。つまり、名古屋側の海抜の低い多くの地域で線路が水没し、また橋脚が流されるなどしてしまったのです。その被害額がいかに甚大なものであったのかは想像に難くありません。

しかし、当時の佐伯勇社長は、めげない人でした。どうせ復旧工事をしなければならないのなら、いっそのこと、この機会に名古屋から伊勢中川までをすべて標準軌に作り直して、悲願であった名阪特急を実現させよう、と社内に大号令をかけたのです。そして、なんとわずか3か月ほどで、この大工事を完了させてしまったのです。現代だったら、「そんな突貫工事をして大丈夫なのか?」と問われるところかもしれませんが、当時はそういったことには社会は比較的無頓着で、この決断、行動力は絶賛されたのです。

なお、東海道新幹線が1964年に開通してからは、近鉄の有利さはかなり失われてしまいましたが、大阪市の南部の中心であるミナミまで名古屋から乗り換えなしで行けること、そして料金がJRよりもかなり安いこと、かなり贅沢なつくりの車両を投入していること等によって、この区間を利用する人は、今でもかなり多いのです。ちなみに、名古屋から大阪難波までの所要時間は2時間10~20分です。新幹線を利用すれば、30分以上短縮できますが、新大阪駅での乗り換えが必要なことに加え、そこからは大阪メトロ御堂筋線という非常に混雑した路線を利用しなければならないことを考えると、ミナミへ行くのなら近鉄特急、と考える人が多いことは十分に理解できます。

伊勢湾台風などという大規模な自然災害を予想し、あるいはこれに備えることには限界があります。ある程度の被害が出てしまうのは止むを得ないことかもしれません。ただ、それを単なるピンチと考え、その対応に追われるのではなく、次へのステップを踏み出すチャンスと捉えることができる人は、未来を自分の手で切り拓いていく力を持っている人、と言うことができるのでしょうね。色々と厄介なことが起きる現代社会こそ、そんな人(あるいはリーダー)が必要であると思います。

 

今回も最後まで読んでいただき、まことにありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常104 京都国際写真祭に行ってきました

こんにちは。

 

今回は少しGWらしい、というか、まだこれといった予定がない方の参考になるかもしれない情報を。

京都では5月8日(日)までの会期で、「京都国際写真祭」(京都グラフィ)が開かれています。10年前から始まったこのイベント、そのホームページには、「日本および海外の重要作品や貴重な写真コレクションを、趣のある歴史的建造物やモダンな近現代建築の空間に展開し、ときに伝統工芸職人や最先端テクノロジーとのコラボレーションも実現するなど、京都ならではの特徴ある写真祭を目指します。」と書かれていますが、要するに、最新の感覚に基づく写真家たちの作品を、京都の伝統的な建物 ―寺院、町屋、大正時代の銀行等―  に展示する、というのが主な内容です。今年は市内10か所で開催されていて、その中には、商店街そのものが会場になっている所もあります。言ってみれば、「伝統と革新の融合」ということになるのですが、実際に鑑賞していくと、それほど単純な図式ではないことがすぐにわかります。 西洋で生まれた写真芸術の中でも、とくに革新的なもの、斬新なものは、決して日本の伝統に寄り添おうとはしません。むしろ対立的なコンセプトではないか、と思われるものもたくさんあります。しかし、そこに生まれる緊張感と衝突こそが、新たな感覚を呼び起こさせるきっかけとなっているのです。

なかにはとても刺激的、というか斬新を超えて突飛とも言える作品もあります。

下の写真を見て、なんだかおわかりでしょうか?


これは200年以上続く帯問屋さんの会場で見たものですが、真ん中の球体は人間の頭で、実は、この店のご主人です。写真家の要求に従って泥の中に頭ごと突っ込んで、そこから顔を出したところを後ろから撮った写真なのです。しかも、それを、伝統的な手法で、細かく裁断して糸にして、帯として織りあげたのがこれなのです。

「こんな帯、誰が締めるんだ???」という素朴な疑問も湧きますが、そんなことはおかまいなしに、とにかくこれまでの「何か」を打ち破り、壊していこうとする意図がはっきりと感じられます。にもかかわらず、帯をつくる手法そのものはきちんと伝統にのっとっているのがが面白いですね。

京都という町は、保守的という一般的なイメージとは裏腹に、案外革新的なことが好きで、昔からこういった「遊び」をおもしろがり、受け入れてきた町です。京都観光を考えておられる方は、こんな側面もあることを頭の隅に置いておくと、街中を散策するときのモノの見方が少し変わるかもしれません。

 

京都国際写真祭 https://www.kyotographie.jp/about/

 

下のネコ君は作品ではありません。(笑) 会場入り口付近にいたのですが、あまりにもサマになっていたので、思わず写真を撮ってしまいました。

 

皆さん

、よい連休をお過ごしください。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常103 今に生きるタイタニック号の教訓

こんにちは。

 

2022年も3分の1が終わりGWが始まりましたね。ニュースを見ている限り、昨年よりはかなり人出が多いようですが、コロナ第6波がまだ十分に収まったと言える状況ではないので、この後が若干心配になります。まあ、皆さん、そんなことはわかっていながら、束の間の連休を享受しよう、と言うことでしょうね。それはそれで、アリだと思います。

 

さて、GWにはあまりふさわしくない話題ですが、前回に続き、海難事故から考えさせられたことについて、少し書いていこうと思います。

史上最悪の海難事故と言えば、誰もが知っているタイタニック号の遭難事故が挙げられるでしょう。当時世界最大の規模を誇るとも言われたこの豪華客船は、1912年4月にイギリス・サウサンプトンからアメリカ合衆国・ニューヨークに向けて航海中の4日目に、北大西洋で巨大氷山と衝突し、わずか2時間40分後にはあえなく沈没してしまいました。犠牲者数は1,513人にのぼり、無事生還したのは710人だったそうです。

この事故については、レオナルド・デカプリオ主演の映画が大ヒットしましたので、よくご存じの方も多いと思いますが、色々と裏話もあるようです。とくに近年囁かれているのは、これが「仕組まれた事故」だったという説です。

理由は、二つ挙げられています。第一に、当時、同じ船会社が所有していた大規模客船「オリンピック号」があったのですが、これが既に数回事故を起こしていて、近い将来廃船にするしかない運命だったのです。しかし、それでは保険金が十分に出ない、ということで、修理用ドックで新造船であるタイタニックと入れ替えた、というのです。ちなみに両船は瓜二つに作られていたそうです。真新しいタイタニック号が沈没したことにすれば、保険金の額はケタ違いになる、ということで、オリンピック号はその犠牲にされたというのがひとつの説です。

