明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 236 あべのハルカスと天王寺動物園

こんにちは。

 

早いもので3月になってしまいました。ということは、能登地震からちょうど2か月。そして、ロシアのウクライナ侵攻からは2年が経過しました。また、パレスチナガザ地区での死者は遂に3万人を超えてしまったそうです。こんなことに「キリの良い数字」などというものはないのですが、色々なことを考える機会にはなります。できるだけ落ちついた気持ちをキープしながら、ニュースに接し、一方的だったり、極端だっ

たりする報道やSNSの書き込みには振り回されないようにしていきたいものです。

 

前回は、円空の仏像について自分なりの感想というかまとめを書きました。あくまで私見ですので、私とは異なる見方をされた方もたくさんいらっしゃると思います。この展覧会は、4月7日まで開催されています(巡回開催はないようです。)ので、興味を持たれた方は、あべのハルカス美術館までどうぞ。

 

さて、円空展はとてもパワーに満ち溢れたものですが、100体以上の仏像を鑑賞すると、さすがに疲れてきます。そこで、昼食後、ビル内58~60階にあるあべのハルカス展望台に出かけて、ぼんやりと過ごすことにしました。あべのハルカスという建物、10年前に建てられたのですが、高さは300mで、昨年までは日本でもっとも背の高いビルだったそうです。(現在は、東京の麻布台ヒルズ 森JPタワー が330mで一位となっています。)

高速エレベーターで上まで登ると、さすがに「高いなあ」というとても単純な感想しか湧いてきません。ここは360度すべての角度が見えるのですが、やはり高層ビルが立ち並ぶ北側(梅田方面)の見晴らしが最もよいようです。もちろん、堺方面が見える南側、天気が良ければ生駒山がくっきり見える東側、そして大阪港方面を見下ろす西側も悪くはないのですが、300mはあまりにも高すぎて、折角の眺めが遠すぎるのです。梅田方面は、ある程度高いビルが並んでいるので、ここからの眺めも、ちょうど良い感じになります。また、真下には天王寺動物園の緑も見えます。ただ、60階にはベンチなど、ゆっくり座る場所はちょっと少ないようです。そこで58階まで降りると、カフェがあり、ゆったりできる椅子もたくさんあります。カフェにはパイン飴(阪神タイガースの岡田監督が好きだ、ということで昨年話題になったやつですね)を砕いてトッピングしたソフトクリームを売っていました。400円という値段は、こういうところにしてはさほど高くなかったので、「話題作りに」と思って買ってみたのですが、けっこう美味しかったですよ。

そもそも58階の眺めは60階とさほど変わりませんので、まあ、ここで十分ですね。(ただ、エレベーターで一度60階に上らないと、ここには来れません。)

そんなわけで、58階のベンチでしばらくぼんやりと過ごしていました。天気も良かったので、とても気持ちが良く、そんな中で円空仏を思い出すのもまた一興です。ただ、「今ここで大地震が起きたらどうなるんだろう」という考えがふと頭をよぎってしまいました。もちろん免震構造にはなっているのでしょうが、相当の揺れが襲うのは容易に想像できます。周りを見渡して、「あのテーブルや植木はひっくり返るどころか、遠くにまで吹っ飛ぶんだろうなあ」とか「カフェはほとんどの食器が割れてしまうんだろうなあ」とかリアルにその映像が頭に浮かぶにしたがって、恐ろしくなってしまったことは否定できません。

あべのハルカス展望台から北側を望む

あべのハルカス58階から60階の様子


そんなこともあったため、30分ぐらいで下に降りてきましたが、もう少しほっこりしたかったので、すぐ近く(と言っても徒歩10分ぐらい)の天王寺動物園を訪れることにしました。ここにははじめて来たのですが、街中にもかかわらず、予想していたよりもはるかに大規模で、ちょっと驚きました。ただ、あちこちで工事を行っている最中だったのがちょっと残念でした。おそらく、来年に迫った関西万博の開催に合わせてリニューアルをしようとしているのでしょうね。

昼過ぎということで、哺乳類動物の多くは、食事が終わった後の「お昼寝タイム」に入っていて、動きが何となく鈍かったようです。そんななかで活発に動いていたのがフラミンゴ。そしてペンギン達。とくにペンギンの飼育棟は、つい最近、「空を飛ぶペンギン」と題して、水中を高速ですいすいと泳ぎ回る彼らの姿を見ることができ、とても癒されました。こういう見せ方は、東京・池袋のサンシャイン水族館名古屋港水族館にもありますが、地上でゆっくりよちよちと歩いている姿とのギャップは、本当に見応えがあるものです。

天王寺動物園にて(以下も同様)



最近は、北海道・旭川にある旭山動物園の改革をきっかけに、全国の動物園が展示方法に工夫を凝らし、地元の親子連れをターゲットにするだけでなく、観光スポットとしても見直されつつありますが、どうしても多額の費用がかかり、パンダ等多くの入場者を「呼べる」動物の入手も困難なところでは、これからもさまざまな取組が行われていくのでしょう。また、公立の植物園や博物館、美術館、さらには図書館等のなかで、既に設立から長い年月が経過しているところも、こういった取組から学べることはたくさんあるでしょう。

 

そんなわけで、色々と趣の異なるところを見て回ることができ、充実した一日でした。今年も、色々な展覧会めぐり、寺社巡りをしていきたいと思っています。その全部をこのブログで投稿することはできないかもしれませんが、機会を見つけて少しずつ取り上げていきたいと思っています。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 235 円空仏が語り掛けるもの

こんにちは。

 

前回は小澤征爾さんについて書きました。その小澤さんと日本を代表する現代作曲家である武満徹さんとの対談の中で、武満さんは以下のような発言をしています。

「政治とか科学とかがすごく極端に進んでいるときに、時どきそれを引き戻すのが、音楽の役割だと思うよ。」

音楽は本来とてもパーソナルなもので、だからこそ個人の発露としての音楽は誰にも邪魔されてはならないものなのです。しかし、時としてそれが政治的に利用されてしまうことは、歴史が物語っています。音楽家は政治に対してどのようなスタンスを取っていけばよいのか、その答えはさまざまでしょうが、音楽家一人ひとりがこのことを十分に意識する必要があることは確かでしょう。事は科学においても似たようなものです。科学者が新しい科学技術を研究開発しようとするとき、そこには一種の哲学のようなものが必要なはずです。そうでなければ、科学は、実に簡単に、政治に一方的に利用されてしまうリスクを背負うからです。そんな時、個人の考え方、哲学をそっと支えるのが、音楽の役割なのです。そして、このことは、音楽だけに限ったことではなく、あらゆる芸術においても言えることなのです。

私は音楽を聴く時、それが作られた時の社会的・個人的背景と、その曲が現代において演奏されることの意味という2つの側面から聴くようにしています。単に流行を追いかけるだけではおもしろくない。かといって、懐メロとしてだけ曲を聴くのもつまらない。

ただ、過去の曲を聴く場合、あまりにも政治的背景や社会情勢に引っ張られすぎると、その曲が本来持っている魅力を見失うことになりかねません。あくまで主役は音楽そのもの。音楽がもつ力を、今を生きる自分の全身で感じることこそが、私の音楽鑑賞なのです。

 

そんなことをぼんやりと考えながら、先日、大阪のあべのハルカル美術館で開かれている「円空 ―旅して、彫って、祈って―」と題する展覧会を見てきました。

ご存じの方も多いと思いますが、円空は江戸時代初期(1632-1695年)に活動した修験僧であり、仏師だった人です。若い時は現在の岐阜県高山市丹生川町にある千光寺等で修業を重ねたのですが、35歳の時から全国修験の旅に出て、そこで大小の木造仏像をたった一人で作り続けた人です。諸国行脚の旅に出かけ、説法によって仏教を広めた僧侶は親鸞聖人をはじめとしてたくさんいらっしゃいますが、仏像を作ることによって、教えを広めた人は他にあまりいらっしゃらないかもしれません。この修行をはじめた時、円空は12万体の仏像を作るという誓いを立てたそうですが、既に失われたものも多く、目標が達成されたかどうかはよくわかっていません。ただ、現存するものだけでも4000体から5000体を数えると言われています。

日本における仏像の歴史を振り返ると、飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代・・・というように、時代とともにその外見は変化してきました。例えば、貴族文化が花開いた平安時代と武士の力が非常に強くなった鎌倉時代では、その趣はかなり異なります。それでも、そこには仏師達が政治との結びつきを利用しながら、威厳に満ちた、そして芸術的にもすぐれた仏像を残してきた、ひとつの「流れ」のようなものが感じられます。つまり、ある種の一貫性のようなものが存在するのです。それは、どの時代の権力者が仏教をどのように利用してきたのか、ということと深く関連しています。そうした思惑をどのように受け止め、そのうえで利用するのかというのが、多くの仏師達が権力層に近づいて仕事をするうえで重要なことだったと言っても過言ではないでしょう。彼等にとっては、それが「生きていくための道」だったのです。

しかし、円空の仏像づくりは一味も二味も違います。

まず、彼の仏像は、一見するととても荒々しいのです。一本の木をノミなどで削ってつくるのですが、木の特徴を生かし、無駄にすることなく、そのまま鉈とノミで大胆に彫っていく仏像は、木の中に神がいるとの思想が反映されているのです。そのプリミティブ(原初的)ともいえるスタイルが大きな魅力の一つとなっているのです。そこには、「きれいに整える」という発想はありません。彼は、一時北海道に滞在していたことから、アイヌ文化の影響を指摘する向きもあるようです。

もう一点、彼の仏像の魅力として、微笑みを浮かべている顔立ちの穏やかさ、優しさが挙げられます。とくに、口元から溢れる笑みは、これを拝もうとする人にも自然と笑みを浮かべさせる効果を持っています。こんなにも拝む人の心を穏やかにする仏像も他にあまりないように思います。

彼はあくまで修行の一環として仏像づくりをしていたのであり、そこには彼の思想や生き方が明確に反映されています。余分なものは一切彫らずに、木の中に仏を見て、木のもつ生命を仏像という形に表現しているのです。そこには「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」などの日本人の心に潜在する精神性があります。一見完成していないような造形で、それを拝む人の心に、安心や慈愛、微笑を醸し出してくれるのが円空仏の魅力なのです。つまり、彼の心はいつも地域に住む人々、とくに農民達に向いていたのです。

彼の生きた江戸時代初期は、徳川幕府による天下統一がなされ、国内情勢は次第に安定しつつあった時代です。そんな中で、農民に関しては、「生かさず、殺さず」という圧政が行われたというのが定説です。この説に関しては、「そうでもなかった、少なくとも食に関しては、当時比較的余裕があったのではないだろうか」という新しい研究成果もあるようですが、少なくとも、気候の変化等の影響を大きく受けやすい農業という仕事に従事する彼等にとって、神仏に祈りを捧げることは、何よりも重要な行事であり、日常だったのです。そんななかで円空仏の微笑みに救われた人はとても多かっただろう、と想像できるのです。

円空の体現する宗教観の根底には、縄文弥生から日本に脈々と連綿する思想があります。古代人は草木、動物といった自然物、自然現象、さらには人工物にも精霊が宿ると考え、生活には祭りを通じた祀りや祈りがあったのです。つまり、中国から伝来した仏教そのものではなく、こうした土着思想と結びつくことによって、円空の作り出す仏像は、都や江戸ではさほど知られることなく、静かに広まっていったのです。

