明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常244 福田平八郎に見る具象画と客観性の行く先

こんにちは。

 

来週はゴールデン・ウイークに突入しますね。既に定職をもっていない私のような人間にとってはあまり関係のない話ですが、昨年以上に関西を訪れる観光客の数も増えるのでしょうね。最近は、一時減っているように見えた中国からの方も徐々に増加しています。

そんなわけですから、関西在住の方で、近場への観光を考えている方は、混みあう前にお出かけになることをお勧めします。

かく言う私は、先日、大阪中之島美術館で「没後50年 福田平八郎」という展覧会を見てきました。同美術館では同時開催でモネ展もやっていて、そちらは平日にもかかわらず、とんでもない行列ができていて、ぎょっとしたのですが、福田平八郎の方はさほどでもなく、ゆっくりと彼の足跡をたどることができました。それにしても、モネってやっぱり抜群の人気を誇っているようですね。

 

福田平八郎(1892-1974,明治25-昭和49年)画伯と言っても、名前はともかく、その画業についてよくご存じの方は案外少ないかもしれません。大分市で生まれたこの人は、幼い時から絵をかくことは得意だったものの、数学がとんでもなく苦手で、そのために中学校を落第してしまうという憂き目を見ています。しかし、これをきっかけに故郷を離れ、京都の美術学校に入学し、そこで腕を上げることになります。ただ、さまざまな美術展に応募したものの、なかなか入選することはできなかったようです。そして、何でも器用に書きこなしてしまう彼の姿を見かねた教師からは、「自然に直面したとき、主観的に進むか、客観的に進むかのどちらかなのだが、君は自然を客観的に見つめていく方がよいのではないか」という助言を得たのです。これが彼のその後の進む道を決定づけることになります。今回の展覧会で見られる絵も、ほとんどは自然、とくに水、竹、植物、鳥、魚(主に鯉や鮎)など、自然の素材をどこまでも客観的に見つめ、それを自分なりの表現に昇華させる、という手法で作品を描いています。写生帖や素描もたくさん展示されていますので、一枚の作品を仕上げるために、数えきれないほどの下絵を描いて、試行錯誤を繰り返していることがよくわかります。

日本画家である千住博氏は次のように言っています。「福田の絵は、客観性をどこまでも尽きつめたところにある抽象的なもの(抽象画そのものではない)に辿り着いたところに大きな魅力がある。」すなわち、その本質は、あくまで客観性に基づく具象画だということです。

そんな姿勢がもっとも結実したのが、代表作とされる「漣(さざなみ)」でしょう。

「漣」(1932年)素晴らしいデザイン性です。思わず、この柄のTシャツを購入してしまいました。


この絵だけを見ると、まるで現代アート作家が描いたデザイン重視のもののように見えてしまいますが、琵琶湖で釣りをしながら湖面を見つめ、肌にも感じないような微風が美しい漣をつくっていることに気づいたことが、発想の原点になっているそうです。

彼は、この絵だけではなく、雪や氷、池など、「水の姿」を描いていますが、徹底した具象観察を出発点としているからこそ、私達は水というものにさまざまな姿、表情があることに気づかされるのです。

新雪」(1948年)


もうひとつ、彼の絵の特徴として、マティス等に端を発する「大胆な色彩表現」を自らの表現手段としていることです。(マティスについてはこのブログ241回(2024.4.5)「マティスに見る「自由さ」でも少し書きましたので、未読の方はよろしければご覧ください。)若い時から稀代のカラリストと呼ばれた彼ですが、その代表的な作品が、さまざまな色遣いで描かれた竹の姿です。こちらは今回写真撮影可能な作品がありませんでしたので、ここで写真をあげることはできませんが、やはり膨大な数の写生帖、素描、下絵を通じて、自己の表現として確立させる過程で、マティスゴーギャンの手法を創造の活路として注目し、それを日本画の伝統を深く意識したうえで受け入れるという成長を遂げているのです。

しかし、全体を通してみているうちに、どうやら彼が描いていてもっとも楽しそうなのは魚の姿だということに気づきます。そこで描かれる魚は、鮎にせよ、鯉にせよ、あるいは甘鯛にせよ、とても生き生きとしています。それぞれの顔や眼の表情がそれを物語っています。このたりはやはり江戸時代以降の日本画の伝統を踏まえていると言えるでしょうか。そして、その背景(当然、それは「水」ということになります)をどのような色彩で表せば、魚たちの姿をよりクローズアップさせることができるのか、ということに心を砕いているのです。

「游鮎」(1965年) 仕上がりだけ見るととてもポップな絵に見えますが・・・


そして、ここまであげた彼の特徴、つまり大胆な構図、豊かな色彩、徹底した具象描写といったものは、従来の日本画にはあまり見られなかったものであり、むしろ西洋絵画の影響を強く受けていること、そしてそれらを総合的に組み合わせたところに現代にも通じるすぐれたデザイン性があることに気づかされるはずです。しかし、当時の京都画壇には、そうした彼の絵を快く受け入れない閉鎖的な風潮があったようで、結局、彼は故郷である大分に戻って、そこでそれまでよりも伸び伸びと画業に専念していくことになるのです。

福田氏の晩年の作として、「雲」というのがあります。これは、それまでの作品とはかなり様相が異なり、描かれているのは、ほとんど空と雲だけ。しかも彼はこの絵について公式には何もコメントを残していないそうです。この絵から何を感じるのか、鑑賞者のイマジネーションに任せたということなのでしょうか。

「雲」(1950年)

 

余談ですが、最晩年の彼は、もらった和菓子やハマグリ、林檎から子供の絵、新聞の報道写真に至るまで、目につくものを手あたり次第描いています。まさに根っからの画家だったということになりますが、その際にも、若い時から身に着けた対象を徹底して客観的に捉えていくという手法が十分に活かされていたのです。時として、身内からは「変人」扱いされたりもしたようですが、それはそうでしょう。せっかくの菓子なのに、絵が描き終わるまで食べられないのですから(笑)

最後に、彼の言葉をひとつ紹介しておきます。

「人間は凡人になればなるほど、落ち着くようだ。

俺(わし)らは画にこそ多少の自信はあっても

土台、凡人であることを

欣(よろこ)んでいる。」

うーん。画業でこれだけの実績を上げた人の言葉だからこそ、とても深い含蓄を感じますね。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

皆さん、よいゴールデン・ウイークをお過ごしください。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常243 季節の移ろいと桜

こんにちは。

 

この一週間ほど、4月としては異常なほど気温が上がっていますね。早くも熱中症が心配されていますが、皆さん、体調管理は万全でしょうか。

などと、天候不順についてぼんやり考えていたら、今度は愛媛・高知方面で大きな地震。とりあえずは南海トラフとは直接関係はないようですが、何らかの影響が出る可能性はあるとのことです。本当に地震が多いですよね。こういう状況を見ていると、1970年代に大流行した小松左京氏作の「日本沈没」を思い出してしまいます。映画も大ヒットした作品ですが、今後、この国はどうなってしまうのでしょうか。ある程度の大地震が発生するのは避けられないでしょうが、少しでも被害が小さく収まることを祈るばかりです。