もうひとつは、当時この船の所有者であったJ.P.モルガン(アメリカのビジネス史を少しでもかじったことのある人なら、誰でも知っている名前です。)が、自分のビジネス上のライバルたちを船に招待したうえで、自分は土壇場になって乗船をキャンセルし、結果的に、ライバルたちを海に沈めた、というものです。

これらの説については、状況証拠がいくつかあげられているものの、確証を得るところまでには至っていません。また、110年も経った現在、それを暴いても、あまり大きな意味はないかもしれません。

それよりも注目しておきたいのは、乗員、乗客のほとんどが「こんな大きな船が沈むなんて。・・・まさか・・・」と思っていたようだ、という事実です。少なくとも、氷山と衝突してしばらくの間は、さほどの危機感を抱かなかった人が多数にのぼるようです。

まあ、無理もないのかもしれません。巨大客船だから、沈むなどとは考えにくいし、万が一事故があっても、避難のための備えはちゃんとしているだろう、と考えてしまうのが通常の感覚かもしれません。しかし、実際には救命ボートの数がまったく足りていないなど、設備面でも大きな不備があり、乗員たちが不慣れだったこともあって、被害が大きくなってしまったのです。

この事故から私達が学ばなければならないのは、「安心しきってしまう」ことの怖さでしょう。めったなことは起きない、と思っていても、ごく稀にであっても起きてしまうのが事故というものです。企業や組織については、よく「危機管理意識の欠如」ということが叫ばれますが、翻って自分自身のことを考えてみると、日頃からどれだけ危機意識をもって生活しているか、というと自信がなくなってきてしまいます。

危機意識と言うのは、結局のところ、想像力を豊かにすることによって生まれてくるものだろうと思います。つまり、これを磨くことこそが、危機管理を高いレベルにしていくもっとも有効な方法なのです。

ただ、想像力というやつは、ぼんやりしているだけでは生まれませんし、ルーティン・ワークに忙殺されるだけの日々を送っていても磨けません。

では、どうすればよいのか?

答えはひとつだけではないでしょうし、ヒトによって異なってくるはずです。ただ、共通して言えることは、意識して、なるべく自分の視野を広げていくことではないでしょうか。それが、たとえ今の生活や仕事に直接関係のないことであっても、あるいは、人生の最後まで何の役にも立たないことであっても、視野、あるいは関心の範囲を広げていくことは、決して無駄にはならないと思います。

大きな事故や事件が起きるたびに感じることですが、加害者や責任者を責めているだけでは、そこからは何も生まれない、と思っています。責任の所在をはっきりさせないといけないのは当然のことですが。

 

今回は、最後なんだか説教臭くなってしまって申し訳ありません。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常102 「命を預けるー命を預かる」ということ

こんにちは。

 

最近、我が家の近くは、小鳥たちが朝からさえずっていて、その鳴き声で起きることも、しばしばです。どこにいるのかな、と思って窓の外を見てみると、すぐ近くの電柱のてっぺんに止まっていたりして、街の中にもかかわらず、ちょっとした自然の営みを感じます。今の時期は、木々の緑もだんだんと勢いを増してきていますし、一年の中でもっとも生命力あふれた時期ですね。

そんな中ですが、またまた悲惨な事故を報じるニュースが流れています。皆さんご存じのように、北海道知床半島で、観光船が沈没し、乗客と乗組員合計26人のうち、約半数の死亡が確認され、残りの方々もいまだに消息が判明していない、ということです。

知床半島は、人間が足を踏み入れられるのは途中までで、その先は船に乗って海の上から観光するしかありません。ただ、クマやシカ等自然の姿を観察できる機会は多いようですし、直接海に落ちる珍しい滝があったりして、非常に人気の高いところです。私も随分以前から行きたいと思いつつ、いまだに実現できていないスポットです。北海道でも端にあるので、けっこう遠いんですよね。網走までは2回行ったことがあるんですけど。

さて、4月の北海道の海は、まだまだ冬の様相を呈していて、水温はかなり低いですし、しばしば荒れ模様になります。このあたりの桜の見ごろは、例年、ゴールデン・ウィークあるいはそれを過ぎてからということのようなので、季節感はだいたいわかります。

そんな感じですから、冬の間休業していた観光船をいつから再開するのかは難しいところであるのはたしかです。どの船会社もゴールデン・ウィークには間に合わせたいという点では共通しているでしょうが、それをいつまで前倒しするのかは、結局それぞれの会社の判断にならざるを得ないのかもしれません。そして、観光客は「船会社が大丈夫だと判断しているのだから、まさか事故になるようなことはないだろう。」と思って、乗船するわけです。

しかし、今回はまったく大丈夫ではなかったわけです。しかも、ウトロ港(知床観光の拠点)周辺の人々が「今日は危ないから出港しない方がよい」と進言していたにもかかわらず、船は出てしまったのです。現時点で会社側の法的責任ははっきりしていませんが、船の準備をしながら、切符を発券して、客を桟橋に誘導し、乗船させる、ということがすべて船長の独断でできるわけはありませんので、会社としての責任、そして今回のことにかかわった複数の社員の共同責任ということを免れることはできないでしょう。もちろん、事故を起こした第一責任者は船長ということになりますが。

誰に責任があるのかは、いずれ明らかにされるでしょうから、ここではさて置くとして、大事なのは「なんとかなるだろう。」という甘い判断があり、万が一に備えての体制が不十分だったことです。これでは、はっきり言ってプロと失格です。プロとは、船を巧みに操る、ということや狭い意味での「客の満足」をめざす、といったことを指すのではありません。それと同様に、あるいはそれ以上に重要なのが、人の命を預かるプロ、という意識なのです。

もちろん、これは観光船に限った事ではなく、あらゆる交通機関に従事している人々とその運営会社に共通することです。去る4月25日はJR福知山線(愛称は宝塚線)で脱線事故があり、107人もの方が犠牲になってからちょうど17年にあたります。この場合は、ほぼ並行して走る阪急電鉄宝塚線とのスピード競争が過熱しすぎて、1分の遅れも許されないという強迫観念にさらされた運転手によるスピードの出しすぎが直接的な原因とされていますが、会社側に乗客サービスというものを狭く捉え過ぎて、運行上の安全こそが最優先されるべきだという考えが欠如していたことが、その根幹にあるのです。そういう意味ではやはり人の命を預かる者(会社)としてのプロとして猛省しなければならない事故だったのです。