では、なぜ現代に生きる私達の心にも円空仏は突き刺さるのでしょうか。それは、現代という社会が「静かな微笑み」を忘れた社会になりつつあるからではないだろうか、と私は考えています。殺伐としたニュースばかりが流れ、世の中全体の「許容範囲」がどんどん狭くなり、息苦しくなっていると感じることの多い社会で、荒々しさと穏やかさの同居する円空仏が私達に語りかけていることは、無言でありながら、とても多くの含蓄に溢れたものなのです。「慈愛」という言葉が見失われがちな社会だからこそ、仏像の微笑みに私達はハッとさせられるのです。

円空仏 あべのハルカス美術館にて 以下も同様





今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常234 春一番、そして小澤征爾さんのこと

こんにちは。

 

各地で春一番が観測され、いよいよ本格的に春が近づいてきているようですね。

ところで、春一番の定義ってご存じですか。

気象庁によると、「2月4日ごろの立春から3月21日ごろの春分までの間に、日本海で低気圧が発達し、初めて南よりの毎秒8メートル以上の風が吹き、気温が上がる現象のこと」とされています。ただ、地方によって、その認定基準は若干異なるそうです。そして、その後も低気圧の発達具合によっては、強風が吹き荒れる天候がしばしば見られ、「春の嵐」への警戒が必要となるのです。これが、わざわざ気象庁がこれを公式発表している理由のようです。

ただ、この発表が始まったのは意外なことがきっかけとなっています。

1976年にアイドル・グループ、キャンディーズ(ラン、スー、ミキの3人組・・・伊藤蘭さんは昨年の紅白に出場していましたし、お嬢さんである趣里さんは現在NHKの連続ドラマ「ブギウギ」に主役として出演中ですね)による曲「春一番」(作詞・作曲・編曲:穂口雄右さん)が大ヒットしたことから、これに関する問い合わせが殺到するようになり、気象庁春一番の定義を決め、昭和26年(1951年)まで遡って春一番が吹いた日を特定し、平年値を作り、『春一番の情報』を発表せざるをえなくなったのです。春一番という言葉が浸透したことを利用し、防災情報の充実をはかった、という側面も見逃せません。

それにしても、アイドルの力、恐るべしですね。

そんなわけですので、しばらくは突然の気温や気候の変化には気を付けないといけないのです。とはいえ、既に梅はかなり咲いてきています。好天の日を狙って、春の息吹を感じるために、梅の花見に出かけるのもいいものですよ。

京都御苑にて 2024.2.6 

 

 

 

さて、先日指揮者の小澤征爾さんが亡くなりました。享年88歳。ここ数年は、彼が主催者であるサイトウ・キネン・フェスティバル(2015年からは「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」と改称)でもほとんど公の場に顔を出すことなく、ゲスト達に挨拶するとともに、体調面を考慮して、長くても10~15分程度という最小限のステージをこなすだけでしたので、彼の訃報に接したこと自体は、正直言ってさほど驚くようなことではありませんでした。実際、ここ十数年は、食道がんに始まり、術後の体調不良、そして近年では心臓弁膜症などのため、ずっと苦しい闘病生活が続いていたようです。

ボストン交響楽団音楽監督ウィーン国立歌劇場音楽監督等を歴任していた、つまりアメリカとヨーロッパの両方で高く評価された指揮者ですから、海外のマスコミでも訃報は大きく取り上げられています。日本人指揮者として世界に門戸を開いた第一人者であり、後進に多大な影響を与えた人であることは間違いありません。

小澤さんのプロフィールを詳細に記すのは「今さら」感がありますので割愛しますが、彼が注目されるようになったきっかけであるブザンソン国際指揮者コンクールについては少し書いておきましょう。

フランス東部にあるブザンソンで国際指揮者コンクールが開催され始めたのは1951年で、このカテゴリーのコンクールとしては古い歴史を持っている方です。そして、小澤さんが第1位を獲得したのは1959年の第9回大会。まだ無名だった彼が手っ取り早く「名を売る」にはコンクールで結果を出すのがもっとも近道だったのです。彼自身は最初の渡欧先としてなぜフランスを選んだのか、必ずしも明言していませんが、おそらくフランスに強く惹かれたというよりは、ターゲットとするコンクールがフランスで開催されていたから、ということだと私は思っています。

オーケストラの指揮者に求められる能力とは何でしょうか。指揮(つまり棒振り)そのものの技術はもちろんですが、楽譜を読み込む力、団員とのコミュニケーションを円滑に進める力(語学力を含む)、そして音楽を構築し、まとめあげていく統率力と想像力などがあげられます。また、コンクールによっては、団員にわざと本来の楽譜とは異なる音を弾かせて、それを指揮者が見破れるかどうかを試す、という少々意地悪な審査をすることもあるようです。(実際、ブザンソンの時の小澤さんは、ほとんど初見の楽譜であるにもかかわらず、団員の演奏している音がそれとは異なっていることを見破ったという話が伝わっています。)

このブザンソンのコンクール、どうやら日本人とは比較的相性が良いらしく、その後も1982年 (第32回)に 松尾葉子、1989年 (第39回):に佐渡裕、1990年 (第40回)に 沼尻竜典、1993年 (第43回)に曽我大介、1995年 (第44回)に 阪哲朗、2001年 (第47回):に下野竜也、2011年 (第52回):には垣内悠希、そして2019年 (第56回):には沖澤のどかの諸氏がいずれも1位を獲得しています。まるで日本人指揮者の登竜門、というとちょっと言い過ぎですが、小澤さんの後を追いかけていこうとする若き指揮者がそれだけ多数いらっしゃるということですね。ただ、今までのところ、小澤さんの匹敵するような実績をあげることができている方はまだ現れていません。(この中で、世界的に知名度がもっとも高いのは、佐渡裕さんでしょう。)いかに小澤征爾という指揮者の存在が大きかったのか、このデータを見るだけでも理解できると思います。

学生時代の小澤さんには、山本直純さんという同級生であり、盟友である存在がありました。この二人はとても仲が良く、互いにピアノと指揮を交代しながら、練習に励んでいたりしたそうです。そして、小澤さんが渡欧を考えていたとき、直純さんは次のように言って、その背中を押したそうです。小澤さんは、自分は音楽的には天才肌である直純さんにはかなわない、と思っていたのですが、これで吹っ切れたそうです。

「お前は世界に出て、日本人によるクラシックを成し遂げろ。俺は日本に残って、お前が帰って来た時に指揮できるよう、クラシックの土壌を整える」「オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」

直純さん自身の仕事も凄いものです。「フーテンの寅さん」や「8時だよ!全員集合」の音楽担当、チョコレートのCM(「大きいことはいいことだ!」というやつですね)、さらには、テレビ番組「オーケストラがやってきた」の司会など、まさに上に書いた言葉を有言実行していく大活躍を見せ、わずか69歳で亡くなってしまいます。しかし、彼の仕事がなければ、当時、日本でクラシック音楽が大衆に注目される機会は、今よりずっと少なかったのかもしれません。そんななかで直純さんの存在はとても大きなものだったのです。

小澤さんの場合は、こうした大衆向けの音楽を手掛けることはありませんでしたが、彼の欧米での活躍そのものが、大衆を音楽に引き付けるのに大きな役割を果たしました。このことについて、“音楽を大衆化”した山本直純、“大衆を音楽化”した小澤征爾“と表現している評論家もいます。

さて、そんな小澤さんですが、実は私は小澤さんが指揮するCDやレコードを一枚も持っていません。とは言っても、彼の指揮する姿は、しばしばテレビで見てきました。そこでの思い入れたっぷりの、そして内面からの感情が溢れんばかりの佇まいの指揮は、聴衆を魅了するのに十分なものでした。ただ、こう言ってはなんですが、その割には、奏でられる音楽はよく言えば「整った音」、悪く言えば「情熱が足りない」「やや平板」のように聞こえてしまうのです。非常に統率力のある指揮ではあるのですが、団員たちの自発的な音楽性を引きだし、それを活かしていくような音楽づくりはあまりしていないのでは?と感じてしまった次第です。

まあ、これはあくまで私の個人的な感想であり、偏見かもしれません。小澤さんの功績や業績にケチをつけるつもりは毛頭ありません。何よりも、彼が残した足跡は、日本の音楽界にとってあまりにも大きく、そして誰にも真似できない説得力を持っていたことは事実なのです。

時代は移り変わり、現代では、例えばショパン・コンクールで一躍有名になった反田恭平さんが「外国から日本にクラシックを勉強しに来る機会を増やし、そうした人を受け入れる学校を作りたい」と発言していますし、宮崎駿さんの映画音楽で有名になった久石譲さんは自作の曲を欧米の有名オーケストラで指揮する機会を多く獲得しています。(意外に思う人もいらっしゃるかもしれませんが、久石さんはもともと純粋にクラシック畑の人で、映画音楽以外の曲もたくさん作っておられます。)つまり、日本人がヨーロッパに勉強しに行って、そこで名をあげることだけが、クラシック界で一旗揚げる唯一の道ではなくなってきているのです。しかし、それは、かつて小澤さんやその教えを直接受けた人達が「ヨーロッパこそ音楽の本場」という固定観念に捕らわれていた現地の人々と渡り合い、戦ってきたという歴史があるからこそ、なのです。

あらためて、故人のご冥福をお祈りします。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常233 能登の将来(2)消滅可能性都市からの脱却

こんにちは。

 

今週木曜日は、2週間に1回の多発性骨髄腫治療の日でした。血液検査の結果はまずまず良好で、これまでどおりの治療を継続することになったのは良かったのですが、病院に到着したのが午前8時半ころで、帰宅の途についたのが午後4時前。以前紹介しましたように、4時間ほどの点滴を中心にして、いくつかの注射や検査があるため、待ち時間も含めると、このような長時間滞在になってしまい、やはり疲れますね。まあ、健康第一?ですから、別に不満はないのですが、これで一日が終わってしまうというのも、なんだかなあ、という気分が残るのは確かです。

 

さて、今回はまず前回の補足から。

前回映画『PERFECT DAYS』をご紹介しましたが、主人公がカセットテープで聴く音楽はいずれも960年代から70年代頃までのもので、すべてウェンダース監督が選曲したものです。それらはいずれも、厳しく悲しい世相や現実を目の前にしながら、どこかポジティブな雰囲気を漂わせるもので、この映画の含意を示唆するものであると同時に、監督のセンスの良さをうかがい知ることのできるものでした。

ちなみに、選曲リストは以下の通りです。

アニマルズ “House of the Rising Sun”(朝日の当たる家)

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド “Pale Blue Eyes”

オーティス・レディング “(Sittin’ On) The Dock Of The Bay”(ドック・オブ・ザ・ベイ)

パティ・スミス “Redondo Beach”

ルー・リード “Perfect Day”

ローリング・ストーンズ “(Walkin’ Thru The) Sleepy City”

金延幸子“青い魚”

キンクス“Sunny Afternoon”、(サニー・アフターヌーン)

ヴァン・モリソン “Brown Eyed Girl”

ニーナ・シモン “Feeling Good”

すぐにわかるように、この中で、ルー・リードの曲がこの映画のタイトルの元ネタになっています。とても穏やかで優しいラヴ・ソングなのですが、曲の制作当時、ルー・リードはヘロイン中毒でボロボロの状態だったらしいです。そんななかで書かれた曲は最後に次のような詞で締めくくられています。

「自分が蒔いた種は、すべて自分で刈り取らなくてはいけない」

この詞の持つ深い意味を感じながら音楽や映画に接すると、ますます色々と考えさせられるのは私だけではないでしょう。

 