 

さて、当初の予定では、今前回に引き続き、北陸新幹線の話題を取り上げようと思っていたのですが、そろそろ桜も、北海道や東北地方以外は、見納めになってきましたので、「今春の見納め」として、もう一度だけ桜の話題を書くことにしました。

今年もいくつかの「桜の名所」を訪れましたが、そんななかで、このブログでまだ取り上げていなかったところを2カ所ご紹介します。

まずひとつは、京都市上京区西陣の近くにある興聖寺(こうしょうじ)。ここは1603年に建立されたのですが、茶道織部流の祖でもある武将・古田織部がその開山に関わったことから「織部寺(おりべでら)」とも呼ばれています。普段は非公開のため、知名度はさほど高くありませんが、本堂前や方丈の庭園の美しさは格別です。また、本堂天井画「雲龍図」や、青が印象的な青波の襖が奉納された方丈もみどころです。とくに枯山水庭園の見事さは特筆すべきものです。また、臨済宗の寺院であるこのお寺は、「本気の座禅」をキャッチフレーズに、座禅体験を積極的に企画しているそうです。

ここの本堂前庭にある桜が下の写真です。桜の木そのものは数本しかありませんが、とても枝ぶりが良く、手入れが行き届いていることがうかがわれます。

興聖寺本堂(2024.4.9撮影) 以下も同様

興聖寺 中庭

美しい枝垂れ桜

咲き誇っています

 

もう一件。それは京都市伏見区にある墨染寺(ぼくせんじ)。ここは京阪電車墨染(すみぞめ)駅近くの商店街の中にあるとてもこじんまりとした寺院で、一見すると、町中にある単なる小さなお寺、と思ってしまいますが、実は、古今集に詠まれた桜が植えられており、長い歴史を有しています。それは、平安時代前期、太政大臣であった藤原基経の死を悼んだ友人の上野岑雄(かんつけのみねお)が詠んだ歌です。

深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」

という歌で、この歌が詠まれた後、境内の桜が薄墨色の花を咲かせたという伝説が残っているのです。寺の名前やこの地の地名は、この歌と伝説に基づいています。今植えられている桜は、もちろん当時のものではありませんし、その花は薄墨色というわけでもありませんが、今でもこのお寺は「桜寺」という別名で、近隣の住民には親しまれています。

墨染寺山門 今回撮り忘れたので、伏見区のサイトから拝借しました

墨染寺の桜 2024.4.12撮影

 

こちらも墨染桜

sumizome 

それにしても、この伝説からもわかるように、日本人はずいぶん昔から桜を愛でる、ということに一種特別の感情を抱いていたようです。

例えば万葉集には桜を詠んだ歌がいくつも掲載されています。

梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや」

「あしひきの 山桜 花日並べて 斯く咲きたらば いと恋ひめやも」 (山部赤人

また、伊勢物語には在原業平の歌があります。

「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 浮き世になにか久しかるべき」

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

現代歌人では、俵万智さんにこんな歌があります。

「散るという 飛翔のかたち 花びらは ふと 微笑んで 花を離れる」

キリがないのでこのあたりにしておきますが、もちろん俳句にも桜を詠んだものがたくさんあります。歌謡曲や流行歌にも桜をテーマにしたものは数えきれないほどありますよね。

 

そして、これらを味わっていると、すぐに気がつくのは、人々にとって、桜の花は「春の使者」であると同時に、「季節の移ろいをもっとも雄弁に語る花」だということです。古来、四季の移り変わりが比較的わかりやすかった日本という国。しかも桜の花は「桜前線」という言葉の示すとおり、南から徐々に北上し、日本中にくまなく春の訪れを告げてくれます。そんな花に人は浮き立つ心を隠すことはできません。しかも桜の開花時期はほんの2週間程度。とても短いのですが、だからと言って、それで桜の魅力がなくなるわけではありません。花の命が短いからこそ、人はそこに無常を感じるというのは、よく言われることです。しかし、それだけではありません。花が散った後の桜もまたとても魅力的です。新緑の息吹を感じさせる葉桜も見事ですし、下を見れば、散った花びらが道路や水面を飾る姿もとても美しいものです。とくに、水面を覆い尽くすような花びらの群れは、古来より「花筏(はないかだ)」とも呼ばれ、愛されてきました。

そんなわけで、主として平安時代頃から観賞用の花として桜を栽培し、あるいは品種改良が行われてきたようです。

現代は、少し前までのようなスムーズな季節の移り変わりがだんだんなくなりつつあり、一日で気温が10度から15度も変わってしまったり、季節外れの真夏日や豪雨が頻繁にみられるようになったりしてしまいました。しかし、いや、だからこそ、季節の移り変わりをもっと感じたいと思うのは、日本という風土の中で生まれ育った私達にとって、自然な感情でしょう。そして、その象徴となるのが桜なのです。つまり、桜を愛でるという行為は、自然に触れる行為であるようにも見えますが、現代では、きわめて人工的に作られた「春の装い」としての側面が強くなっているのです。

でも、そうしたことを踏まえても、やはり桜は美しいものです。いや、桜に限らず、「季節の移ろい」を感じさせるさまざまな花鳥風月や身の回りの物達は、きっと不滅だろうと思います。私達は、そうしたもの達に囲まれながら、ゆったりと季節を感じながら暮らしていければ・・・そんなことを想う今日この頃です。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 242 線路は続くよどこまでも?(1)

こんにちは。

 

先日、はじめて整形外科を受診してきました。前にも少し報告した腰の具合にあまり改善が認められないため、近所にある開業医で診てもらったのです。本当は、いつも通院している総合病院の方が手っ取り早いのですが、血液内科の主治医から「あそこはいつもすごく混んでいるから・・・」と言われたので、止むを得ず、という感じだったのです。しかし結果としては、気楽に話せる先生で、良かったと思っています。レントゲン

を撮って診断を受けた結果は、腰あたりの筋肉が衰えてしまっているので、ストレッチ等の体操(先生は「筋トレ」という言葉を使っていましたが、まあ、それほど大袈裟なものではないでしょう。)をした方がよい」という程度のものでした。つまり、さほど深刻な状況ではなく、中高年に差し掛かった人にもっともよくある一般的な「腰痛」というわけです。したがって、今のところは定期的に通う必要はなさそうです。人によっては、50歳前後から腰痛持ちになるようなので、私の年齢を考えると、発症はむしろ遅かった方かもしれません。「とにかく毎日体操をした方がよい。最近は、歩くことよりも体操が推奨されています。」とのことでした。

というわけで、朝夕15~20分程度のストレッチを始めたところです。さてさて、効果が出てくれれば良いのですが。

それから、念のために、腰に巻くコルセットをもらってきましたが、これはなかなか効果的ですね。外出先で着脱するのはちょっと煩わしいですが。

 