ただ、運用・運営する側に「命を預かる」という意識が大事なのと同時に、私達にももう少し「命を預ける」という意識が必要なのかもしれません。例えば、私達が病院に行くとき、医師や看護師の指示や判断が適切でなかったら命にかかわってしまう、ということをよく知っていますから、彼らの話はしっかり聞き、理解このブログでも、何度も書いてきましたが、疑問点があれば遠慮なく尋ねるべきですし、必要に応じて、セカンド・オピニオンを求めることも大事です。「自分の命にかかわることなのですから、当然ですよね。「命を預けるー預かる」という関係であるという点では、病院も交通機関も同じわけですから、少なくとも同程度の意識を、私達利用者・顧客側も持った方がよいような気がするのです。

私は、今回の知床での事故が「危険かもしれないのに、乗った方も乗った方だろう」と言いたいわけではありません。ただ、もしも「せっかく遠くまで来たのに・・知床なんて次にいつ来れるかわからない。。。」といった声が聞こえてくれば、会社側も、多少無理してでもこれに応じようとするかもしれません。そういった言い訳を会社側にさせないためにも、私達は「モノ言う顧客」」(やたらとクレームを持ち込むという意味ではありません)でなければならないのです。

繰り返しますが、今回のことで、乗客側には何の責任もありません。ただ、「他人に命を預ける」とはどういうことなのか、きちんと考えることによって、私達が「賢い顧客」になっていくことが、サービスを提供する側の意識を高めさせることにつながるのではないか、と考える次第です。

 

今回の事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、たとえわずかでも生存されている方がいらっしゃることを祈ってやみません。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常101 米寿と虎屋のようかん

こんにちは。

 

あと一週間でゴールデン・ウィークですね。皆さんは、何か計画を立てておられるでしょうか。新幹線や飛行機の予約状況は、昨年よりはかなりマシになっているようですが、それでもコロナ前に比べると、まだまだ低調のようですね。まあ、感染状況を見てから決めようと思っていた方も多いでしょうから、これからもう少し予約が入るのかもしれません。ただ、いずれにせよ例年よりは近場の旅行が増えるのは仕方ないかもしれませんね。早く、日本が元の姿に戻るといいのですが・・・でも、どこへ行っても人だらけ、という連休も、それはそれであまり歓迎したくはありません。むずかしいところですね。

 

ところで、大変私的なことで申し訳ありませんが、先日、母が無事米寿を迎えました。米寿の祝いは、室町時代に生まれた日本独特の風習だそうですが、365日×88=32120日という日数の重みは半端なものではありません。その一日一日に彼女の想いが詰まっており、その積み重ねの上に今日という日があるわけですから、よく考えると、すごいことです。

日本は高齢化社会を迎え、85歳以上の方が男女合わせて既に65万人以上にものぼっています。この人達のほとんどはいわゆる労働力人口とは見なされないため、ともすれば、その比率がどんどん大きくなることを単純に日本の将来に向けてのマイナス要素とみなしてしまう傾向があります。たしかに、GDPの上昇には寄与しないかもしれませんし、社会保障費の増加要因としては大きな問題であることは事実です。しかし、そうした経済的な側面だけに目を奪われるのではなく、この人達の積み上げてきた有形無形のモノを貴重な資産と捉え、それをもっと活かした社会形成という考え方が広まると良いのにな、と思います。

また、年齢を重ねても、なお色々と新しいことにチャレンジしている方がたくさんいらっしゃることも、単に「高齢者のわりにはすごいね」というのではなく、年齢というものを超越したライフスタイルとして、見ていくべきではないでしょうか。

ちなみに、母は今でも日本画を習い、一年に一枚はかなり大きな絵を仕上げています。

 

そんなわけで、先日の誕生日にはちょっとしたサプライズのプレゼントを用意しました。

京都に虎屋という和菓子屋さんがあります。創業は室町時代後期で、現当主は17代目にあたるそうですから、老舗の多い京都でも指折りの歴史を持つ店でしょう。こちらの商品、とくにようかんは、長年にわたっていわゆる「皇室御用達」を務め、皇室だけではなく日本の上流階級に幅広く重用されたようで、明治の世になって天皇が東京に移られた時には、一緒に本店を東京に移したほどです。ただ、今でも京都の人々は「虎屋は京都の店だ」という誇りをもっており、京都御所のすぐそばに、こじんまりとはしていますが、とても上品で格式の高さをうかがわせる店を構えています。

この虎屋さん、あまり知られてはいないのですが、オートクチュールという特注品を扱っています。客側の要望に沿ったデザインで、羊羹をベースにした世界にひとつしかない和菓子を作ってくれるのです。そこで、昨年、母が描いて、ある展覧会で入選した絵を元にして、一辺が13cm程度の和菓子に仕立ててもらったのです。

実物は、下の写真の通りですが、思っていた以上の出来で、虎屋さんの技術の高さに驚かされました。そして母は、自分の絵を元にした、ということで、大変喜び、何度も「食べるのがもったいない」と言っておりました。まあ、そう言いながら、写真を撮り終わると、あっという間に包丁を入れていましたが・・・(笑)

虎屋さんの作った菓子

菓子のデザインの元になった母の絵



大切な方への贈り物として、このような一点物を選ぶのも悪くないですね。

ちなみに、お値段ですが、もちろん格安ではありませんが、おそらく皆さんが想像しているよりは、かなりリーズナブルだと思います。実際にオーダーするためには、職人さんとの打ち合わせ等も必要になるので、遠方の方にはちょっと難しいかもしれませんが。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常100 鉄道に未来はあるのか?

こんにちは。

 

タイトルにありますように、今回の投稿のナンバリングが100となりました。とは言っても、実はこれが103本目の投稿となります。最初の挨拶にあたる00があるのに加え、カウント間違いで16と36がそれぞれ重複してしまっているからです。(これは既に修正済みです。)いずれにせよ、拙い、そしてしばしば長ったらしい文章をいつも読んでくださりありがとうございます。

 

さて、実は私は子供の頃から鉄道にかなり興味を持っています。いわゆる「鉄オタ」というほどではありませんし、やたらにお金と時間がかかる「乗り鉄」でもなければ、線路内に無断で入ったりして迷惑をかけている「撮り鉄」でもありません。ではどのような志向なのか、というと「時刻表好き」なのです。「乗換案内」等のアプリが普及した現在は、時刻表を使う人はかなり減ってしまいましたし、私自身もほとんど手にすることはなくなりましたが、小学生・中学生の頃は時刻表1冊あれば、一日中でもそれを眺めて、自分だけの妄想旅行の世界に入っていけたものでした。安上がりの趣味ですね。

意外に思う人もいるかもしれませんが、あの当時、鉄道弘済会日本交通公社という2社から毎月発行される時刻表は、日本におけるすべての雑誌売り上げのトップを競っていたものです。ちなみに、旧国鉄時代には数回、全国の鉄道網に及ぶ大規模なダイヤ改正(白紙改正、と言います。)が行われたのですが、その月の時刻表は、今でも大変人気があり、復刻版が電子書籍で発行されているぐらいですから、鉄道ファンの数というのはあなどれないものなのです。昭和36年(1961年)10月と昭和43年(1968年)10月に行われたダイヤ改正(それぞれ「サンロクトオ」、「ヨンサントオ」という俗称が現在も残っているぐらい大規模なダイヤ改正でした。)に関する時刻表はとくに人気があるようです。