ここからが今回の本題です。

1月に入ってから、何回かに分けて能登で起きた震災および能登半島自体のことについて書いてきましたが、立春も過ぎ、2月も半ばに入ってきましたので、そろそろ一度この話は打ち止めにしようと思います。(もちろん今後も機会あるごとに触れるつもりです。)そして、最終回は、輪島や七尾など、能登半島の中では比較的産業や人口が集積している都市の将来についてです。

今からちょうど10年前の2014年、日本創世会議(増田寛也座長)は、このまま少子高齢化と東京一極集中が進むと、2040年までに日本にある都市の約半数は消滅してしまう可能性がある、との内容のレポートを発表しました。これがいわゆる「消滅可能性都市」です。これによると、石川県能登地区では七尾市輪島市珠洲市羽咋市志賀町宝達志水町穴水町、能都町の8自治体がこの脅威にさらされているというのです。

このレポートが各自治体に与えたショックはあまりにも大きなものでした。もちろん、名指しされてしまった各自治体の反発も相当なものでしたが、直面している課題を明確に示したレポートであったため、反発ばかりをしてもいられず、各地で対策が練られるようになったのは言うまでもありません。また、政府(総務省国土交通省)も対策を発表し始めます。

国土交通省がまとめた下記の資料によると、第3象限がもっとも危険な状態ですが、第2象限や第4象限も決して安泰というわけではありません。そこで、まずは域内の「稼ぐ力」を育て、それをテコにしてとくに若年層の流入をはかり、域内消費増加を促し、ひいては出生率の増大にも寄与させる、つまり年齢別人口バランスを改善させる、というのが自治体でが描くべき粗筋ということになります。


そして、今回の地震による住民の「避難」が長期化すれば、次第に能登に戻る人は少なくなってしまい、「消滅可能性都市」化に拍車がかかってしまうことは明白でしょう。つまり、とりあえずの避難先での住民の生活支援という短期的視点と同時に、いかにして能登の復興再生計画をたて、魅力ある地域にしていくのか、という長期的視点をもつことが、喫緊の課題なのです。

能登地区の場合、その中心である輪島には、伝統産業である輪島塗と輪島朝市という全国にその名を知られた貴重な観光資源があります。普通に考えれば、これらをどのように活かすのか、というのがポイントでしょう。また、七尾の場合は、和倉温泉という能登全体のハブ、つまり観光拠点の役割を果たすことのできる場所があります。ここを起点にして、数回前にご紹介したような各スポットに足を延ばすことは決して難しくないのです。つまり、観光を中心産業として地域の再生を図ると腹をくくれば、自ずから目指す方向は見えてくるはずなのです。


しかし、輪島塗にしても、朝市にしても、その担い手は年々高齢化が進んでおり、担い手そのものが減少してしまっている状況です。例えば、輪島塗に関しては、生活様式の変化もあって、これまで主力であった膳や椀などの食器類の売り上げはかなり落ちています。ただ、漆器の美しさに魅せられた若手作家や外国人作家による、もっと芸術性の高い作品も作られつつあります。

また、朝市に関しては、もともと「地元のおばちゃん」が店頭にいること自体がその魅力であったため、簡単には世代交代が進みにくくなってしまっているようです。今回の地震では、朝市地区全体が大規模火災に見舞われ、元の場所での再開は当面困難と考えられています。最近、とりあえずの措置として、金沢市内での仮店舗がオープンしましたが、これはあくまで「仮」であり、本格的に元の場所で再会できるかどうか、まだまったく見通しは立っていません。よほどの支援と地元の努力がなければ、元の姿に戻すのは難しいのかもしれません。

つまり、全体としてこれまで基幹であったものにはそのままでは頼れないのです。では、どうすればよいのか? そこで出てくるのがもっと「観光産業」寄りへとそのスタンスをシフトさせることでしょう。また、その際にはほかの地域と連携し、能登全体を周遊するようなコースの立案、広報を推し進めていくことが求められます。新しい朝市の姿もそんな中から見えてくるのではないでしょうか。

もちろん、観光産業というものは、もともと景気変動等によって売り上げが高下するという不安定性を持っているものです。また、ブームになればなったで、オーバーツーリズムの弊害等も発生する危険性をはらむものです。だからこそ、この方向性を選択することには、それなりの覚悟が必要です。

もちろん、能登にはさまざまな農産物や漁業製品などの名産もあり、それを軸に再生を考えるという道もあります。しかし、それだけでは、全国へのアピールという点ではやや弱く、若年層の地域流入を促すには相当の時間が必要となります。ですから、もう少し即効性のある手段として観光産業推進が注目されるべきだと思うのです。また、その過程では、アグリ・ツーリズムなど、既存の一次産業と観光産業を結びつけるような取り組みも、有効でしょう。

 

もちろん、ここに記したのは単なる私の思い付きであり、具体的かつ有効なプログラム策定には、専門家の綿密な調査が必要です。そして、何よりも必要なのは、その担い手になるはずの地元の方々の総意と工夫です。

 

突然の自然災害によって多くの人命が失われたうえに、大きな経済的損失を被ったことは、本当に不幸なことで、今の私達ができることはどうしても限られてしまいます。ただただ、深くお見舞い申し上げるしかありません。また、ボランティアとして早くも現地に入り、活動している方々には尊敬の念しかありません。

 

私としては、この大きな災害を、能登という特徴的な、そしてとても興味深い場所を「作り直す」きっかけにしてくだされば、と思うばかりです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常232 映画「PERFECT DAYS」と完璧な日々

 

こんにちは。

 

少し前、アメリカのアカデミー賞候補作品が発表されましたが、日本人がスタッフあるいは出演者としてかかわった作品が3作、候補作品として最終ノミネートされました。宮崎駿さんが久しぶりに監督を務めた「君たちはどう生きるか」が長編アニメ映画賞、ゴジラ生誕70周年を記念して制作された「ゴジラ-10」が視覚効果賞、そして役所広司さんが主役を務め、現代東京の日常を舞台にした「PERFECT  DAYS」が国際長編映画賞の各部門で選出されたのです。このうち、日本のマスコミでもっとも地味な扱いなのが{PERFECT  DAYS}でしょう。そこで、先日この映画を見てきました。(もっとも、昨年のカンヌ映画祭役所広司さんが男優賞を受賞していますので、既に映画好きの人の間ではかなり話題になっていた映画のようです。)

この映画は、公衆トイレの清掃を職業とする初老の男性の何と言うことのない日常生活を描いただけの内容ですが、大変奥深く、考えさせられるところの多い映画でした。また、詳細な説明のないまま進行していくので、解釈は人によってそれぞれ異なるだろうと思います。ただ、まだ公開中の映画ですので、ネタバレになるような説明や先入観を持たれてしまうような私見は避けるべきでしょう。以下に、ストーリーとは直接関係のない、私自身が感じたことをいくつか記しておきます。

・まずは監督のヴィム・ヴェンダース。この人はドイツ人ですが「映画を撮っているうちに、私には日本人の血が流れていると感じた」と述べています。日本、そして東京のことを本当によく調べ、理解している仕上がりでした。まあ、そうでなければ、他のスタッフや出演者はすべて日本人なのですから、彼の指示に従う人はいなかったでしょう。私はこの人のドキュメンタリー「ヴエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」というキューバの年老いたミュージシャン達を追いかけた映画をみたことがありますが、その時にも、現地にしっかりと寄り添い、丁寧に描いていて、決して「欧米以外のあまり紹介されない地域の美味しいところどり」をするような人ではないと感じました。その思いは、今回も同じです。

・主役の平山(役所広司さん)は大変口数が少なく、ほとんどの演技は顔の表情だけです。でもそれがすばらしい。とくに、朝家を出て空を見上げた瞬間の少し眩しそうな表情、そして休憩中に公園のベンチで背の高い木を通して地上に降ってくる木漏れ日を見つめるときの、柔らかな表情は絶品です。

・平山が愛しているのは、カセットテープに録音された1960年代から1970年代頃の洋楽が中心。その他には、フィルム・カメラと文庫本の古本。でも決して昔にだけ生きている人ではありません。それと、最新式の公衆トイレの清掃というギャップが面白いのです。

・居酒屋のママを演じているのが石川さゆりさん。この人が「朝日の当たる家」(原曲は大変古いトラディショナル・フォークですが、1964年にイギリスのロック・バンド、アニマルズが世界中に大ヒットさせています)を歌うシーンも聴き逃せません。個人的には、この人はコブシを回す歌よりも、こういう艶やかで粋な、それでいて軽い節回しで歌う方が魅力的だと思います。「ウイスキーはお好きでしょう」とかルパン3世のエンディング曲「ちゃんと言わなきゃ愛さない」等です。ちなみに、ギター伴奏はあがた森魚さん。しばらく前にテレビ・ドラマ「深夜食堂」で流しの歌うたいを演じていた彼ですが、この人も実にいい味を出していますね。

・平山が姪っ子に「海まで連れて行ってよ」と言われた時の「今度ね」と少し困った表情で答えるシーン。「今度っていつ?」と訊かれた彼は「今度は今度」「今は今」と答えるのです。姪っ子は何故かその答えをとても気に入ったようでした。

・終盤に出てくる三浦友和さん(石川さゆりさんの元夫という役どころ)と平山のやり取り。「影は重なると色濃くなるのか」という話題を真剣に論じ、実証しようとします。その後、いいトシのおっさん二人は影踏み遊びを始めてしまいます。なんだか可愛い。

 

他にも、紹介したいシーンはいくつもあるのですが、遠慮しておきましょう。

平山の周囲では、基本的に毎日変化のない日常が繰り返されます。ただ、そうは言っても、小さなさざ波のような出来事は起きます。しかし結局、またもとの静かな日常にゆっくりと戻っていきます。過去にどんな生活をしていたのか、最後までわからずじまいですが、公衆トイレの掃除夫という今の仕事に彼は満足していますし、経済的にも、決して裕福ではないものの、食うに困るようなことはありません。これが、長い人生の中で彼が獲得してきた「日常」なのです。

ヴェンダース監督は、「平山のように生きていきたい」とも述べています。世界中で名監督としての名を馳せた彼ならば「そうかもしれないなあ」とぼんやり思ってしまいます。

ただ、よく考えると、この生活は、あくまで社会がある程度安定した状況でなければ成立しえないものです。例えば、ガザ地区で、あるいはウクライナのキーウで、さらに言うなら、震災により大打撃を受けた能登地方で、こんな生活が今可能か、と問われれば、その答えは書くまでもないでしょう。長い人生の中では、予定外、予想外のことは常に起きてしまう可能性をはらんでいます。今、獲得している「安定したさり気ない日常」は、次の瞬間にはもろくも崩れ去ってしまうかもしれない。そんな思いもまた、観終わったあとにふつふつと湧いてきてしまいました。本当のperfect days(完璧な日々)とはいったい何なのでしょうか。

しかし、それにしても色々と感じさせられるところの多い映画でした。ある程度以下の年齢の方には少し理解しにくいところもあるかもしれませんが、私としては、ぜひおすすめしたい映画です。上には紹介しなかった他の俳優さんも、実にいい演技をしています。例えば柄本明さんの息子(次男)である柄本時生さんの一見するとちゃらんぽらんな役どころも、この映画のスパイスとしては欠かせません。




今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常231 今、私達にできること

こんにちは。

 

今回は、前回に引き続き、能登の将来について書いていく予定でした。しかしそれは例えば5年後、10年後を見越した時に描くべき将来像です。他方、地震から間もなく1ヶ月が経過しようとしている現在でも、今すぐにやらなければならないことが山積みの状態で、多くのことが未解決のままです。そこで今回は、輪島や七尾といった能登半島の中では比較的大きな街について触れる前に、現時点で私達ができること、するべきことについて、軽く触れていきたいと思います。