さて、以前も少し書きましたが、私は子供の頃から鉄道が大好きな人間でした。といっても、撮り鉄乗り鉄あるいは模型マニアではありません。小学生・中学生の頃は、ヒマがあれば飽きもせず時刻表を眺めていたものです。また、レールを見ているだけで、「ああ、この線路が日本中に繋がっていて、辿っていけば、全国どこにでも行けるんだ。」と妄想を膨らませていました。けっこうロマンティストだったのかもしれませんね。(笑)

そんな鉄道ファンにとって、今年3月は大きなニュースがありました。それは、北陸新幹線の金沢―敦賀間延伸開業です。長野―金沢間が開業してから9年。本来、北陸新幹線上越新幹線高崎駅から日本海側をまわって新大阪まで結ぶ、というルートが想定されており、敦賀は途中駅になります。そして、敦賀以西については、いくつかルートの候補があったものの、2016年、「小浜ルート」が自民党国会議員で作る与党整備新幹線建設推進プロジェクトチームで決定されています。当初は、もっとも建設距離が短い米原ルートまたは既存の湖西線を利用できる湖西ルートが有力視されていたのですが、これが覆された形となっています。ただ、その開業は早くても2040年代になるだろうと予想されています。(この点については、別項で少し詳しく書くつもりです。)

つまり、敦賀が終点となるのは、あくまで新大阪開業までの暫定的な措置なのです。そして、敦賀から京都・大坂方面、あるいは名古屋方面に行くには、これから20~30年もの間、ここで在来線への乗り換えが必須となってしまったのです。

既に色々なところで報道されていますので、詳細は割愛しますが、敦賀駅での乗り換え、かなり評判が悪いようです。乗り換えに必要な時間は8分というのがJR西日本の想定ですが、それはあくまで移動にまったく支障のない場合であって、ある程度駅構内の様子がわかっている場合に限られます。高齢者や身体障碍者、多くの子供を連れている家族、大きなキャリーバッグ等を抱えている場合などは、この短時間での乗り換えは「絶対無理!」と酷評されています。また、普通に早足で歩ける人でも、敦賀駅でトイレに立ち寄ったり、買い物をしたりする余裕はおそらくほとんどないでしょう。ということは、敦賀駅売店も大きな売り上げは期待できない、ということですね。

もちろん、次の電車に乗れば時間的余裕は生まれますが、そうすると、せっかく新幹線に乗ったことによる時短効果がなくなってしまいます。また、これまで新幹線と在来線特急を乗り継ぐ際に適用されていた「乗り継ぎ割引(在来線特急券が半額になる)」が廃止されたため、特急料金は相当高くなってしまっているのです。(この「乗り継ぎ割引」は北陸新幹線だけのものではなく、基本的にはJR全線で適用されていたものですが、先月全面的に廃止されてしまいました。念のため。)

また、敦賀から関西へと走る特急サンダーバードはかなりの強風が吹き荒れることで有名な湖西線を走るため、しばしば大幅に遅延します。そんな時、敦賀での乗り換えがどうなるのか、下手をすると、大混乱になってしまうのではないか、と憂慮されています。

過去の事例を見ると、金沢・富山方面から北陸線を経由して越後湯沢で上越新幹線に乗り換えて東京方面に向かっていた際にも、北陸線の特急はしばしば遅延し、そのたびに越後湯沢駅の乗り換え改札口は自動改札を全開放して対応せざるを得ないことがよくありました。それでも新幹線ホームに着くのはギリギリになってしまい、ようやく自分の席で落ち着いたと思ったら、既に高崎付近まで来ていた、などということもありました。また、あんなことが繰り返されるのでしょうか。

北陸新幹線を走るE7系W7系) JR西日本のサイトより転載

 

 

在来線の特急サンダーバード(681系、683系)の先頭車両と最後尾車両。特急しらさぎも同じ車両を使用している。(カラーリングは異なる)JR西日本のサイトより転載



敦賀は京都・大坂からは1時間から1時間30分、富山・金沢からでもほぼ同様の所要時間となります。つまり、乗客は、旅の行程の途中で、乗り換えのために自分の時間を中断されてしまうのです。うたた寝していた人、パソコンで仕事をしていた人、読書していた人、食事をしていた人・・・皆にとって迷惑ですよね。私の場合は、列車でうつらうつらするのが好きなのですが、そんな時に「はい、乗り換えです!」とたたき起こされるのは正直なところまったく迷惑な話です。

ちなみに、敦賀から特急しらさぎ米原・名古屋方面に向かう人にとっては、もっとせわしなくなっています。敦賀からわずか30分の米原で、東海道新幹線への乗り換えまたはしらさぎ車内での座席の方向転換協力を要請されるため、ゆっくりしている時間はまったくないのです。

しかし、最大の問題は、やはり上にあげたような、通常より歩行に時間を要する人に「優しくない」ことでしょう。敦賀駅の新幹線ホームは3階、そして在来線特急のホームは1階ですので、エレベーターやエスカレーターを利用しても、どうしてもある程度は歩かざるを得ません。これが肉体的・精神的にかなりのストレスを誘発させてしまうことは、事前に予測できたはずなのですが、私の知る限り、JR側からのフォローはまったく不十分です。こんなに利用者に「優しくない」乗り換えは他にあまりないのでは?と思ってしまいます。

とはいえ、既に完成してしまった敦賀駅を今から大幅に改築することは不可能です。では、現段階でとりあえずできることは何なのでしょうか。

私にも妙案があるわけではないのですが、最低限出来ることとして、指定席券を販売する際、とくに客側からの希望がなくても、なるべく歩く距離が短くなるように、両列車の席を確保するよう、みどりの窓口等で徹底する、ということは必要だと思います。新幹線車両は1両25~30m程度ありますから、たとえ1両分だけでも歩くのに1分以上かかってしまう方も少なくないはずです。そうした負担を少しでも軽減するには、指定席の確定時点で出来る限り歩く距離が短くなるよう配慮を行う、というのは、鉄道を動かしている会社としての責務ではないでしょうか。(最近は、みどりの窓口そのものがどんどん閉鎖されていて、これもまた利用客をないがしろにするものではないか、と問題視されているところですが、ここではこれ以上深堀りは止めておきます。まあ、みどりの券売機みどりの券売機プラスをもっと利用しやすいように工夫してもらいたい、ということだけ、とりあえず記しておきます。ちなみに、私自身は、JTB等事前予約のできる旅行会社の窓口で切符を買うようにしています。大きな駅のみどりの窓口の行列は、とんでもないことになっていますので。)

敦賀以西のルート案



敦賀という街は、明治時代には大陸に渡る航路の港として注目され、とても栄えたところですが、その後はどちらかというと地味な存在で、1970年代以降は、原発のイメージが強くなってしまったところです。つまり、観光地としての注目はあまり浴びてこなかったところです。しかし今、新幹線開業に合わせて、敦賀近郊を観光地として見直し、首都圏等からの集客を図ろうとする動きが加速化しています。その中にはとても魅力的な試みもあるようで、これを機会に敦賀(あるいは福井県全体)がもっと繫栄するようになれば素晴らしいことだと思います。しかし、今回紹介したような新幹線および駅のマイナスの面が注目されてしまうと、せっかくのチャンスが萎んでしまいかねません。そんなことにならないよう、JRや福井県敦賀市には不断の努力を重ねてほしいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださりありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 241 マティスの「自由さ」 