そんな私にとってけっこうショッキングなニュースが先日流れてきました。それは、JR西日本が極端に採算の悪化している17路線区の収支状況を公表し、「このままではJR西日本の経営努力だけで路線を維持するのは難しくなる。沿線自治体との協議を行っていく。」と。発表したのです。例えば、中国山地の山間を走る芸備線東条~備後落合間における2019年度の輸送密度(1キロあたりの1日平均輸送人員)は11に過ぎません。また同区間の営業係数(100円を稼ぐために費用がいくら必要かを示す数字)は25416、つまり100円の収入に2万5416円を要する計算になります。これでは、民間企業としては「やってられない」となるのは当然かもしれません。この数字そのものを検討するのが今回の目的ではありませんので、詳細は割愛しますが、ワースト10を見ると、山陰地方にこれに該当する路線区間が多いことがよくわかります。

JR西日本でとくに採算が悪化している路線区


国鉄からJRに経営が移管する以前から、極端な赤字路線に関して廃止あるいは第三セクターへの転換がかなりの数行われてきました。とくに北海道では、全盛時に比べて見る影もない、と表現したくなるぐらい、路線数が減ってしまいました。つまり、今回の問題は、これまでにもしばしば浮上してきたことなのです。日本の公共交通における鉄道の役割はどんどん小さくなってきたのです。鉄道ファンとしては寂しいことですが、道路網の整備等を考慮すると、止むを得ないことなのかもしれません。なお、山陰地方でこれまで路線が維持されてきたのは、代替交通機関の整備が困難である等との理由によるものだったのです。

しかし、コロナ禍の影響で、これまで「稼ぎ手」とされてきた大都市近郊路線や新幹線さえも乗客数が減っており、民間企業であるJR西日本としては、公共交通の維持という社会的使命を認識しつつも、「背に腹は代えられない」ということが上記の発表につながったのです。ちなみに、JR西日本の大株主は、ほとんど銀行や投資会社等であり、企業の社会的役割よりも経営の健全化を優先しようとするのも、これまたやむを得ないと言えるのかもしれません。

ただ、JR側はこれらの数字を即廃止等に結びつけようとしているわけではないようです。記者会見での社長の発言を聞く限り、あくまで単独での努力だけでは困難なので、関係者等との議論の出発点としたい、ということのようなのです。

これまでの経緯や現状を踏まえると、最悪の場合、不採算路線を順次廃止するという選択肢も現実味を帯びてくるかもしれません。大変残念なことなのですが、ここではそういった個人的感情は抑えて、私なりに鉄道そして駅の役割やそれがもたらす地域へのプラスの効果を考えてみたいと思います。

鉄道を単なる輸送機関と捉えれば、代替措置としてバスを走らせることで問題は解決します。いや、バスの方が小回りが利くし、必要に応じて停留所の数を増やすことができる、という点では、その方が良いという判断もあり得ます。管理費用もかなり抑えられます。バスの欠点としては、鉄道に比べて一度に輸送できる人数が少ないこと、そして道路状況や天候によっては定時運行が維持しにくい時がある、といった点でしょうか。これらをどのように判断するのかは、それぞれの地域の事情にもよりますから、一概に結論を出すことはできません。

他方、駅というものの役割についても考えなければいけません。鉄道の駅には、きちんと列車が走り、そこそこの需要があれば、多くの人が集まってきます。すると、そこにはそうしたお客さんを目当てにした店が並ぶようになるでしょう。最近は、JR自身が「駅ナカビジネス」に積極的になっているぐらいです。また、乗客同士あるいは乗客と駅周辺に住む人々との交流も生まれる可能性があります。つまり、駅というものは、単に列車が停車して人が乗り降りするだけではなく、それらの人人々行き来することから様々な可能性を生み出すものでもあるのです。言い換えれば、その地域における大事な拠点となりうるのです。ですから、これをうまく活用できれば、それを起爆剤あるいは核として、地域における「街づくり」が進むかもしれないのです。

ただ、そのためには様々な工夫が必要ですし、それをJRの努力だけに期待することは難しいでしょう。だからこそ、鉄道会社と地域自治体等との綿密な協議が必要であり、それは単なる「乗客数増加策」の検討に留まってはいけないのです。

将来的に、どの程度鉄道というものの必要性が残っていくのか、私にもよくわかりません。しかし、例えば貨物輸送の分野ではモーダル・シフト(トラック等の自動車で行われている貨物輸送を環境負荷の小さい鉄道や船舶の利用へと転換すること)が注目されるなど、その役割や価値が見直される動きもあります。

関係者の皆さんには、目の前にある数字だけに振り回されずに、これからの日本社会あるいは地域社会をどのように作り直していくのか、という幅広い観点から議論をしていただきたいものです。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常99 2022年4月現在の近況報告です

こんにちは。

 

相変わらず、夏を思わせるような天気になったり、逆に一ヶ月ほど季節が戻ったような寒い風が吹いたり、という不順な天候ですね。それに加えて、花粉やらPM2.5やらも飛んでいるようです。私は花粉症ではないのですが、白内障の手術をしてさほど日数が経っていない身としては、目をごしごしとこするわけにもいかず、時々往生しています。

 

さて、このブログでは時々私自身の病状等についてもご報告していますので、今回はそんな感じで。

お伝えしてきたように、通常の通院による治療・診察に加えて、両目の白内障の手術を受けたことにより、2月、3月はかなり「病院通い」が忙しかったです。いちばんあわただしいときは、一週間に4日も何らかの形で通院しました。また、一日のうちに、「はしご」をした時もあったのです。

しかし、ようやくピークは過ぎ、4月に入ってからは少しゆとりが出てきています。眼科には、手術後のチェックのため、もうしばらくは通わなくてはならないようですが、よほどのことがない限り、治療はありませんので、かなり気楽です。ただ、まだ両目をバランスよく使うのに十分慣れておらず、時々モノがゆがんで見えることがあります。これは慣れるしかないみたいですね。