 

といっても、災害救助等について特殊な技能を持ち合わせていない私達にできることと言えば、ボランティアとしての比較的単純な作業や被災者の心に寄り添うような人道的支援、そして、経済的支援ぐらいのものでしょう。

このうち、ボランティアによる支援に関しては、ようやく能登の各地域や金沢市等で受け入れの準備が整いつつある段階です。おそらく全国からの問い合わせは相当数にのぼっているものと思われますが、現地入りしたボランティアを統括し、効率よく働いてもらうための指示を行っていく組織的な体制がなければ、混乱は深まるばかりです。個人の勝手な判断で現地入りすることは、かえって迷惑をかけるということは肝に銘じておかなければならないでしょう。もちろん、杉良太郎さんやMISIAさんのように、現地に出かけて炊き出し等積極的な支援を行っている人もいらっしゃいますが、彼らはきちんと自治体と連携を取り、事前に綿密な打ち合わせをしてから現地入りしています。結局、私達が個人で出来ることとなると、どうしても限られてしまいますよね。

また、宿泊や食料調達の用意も欠かすことはできません。 これらを地元に期待することは酷というものです。自分で準備をできるのかがポイントになるはずです。

以上のことは、阪神淡路大震災や東北大震災の経験から学んだはずなのですが、いざ、新たな大災害を目の前にしてしまうと、人の心は揺れ動いてしまいます。こんなときだからこそ、冷静な心を失わないようにしないといけないのですね。

そこで、経済的支援に焦点が当てられます。

皆さん、義援金と支援金の違いってご存じでしょうか。マスコミによる報道等をチェックするまでもなく、現在、さまざまな団体がさまざまな方法で経済的支援を募っていますし、有名人の中には、それに応えて多額の支援を申し出ている人も少なくありません。しかし、あまりにも多くの支援方法があるために、どのルートを利用すればよいのか、迷っている人も多いのではないでしょうか。

ここで、そのすべてを詳細に紹介することは、あまりにも膨大な分量の文章になってしまいますので割愛しますが、大枠として「義援金」と「支援金」の違いについて少し説明しておきたいと思います。

まず、義援金とは被災された方一人ひとりに分配されるお金です。

義援金の多くは非営利組織や自治体、内閣府などが窓口となり、通常はいったん被災自治体に送られ、「配分委員会」のもとに被災者に対し「公平・平等」に配分されます。

以下に義援金の特徴を記載します。

義援金は被災者に分配されるもので、ボランティア団体や行政が行う復興事業や緊急支援には使われない。

・被災した県が設置した義援金分配委員会によって、寄付金の100%が公平・平等に被災者に配布される。

・被災者数などの正確な情報を把握した後に均等に分配される。配布作業も混乱する被災自治体が担当するために負担がかかる。(以上、農林水産省のサイトより)

今回の震災に関して言えば、日本赤十字社やゆうちょ銀行の義援金送付などがその例です。義援金のメリットは「公平性が高い」ということ、デメリットは「被災者へ分配されるまでに時間がかかる」ということです。自治体や配分委員会などが間に入り、被災者へ公正・平等に配られます。公的機関が責任を持つことは、支援する人の安心感にもつながるでしょうが、一方で、義援金が被災者のもとへ届くまでには時間がかかってしまうのです。

公的機関が扱うのですから事前に決められたプロセスに従って被災者に確実に届けることが最重要となりますので、どうしても、スピーディというわけにはいかないのです。

つまり、義援金は被災者の手元に届くまでに少々時間はかかるものの、「安心できるルートで確実に被災者へ届けたい方」に向いています。

他方、支援金とは、支援金とは被災地で活動する非営利団体に送る寄付金のことです。

支援金の特徴として以下のようなことが挙げられます。

・各機関や非営利団体の判断によって、人命救助やインフラ整備などの復旧活動に速やかに役立てられる。

・支援金の使い道は支援先団体に任せることになる。各団体ごとに支援金の使途や収支の報告を行なって透明性を確保している。

被災者からのニーズに対して、各機関や団体が各自の判断と責任において柔軟に使用できるためすぐに活用される。(日本財団のサイトより)

まとめると、以下のようになります。

・支援金は被災地で活動するNPO法人NGO法人に送る寄付金

・各機関や非営利団体、ボランティア団体の判断によって、人命救助やインフラ整備などの復旧活動に速やかに役立てられる

・各機関や団体が各自の判断と責任において柔軟に使用できるためすぐに活用される

「被災地で支援する活動に役立てられるお金」です。「被災者一人ひとりに直接分配されるお金」である義援金とは、違った意味を持つのです。

出典)日本財団のサイト


また、今回の被災者支援で目立っているのが、いわゆる「ふるさと納税」を利用した支援です。これは、各自治体が募集をかけているもので、お金は直接各自治体に入りますが、それをどのように利用するのかは、概ね各自治体の判断に任されています。ただし、あくまで復興支援ですから、返礼品などはありません。確定申告の際に控除の対象としてカウントされるのみです。どの自治体が現在募集しているのかは、「さとふる」など、ふるさと納税のサイトを見れば、わかります。ただ、石川県に関して言えば、ほとんどすべての市や町が募集していますので、「どこでもいいから、被害のひどそうなところに。・・・」と思っている方は、迷ってしまうかもしれません。

また、これに関しては事務作業そのものが、被災自治体の職員にとっては大きな負担となりますので、今回の震災とはまったく無関係の自治体が代理で事務作業を行う「代理寄付受付」を開始したところもいくつかあります。これも自治体同士が連携し合う立派な被災地支援と言えるでしょう。これに関しては、例えば「ふるさとチョイス」というサイトを見れば、どこの地自体がどの自治体の支援金募集業務を代理で行っているのか、よくわかります。目立つのは、東北地方の自治体が手を上げている例が多く見られることです。先般の震災の際にお世話になった「お礼」といったところでしょうか。

tps://www.furusato-tax.jp/feature/a/furusato-choice_column-vol8

 

さて、ここまで見てきたように、一口に経済的支援と言っても様々な方法があり、それぞれ性格を異にしているようです。ですから、私達は自分がどのような支援をしたいのか、その目的意識をはっきりと持ち、それに合わせて方法を選ぶ必要があるのです。

また、この復興支援はおそらくかなり長期的に続けていく必要があるでしょうから、長い目で見た時に何ができるのかを考える必要がありますね。

 

現在まで、私自身の知人や友人に亡くなった方はいらっしゃいませんが、家族が大きな被害を受けた人、実家が全壊または半壊など深刻な損傷を被った人は相当数にのぼっています。そうした人々にはできるだけのことはしていきたいと思っていますし、翻って、地震大国である日本に住んでいる以上、決して他人事ではないことを改めて強く認識している次第です。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常230 能登の将来(1) 農業・漁業の側面から

こんにちは。

 

去る1月17日で阪神淡路大震災からちょうど29年が経過しました。来年で30年。本当に早いもので。神戸の街は見事に復興しましたし、阪神間の街並みは、地震前よりも発展しているかのように見えます。また、淡路島は今や京阪神から手軽に訪れることのできるリゾート地として、また、大都市を離れた企業が新たな本社機能を置く拠点としても、大きな注目を浴びるに至っています。

しかし、細かく見ていくと、この復興には色々と問題が隠されているようです。そして、今回の能登地震からの復興、再建を考えるうえで、この経験はとても役に立つように思います。

 

能登半島の各自治体は、長期的な人口減少と少子高齢化に歯止めがかからず、次代を担うはずの若い世代が不足する状況が続いています。私がかつて指導していた学生の中にも能登出身の学生が何人もいましたが、地元に戻った者はほとんどおらず、たいていは「能登は好きだけど、仕事がないし、将来も見通せない」といって、都市部での就職を選択しました。もちろん、彼らは大学進学を考える時点で能登から離れているのですから、就職においてもこのような志向になるのは当然かもしれません。しかし、この傾向は大学や短期大学等に進学した若者だけの特徴ではありません。能登半島の基幹産業である農業や漁業を継いでいこうとする若者は年々少なくなり、この分野での高齢化、後継者不足はかなり深刻な状況になりつつあります。珠洲のある地域では、65歳以上の高齢者が人口に占める割合が60~70%にも達しているのです。つまり、限界集落になりつつあるのです。

 

もちろん、これまでも行政はこうしうた事態を、ただ指をくわえてみていたわけではありません。珠洲では、地元企業ともタッグを組んで「限界集落を現代集落へ」というプロジェクトが始動しています。そのサイトを見ると、冒頭に次のような文章が載せられています。

「それは単なる過疎化対策の施策ではありません。わたしたちはここで「100年後の豊かな暮らし」を実験します。人は、自然から何も奪わない暮らしが実現できるのか?モノやお金に縛られない生活ができるのか?わたしたちの問題意識は、たとえば「行き過ぎた資本主義」であり「都市の一極集中」です。この潮流のなかで人は100年後も本当に豊かに暮らせるのか?と、懐疑と不安を覚えています。わたしたちは「都市生活のオルタナティブ(代替生活圏)」を考えます。そのために「水や電気や食を自給自足できる集落をつくり、自然のなかで楽しむ生活を、先人の知恵とテクノロジーで実現したい」。そう本気で考え、プロジェクトを立ち上げました。」 https://villagedx.com/

そのため自然と共生しながら人の快適性を追求する、という志向を持ち、その実現のためにテクノロジーを駆使する「VILLAGE DX(ヴィレッジ・デジタル・トランスフォーメーション)」を謳っています。これは、明らかに若年層を視野に入れた訴えかけですね。ただ、理念がかなり壮大なものであるため、いくつかの動きは始動しているものの、現時点では大きな成果を上げるには至っていません。あくまで100年先を見据えた動きなのです。

珠洲に限った話ではないのですが、今回の地震では津波だけでなく、大きな地殻変動が起きたため、これまで利用してきた漁港のほとんどがまったく使えない状況になってしまいました。海岸線そのものが変わってしまったため、漁船が使えるような港にするには、おそらく単なる修復ではなく、イチから港を作り直すような大工事が必要でしょう。そうなると、地元の努力だけでは限界があります。政府を含めた相当大規模な支援がなければ、どうにもならないのです。しかし、そうやって何とか漁港を復活させたとしても、肝心の漁業従事者の高齢化が進んだままだったら、結局この地域での漁業は衰退の一途をたどるしかないのです。このことは、農業においてもまったく同様です。もともと能登地域には、利用できる農業用土地がさほど大きくなかったこともあり、いわゆる大規模農地はあまりありません。そのため、さまざまな質の良い農作物が収穫できるにもかかわらず、全国的な知名度はいまひとつ、というのが現状です。そこに今回の地震による大きな地割れ等は、ただでさえ高齢化が進む農業従事者に、「もう農業はあきらめるしかない」と思わせるに十分な打撃を与えてしまいました。そんな人たちばかりしかこの地域に留まらないならば、多額の税金を使って農地を整備し直すことに「どれだけの意味があるのか」という疑問が出てきても不思議ではないのです。

農業、漁業の将来は、おそらく40歳台ぐらいから下の若い世代にかかっています。次代を担う人材をどうやって育て、あるいは他地域から呼び寄せるのか。そうした時に、上に紹介した「現代集落プロジェクト」のような新しい取組との連動が必要となるのです。また、三次産業との機動的な連携を推し進めていくことも必要でしょう。描ける道はひとつだけではないのです。ただ、いずれにせよ、新しい感覚と意識をもった若い世代が必要です。それには、この土地に住む人が能登という場所に「誇り」と「希望」を持ち、若い世代に「あこがれ」を抱かせるようにならなければならないのです。