こんにちは。

 

 

先日、所用のため東京に行ったのですが、相変わらず人が多いですね。八重洲中央口にあるタクシー乗り場では、30分以上待たされることになりました。まあ、長蛇の列ができていても、タクシーはどんどんやって来るので、さほどイライラすることはありませんでしたが。

 

さて、東京では、空き時間を利用して新国立美術館で開催中の「マティス 自由なフォルム」展」を見てきました。アンリ・マティス(1869-1954)は20世紀を代表する「巨匠」と呼ばれる画家の一人で、「色彩の魔術師」とも称されたことは良く知られていますね。

マティス展の撮影自由エリアより 以下も同様





彼は、若い時はその大胆な色彩感覚から「野獣派」(フォーヴィスム: Fauvisme)と呼ばれていました。

伝統的に西洋画の世界では、写実的、つまり目に見える色彩に基づいて描くことが当たり前とされてきたのですが、そうした書き方からは決別して、心に映る色彩を通して自己の内面を表現しようとしたのが、野獣派の基本的なスタンスでした。その、これまでとはあまりにも異なる手法から、野獣派と名付けられたのです。野獣派の画家としては、マティスの他、アルベール・マルケ(Albert Marquet)、ラウル・デュフィ(Raoul Dufy)、キース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen)等がいますが、20世紀初頭に現れたこの運動そのものは、さほど長期にわたって画壇を席巻することにはなりませんでした。

後の多くの画家に大きな影響を与えたにもかかわらず、西洋絵画史の中で、野獣派が現代ではさほど注目されていないのには、上にあげたような画家たちが必ずしも同じ方向を向いていたわけではない、ということがあります。それに加えて、「自由」を愛する彼等にとって、○○派と分類されることにはかなりの抵抗感があったのではないか、と私は思っています。

人間の個性は一つの言葉や枠組み押し込められるほど単純なものではありませんし、日々変化していくものですから、画壇に限らず、○○派とか○○流と呼ばれることに息苦しさを感じる人が出てくるのは当然のことです。思い返してみると、私自身も若い時に「○○大学の出身者」とか「○○先生の弟子筋」などと呼ばれることには、ちょっとした戸惑いを覚えたものです。もちろん、はじめてお会いする人にそのように紹介されることは、「自己紹介の入り口」としては有効なのはよく理解できるのですが、いつまでもそれに引きずられてしまうことは、自分を表現するうえでは邪魔なものになってしまうのです。

話が横道に逸れてしまいましたが、何よりも「自由」を愛していた野獣派の彼等にとっては、このような気持ちが強かったことは想像に難くありません。

南フランスのニースに移住後、マティスは明るい空と日差し、そしてそこで自由に闊歩する美女たちに出会います。北フランス出身の彼にとって、それはとても衝撃的だったようで、「翌朝またこの光を見られると知った時、私は自分の幸運が信じられなかった。」と記しています。そして、瑞々しい色彩感覚はそのままに、人物画や風景画を数多く生み出し、また身体が思うように動かなくなった晩年は切り紙絵で新境地を開き、また、ニースから約20㎞離れたヴァンスにロザリオ礼拝堂の建設等に深くかかわったことは彼のライフワークとも集大成とも言われています。さらに、舞台芸術や彫刻にも注目すべき足跡を残しています。

さまざまなジャンルの作品を残したマティスですが、一見すると、実に簡単に絵をかいているようにも見えます。それは現代にも通じる「軽さ」を内包したデザイン感覚とも言うべきものでしょう。しかし、注意深く見ていると、それは安直に「自由」という言葉を使うのがためらわれるほど、とても細かく計算され、試行錯誤を繰り返した結果としての作品であることが良くわかります。たしかに、色彩やフォルムはとても自由な着想に基づいているのですが、決してアドリブ的に筆を進めたものではなく、自己表現の手段として自問自答を繰り返した結果としての筆遣いであり、切り絵なのです。そういう意味では、同時代に生きたピカソとの共通性が見られると言えるのかもしれません。(もっとも、キュビズムの旗手とされたピカソがより理知的であったのに対して、マティスは、もっと自己の内面にある「感覚」を大事にしていたようです。)

とくに晩年になればなるほど、マティスの作品の色彩やデザインは単純なものへと変化していきます。だからこそ、誤解されるところがあるのかもしれません。しかし、その表面に現れた自由な感性は実はそれとはまったく異なる内面を表したものである。それがマティスの作品をたくさん見た私の感想です。やはり、何かを見たり聴いたりしたとき、その表面だけから判断することは、その本質を見誤ることに繋がるかもしれないからこそ、注意しなければならないということですね。そんなことをつくづく考えさせられました。

 

東京からの帰路の途中、好天に恵まれ、新幹線から見える富士山はとても美しかったです。富士山に登ったことはないのですが、こうやって遠くから眺めるだけでも、ここが日本を代表する場所であることは実感できます。でもその美しさに魅せられたばかりに、そこが実は荒々しい気候を有していることを忘れ、軽装ででかけてしまった故に、亡くなったり、大きな傷病を背負ってしまったりした人もたくさんいるわけです。


物事にはなんでも両面がある、というのは乱暴すぎるまとめかたでしょうか (笑)

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常240 ポリーニの訃報に接して

こんにちは。

 

20世紀後半を代表するイタリア人ピアニスト、マウリッツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)が亡くなりました。享年82歳。今のところ、死因は明らかにされていないようです。

ポリーニは1960年、わずか18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝しています。この時、審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べたそうで、これを機会に一躍国際的な名声を勝ち取り、華々しいデビューを飾ったのです。

その後、マルタ・アルゲリッチ、ウラディミール・アシュケナージらとほぼ同世代のピアニストとして輝かしいキャリアを積み重ねた人ですが、彼が他のピアニストと異なるのは、ショパン・コンクール優勝後、約8年もの間、イタリア国内でのごく限られたステージに立った以外はほとんど表立った活動を行わず、いわば「雲隠れ」状態だったことです。この期間、もともと興味のあった物理学をミラノ大学で学んだりもしていたようですが、「さあ、これから」という時期に活動をあえてセーブした最大の理由は、どうやら、自身のテクニックや音楽性がまだまだ未熟だと感じているうちに流れに乗って世界ツアー等を行う多忙な生活に入ってしまうことに対する大きな抵抗感、不安感があったようです。ちなみに、この期間に、同郷の世界的ピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに師事しています。