それから、多発性骨髄腫の治療ですが、ダラキューロは第9クールに入り、通院と治療は4週間に一度だけになりました。これまでは、ほぼ毎週通院していましたので、ずいぶん楽です。治療のたびに、かなり強い薬を注射していましたので、その副作用よる体調変化があるのですが、これも1週間に一度から4週間に一度になったわけで、これは大変ありがたいことです。まあ、体調変化と言っても、私の場合は、胃腸の動きが鈍くなり、これにともなって食欲がやや低下する、というか、食事量を自主的に抑える、という程度のもので、比較的軽い状況が続いています。ただ、ネットの書き込み等を見ていると、薬の副作用にはかなり個人差があり、ひどい場合は、数日寝込んでしまうような人もおられるようです。病院側としては、あまりひどい場合は薬を代える、ということぐらいしか対処法がないようです。そういう話を見聞きしていると、自分はラッキーだったな、と思います。

がんの治療と言えば、がん患者の5人に1人が、コロナの影響で、これまでの治療を変更したり、中止したりせざるを得なくなっているそうです。(がん患者の就労を支援する団体である「CSRプロジェクト」による調査)この2年間、医療機関や医療関係者をめぐる状況も非常に厳しくなっていますので、止むを得ないことではあるのですが、むずかしい問題ですね。たいていの抗がん剤は免疫力低下をもたらしてしまいますので、院内感染や通院途中での感染等のリスクも高まってしまいます。

ただ逆に言えば、こうした人達はこれまで通りの治療を是が非でも続けなければならない、という悪い状況ではない、ということです。つまり、しばらくの間なら代替措置を取ったり、治療そのものを中止したりしても、すぐに生命の危機に瀕する、というような状況ではないのです。現在のがん治療が、一般にイメージされているよりもかなり進化して、「がんと共に生きる」ことができる患者が増えているということの証左で、これは少し喜ぶべきことなのかもしれません。ただ、こういう状況がこれ以上長期間続いてしまうと、根本的な対策が必要になるのかもしれません。

また、他の問題もあります。例えば多発性骨髄腫に関して言えば、武田薬品のニンラーロという治療薬はロシアで製造しているそうで、ウクライナへのロシアの対応次第では、今後、製造や日本への安定供給が難しくなってくる可能性があるそうです。やはり、戦争というものは、思わぬところで私達の生活に影響を及ぼすものです。

 

そんなわけで、今回は単なる近況報告とそれに関連する話に終始してしまい、失礼しました。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常98 改めて思う、イチロー選手の凄さ

こんにちは。

 

春はすっかり本番となり、さまざまな場面での「新スタート」に関するニュースが日々流れています。こういったニュースは、輝きに満ちた未来を見据えたもので、希望に溢れていて、気持ちがいいですね。最近は暗いニュースばかり流れることが多いので、何度かほっとします。

ちなみに、私が以前勤務していた大学でも。新学長が就任し、入学式では、さっそく新入生たちに3つの「学ぶためのヒント」を話したそうです。それは、第一に「人との出会いを大

切にしよう」、第二に「自分で考えてみよう」、そして第三に「他流試合をしよう」だそうです。まあ、社会人の立場からすれば、いずれも当たり前のこと、というか言うまでもないことかもしれませんが、知らず知らずの間に視野が狭くなりがちな受験勉強をくぐり抜けた若者たちにとっては、新生活を始めるにあたって、大事な心構えですね。

また、これらは「学ぶ」ためだけではあなく、自分なりに「生活設計、人生設計をする」ために必ず必要なことだと思います。その観点から、もうひとつ私なりに言えることがあるとしたら、「自分の価値基準は自分で作ろう」ということになります。

 それはどういう意味か?

 わかりやすい例をひとつ出しましょう。野球の話になります。

 ちょうどアメリカではMLB(メジャー・リーグ・ベースボール)も開幕しました。大谷翔平選手をはじめ、何人かの日本人選手がアメリカの球団に在籍していますので、マスコミではかなり大きく扱っていますし、野球には興味のない方も、大谷選手のことはたいていご存じでしょう。

 もちろん彼の実績や存在感は否定するべくもないのですが、今回取り上げたいのは既に引退したイチロー選手のことです。彼のこともまた、「名前も聴いたことがない」という方は皆無でしょうが、少しだけ詳しく説明しましょう。

 彼が、高校を卒業して、日本のプロ野球オリックス・ブルーウェーブに入団したのは1992年。頭角を現したのは3年目からで、この年に一軍レギュラーの座をつかんでいます。その後2000年まで毎年のように数々のタイトルを獲得するなど活躍し、翌2001年からはMLBに移籍して、そこでも周囲が、いや、すべての野球ファンが驚くような実績を残して見せたのです。

少し関心のある方ならご存じでしょうが、野球の打撃に関する主要な指標としてよく使われるのが、年間の打率、ホームラン数、打点数の3つです。イチロー選手はいわゆるホームラン・バッターではなく、主にトップ・バッタでしたので、打点数もさほど多いわけではありません。しかし打率に関しては、日米双方で、誰も真似できないような数字を残しています。日本では8年連続で3割以上、アメリカではなんと10年連続で3割以上の打率を残しているのです。こんな選手は滅多にいません。

しかし、彼が目指していた数字は打率ではありませんでした。彼が最後までこだわり続けたのは、年間の安打数だったのです。つまり、少し打てないとし数字が下がってしまう打率ではなく、きちんと努力していれば数字を積み重ねることができる安打数にこそ、自分の仕事の価値基準を見出していたのです。

さまざまなデータによって選手の力量が語られるプロ野球のことですが、当時、安打数はさほど注目される数字ではありませんでした。もちろん、年間最多安打はタイトルのひとつにはなっていましたし、生涯通産安打数は張本勲選手(少し前まで、日曜朝の関口宏さん司会の番組で『喝!』とやっていた人ですね。)が3000本という金字塔を立てていたことは知られていましたが、先に挙げた3つの数字に比べると、どうしても地味に思われてしまい、注目度も低かったのです。

イチロー選手の凄いところは、自分が安打数にこだわるということをかなり早い段階から公言し、それを実践していたこと、そして、自身への注目を引き付けることによって、次第にその価値を野球界全体に認めさせていったことです。

もちろん、これを実現するために、彼はさ、さまざまな努力を重ねています。例えば、アメリカに渡った時には、MLBのピッチャーに対応するために、バッティング・フォームを改造しています。また、注目を集めるために、マスコミにも積極的に登場しています。一度など、大ヒットしたテレビ・ドラマ「古畑任三郎」のスペシャル版に、犯人役として、つまり準主役として、出演しています。テレビCMには今でも時々出ていますね。

彼が旧来のモノの見方にとらわれていたら、あのような活躍はできなかったのかもしれません。自分の価値基準は自分で決める。そして、決めたからにはその価値基準に照らして満足のいくような活躍ができるように、自分を磨く。彼には、そういった強い信念があったのだと思います。