ただ、二次避難がなかなか進まない現状で、このようなことを書いても、地元の方からすれば「今はそれどころではない」というのが本音でしょう。そこで行政の出番なのです。石川県や各地方自治体は、今のうちから「二次避難のその後」を描くことが必要だと思うのです。例えば5年後、10年後にどのような形で復興するのか、そのためには、二次避難した人々にいつ頃帰ってきてもらうのか。そうした将来像がある程度示されれば、今は避難に消極的な人々の中にも、少しは安心感が広がるのではないでしょうか。

ただ、この将来像は行政が一方的に計画する「押しつけ」のようなものになってはなりません。これは、阪神淡路大震災の時にも、そして東日本大震災の時にもしばしば議論されたことですが、地元には必ず「この地で復活したい」という強い意識をもった人々がいます。そうした人々と連携し、協力し合いながら、計画を進めていかなければならないのです。

 

今回、最初に阪神淡路大震災のことを少し取り上げたのは、今回の輪島での大火災が当時の神戸市長田地区での大火災の映像と見事に重なり合ったからです。しかし、文章が随分長くなってしまい、輪島のことを書く余裕がなくなってしまいました。輪島を含めた、能登の中でも都市部と呼ばれる地域については、次回に回したいと思います。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常229 個人的に考える「能登の魅力」(2)

こんにちは。

 

能登(のと)という地名の語源はご存じでしょうか。

一説には、アイヌ語の「あご」や「みさき」を意味する「のっ」だということですが、この地域にアイヌ民族が住んでいたという証拠は見つかっていません。また、能登半島自体が朝鮮半島に比較的近い位置にあることから、ハングルの影響を示唆する見解もあります。現在まで、確たる結論は出ていないようですが、いずれにせよ、相当昔から、いわゆる「大和文化」とは異なる文化の影響を受けていた地域であることは確かなようですね。

 

というわけで、前回の続きです。

前回は珠洲市に入ったところあたりまでご紹介しました。珠洲は「市」と言いながら、人口は1万1千人あまり。かつてはそれなりに栄えたものの、現在では過疎の典型のように言われてしまっている地域です。主な産業は農業、漁業ですが、いずれもこれに従事する人の高齢化率が深刻な問題となっており、次代を担う産業や人材の育成も思うようには進んでいません。それでも、平安時代末期から室町時代後期にかけては大きな産業であったやきもの、「珠洲焼」を復興し、広めようとする動きは確実に育っています。灰黒色の落ち着いた美しさは、現代の生活にも十分マッチするもので、値段も手ごろです。また、揚げ浜式塩田で昔ながらの製法で作られる塩は、全国的に高い評価を得ています。珠洲焼の湯飲み茶わんや珠洲産の塩は、土産物としてもちょうどよいので、訪れたなら、ぜひ手に取ってほしいものです。

また、能登半島の先端にある禄剛崎(ろっこうざき)灯台を訪れる人もたくさんいらっしゃいます。ただ、この灯台は海の縁ギリギリに立っているようなイメージを持って訪れると、少々拍子抜けしてしまいます。思いのほか広い敷地にポツンと立っているからです。しかしまあ、ここが先端だという思いを抱くことはできます。ちなみに、ここの地名は狼煙(のろし)と言います。合図や情報伝達の手段としてかつては広く利用された狼煙ですが、ここでは海上交通の安全を確保する手段として、つまりまさに灯台代わりとして、古代から利用されていたのです。

珠洲は、今回の地震でもっとも津波の被害を大きく受けた場所です。特に、漁業への影響は深刻で、細々と続けられてきた漁業関係者の方々には、漁港の再建と漁船の修復が重い課題としてのしかかっているのです。

珠洲をから回り込むと、外浦、つまり日本海の荒波が直接押し寄せる地域になります。そのため、海を臨む風景は内浦とはかなり異なります。この変化も、能登を巡ることの面白さのひとつかもしれません。そして、その眺めを楽しみながらしばらく進むと輪島市に入ります。このあたり、冬の間は岩に白波が打ちつけることによってできる「波の花」が見ものです。とくに、曽々木海岸や鴨ヶ浦付近で多く見られます。また、曽々木海岸には、波の力によって岩に穴が開いた「窓岩」もあるのですが、残念ながら、今回の地震によって崩落してしまったようです。まあ、それだけ厳しい自然を体感できるところだということになります。

また、これは能登半島全体に言えることなのですが、山間部が海の近くにまで迫っていますので、がけ崩れ等の危険が高いところです。このダイナミックな景色が大きな魅力なのですが、今回の地震では、このことによって、多くの集落の孤立化を生んでしまいました。

なお、ここから少し西に進んだところに、「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」という棚田があります。棚田そのものは全国各地にありますが、海に面しているのは数少ないでしょう。そしてその美しさは格別で、冬季にはライトアップもされます。しかし、これも地震のために、その多くが崩落してしまったようです。本当に残念でなりません。

輪島市内には、「朝市」、そして「輪島塗」の工房やショップが軒を連ねていることは、有名ですね。おそらく能登でも随一の観光スポットでしょう。しかし、今回の地震による大規模な火災で、壊滅的ともいえる被害が出てしまったことは、皆さんご存じのとおりです。これらの再興は、輪島市、そして能登全体が復活できるかどうかのキーポイントになるでしょう。

半島の西側は全般的にかなり厳しい風景が続きますが、金沢に少し近づいたところにある「千里浜(ちりはま)」は風景が一変します。延々と続く砂浜なのですが、ここは海のすぐそばまで自動車が進入することができ、俗に「千里浜なぎさドライブウェイ」とも呼ばれています。砂は一粒ひとつぶが約0.2ミリメートルと同じ大きさのきめ細かい砂が海水を含み、固く引き締まることから、二輪駆動でも四輪駆動でも、走行可能となっているのです。ここは、地震の影響はさほど大きくなかったようですが、そもそも近年、波による浸食のため、砂浜の面積そのものが年々小さくなってしまっており、将来的にはその存続が危ぶまれています。

 

いわゆる観光名所を中心に紹介してきましたが、伝統文化についても、見逃すことはできません。とくに、7月から10月頃にかけて、各集落で開かれる「キリコ祭り」は夏の能登の名物です。各地の氏子たちが、能登固有の意匠をもつ、華麗な風流灯籠「キリコ」を担ぎ出し、町内を勇敢に練り回りまる祭で、地域ごとにその華聯さ、勇壮さを競っています。とても見応えのある祭りなのですが、今年はどうなるのでしょうか。能登の人々の心の拠り所であるだけに、心配なところです。

キリコ(wikipediaより転載)


ざっと見てきただけですが、能登という場所がいかに魅力ある地域であるか、少しでもわかっていただければ幸いです。「行ったことない」という方には、落ち着いたら、ぜひゆっくりと観光してもらいたいものです。

しかし、書いてきたように、その多くが今回の地震でかなり深刻な被害、損害を被ってしまいました。もともと人口減少傾向が止まらないこの地域の将来がどうなるのか、本当に心配でなりません。そこで、次回は、「能登の将来」について少し考えていきたいと思います。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常228 個人的に考える「能登の魅力」(1)

こんにちは。

 

1月13日から2日間大学入学共通テストが行われます。国公立大学はもちろん、私立大学の中にもこれを利用している大学は多いので、毎年注目されるところです。皆さんの中にも、懐かしく思い出される方は多いでしょうし、月曜日以降、問題が公表されますから、「腕試し」とばかりにこれに取り組んでみる方も少なくないかもしれませんね。

でも、このテスト、能登半島にはほとんど会場がないことをご存じでしょうか。辛うじて、かほく市にある石川看護大学が会場として指定されていますが、ここでの受験者数はわずか200名程度というように、かなり小規模です。それ以外の受験生たちは、すべて鉄道やバスで金沢まで出向き、ホテル等に金曜日から2泊して、テストを受けるのです。中には、担任の教師がこれに付き添ってくるところもありますが、いずれにせよ、普段とはかなり異なる環境の中でテストを受けなければならないのです。自宅から通うことのできる受験生と比べると、かなりのハンディキャップがあるように思うのですが、どうでしょうか。

この状況は、能登半島という場所が置かれている社会的状況を象徴するひとつと言えるような気がします。しかし、過疎の象徴としてしばしば語られてきたこの地域ですが、昔からそんな場所だったわけではありません。

能登はやさしや土までも」という言葉があります。これは、元禄時代能登路をまわった武士がこの言葉の通りだったと感激し、この言葉を日記に残していますし、もっと時代を遡れば、万葉歌人の大友家持が森の美しさを歌に残しています。

そこで、今回は魅力ある場所としての能登半島について触れるとともに、地震による個別の影響について少しばかり紹介していきたいと思います。

とはいえ、能登半島は思いのほか、広いところです。金沢から輪島まで、自動車専用道路であるのと里山海道を利用して、順調に行っても約2時間、珠洲市まではそこからさらに30分あまりかかってしまうほどの広さです。そこで、金沢から反時計回りでぐるっと一周するような感じで紹介していきましょう。(ここで紹介するのはいずれも私自身が直接知っている場所に限定しています。悪しからず。)


金沢から出発して、たいていの人が最初に訪れるのが七尾市。ここでは七尾駅前から海に向かってまっすぐ伸びる600年以上の歴史を持つ一本杉商店街が観光客を集めます。レトロな街並みは、かつての繁栄を物語っていますが、ただ古いだけでなく、例えば「高澤ろうそく店」のように、和ろうそくを現代の暮らしにフィットさせるための様々な提案を行っているような店も少なくありません。ただ、今回の地震で、ほとんどの店は倒壊してしまい、復興の目途が立つのかどうかわからない状況です。

七尾市には和倉温泉という、大型の旅館が立ち並ぶ温泉街があります。とくに「加賀屋」は専門雑誌が選ぶ「おもてなし日本一」を何度も獲得している旅館として、知られていますが、ここにはちょっとした秘密があります。旅館独自の保育所を設けて、中居さんたちが自由に利用できるようにしているのです。これによって、全国から働きたいという希望が増え、そのことが従業員の質を引き上げることに繋がっているのです。ただ、問題もあります。土産店や遊戯場などを館内に充実させることによって、宿泊客は建物から外に出なくてもたっぷりと遊ぶことができるようになっているのです。そして、これを他の旅館も真似し始めた結果、温泉街を散策する人の数が減ってしまう、という大型旅館街ならではのジレンマも抱えているようです。

和倉の旅館は、現在すべて休業しています。建物の安全が確保されるまで、宿泊を再開することはできませんから、これは止むを得ないことです。しかし、コロナ禍が明けて「これから」という時期に、これは大きな痛手ですね。

和倉のほど近くにある美しい橋、のとじま大橋を渡ると能登島です。この橋ができる昭和30年代まで、この島には自動車というものが走っていなかったそうですが、現在では、「石川県立ガラス美術館」や「のとじま水族館」ができ、観光客がコンスタントに訪れるようになっています。また、現役の漁師さんが営む民宿がいくつも営業しており、新鮮な魚をウリにしています。私自身は、以前、この島では珍しいペンション、「ウインズ」さんによく宿泊していました。前出の美術館や水族館からも近く、さらに「案山子窯」という窯元(ショップを併設)も徒歩圏内だったのです。この窯元、石川県津幡町出身で、信楽で修業した山田剛氏が営んでおり、「普段使いできるけど、ちょっとだけ贅沢な気分」が味わえる魅力的な商品が並びます。我が家にはここで購入した食器が10個ほどあります。ただ、工房、ショップともに、「当面休業」だそうです。ホームページは生きていますので、興味ある方は一度そちらをご覧ください。