キャリアの積み重ねという観点からすると、彼のこのような行動はとても興味深いものです。

コンクールとは、言うまでもないことですが、若手のピアニストが「世界に自分という存在を認めさせたい」という希望をもってチャレンジするものです。ですから、そこで好成績を収めることは、将来に向けての展望が一気に広がる大きなチャンスを得るということであり、誰もが、それを逃したくはないはずです。一気に増える仕事の依頼を何とかこなすことによって、コンクールの成績がフロック(まぐれ)だったと見なされないように、大きなプレッシャーを感じながら、必死に演奏活動を行っていくのです。国際コンクールは毎年のように行われますから(ショパン・コンクールは5年に一度ですが)、新しい優勝者・入賞者は次々に現れます。そんな人たちの中に自分が埋もれてしまい、忘れられてしまわないようにするためには、意地でも食らいついていかなくてはならない。それが演奏活動を行うプロの演奏家としての道を歩み始めた者の宿命なのです。しかし、大きすぎるプレッシャーと多忙なスケジュールに押しつぶされて、早々に自分の才能をすり減らし、演奏家として大成できないまま終わってしまう人も少なくありません。

しかし、ポリーニはこの絶好の時期に、8年ものブランクを自ら設けたのです。とても思い切った決断です。と同時に、自分の立ち位置、現在の状況を客観的に判断し、それを行動に大胆に反映させることのできた彼の信念、ピアニストとしての矜持には感嘆するしかありません。裏を返せば、実は、彼には自分の将来のビジョンに絶対的な自信を持っていたということなのかもしれません。

しっかりと未来を見据えながら、キャリアを構築していく。それはある意味では理想的なライフ・ステージの作り方でしょう。しかし、誰もがポリーニのようにこれを実現できるとは限りません。どんなビジョンを持っていても、社会環境の変化その他によって、計画がもろくも崩れてしまうことはいくらでもあります。それでも、彼の生き方から色々と感じるところがあるのもまた事実なのです。

 

ポリーニは、実にレパートリーの広い人で、バッハからベートーヴェン、現代曲に至るまで、さまざまな曲を録音として残しています。訃報記事を読んでいると、この人の演奏の特徴を「正確無比」とか「精密機械のよう」と表現しているものが目立ちます。それは決して間違った表現ではありません。しかし、正確無比な演奏を行うピアニストは他にもたくさんいます。そのため、私自身は、このような表現に若干違和感を持ってしまうのです。

私がはじめて本格的にポリーニの演奏に向き合ったのは、まだ20歳代後半の頃、当時発売されて間もなかったショパンのピアノ・ソナタ第2番と第3番がカップリングされたCDを購入した時にさかのぼります。今思うと、私が購入したCDの中でもかなり初期のもので、それ以来ずっと棚の一角に飾られています。

ショパンの「葬送」 楽譜が苦手という方は、各和音の一番上の音だけを辿ってみてください。聴いたことのあるメロディが浮かんでくるはずです。


ピアノ・ソナタ第2番は、その第3楽章に誰もが知っている「葬送行進曲」のメロディが現れることで良く知られているとおり、とても重い雰囲気の漂う曲です。そして、ポリーニの演奏はまるで大ぶりの切れ味鋭い刀で空気を切り裂くような、そこを少し触るだけで、ケガしてしまいそうな、そして息苦しくなるような、ピリピリした雰囲気が終始漂うものでした。それだけ、このショパンは心の奥にズバッと切り込んでくるようなものだったのです。そこにはとても強くて太い「芯」のようなものがあり、それが私の心に突き刺さってくるのですが、それは決して荒々しいものではなく、もっと奥深いものを感じさせる演奏だったのです。これは、若輩者であった私にとっても、とてもインパクトの強いものだったことはよく覚えています。

ポリーニの演奏は、年齢を重ねるにしたがって、もっと深い解釈と深淵な美しさを湛えるようになります。例えばシェーンベルグ。あるいはドビュッシー。若い時に比べて、その音色はややソフトになっています。この人、もともと「歌心溢れる」というタイプの演奏をするわけではないのですが、年齢を重ねるにしたがって、美しい弱音が目立つようになり、私達にゆったりした気持ちをもたらしてくれるようになります。そこには、物理学にも興味を持っていた彼独自の分析力が如何なく発揮されていると言えるのかもしれません。もちろん、正確無比な技巧は若い時のままです。そして、時折見せる「強さ」、そして壮大なスケール感は若い頃を彷彿とさせるものであると同時に、彼の類まれなる成長ぶりを実感させられるものだと言えるでしょう。

こんな幅広さと強靭さ、そして客観的な分析力をもつピアニストだからこそ、ポリーニは世界中で認められたのです。決して情緒的な雰囲気に流されるようなことはありません。かといって、ただただ冷徹無比な演奏を目指しているわけではありません。そこに彼の演奏の魅力があるのです。

彼のような存在が、今後現れるのかどうか、わかりません。ただ、彼が残した録音はこれからも多くの人を魅了し続けることでしょう。

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

閑話休題

今週は、妙にうすら寒くて、全国的にソメイヨシノの開花は予想よりも遅れているようですが、京都御苑では、糸桜(枝垂れ桜)が見ごろを迎えています。これもまた、とても見応えのある桜ですね。来週はいよいよソメイヨシノの出番でしょうか。

京都御苑近衛邸跡に咲き誇る糸桜

同上

こちらは御苑すぐそばの冷泉家の桜(バックは同志社大学の建物)





今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常239 どうなる?どうする?河津桜

こんにちは。

 

今週木曜日は、予定通りの通院。そしていつも通りの副作用で、翌日あたりは胃腸の調子があまりよくありません。どうも私はステロイド系の薬に若干弱いらしいです。薬そのものは違うものになってきているものの、ステロイド系の薬はずっと服用し続けています。そして、この副作用の症状にはもう慣れっこになってしまっていますし、悪くても数日で元に戻るので、主治医の先生もあまり気にしていないようです。もうちょっと気にしてくれよ、と思う時もないわけではありませんが、抗がん剤の副作用というのは場合によっては耐えられないような高熱や激しい腹痛、強烈な手足のしびれ、どうしようもない倦怠感等を引き起こすこともあるようで、私の場合はまあ「たいしたことない」部類に入るようです。こればかりは、しょうがないですね。

 

さて、前回はソメイヨシノ河津桜について書きましたが、実は、河津桜の本家本元である静岡県において、今、深刻な問題が持ち上がっているそうです。それは、1997年の河川法改正・施行によって、原則として植物の植え替えができなくなってしまったことです。桜の寿命は長い物でも50年から60年ですから、第二次大戦後に植えられた木の寿命はこれからどんどんやって来るわけで、その植え替えができないとなると、深刻な問題です。寿命がきた老木を切り倒したら、後は何もできないとしたら、「桜の名所」という肩書は返上することにもなりかねません。

なぜこんな法律改正が行われたのでしょうか。

1896年に施行された河川法は、主として河川整備の目的を「治水」と定めていました。これによって、近代河川制度・管理の礎が築かれたのです。その後、1964年に施行された改正法では、目的を「治水・利水の体系的な制度の整備」と定めました。つまり、運輸や灌漑の便を図るために、また洪水のリスクを少しでも減らすために、護岸その他の工事を進めるだけでなく、流れている水の効率的な利用を図ることが視野に入れられたのです。そして1997年の改正法では、これに加えて河川環境の整備・保全が強く求められるようになり、「治水・利水・環境の総合的な河川制度の整備」という文言がその16条に規定されるようになったのです。