ひとつの組織の中で仕事をしていると、なかなかこのような働き方は難しい、と感じる方も多いかもしれません。しかし、日常的に仕事をこなす中でも、必ず何かしらの「自分なりの目標」「自分なりの価値」を見出すことは不可能ではないはずです。そして、そのことが、自分のキャリアを形成していくことの大きな支柱になると私は考えます。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常97 ロシア料理店「キエフ」

こんにちは。

 

すっかり春らしい陽気になってきましたね。というか、日中は少し汗ばむような気温の上がり方です。でも、朝晩はまだ冷え込むこともありますので、こんな時こそ、体調の変化には気をつけたいものです。オミクロン株は「BA2」が幅を利かせているようですし、さらには

新たな変異株「XE」が出てきているようなので、既にワクチンを接種していても、要注意ですね。

 

さて、ウクライナをめぐる状況は、やはり泥沼化の様相を呈しているようで、なかなか着地点を見出すことができません。最近は、ロシア軍の爆撃によるものとされる被害の実態が次々と明らかにされ、さらには、まるでナチスを思わせるような惨殺行為によって、大変多くの人が犠牲になったという報道も、ショッキングな画像と共に流れてきています。しかし他方で、ロシア側はこれをすべてフェイクであると主張し、国連等の公の場でも猛然と反論を繰り返している状況です。ロシア側に圧倒的に非があるというのが、日本に限らず、多くの国における一般的な見方ですが、他方、ウクライナが発信している情報について一切懐疑的になることなく、すべて信じてしまうのも、問題かもしれません。なにより、ロシアを「悪者」として批判し、制裁を加えようとするだけでは根本的な解決への道のりは遠いことを考えておく必要があります。私達は、こういう時だからこそ、どこまで客観的に物事を見ることができるのかが問われるのでしょうね。

そんななかで、ウクライナの首都名の日本語表記を「キエフ」から「キーウ」に変更することが政府によって決定され、マスコミの表記もあっという間に変わりました。もちろん、「ウクライナの都市名なのだから、ウクライナ語に即するべきだ」という主張は至極真っ当ですが、それならば、他の国名や都市名でこのようなこと(ねじれ現象)が起きていないのか、改めて検証する必要があると思います。人名もそうなのですが、基本的に、固有名詞はそれを名乗っている当事者が希望する発音に準じて読み仮名(カタカナ)がふられるべきなのです。

さて、そうした一般論はとりあえずさて置くとして、キエフがキーウに変わったことで戸惑っている方もいらっしゃいます。

京都に「キエフ」という名前のレストランがあります。開業は1972年。歌手の加藤登紀子さんのお父さんが立ち上げられた店で、ロシア料理の店として、関西では長い間親しまれてきました。キエフという店名は、1971年に京都市キエフ市が姉妹都市提携したことにちなんでいます。実は私はこの店、1970年代から知っていて、何回か家族で訪れたことがありました。キエフスキー(キエフ風カツレツ)とかペリメニ(ロシア風の茹で餃子)など、他ではお目にかかれない珍しいメニューがあったので、よく覚えています。その後、京都で合唱団に入っていたときには、時々そのメンバーと一緒にこの店を利用したこともあります。(今はなくなっていますが、一時はバーも経営されていて、そこにもよく行きました。)

ロシア料理とウクライナ料理というのは、それこそ兄弟のようなもので、ルーツが同じものもたくさんあるようです。例えば、ロシア料理の代表と思われているボルシチは、実はウクライナ発祥のようです。国境とは無関係に、この地域全体で文化交流が進んできたのですから、これは当然ですね。

そういうわけなので、この店は、ソ連崩壊とウクライナ独立以降も、ロシア料理の店として、変わることのない味を提供してきたのです。現在のオーナーは、登紀子さんのお兄さんですが、「国境で隔てられていても、この地域の総称としてのロシア料理だ」という意識で店を続けておられます。そして店のスタッフにも、ロシア出身の人とウクライナ出身の人が混在しているそうです。また、2014年のロシアによるクリミア侵攻後は、両方に友人のいるオーナーの「仲良くしてほしい」という強い思いを店名に込めてきたそうです。

今、この店のホームページを見ると「京都で本格的なロシア料理とウクライナ料理を味わえるお店です」という表記があります。これまでの経緯からすれば、本当はこのように両国名を併記するのは、本意ではないかもしれません。しかし、世の中の風潮は、「総称としてのロシア料理」という位置づけを許してくれないのかもしれません。ひょっとすると、「どうしてもロシア料理を出したいのなら、ロシアの地名を店名にしろ!」といった苦情や問い合わせが寄せられているかもしれません。それを抑えるには、こうした表現にするしかないのです。キーウという名称を使うかどうかも含めて、オーナーの悩み、苦しみはまだまだ続くのでしょう。

今、現地で起きていることと比較すれば、今回ご紹介したことはほんの些細なことです。しかし、ひとつの国が暴走することによる影響は、民間レベルの隅々にまで及んでしまうこと、そしてほとんどの人はこうした争いが一刻も早く終結し、地域を超えた交流が活発になる事を望んでいる、ということを、施政者には忘れてほしくないものです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常96 ドラマ「風のガーデン」をめぐって

こんにちは。

 

4月になり、さまざまな「切り替わり」が行われています。とくに成年年齢の18歳への切り下げは、今後色々と影響が出てきそうな気がします。長期的に注目しなくてはならないことでしょうが。とりあえずはしばらく様子見ということになるのでしょうか。

というわけで、当ブログはこれまでと変わることなく、淡々と進めていく予定ですのでよろしく。

早速ですが、前回の補足から。

白い巨塔」のテレビ・ドラマ化は1978年と書きましたが、それより以前に、まず1965年にラジオ・ドラマ化、そして翌1966年には映画化されています。主演はいずれも田宮二郎さんです。つまり、テレビ・ドラマ化以前から、かなり話題になっていた問題作として位置づけられていたのですね。だからこそ「白いシリーズ」では最終作品として、それこそ満を持する形で放映に至ったのです。

しかし1973年販「白い影」もこれに負けず劣らずの迫力を持った作品だったのです。原作が渡辺淳一さんですから、恋愛ものの色合いがどうしてもある程度は濃くなっていますが、何と言っても、脚本に倉本聰さんがかかわっているのです。(全話がそうだというわけではありませんが、序盤の1~5話、そして後半の12~14話、つまりもっとも重要な回が彼の脚本になっています。)そのためでしょうか。大変重いテーマを扱っているにもかかわらず、どこか柔らかい、そして静かな手触りのドラマとなっています。それはその他の回にも共通しています。さらに、そのテイストは、2001年版にも少なからず影響を及ぼしているようです。また、重要な部分でBGMとしてそっと流れるマーラー交響曲第5番第4楽章の旋律が、大変印象的です。