今回の地震により、水族館では看板であったジンベエザメ2匹が死んでしまいました。また、イルカやアザラシは近隣の福井県松島水族館に「避難」したそうです。都会の水族館のように人で溢れかえることなく、ゆっくりと鑑賞できるところだけに、復活してくれることを祈るばかりです。ガラス美術館では、展示品の3割が割れてしまったそうで、やはり休館中です。すぐ近くにはガラス工房があり、作家志望の若い人が日々修行を重ねている場所でもありますので、早く復活してくれるといいですね。

ウインズさんは、以前は地元であがった魚や能登島産の野菜、果物をふんだんに使った夕食も魅力的だったのですが、現在は、夕食は廃止して、宿泊&朝食(いわゆるB&B)の宿になっています。ここは元々例年3月までは「お休み」していますので、今年の営業がどうなるかはわかりません。

さて、能登島が浮かぶ七尾湾は、小島が点在しており、車窓からの風景は、いつまで見ていても飽きることがありません。いわゆる内浦とよばれるところで、波も穏やかで、風光明媚とはこういうことを言うのでしょう。そこをずっと進んでいくと、やがて珠洲市に入り、ひときわ大きな島が見えてきます。「見附島」。その形から通称「軍艦島」とも呼ばれます。しかし、この数年の群発地震により、次第に崩れ、今回の大地震により、決定的と言えるほど、上部から崩壊してしまいました。残念としか言えません。

ここを過ぎると、いよいよ珠洲市の中心部に入っていきますが、長くなりすぎました。この続きは、次回に回したいと思います。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回は、なるべく早くアップしたいと思っています。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常227 「腰まで泥まみれ」という曲をご存じですか

こんにちは。

 

本年もよろしくお願いします。

新年早々、石川県能登半島を中心に大きな地震が発生し、かなりの被害が出てしまいました。と思っていたら翌日には羽田空港の滑走路上で2機の飛行機が衝突炎上するという前代未聞の事故が発生しました。まったく何という年の初めなのでしょうか。被害、災害に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。また、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

私自身石川県には深いかかわりを持っていますし、知人も沢山いますので、このブログでもとくに今回の地震の件については少し詳しく取り上げようと思ったのは当然です。しかし、まだまだ被害の全容は明らかになっていませんし、亡くなられた方の数は増え続けています。何よりも、私の気持ちが何となく落ち着かない状態です。したがって、この話題を取り上げるのはもう少ししてからにしたいと思います。

 

そんなわけで、今年の正月は例年になくテレビをつけている時間が長かったように思います。次々に流れてくる情報にずっと釘付けになっていたというわけではありませんが、現地の状況が気になり続けていたのです。ただ、それが3日も続くとさすがに疲れてきます。テレビ局側も、そう思ったのでしょうか。1月3日になると、各局とも、もともと予定していた番組に切り替え始めました。正直なところそれらを見ていると少しほっとした気持ちになる自分がいることに気がつき、また、若干の戸惑いはありましたが。

そんななかで、MISIAさんが昨年東大寺で行ったライヴの様子はとても興味深く見ることができました。MISIAさんは、紅白歌合戦の大トリとして圧倒的な存在感を示していましたが、この東大寺ライヴでも、その印象は変わりませんでしたね。さすがです。

このライヴで少し変わっていたのは何人かの歌手がゲスト出演していたことです。私がとくに気になったのは元ちとせさんです。

この人は、奄美大島出身で、独特のコブシの効いたクセの強い歌声と歌唱法で注目された人です。いわゆる島唄をベースにしていて、現在でも奄美を主な拠点として歌手活動を続けていますが、2002年に発表したデビュー曲「ワダツミノ木」が80万枚の売上を記録する大ヒットとなったので、「名前は何となく知っている・・・」という方も多いかもしれません。

そんな元ちとせさん、MISIAさんとのコラボということ自体、私には少し意外だったのですが、それ以上に驚いたのが、ここで披露された曲、「腰まで泥まみれ」です。

この曲は、1960年代に活躍したアメリカ人フォーク歌手ピート・シガーが作ったもので、ベトナム戦争に対する反戦運動の象徴的な曲のひとつとして、注目された曲です。日本では、1970年代に入ってから、 中川五郎さんが訳詞をつけて歌い、その後、小室等さん率いるフォーク・グループ六文銭岡林信康さんが取り上げています。私がこの曲をはじめて聴いたのは、高校生の時、高石ともやさんが歌うバージョンで、痛烈な内容なのに淡々とした高石さんの歌い方がとても印象に残ったことをよく覚えています。

この歌は、1942年にルイジアナ州のある川で、偵察行動の訓練として渡河を行なおうとした小隊のことをストーリー仕立てで歌っています。副官である軍曹の心配を高圧的に無視した隊長は、先頭に立つ自分に続いて前進しろと命じ、最後は首まで泥に浸かる状態になってしまいます。突然、隊長は溺れ、軍曹は直ちに小隊にもとの川岸まで戻るよう命じます。上流で流れが合流し、水深が以前より深くなっていたことに隊長は気づいていなかったのです。

「僕らは腰まで泥まみれ。だがバカは叫ぶ。『進め!』」という歌詞の強烈なメッセージは、私達の心に突き刺さるのです。

ただ、歌詞では、この話の明らかな教訓を改めて語ることはせず、その代わりに、この国が権威主義的な愚か者によって同じような危機にあることを示唆します。ただ「この話を聞いて何を思うのかはあなたの自由」とも述べています。

こんな重い内容を持つ曲を東大寺奉納ライヴという場所で演奏した理由はよくわかりませんが、元ちとせさんは もともとメッセージ性の強い曲を積極的に取り上げる傾向があるので「こういう場所だからこそこの曲を聴いてもらいたい」と思ったのかもしれません。

歌の舞台はアメリカですが、現代の日本社会に当てはめても、色々と想起されることがありますね。前回のブログでも書いたように今年は辰年です。それにちなんで上昇、飛躍を願う人も多いでしょうが、上に登ること、前進することばかりに気を取られるのは足元をすくわれる結果になりかねません。立ち止まること、後退することにも意味があることを肝に銘じて、過ごしていきたいものだと思う今日この頃です。

 

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常226 干支の話

こんにちは

 

前回の投稿では龍にまつわる神社についてご紹介しました。それはもちろん、間もなくやってくる新年を見据えてのことだったわけです。しかし、「来年の干支は何ですか?」という質問に対する答えとしては、「「龍」というのは半分しか正解したことにならないことは、ご存じの方も多いかと思います。

まず、「龍」ですが、十二支の中では本来「辰」と記されるもので、「草木が成長して、形が整ってくること」を表しています。つまり、農作物の成長にも大きく関連する言葉なのです。というより、本来十二支とは植物が種子から次第に成長していく様子を表したものであり、そんななかで5番目にあたる辰はとても重要な意味を持っていたのです。その後、十二支に動物があてられるようになった時に、「龍」の字が当てはめられ、それ以来、このふたつの漢字はほとんど同じ意味を持つものとして扱われるようになったそうです。(なぜ十二支が動物と結び付けられたのかについては諸説あるようです。)

 

ちなみに、「十二支の中でなぜ龍だけが想像上の動物なのか?」という疑問もしばしばされますが、古代中国では、龍は本当に存在する恐ろしい動物と考えられていたのが、ひとつの答えのようです。(霊獣として、皇帝の象徴とされてきたとの話もあるようですが、いずれにしろ、どうやら、十二支の中での「仲間外れ」というわけではなさそうです。)そして、これが日本に伝わってきたとき、蛇神神話と合体し、龍は「龍神」として畏敬の念でみられるようになったのです。大変荒っぽいことを言えば、蛇と龍って何となく似た雰囲気がありますから、これは納得できるところですね。

さて、そんなわけですから現代において年賀状に龍の絵を描いたり、これにまつわる神社に参拝に訪れたりすることは間違っていません。

ただ、「干支」は「十二支」と「十干」の組み合わせです。普段あまり耳なじみのない十干とはもともと陰陽五行説に基づく思想で、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸という10の要素から成り立ち、暦の上では、十二支と同じように、これらが毎年順番に巡ってくるとされています。そして干支とは、このふたつの要素を見合わせたもので、60年で一周するというわけです。だから、60歳を「還暦」というのですね。

そしてこの組み合わせで見ると、2024年は甲辰(きのえ・たつ)の年ということになります。

ではそれはどんな年なのか? これも陰陽五行説の教えにしたがうと、「春の日差しがあまねく成長を助ける年」だそうです。春の暖かい日差しが大地すべてのものに平等に降り注ぎ、急速な成長と変化を誘う年・・・そんなイメージでとらえられるようです。

来る年が何かの飛躍と成長につながるようであれば、それは大変喜ばしいことです。ただ、私はこの説明の中で「すべてのもの平等に降り注ぎ」という言葉にも注目しておきたいです。

現代社会の不平等、不公平については今さら語るまでもありませんが、それがあまりにも理不尽であり、また、どんどん極端になってしまっているのが昨今の風潮のような気がします。

数回前に多田武彦氏という作曲家について書きましたが、彼の残した名曲の中で、今でも男声合唱ファンの心を捉えて離さない曲の中に、「十一月に降る雨」という曲があります。詩は堀口大學氏によるものですが、その中にこんなフレーズがあります。

十一月に降る雨に 

世界一列 ぬれにけり

王の宮殿も ぬれにけり 

非人の小屋も ぬれにけり

 

眩い春の日差しも、晩秋にしとしとと降る雨も、天からは私達すべての人間と動物、そして植物に平等に与えられます。それこそが自然の姿であり、節理であるはずです。来る年が、良いことも、そうでないことも、平等に降り注ぎ、それをありのままに受け入れられるような、そんな年になることを願わずにはいられないのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

年内の投稿はこれで最後になるはずです。2024年が皆様にとって実り多い年となる事をお祈りしています。

 

日本画画家、由理本出氏の筆による伏見稲荷大社の絵馬

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常225 初詣は年末に!?

こんにちは。

 

あっという間に年の瀬が近づいてきましたね。色々なことがありましたが、今年一年、皆さんにとってはどんな年だったでしょうか。

私は毎年年始に、その年の十二支に関連する神社に初詣することにしています。ただ、最近は同じようなことをされる方が多いようで、三が日はどこも結構な人出になっています。例えば、今年の初めはウサギに関連するところということで京都市左京区の岡崎神社に出かけたのですが、かわいいウサギの置物や像が並んでいることもあって、多くの人が写真を撮りに訪れていました。

そこで、今回は年末の内に出かけようと思って、二つの神社に出かけてきました。

ひとつは、正月になると猛烈な人出でごったがえす伏見稲荷大社の奥にひっそりとたたずむ伏見神寶神社。(ふしみかんだからじんじゃ:通称はしんぽうさん)

伏見稲荷大社の本殿の奥に有名な千本鳥居がありますが、それを抜けたところにあるのが奥の院。ここには「おもかる石」があり、持った感触が「思ったより軽かった」と思えば、願い事がかなう、と言われており、これを試す人が行列を作っています。

多くの観光客や参詣客はここで引き返すのですが、奥の院の左手にある鳥居と石段をさらに15メートルほど登ると左手に見えてくるのが「根上がりの松」。これもかなり目立つスポットなので、目を奪われる人が多く、その向かい側、つまり右手に「伏見神寳神社 150メートル」と書かれた小さな立札があるのを見逃す人がほとんどなのですが、ここからが目指す場所です。ただ、石段も舗装された道もなく、ところどころ木の根がはっていたりしていて少し歩きにくいので、雨の後やハイヒールでの参詣はあまりお勧めできないかもしれません。

千本鳥居 ここを抜けていきます

 

まあ、それはともかくとして、坂道を5分弱昇っていくと、すっかり森。そして見事な竹林が私たちの周りに現れます。この竹林は、かぐや姫伝説誕生の地との言い伝えもあるそうです。そしてお目当ての神社の鳥居が現れます。創祀は平安時代にまでさかのぼる、長い歴史をもった神社です。

伏見神寳神社の鳥居

 

ここでもっとも目立つのが、狛犬ならぬ狛龍。左に地龍、右に天龍が鎮座しています。この二匹の龍。天から地上まで宝物を運ぶのが天龍、そしてそれを地上で守り続けるのが地龍というように役割を分担しているそうです。



その他にもこの神社にはいくつか龍がいますが、そのなかでも目立つのが、キラキラした龍頭像。この龍がくわえている玉を回すと、願い事が叶うという言い伝えがあるそうです。

龍頭像

これも龍ですよね?