ここでとくにクローズアップされたのが「環境」です。

桜に限らず、河川敷に美しい花を咲かせる木々が植えられているのは、全国で見られる光景です。古くは、徳川吉宗がこれを推奨したそうです。ただ、吉宗は同時に、堤や堤防を踏み固めることをも強く推し進めようとしました。木が根を張ると,どうしても地盤が弱くなる。木の生えているのが斜面だったりすると、さらに危険度は増します。すると、その分堤防としての役割が果たせなくなってしまうということに、吉宗は気がついていたのです。

その後、土木工事が進化するにしたがって、人力で土を踏み固めることは少なくなったのでしょう。吉宗の危惧は河川整備の観点から少し忘れ去られるようになってしまったようです。しかし、このようなメカニズムが存在することには江戸時代も現代も変わりありません。とくに、桜並木のように、人々の目を楽しませるために、ある時期に一気に植えられたものについては、老木化し、やがて、根が細り、その分土の間に隙間がたくさんできてしまう、ということが大規模に起きてしまう可能性があります。また、若い苗木が「地面を固める」という役割を果たさないことは言うまでもありません。

そんなわけで、1997年改正法では、河川およびその周辺の環境整備という観点から、堤防の上および川面側の斜面に新たに木を植えることが、事実上禁止されたのです。

もちろん、そのすべてが禁止されたわけではなく、自治体が地元住民の意見を聴取したうえで、許可することは必ずしも妨げられていません。また、最近の時流に乗って、インバウンドの増加を狙った「観光特区」のようなものを国に申請するというのも、ひとつの方法なのかもしれません。しかし今のところ、少なくとも静岡県はそのような方向に舵を取る予定はまったくないようです。「桜は堤防を弱める恐れがあり、新たな植樹は認められない」というのがその見解です。

結局のところ、環境・安全を重視しようとすれば、観光面での魅力はある程度犠牲にせざるを得ないというのが、現在の状況なのです。

河津でこの事態が今後どのように収束していくのかはまだわかりません。地元の方からしても、洪水等のリスクが高まるのは避けたいし、かといって、せっかく観光で訪れる人が多くなったのに、もったいない、という気持ちも強いでしょう。もちろん、斜面の反対側や川面から少し離れた遊歩道・緑地などに植え直すということは可能でしょうが、そうるすと、これまでとは景観が異なってしまうのが悩ましいところのようです。

この問題、おそらく日本中の河川敷で起きているだろうと思います。なんとか解決の糸口をみつけるべく、行政と地元住民が協力してアイデアを出しあっていければ良いのですが・・・

桜の問題に限らず、観光面での魅力増大を推し進めようとすると、どうしても他の何かが犠牲にされてしまうということは往々にしてあります。日本が「観光立国」としての立場をもっと推進していこうとするならば、その「犠牲にされる何か」への配慮とバランスを念頭に置いていかねばならない。そんなことを美しい桜並木は教えてくれているのかもしれません。

ちなみに、京都・淀の河津桜の場合は、整備されたのが2002年以降で、1997年改正法の施行後ですので、そのあたりはうまく対策が取られているようです。前回の投稿の1枚目の写真を見て頂ければ、それはなんとなくわかっていただけるだろうと思います。(念のため、再掲しておきます。)

京都・淀の河津桜(再掲)

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常238 ソメイヨシノと河津桜

こんにちは。

 

前回、もともと仏教用語であった言葉が一般用語として使われるようになるにしたがって、少し意味が変化した例として「引導を渡す」をご紹介しました。

このような言葉は他にも色々あるようです。例えば「無事」という言葉です。現在では、「無事に暮らしています」など、変化が特になく、つつがないことを示す言葉として広く用いられていますが、本来の仏教用語では、「精神的になすべきわずらわしいことのない状態を意味し、こだわりがなく、障りのない心の状態」を示しているそうです。まあ、広い意味では似ているといえば似ていますが、参考まで。

 

啓蟄も過ぎ、日に日に春らしさが増してきましたね。そろそろ桜の開花情報も流れてきそうです。開花情報と言えば、各地の基準木であるメイヨシノの開花を基準として気象庁が発表していることはよく知られていますが、なぜ、数ある桜の種類の中でソメイヨシノが基準とされているのでしょうか。そして、この桜が日本中に普及したのは何故なのでしょうか。

ソメイヨシノは、自然種ではなく、交雑種(こうざっしゅ)、つまり、一本の母木から枝をとり接ぎ木して増やした品種です。もう少し具体的に書くと、母をエドヒガン、父を日本固有種のオオシマザクラの雑種とする自然交雑もしくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種のサクラなのです。このことが明らかになったのは意外と最近で、1995年に遺伝子研究を行った結果だそうです。

ソメイヨシノの原産地ははっきりわかっていませんが、江戸時代、植木職人が多く暮らしていた染井村(現在の東京都豊島区駒込付近)から売り出された「吉野桜」が始まりと考えられています。奈良県の桜の名所・吉野山にちなんだ名前の付け方で、ブランド戦略の一種とも言えそうです。

ソメイヨシノ登場以前に桜の代名詞だったのはヤマザクラですが、これは花見ができるほど多くの花がつくサイズ(高さ10メートル前後)まで成長するのに10年はかかるのですが、ソメイヨシノは5年ほどで見栄えのするサイズに育ちます。つまり、成長が早くて花が大きく見栄えがいい。この特徴は花見の名所を作る側からすれば好都合です。これが明治時代以降、ソメイヨシノが全国に普及した理由のひとつです。しかし、もうひとつ大事な要因があります。

第二次大戦後の復興期にソメイヨシノの苗木の生産がさかんに行われたのです。戦後少し社会が落ち着きを見せ始めた昭和20年代、戦争で失われてしまった桜並木を復活させて世の中を明るくしようという国民の気持ちが高まります。そして、桜の名所を復活させるためにソメイヨシノが復興の象徴とされたのです。上にも書きましたように、成長の早いソメイヨシノはこの思いを託すのはぴったりだったのです。暗い時代を少しでも明るくする。この時代に植えられたソメイヨシノに与えられた使命はとても大きなものであり、その開花を喜ぶ人々の感情は、単に「美しい」というものを超越していたのかもしれません。ただ、ソメイヨシノの寿命は60年~80年と言われていますので、戦後まもなくの時期に植えられた木はそろそろ植え替えの時期が迫っていることになります。

 

現代では、計画的に植え替えを行うことができれば、必ずしも成長の早さだけに目をつける必要はなくなっています。そこで、これ以外の品種への注目も集まっています。

その代表格が河津桜でしょう。

伊豆半島に多くの名所があることで近年有名になったこの品種は、1955年に静岡県河津町で偶然発見されたもので、1966年から発見者のご自宅の庭で開花するようになったそうです。オオシマザクラカンヒザクラの自然交雑から生まれた日本固有の栽培品種で、現在でもその原木はこの地にあるそうです。1970年頃から各地に増殖されるようになったのですが、大輪で、ピンクの華やかな花弁、そして何よりもソメイヨシノに比べて早咲きであるうえに、見頃の期間が長いことが注目されたのがその要因だろうと言われています。