ところで、倉本聰脚本のドラマと言えば、誰でもすぐに思い浮かべるのが「北の国から」でしょう。でも、今回ご紹介したいのは2008年に放映された「風のガーデン」です。このドラマは、緒形拳さんの遺作になったということでも話題になりましたが、「白い影」と同様、主人公である医師ががん(このドラマではすい臓がん)に罹患し、肉体と精神をだんだんと蝕まれていく、というドラマです。ここでの主人公(中井貴一さん)は大病院の中では私達患者から見て比較的地味とも思える麻酔科医の医師ですが、普段はとても明るく、学生向けの講義は常に笑い声が絶えない、という華やかな存在です。しかし、彼の身体に暗い影が差していることは初回で既に明らかになっています。このドラマは、単なる医療ドラマでも、あるいはがんという病気をテーマにしたドラマでもありません。話は、不倫、家族崩壊、知的障害、在宅医療など、とても暗く重いテーマを背景に進んでいきます。また、北海道の自然とガーデニング花言葉(といっても緒形拳さん演じる老医師が自分勝手に作って悦に入っている代物ですが)、よさこいソーラン生前葬などといった話題も挿入され、全11回がそれこそあっという間に過ぎていきます。そして何よりも光るのが、主演の中井貴一さん、そして知的障害の青年という難しい役を見事にこなしている神木隆之介さんの演技力です。とくに、身体が衰えてからの主人公の姿は、本当にリアリティ溢れるものだと思います。

それから、もうひとつこのドラマで見逃さないのが主題曲、挿入曲を歌った平原綾香さん。曲は、ショパンノクターン第20番を元にしたものですが、これに英語および日本語の歌詞をつけ、見事に彼女自身のオリジナルな作品に仕上げています。また、このドラマで、彼女は主人公の現在の恋人役を演じているのですが、これもなかなかのものです。おそらく中井貴一さんの的確なアドバイスがあったのでしょうね。

それにしても、医療現場や医師を取り上げたドラマや映画は、本当に数が多いです。病気そのものについての勉強や病院の内部事情についての取材などが重要となる難しいテーマなのに、これを取り上げようとする監督や演出家が多いのはなぜでしょうか。それはおそらく、「ヒトの命に直接かかわる」ことを取り上げるからこそ、視聴者に響きやすい、ということなのでしょう。そして患者が医師自身である場合、その人間性がむき出しになっていく分、余計に私達はそこに様々に入り乱れた感情を抱くことになります。病気に罹患するという経験は、性別にも、年齢にも、そしてもちろん職業等にも関係なく、誰にでも訪れる可能性があるものです。そしてその時、人はどのように振舞ってしまうのか、また、どのように振舞っていくべきなのか・・・本当のところは、実際に病気にかかってみないとリアリティをもって考えることはできないでしょうが、ご紹介したドラマ等をそのひとつの機会にすることはできるのかな、と思う次第です。

 

最後にちょっと変わった写真を一枚。

今朝気がついたのですが、我が家(マンションの6階)のベランダの片隅で、なんと雑草が花を咲かせていました。ここは、ちょうどベランダの角にあたるため、土が溜まりやすいのですが、それにしても、種子が飛んできて、芽吹き、花を咲かせるまでに成長するとは、驚きを通り越して、感心してしまいます。残念ながら花の名前はわからないのですが、その強い生命力には脱帽です。

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今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常95 ドラマ「白い影」をめぐって

こんにちは。

 

あっという間に3月が終わろうとしています。今年はどんな年になるのだろう、と思いながら年始を迎えてから3か月。まさか、こんなに深刻な戦争が起きるとは思ってもいませんでした。毎日ニュースを見ながら、とにかく、とりあえず一刻も早く停戦して、人々の命を守ってくれ、色々と取引や交渉をするのはその後でいい。というように、現状ではなかなか実現しそうにないであろうことを願っているのは、私だけでないでしょう。

 

さて、話は変わりますが、皆さんは「白い影」(原作は渡辺淳一)というテレビ・ドラマをご存じでしょうか。最初に放送されたものは1973年、田宮二郎さんが主演でした。そして2001年には中居正広さん主演でリメイクされています。主演が田宮二郎さんで、「白い・・・」と聞いて、ピンとくる方もいらっしゃるでしょう。当時、大変人気のあった田宮二郎さんを主役に据えたドラマが次々と作られ、俗に「白いシリーズ」などと呼ばれているのです。本作はその第1作に当たります。脚本は、若き日の倉本聰さんなどが担当しています。

ちなみに、もっとも有名な「白い巨塔」(山崎豊子原作)は、このシリーズの最終作です。これも、唐沢寿明さん主演でリメイクされていますね。余談ですが、10年ほど前、宿泊したホテルでぼーっとテレビを見ていたら、韓国版にリメイクされた「白い巨塔」をやっていて、大変驚いたことがあります。国を超えて、人の心に響くところの多いドラマだったのですね。なお、「白い巨塔」が放映された1978年、田宮二郎さんは48歳という若さで、この世を去っています。

話が横道に逸れてしまいました。「白い影」は「白い巨塔」と同じく、天才的な才能と技量を持つ外科医が主人公です。そして、その主人公ががんに罹患してしまう、という点も共通しています。まあ、これはおそらく偶然だと思いますが・・・

そして、罹患したがんが、なんと多発性骨髄腫だったのです。1973年当時、ほとんど未知の病気で、その原因も全く分からず、罹患する人は10万人1人以下、とされていた難病です。これ以上書くとネタバレになってしまいますので、ここまでにしておきますが、主人公は肉体的にも精神的にもかなり追い込まれ、自暴自棄にもなってしまいます。

あらすじや病名は2001年版の中居正広版でもほぼ同じです。私は残念ながら見逃したのですが、調べてみると、平均視聴率が約20%にも上っていますので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょうね。(さすが、中居クンですね)

ドラマの内容ももちろんですが、私が注目したのは、リメイク版が作られたのがわずか20年前だということです。つまり、20年前、この病気はまだまだ不明な点が多い、「治療はほとんど不可能」という位置づけの病気だったわけです。

それからの医療技術や薬剤の進歩は著しく、患者数は以前よりかなり多くなっているにもかかわらず、10年以上生存する人も増えているということは、このブログでも何度も触れてきたとおりです。私も、もし20年前に罹患していたら、今のように冷静ではいられなかったかもしれません。というか、とっくにこの世からいなくなっていた可能性が極めて高いと言えるでしょう。

以前は「不治の病」とされていた様々な病気の治療法が、どんどん進化しているというのは、本当に素晴らしいことです。医療関係者や研究者の仕事に改めて敬意を表するとともに、だからこそ、命を大事にしなくてはならない、と肝に銘じるところです。ましてや、「万人が万人を殺す」ことになる戦争など、絶対にあってはならないことだという思いが改めて強くなりますね。