 

この神社、一般には知名度は低いですし、なぜだか、伏見稲荷大社の境内案内図には載っていませんので、普段は訪れる人は少なく、ひっそりとしています。その分、パワースポットらしい雰囲気がびんびんと伝わってきます。しばらく佇んでいると、それだけで精神が浄化されていくような気持ちになってくる素晴らしい空間です。

 

もう一か所。今度はJR奈良線および京阪電車東福寺駅すぐ近くという街中にある瀧尾神社(たきおじんじゃ)です。駅から東福寺方面に向かう人は、皆さん駅前の道を右へ、つまり南へと歩を進めるのですが、瀧尾神社へはその反対。つまり北へ向かいます。すると、2分も歩かないうちに、鳥居が見えてきます。ここは住宅街のど真ん中であり、マンションが隣接しているなど、何の変哲もない場所なのですが、注目すべきは拝殿です。写真のように、立体となった木彫りの龍が天井に張り付いています。全長は8メートルという見事なもので、江戸時代末期の彫り物師、九山新太郎の作だそうです。

この迫力は、ぜひ実物を見て感じてもらいたいです

 

また、本殿にも霊獣の彫り物がずらりと並んでおり、この中にも龍の姿を見ることができます。いずれも見事なもので、九山氏の力量には惚れぼれとしてしまいます。

私が訪れた時は、本殿の改修工事中で、拝殿が仮本殿となっていました。このため、普段は誰でも上がってじっくりと見ることのできる木彫りの龍の姿は、外からしか見ることができず、少し残念でしたが、この迫力はさすがとしか言いようがありません。

本殿の彫り物の一部

 

ここも普段は訪れる人が少なく、おそらく近所の子供の遊び場所になっているのだと思いますが、初詣の時はけっこうな人出になるのでしょうね。

今回訪れた2つの神社。いずれも規模が小さく、いわゆる観光スポットとは言えないような場所かもしれません。しかし、普段の姿をゆっくりと味わうことができて本当に良かったです。

大きな神社に行くと、初詣のお参りをするのに、本殿の前に長蛇の行列ができていることも珍しくありませんね。それはそれで、長い時間待たされた方がご利益があるのかもしれない、と思うことも可能でしょうが、やはり、寺社へのお参りは、あくまで自分のペースで参詣し、他の参拝者を気にすることなく、自分だけの祈りを捧げる方が、自然な姿のような気がします。個人的には、今後も、そんなお寺巡り、神社巡りをしていきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常224 それは突然に・・・最近の体調をめぐって

 

こんにちは。

 

先日、夜寝ていると、早朝4時頃、突然強烈な吐き気に襲われ、あわててトイレに飛び込むと、2度、3度と嘔吐を繰り返すことになってしまいました。ようやく収まったので、うがいをしてから、再度寝床に入ったのですが、1時間ほどとすると、またもや猛烈な吐き気。

個人的には、嘔吐は久しぶりの経験でしたので、本当にびっくりしてしまいました。

 

結局、嘔吐はこの2回のトイレ往復で終わりましたが、その日は一日中あまり食欲もなく、ひたすら体調悪化に恐れ入りながら、ぼんやりと過ごすことになってしまった次第です。

実は、その前日、某レストランで牡蠣フライを食べたのですが、どうやらそれに「あたった」らしいのです。

牡蠣の中毒には主に以下のようなものがあるそうです。

ノロウイルスによるもの

牡蠣にノロウイルスが蓄積されている場合で、潜伏期間は食後1~2日。12時間ほどで症状が現れるケースもあるようです。主な症状は、38℃前後の高熱、腹痛、嘔吐、下痢、胃もたれ、悪寒などです。

貝毒によるもの

有害なプランクトンや菌が海水の中に潜伏しており、それらが牡蠣の中に蓄積されている場合です。潜伏期間は食後30分あるいはそれ以下、というようにかなり短いようです。4時間程度で症状がなくなるケースもありますが、12時間以内に呼吸困難に陥ったりして、重症化することもあるようです。主な症状としては、「麻痺性」のものとして口腔内の違和感、唇や顔、手足のしびれ、頭痛、めまい、「下痢性」として下痢、吐き気、嘔吐があげられています。

腸炎ビブリオによるもの

水温が高いと活発化する食中毒菌である腸炎ビブリオが原因になることもあります。潜伏期間は2~24時間程度。激しい下痢が一日に数回から数十回も続くなどの辛い症状に陥ることもあります。主な症状は、激しい下痢、腹痛、血便、嘔吐、発熱が挙げられます。

・牡蠣アレルギーによるもの

これには、かゆみや蕁麻疹など、いわゆるアナフィラキシー・ショックによるものと、腹痛、下痢、意識障害、呼吸困難など、一般的なアレルギー反応によるものがあげられます。アレルギー反応の場合は、潜伏期間はなく、食後1~2時間程度で症状が出るのが一般的と言われています。

うーん、人によっても症状の出方は異なりますので、何とも言えませんが、私の場合、何となくではありますが、腸炎ビブリオが原因のような気がします。「水温が高くなって」というのも、最近の自然環境に符合していますしね。

ただ、アレルギー反応によるものは別として、それ以外はほとんど、免疫力が低下している場合に発症しやすいことは共通しています。服用している薬の関係で、白血球の値が低くなりがちな私は、気を付けなくてはならないということですね。

今回食したのは牡蠣フライだったわけですが、かなり大粒のもので、ひょっとすると、5個あったうちの1つか2つ、火の通りが必ずしも十分でないものが混じっていたのかもしれません。まあ、それでも、1日で回復して、次の日には、嘔吐も下痢も収まり、普通に食事できていましたから、不幸中の幸いということでしょう。

これで牡蠣が嫌いになったかって? いえいえ、そんなことはありません。もう少し小ぶりのものを食べるとか、十分に火が通っていることを確かめられるような料理を食したいものです。だって、牡蠣っておいしいですよね。

 

さて、もののついでですので、最近の体調等について、少しご報告しておきましょう。

まず、8月から始まったサークリサやポマリスト、そしてレナデックスという薬を使った新しい治療は、今のところ、かなり効果をあげているようで、経過は順調です。予想されていた副作用は若干あるものの、極端に体調が悪化するようなことは起きていません。白血球、赤血球、血小板の値は低下しているものの、危険なほどではありません。まあ、今回の牡蠣中毒のようなことがありますので、注意が必要なことは言うまでもないのですが。ただ、この治療のために、2週間に1回、3~4時間程度の点滴があるのは、いささか気が重いですね。本を読んだり、音楽をスマホで聴いたり、というように時間はつぶせるのですが、決して楽しいひと時ではありません。看護師さん達との雑談が唯一の楽しみでしょうか。

また、ポマリストはサリドマイド系の薬なので、院内処方になるうえ、厚生労働省からは病院や患者に厳重な管理が要請されています。たとえ一錠でも、「なくした」とか「他人に譲った」ことは認められないのです。これは、以前サリドマイドを妊婦が服用したことによって重大な障害が多数報告されたことに起因するのですが、専門家の中には、現在のサリドマイド系の薬は、以前に比べると、かなり改善されており、そこまで厳格に管理する必要はないのでは?という意見もあるそうです。ただ唯一私にメリットがあるとすれば、処方される薬のうちの一種類でも院内処方のものがあると、それ以外の薬も全部院内処方として扱われるので、支払いは治療費と一括になりますし、わざわざ薬局にでかける必要がない、ということでしょうか。

この治療と並行して、骨を強化するための薬を使用することになりました。ランマークと呼ばれる薬の注射で、こちらは1ヶ月に1回になります。ただ、以前も書きましたように、これに先立って、歯の治療をすることになり、おかげで、虫歯を1本抜くことになりました。きれいにクリーニングしてもらいましたし、むしろラッキーだったと言えるでしょう。

多発性骨髄腫という病気は、骨を弱くし、場合によっては溶かしてしまうという恐ろしい症状をもたらします。私も、9年前にこの病気を発症した時には、腰のあたりの骨にきれいに穴が開いてしまい、激しい腰痛に襲われた経験がありますので、やや神経質にならざるを得ないのです。下手をすると、一生車椅子生活になってしまうのですから、本当に恐ろしいことです。

腰痛と言えば、これも先日に少し書いたことですが、この秋頃から、長時間歩いていると、腰がだんだんだるくなってきて、ついには歩くのが辛くなってくるということが起きていました。腰痛の一歩手前という感じです。そこで、MRI検査で調べてもらったのですが、どうやら、骨髄腫のせいではなく、ごく軽い椎間板ヘルニアの気が出ているのではないか、ということでした。ただ、今のところ脊柱管狭窄症を心配するようなものではないようです。今後は様子を見て、さらに悪化するようだったら、整形外科を受診するように勧められました。しばらくは、軽い運動や自分でできるストレッチ等で対処することになりそうです。最近は、少し付き合い方がわかってきましたので、長時間連続して歩くことは避けて、適当に休みを取りながら歩く等しているためか、一日に合計6000歩から8000歩程度歩いても、それでヘロヘロになってしまうことはありません。まあ、これももっと長い目で見ていくしかありませんね。

 

そんなわけで、相変わらず万全というわけではありませんが、日常生活に支障を来すような大きな障害には見舞われていません。12月も既に半分過ぎましたので、このまま何とか穏やかに年は越せそうです。

 

今回は自分の病気のことばかり書いてしまいましたので、私のことを直接ご存じない方には、退屈至極な内容になってしまいましたこと、お詫び申し上げます。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常223 日大の違法薬物問題を考える

こんにちは。

 

今回は、最近話題となっている事柄について少々持論を。

日本大学アメリカンフットボール部における学生の違法薬物事件が、連日大きく取り上げられています。しかし報道の多くは、理事会をはじめとする大学側の対応のまずさ、危機管理能力のなさといった点に焦点が当てられています。

たしかに、報道されている内容を見る限り、理事会あるいは一部の理事の対応はあまりにもずさんかつ稚拙で、「そんな対応で乗り切れると本気で思っていたのか?」と不思議にさえ思ってしまいます。また、事件とはまったく無関係の一般学生への配慮、サポートの具体的な姿が全くと言って良いほど見えてこないことに、元大学教員という私の立場からは、とても不安に感じます。もともと、日本大学は16もの学部を有し、在学者数は約75000名にも上るマンモス大学です。さらに言うなら、ほとんどの学部はそれぞれ地理的に離れたキャンパスに設置されているため、全体がひとつの大学としての一体感をもっているのかというと、疑問を持たざるを得ません。もっと小規模な大学と比べるとかなり様相は異なるのです。それでも、「日本大学」というブランド・イメージを大事にしている学生や教職員は多いでしょうし、アメフト部の問題が自分とはまったく無関係だと言っても、何かしらの苛立ちや不安感をもつ人が多くても不思議ではありません。(就活への不安を感じている学生も少なくないようですね。)