この河津桜、伊豆方面に名所がたくさんあることは言うまでもないのですが、関西にも少ないながらも、名所として注目されている所はあります。そのひとつが、京都市伏見区の淀水路沿いに植えられている300本ほどのサクラです。淀という場所、古くは豊臣秀吉の側室であった淀殿が居城としていた淀旧城(実は、淀城はもうひとつあります。こちらは徳川秀忠が建てたものですが、話が脱線しますので、今回は割愛します)、またJRAのG1レースも行われる京都競馬場の立地する場所として知られていますが、2002年に伊豆を訪れた地元住民が、河津桜の苗木を2本購入し、京都市の許可を得て、淀水路沿いの淀緑地に植え、それが次第に拡大して、現在に至るそうです。住宅街の真ん中を通っているこの水路は、それまでお世辞にも美しい場所とは言えなかったようですが、現在では多くの観光客を集めるスポットとなっています。最寄駅は京阪電車淀駅ですが、近年では、京阪電車も積極的に広報しています。私が訪れたのは、3月11日でしたが、平日にもかかわらず、とても賑わっていました。そして、その半数近くは外国人の方々でした。比較的地味な観光スポットの情報をどこで仕入れてくるのか、少し不思議に思いましたが、きっと「京都でもっとも早く花見のできる場所」として外国人向けのサイトやSNSに紹介されているのでしょうね。


ここでサクラを眺めていて湧き上がってくるのは、何ともゆったりした、というか弛緩した「春が来たんだなあ」という感情です。たしかに人の数は多いのですが、ベンチに座ってしまえば、そんなことは気になりません。できることなら、ここに1時間でも2時間でも佇んでいたい。そんな穏やかな気持ちになれる場所でした。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常237 引導を渡す

こんにちは。

 

昨日は、2週間ぶりの通院で、朝8時半から夕方4時半までずっと病院にいました。前にも書きましたが、こちらは待合室にいたり、ベッドで寝転んだりしているだけなのですが、やはり疲れます。途中、点滴の間にはおやつは食べましたが、もちろん本格的に食事をとることはできませんので、空腹もあって、最後はヘロヘロになっていました。とはいえ、その時間からガッツリ食べてしまっては、今度は夕食に差し支えますので、コンビニで軽くおにぎりを買って帰りましたが、何だかイマイチでした。とくにご飯が・・・。

最近は何処のコンビニも、おにぎりに関してかなり工夫が進んでいるという話を聞いていたのですが、私の感想は、「前よりは良くなったかもしれないが、もっとがんばってくれ」というものです。やっぱりご飯は家できちんと炊くのがいちばんのようです。ちなみに、最近は高いものだと10万円越えの高級な電気炊飯器などもありますが、ガスの方がうまく炊けるような気がします。近年のガスレンジについているご飯を炊く機能は大変な優れモノで、ちゃんと「はじめチョロチョロ、中パッパ」を自動でやってくれますし、水加減がある程度適当でも、まず炊きそこないにはなりません。

いずれにしろ昨日は、食事の面ではあんまり良い日ではなかったですね。

ただ、検査結果は非常に良好で「上がるべき数値はちゃんと上がって、下がるべき数値はちゃんと下がってますね」というものでした。また、歯科でも「最近歯の調子が良くなってますね。磨き方も前より上手になっているみたいですよ」と褒められました。こんな感じでずっといければ良いのですが、ぬか喜びはしないように、と自重しています。

そういえば、漫画家の鳥山明さんが亡くなりましたね。享年68歳。死因は急性硬膜下血腫だそうです。報道ではもっぱら「代表作であるドラゴン・ボール」について触れているようですが、私の世代にはやはり「Dr.スランプ」ですね。あれをはじめて読んだ時の衝撃は忘れません。あんなに過激なのに、ほのぼのした、そしてほとんど説話じみたところのないギャグマンガにはなかなか出会えるものではない、と感じたものです。と思っていたら、今度は「ちびまる子ちゃん」の声優として有名だったTARAKOさんが63歳という若さで亡くなったという訃報が飛び込んできました・・・本当に、声を失ってしまいます。せめての思いとして、故人のご冥福をお祈りするばかりです。

 

さて、今日の本題は日本語の慣用句についてです。

皆さんは「引導を渡す」という言葉をご存じですよね。でも、その本当の意味というか、本来の使いかたをご存じでしょうか? 恐らく多くの人は、相手に詰め寄って、その言動をあきらめさせる、というような意味、つまり、相手をやり込める、というような意味だと思っておられるかもしれません。かく言う私もそうでした。

しかし、これは少し違っています。

私はつい最近、「引導を渡す」場面に遭遇しました。場所は葬儀会場。渡したのはお経をあげておられた僧侶の方。そして渡されたのは亡くなった方でした。

そう、つまりもともとこの言葉は仏教用語なのです。そして本来「引導」は、人を悟りに導いたり、亡くなった人が問題なく仏の世界へ行くために唱える「法(真理や教え)」のことを指すのです。仏教では、亡くなったことに気づいていない故人がこの世をさまよい、亡霊になることを防ぐため、僧侶が法語を唱えて死を伝えるのが基本です。このように滞りなく仏の世界へ行けるよう導くことを「引導を渡す」と言います。もうあの世へ行くときが来たことを故人にわかってもらう行為であることに由来して、その後、相手への最後の通告、諦めさせる、といった意味で用いられるようになりました。

このように本来は「教え、ただし、導く」のが言葉の正確な意味なのです。

ただ、同じ仏教の中でも、宗派によってその方法は少々異なっています。

例えば、一般的には、葬儀前に僧侶が親族に亡くなった人の生きていた頃の話を聞き、引導法語を作ります。四六文(しろくもん)と呼ばれる形式の漢詩文を取り入れるのが基本です。もう少し細かく見ていくと、曹洞宗では松明を用い、禅師による引導法語(いんどうほうご)によって葬儀の儀式が行われます。終盤で「喝(カツ)」や「露(ロ)」など大きな声を出すのが特徴です。亡くなったことを故人に告げ、心安らかに仏の世界へ行ってもらうための意味があります。また臨済宗では、松明で円を描き、引導法語を唱えます。亡くなった人の人徳を称え、禅の教えを説くことでこの世への未練を断ち、仏性が目覚めるように導くのが基本です。仏性とは、仏になるための素質のこと。そして、言葉では表せない禅の教えを「喝」や「露」の一声に込めます。

これに対して、浄土宗では、引導のことを下炬(あこ)と呼ぶことがあります。下炬はもともと、故人の遺体を火葬する際に薪などに火をつける行為を意味する言葉でした。現在の葬儀では導師が2本の松明を持ち、1本を捨て、残りの1本で円を描き引導の句を唱えます。ところが、浄土宗に近い宗派である浄土真宗の教えでは、亡くなった人は阿弥陀如来によって浄土に生まれ変わり、導師が浄土へ導くわけではないと考えられています。そのため、葬儀では引導はおこなわれません。