蛇足ですが、2001年版でヒロインを演じていたのは竹内結子さんです。彼女もまた、40歳という若さで亡くなっていることは皆さんもご存じのとおりです。田宮二郎さんのこととあわせて考えると、あまりにも切なくなります。

 

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常94 親鸞のキャリア形成

こんにちは。

 

ご無沙汰しております。

私にとって、2月中旬からのおよそ一ヶ月半は、白内障の手術を受けたり、3回目のワクチン接種があったり、また、骨髄検査というちょっとハードな検査に臨んだり、というなかなかに気の休まらない日々が続いていましたが、ようやくそれらにも目途がつきつつあります。左目の手術は今週火曜日に無事終わり、明日にはやっと保護眼帯を外すことができ、洗髪洗顔も可能となります。やれやれ、ですね。

目の方は、術後の経過は非常に順調なのですが、とにかく急にすべてのものが明るく見えるようになったもので、まだ戸惑い気味です。両目でモノを見たり、本を読んだりするときに、うまく焦点を合わせることができないことも時々あるのですが、これはまあ慣れていくしかないでしょう。経過を見るために、まだしばらくは定期的に眼科に通わなくてはいけないようですが、とにかく、心配事がひとつ減ったことにほっとしています。

そうこうしているうちに、昼間の気温が20度を超える日が出てきたりして、すっかり春の様相になってきましたね。桜の便りもちらほらと聞かれるようになりました。

ただ、そんなふうに季節が一歩ずつ進んでいるのに、ロシアとウクライナの攻防は相変わらずです。最近は、ウクライナ軍がロシア側を押し返しているのではないか、という報道もあり、これを応援する声は、日本に限らず、世界中で多くなっているようです。もともと侵攻された側であるウクライナを応援する気持ちは、わからないではないのですが、私自身はこれを手放しに喜ぶ気にはなれません。アメリカやNATOが後ろについているとはいえ、両国の軍事力や経済力にはもともと大きな差があります。プーチン大統領の気質から考えても、このままずるずると撤退ということにはならないでしょう。となると、戦局はかなり長期化、泥沼化する恐れが出てきます。その結果、大きな被害を被うるのは両国の一般市民と兵士たちなのです。(兵士たちは、武器こそ手にはしていますが、地元に帰れば一般市民であることには変わりませんし、彼等にも家族はいます。そういう意味では、兵士たちの命がそうでない人たちの命よりも軽いなどということは決してないのです。)

谷川俊太郎の詩にこんな一節があります。

   死んだ兵士の残したものは

   壊れた銃とゆがんだ地球

   他には何も残せなかった

   平和ひとつ残せなかった

(「死んだ男の残したものは」より抜粋)

 

今戦わなければ、祖国がなくなってしまう」というウクライナの人々の気持ちは、もちろんよくわかります。しかし他方で、武力や経済制裁による解決は、必ず後世にしこりを残してしまいます。それは、これまで世界中で行われてきた多くの戦争の経験がはっきりと物語っています。プーチンという人に対して「理性的になれ」というのはとても難しいことなのかもしれませんが、なんとか対話による解決をめざすべく、すべての国には努力を続けてもらいたいものです。

 

気を取り直して、少し他の話題を。

間もなく4月になりますが、これはこの春大学や高校等を卒業した新社会人達が新たなキャリアを踏み出す時期です。ただ、最近は新卒で企業に就職しても、そのまま定年まで勤め続ける、という人はかなり減っています。彼等もそのことは十分承知していますから、「これで大船に乗ったようなものだ」と考えている人は、おそらくほとんどいないでしょう。自分のキャリア構築は自己責任で、というのがこれからの当たり前の考え方になっていくのでしょうね。

ただ、キャリア構築というのは、必ずしも計画した通り、予定した通りにはいかないものです。さまざまな偶然の出会いや想定外の出来事、環境変化などによって、人生の進路は大きく変わっていくものです。むしろ、そうした偶然性によって決まることの方が多い、、といっても過言ではありません。

一人だけ、象徴的な例を紹介しましょう。

親鸞といえば浄土真宗を開いた日本における仏教史上最も重要な人物の一人であることは誰でも知っていることですが、この人、実は何回か人生を大きく左右されるような出来事に遭遇しています。

一度は、9歳で入山し、その後20年間も修行を続けた比叡山延暦寺で。彼は幼くして仏の道に入ることを決心し、頼みこんで比叡山に入ったのですが、どうも当時の延暦寺をめぐる状況やその雰囲気は、彼が思い描いていたものとは少し異なっていたようです。20年間経っても悟りの境地にはほど遠く、煩悩を断ち切ることもできず、苦しんだのです。現代に当てはめれば、理想だと思って就職した会社がどうも自分に合わず、「何か違うなあ」と思いながら20も経過してしまった、いうところですね。

その後、下山した彼はしばらくの間「迷い道」するのですが、縁あって、法然(浄土宗を開いた人ですね)の弟子になることを決意し、これがその後の人生を決定づけることになります。法然は念仏を唱えることを軸にした教え(専修念仏)で、その頃既に京都ではかなり人気のある存在ではありましたが、親鸞はおそらくその教えだけではなく、生き方や考え方、人柄すべてに心を奪われたのでしょう。もちろん、二人の出会いは、純粋に偶然であるということはできないのですが、いずれにせよ、ここまで人生を変える存在にはなかなか出会えるものではありませんね。

その後、念仏の教えは朝廷や因習に囚われる既存の仏教界からはいわば「異端」あるいは「邪教」とみなされて、法然およびその高弟達は死罪、あるいは京都からの追放(流罪)ということになってしまいます。(承元の法難) 専修念仏崩壊の危機です。しかし、法然親鸞は、むしろこれを「念仏の教えを地方に広く普及させる機会だ」と前向きにとらえ、その活動を継続していったのです。その結果、現在でも全国に浄土真宗の寺院はたくさんあるのです。現代に例えれば、左遷されても、その赴任先で自分を活かし、あるいは自分を成長させようとした、ということになります。

今回は、親鸞のキャリア形成という視点からごく簡単に紹介しましたので、浄土真宗の教えや浄土宗との相違等についてはすべて割愛します。とにかく、親鸞が、ずいぶん大きな波に揉まれる中で、不安にかられながらも何とか自らの道を切り開いていったことだけでもわかっていただければ幸いです。彼がそれを貫徹できたのは「仏の道を進むのだ」という強い思い、ただそれだけです。決してはじめから明確な人生設計図や確固たる自信があったわけではないのです。

現代人も、どんなキャリアを進むにせよ、そこに自分にとっての芯になるような「何か」が必要でしょうね。

 

少し長くなってしまいましたが、今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。