ただ、この問題、肝心の事件そのものにあまり焦点が当てられていません。つまり、大学生が違法薬物に手を出すという事件が増えていることそのものから出発した問題提起が十分ではないように思うのです。

厚生労働省の発表資料によると、ここ数年、違法薬物使用による検挙人数は、さほど大きく変化していないようです。ただ、例えば大麻事犯における30歳以下の検挙人数を見ると、30歳以下の検挙者が明らかに増加しており、全体の約70%にも達しようとしています。そしてこのうちの20歳未満の割合は約25%となっていますが、この値も徐々に増加しているのです。

違法薬物検挙件数の推移(厚生労働省ホームページより)

大麻事犯における30歳以下の検挙者数推移



大学生をはじめとする20歳前後の若者の周囲には、さまざまな誘惑が渦巻いており、好奇心旺盛で、しかもまだ「世の中の仕組み」を十分に理解していない彼らが、どこかで落とし穴にはまってしまうことは決して少なくないということが、この数字を見ただけでも明白です。もちろん、誘惑は薬物(ドラッグ)だけではありませんが。

私のような世代になると、「誘惑と言っても、そんなもの、どうやって入手するのだ?」と素朴に疑問を抱いてしまうのですが、インターネットを物心ついた時から使っている彼等にとっては、それも造作もないことのようです。相手の見えない商品取引は、売り手にとっても買い手にとっても、比較的安心して使えるツールであることは説明の必要などないところでしょう。(ただし、証拠は残ってしまうリスクがありますが)

関西にある私立四大学(関西大学関西学院大学同志社大学立命館大学)が2023年に行った合同調査によると、大学生のおよそ4割が、大麻覚せい剤などの危険な薬物が入手可能と考え、約10人に1人が使用している人を直接見た経験があると回答しています。また、薬物使用に関しては、89.4%の学生が「どのような理由であれ、絶対に使うべきではないし、許されることではない」と回している一方で、「1回位なら使ってもかまわない」「使うかどうかは個人の自由」と考えている学生も一定数存在しているようです。また、上にも書いたように、友人・知人を介して勧められることもあるでしょうし、自分では違法薬物と知らずに接種してしまうこともあるかもしれませんから、この89.4%という数字も「絶対安全」なわけではありません。

言うまでもないことですが、違法薬物にはまってしまうと、本人の健康状態や経済状態に大きな支障を来してしまいますし、周囲にも大きな迷惑をかけることになります。また、それが暴力団やその関連企業等の反社会的勢力にとって最大の収入源となっていることも周知の事実です。つまり、「やりたい奴が自己責任でやるのだったら、それをとやかく言う必要はない」等とは言っていられない大きな社会問題が、この違法薬物問題なのです。そして、30歳以下の若い世代がその「カモ」としてターゲットにされているのです。ここで彼らが道を誤った場合、下手をするとそれは一生ついてまわる問題になってしまうのですから、周囲のサポートは必要不可欠と言えるでしょう。

では、大学はこの問題にどのように対処すれば良いのでしょうか。いわゆる危機管理の問題なのですが、それは大きく分けて、「事件が起きないようにする」対策と「起きてしまった場合にどうするのか」という対策とに分けられます。ここからは、教員としての経験を踏まえての私見です。

まず、事前の対策としては、とにかく学生との密なコミュニケーションを図り続けることです。最近は、どこの大学も出欠チェックをかなり厳しく行うようになりましたので、まったく大学に出てきていない学生が完全に放置されてしまうことは減っていると思いますが、それでも、高校生の時のような担任制度がある大学は数少なく、普段の学生の行動をどこまで把握できているかというと、あやしいものです。教員は、定期的に担当する学生と直接対話する機会を設け、その結果を記録として残しておくべきなのです。いわば「学生のカルテ」を作るのです。

もっとも、教員の中には、こうした仕事に消極的な人も少なくありません。そもそも大学教員の大半は「学生を教育する」ことよりも「自分の研究に専念する」ことに大きな関心があり、学生との付き合いはできれば最小限にしておきたいと考える人も決して少なくないのです。こうした状況に対しては根本的な意識改革が必要ですし、カウンセラーとしての能力を身につけるための研修も必要でしょう。もちろん、これは教員の仕事を増やすことになります。だからこそ、大学側の促進、支援策が必要となるのです。学生は大学の中で「居場所」を求めています。それは部活やサークル、ゼミ、図書館等さまざまあるでしょうが、個人的には、教員研究室がそのひとつになるのも悪くないと思っています。

第二に、事後の対策について。これにもっとも効果的なのは、理事長或いは学長といった学内で最高の権力を持つ人の下に直轄の対策委員会をつくり、理事会や教授会といった既存組織の決定や指示を待つことなく、迅速・機動的に対処に当たるようにすることでしょう。これは必ずしも常設の委員会である必要はありませんし、5名程度の少人数で十分です。ただ、医師や弁護士、カウンセラー等専門的見地から仕事に当たることのできる外部人材を登用することは絶対に必要です。そして、途中段階で横ヤリが入らないようにするためにも、既存組織とはまったく切り離して動けるようにしなければならいのです。

大学は、あくまで研究・教育機関ですし、学生の本分は勉強することです。それ自体は、どんなに時代が変化しても普遍です。しかし、自分が育った時代と現代の学生の気質、生活パターンが大きく変わっているのならば、それへの対処を適切に行っていかなければ、大学は本来の役割を果たすこともできなくなるのです。一昔前のように、「大学内部のことは大学内部で解決する」ということは今や時代に合わなくなってしまっていることを、すべての大学関係者は認識しなくてはならないでしょう。

 

それにしても、生活習慣等自分にまったく原因が見当たらない病気に罹患してしまった私のような人間から見ると、わざわざカネを払って、自分の健康を害してしまう可能性のあるような薬物を接種する行為は、本当にばかげたものに思えてなりません。それとも、違法とわかっていてもこうした薬物に依存しなければ精神状態のバランスを保つことが困難になってしまう人が増え続けるほど、現代社会は病んでしまっているのでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常222 京都府立植物園の紅葉

こんにちは。

 

前回、男声合唱がらみの話を書いたところ、その筋?の人達からはけっこう反応を頂きました。さらに合唱関連の旧友にもこのブログをご紹介いただきました。そのおかげで、ここ数日、いつもよりアクセス回数が増えています。私の場合はもともと収益目的で書いているわけではありませんが、それでも、多くの方に読んでいただけるのは本当に嬉しいものです。皆さんありがとうございます。

ただ、このブログは、過去のものを一瞥して頂けばわかるのですが、合唱ネタばかりを取り上げているわけではありません。もちろん、音楽は大好きで、ほとんどあらゆるジャンルについて色々と語りたいことはあるのですが、このブログの方向性は少し異なります。もっとも優先して書くようにしているのは私自身の病気のことについて、そして時事ネタ、さらには日常の中でちょっと気になったことなどを、脈略なく取り上げています。そんななかで、時々音楽ネタも取り上げますので、よろしければ、気長に付き合っていただければ幸いです。なお、更新日は毎週金曜日または土曜日を目指しています。

 

さて、前々回は京都の紅葉の話題でした。紅葉シーズンはいよいよ終わりを迎えようとしていて、これを目当てにした観光はおそらく今週末が最後でしょう。それにしても、今年はコロナ禍明けということもあって、外国人の方の姿が例年以上に多く見受けられました。その中で少し気になったのが、彼らの多くが巨大なキャリーバッグを持ち歩いておられることです。階段の上り下りは大変そうだし、混雑する電車やバスの中では、置き場所に困っておられます。もちろん、外国旅行となると、それなりに荷物が多くなるのは理解できますが、それにしてもそんなに大きなバッグが必要なのだろうか? おして、それはホテル等に預けてくるという発想はないのだろうか? と素朴な疑問が湧いてきてしまいます。

多くの都市や観光地では、中心駅にはこうした荷物の預かりサービスがあります。そして、それをそのままホテルまで運んでくれるところも多いようです。ホテルからのチェックアウトの際も同様のサービスを受けることができます。また、ホテル自身もチェックイン前やチェックアウト後の荷物預かりを実施しているところが数多くあります。こうしたものをうまく利用すれば、いちいち大きな荷物を持ち歩く必要はありませんし、その結果、他の方に不要の迷惑をかけることもないのです。つまり、これはオーバーツーリズムを少しでも緩和する方策のひとつでもあるのです。

ただ、こうしたサービスを実施していることについての広報はどうやらあまり進んでいないような気がします。日本の治安や「安全性」を広く情報発信するとともに、現状ではバスや電車で大きな荷物を持ち込むことは他の方に迷惑をかけることが考えられること、だからこそ、自分のためにも、他人のためにも、こうしたサービスを積極的に利用するよう、もっと多くの観光客に伝えていく必要があります。

数回前の投稿でも書いたことなのですが、オーバーツーリズムを解消するもう一つのもっと単純な手段があります。それは「あまり混んでいない所に出かけるよう仕向けること」です。もちろん、観光客自身がそうした所を探すことも重要です。

そんなわけで、先日京都府立植物園を訪れました。まあ当たり前の話ですが、京都まで観光に来て、わざわざ植物園に行こうと思う人は少ないでしょう。しかし、ここはその名のとおり、四季を通じてさまざまな花が見ごろを迎え、いつ訪れても見事な姿を見せてくれるのです。また、かなり大規模な温室もあり、日本ではあまり見られないような花も咲き誇っています。

そんななかでとくに紅葉が見事なのが、「なからぎの森」と呼ばれるエリアです。中心に池を配したその庭園やそこに植えられている大イチョウは、見事に色づいていました。


ところで、この写真の風景が植物園の中にあるということに、少し違和感を覚える方もいらっしゃるのではないでしょうか。それもそのはず。ここはもともと「半木(なからぎ)神社」という神社の敷地なのです。その森がかなりそのまま残されたところなので、このような風景が広がっているのです。

半木神社は今もここにあります

 

この植物園は、2024年1月1日には開園100周年を迎えるという長い歴史を有しているのですが、第二次大戦後12年間にもわたって、連合軍に接収され、主に将校家族用住宅地として利用されたという苦難を経験したのです。この計画は、当初京都御所近隣を候補地としていたのですが、これにはさすがに京都府が猛反対し、妥協策として、植物園が選ばれたのです。そして、それまで25000本近くあった樹木は、貴重なものも含めて、7割近くが根こそぎ伐採されてしまったのです。そんななかで、半木の森だけは、「鎮守の森」として日本人の精神や信仰心の奥底にある信仰心に大きな意味を持つとしてアメリカ人に対しても丁寧な説明がなされ、かろうじて残され、今に至っているのです。

そんなわけですから、ここは植物園の中でも「特別な場所」なのですね。訪れた皆さん、カメラやスマホを片手に、「嵐山なんかに行かなくても、ここで十分だね」と満足気に話しておられました。

紅葉を愛でるというのは単なるレジャーではありません。鮮やかに色づく木々や落ち葉の様子を眺めながら、季節の移ろい、とくに来るべき冬への思いを馳せる。そのような気持ちの整理を行うための大事な行事だと思うのです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。