この他、天台宗真言宗などでも独自の引導の方法が定められています。ただ、現代の屋内で行われる葬儀では、松明に火をつけて使用することはありません。まあ、これは当たり前ですね。あっという間に火災報知器が鳴って、消防車が飛んできてしまいます。

私が今回経験したのは、浄土宗の葬儀でした。これまでに浄土宗の葬儀に参列したことがあったのか、なかったのか、ちょっと記憶が曖昧なのですが、とにかく、僧侶の方が松明らしきものを上に持ち上げたかと思うと、いきなりそれを放り投げた時には、心底びっくりしました。眠気も吹っ飛ぶ、というやつでしたね。(笑)。そして帰宅後、ちょっと調べてみて、それが「引導を渡す」という行為だと知った時には、もう一度驚いたことは言うまでもありません。ちなみに、放り投げられた松明は、供花の飾ってある付近に落下し、葬儀が終わるまで、そのままにされていました。屋外で、火がついている状態だったら、もっと宗教的意味を感じられたのかもしれませんね。

いやあ、何歳になっても「はじめて知る」ことってたくさんあるんですね。勉強になりました。

 

というわけで、今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 236 あべのハルカスと天王寺動物園

こんにちは。

 

早いもので3月になってしまいました。ということは、能登地震からちょうど2か月。そして、ロシアのウクライナ侵攻からは2年が経過しました。また、パレスチナガザ地区での死者は遂に3万人を超えてしまったそうです。こんなことに「キリの良い数字」などというものはないのですが、色々なことを考える機会にはなります。できるだけ落ちついた気持ちをキープしながら、ニュースに接し、一方的だったり、極端だっ

たりする報道やSNSの書き込みには振り回されないようにしていきたいものです。

 

前回は、円空の仏像について自分なりの感想というかまとめを書きました。あくまで私見ですので、私とは異なる見方をされた方もたくさんいらっしゃると思います。この展覧会は、4月7日まで開催されています(巡回開催はないようです。)ので、興味を持たれた方は、あべのハルカス美術館までどうぞ。

 

さて、円空展はとてもパワーに満ち溢れたものですが、100体以上の仏像を鑑賞すると、さすがに疲れてきます。そこで、昼食後、ビル内58~60階にあるあべのハルカス展望台に出かけて、ぼんやりと過ごすことにしました。あべのハルカスという建物、10年前に建てられたのですが、高さは300mで、昨年までは日本でもっとも背の高いビルだったそうです。(現在は、東京の麻布台ヒルズ 森JPタワー が330mで一位となっています。)

高速エレベーターで上まで登ると、さすがに「高いなあ」というとても単純な感想しか湧いてきません。ここは360度すべての角度が見えるのですが、やはり高層ビルが立ち並ぶ北側(梅田方面)の見晴らしが最もよいようです。もちろん、堺方面が見える南側、天気が良ければ生駒山がくっきり見える東側、そして大阪港方面を見下ろす西側も悪くはないのですが、300mはあまりにも高すぎて、折角の眺めが遠すぎるのです。梅田方面は、ある程度高いビルが並んでいるので、ここからの眺めも、ちょうど良い感じになります。また、真下には天王寺動物園の緑も見えます。ただ、60階にはベンチなど、ゆっくり座る場所はちょっと少ないようです。そこで58階まで降りると、カフェがあり、ゆったりできる椅子もたくさんあります。カフェにはパイン飴(阪神タイガースの岡田監督が好きだ、ということで昨年話題になったやつですね)を砕いてトッピングしたソフトクリームを売っていました。400円という値段は、こういうところにしてはさほど高くなかったので、「話題作りに」と思って買ってみたのですが、けっこう美味しかったですよ。

そもそも58階の眺めは60階とさほど変わりませんので、まあ、ここで十分ですね。(ただ、エレベーターで一度60階に上らないと、ここには来れません。)

そんなわけで、58階のベンチでしばらくぼんやりと過ごしていました。天気も良かったので、とても気持ちが良く、そんな中で円空仏を思い出すのもまた一興です。ただ、「今ここで大地震が起きたらどうなるんだろう」という考えがふと頭をよぎってしまいました。もちろん免震構造にはなっているのでしょうが、相当の揺れが襲うのは容易に想像できます。周りを見渡して、「あのテーブルや植木はひっくり返るどころか、遠くにまで吹っ飛ぶんだろうなあ」とか「カフェはほとんどの食器が割れてしまうんだろうなあ」とかリアルにその映像が頭に浮かぶにしたがって、恐ろしくなってしまったことは否定できません。

あべのハルカス展望台から北側を望む

あべのハルカス58階から60階の様子


そんなこともあったため、30分ぐらいで下に降りてきましたが、もう少しほっこりしたかったので、すぐ近く(と言っても徒歩10分ぐらい)の天王寺動物園を訪れることにしました。ここにははじめて来たのですが、街中にもかかわらず、予想していたよりもはるかに大規模で、ちょっと驚きました。ただ、あちこちで工事を行っている最中だったのがちょっと残念でした。おそらく、来年に迫った関西万博の開催に合わせてリニューアルをしようとしているのでしょうね。

昼過ぎということで、哺乳類動物の多くは、食事が終わった後の「お昼寝タイム」に入っていて、動きが何となく鈍かったようです。そんななかで活発に動いていたのがフラミンゴ。そしてペンギン達。とくにペンギンの飼育棟は、つい最近、「空を飛ぶペンギン」と題して、水中を高速ですいすいと泳ぎ回る彼らの姿を見ることができ、とても癒されました。こういう見せ方は、東京・池袋のサンシャイン水族館名古屋港水族館にもありますが、地上でゆっくりよちよちと歩いている姿とのギャップは、本当に見応えがあるものです。

天王寺動物園にて(以下も同様)



最近は、北海道・旭川にある旭山動物園の改革をきっかけに、全国の動物園が展示方法に工夫を凝らし、地元の親子連れをターゲットにするだけでなく、観光スポットとしても見直されつつありますが、どうしても多額の費用がかかり、パンダ等多くの入場者を「呼べる」動物の入手も困難なところでは、これからもさまざまな取組が行われていくのでしょう。また、公立の植物園や博物館、美術館、さらには図書館等のなかで、既に設立から長い年月が経過しているところも、こういった取組から学べることはたくさんあるでしょう。

 

そんなわけで、色々と趣の異なるところを見て回ることができ、充実した一日でした。今年も、色々な展覧会めぐり、寺社巡りをしていきたいと思っています。その全部をこのブログで投稿することはできないかもしれませんが、機会を見つけて少しずつ取り上げていきたいと思っています。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 235 円空仏が語り掛けるもの

こんにちは。

 

前回は小澤征爾さんについて書きました。その小澤さんと日本を代表する現代作曲家である武満徹さんとの対談の中で、武満さんは以下のような発言をしています。

「政治とか科学とかがすごく極端に進んでいるときに、時どきそれを引き戻すのが、音楽の役割だと思うよ。」

音楽は本来とてもパーソナルなもので、だからこそ個人の発露としての音楽は誰にも邪魔されてはならないものなのです。しかし、時としてそれが政治的に利用されてしまうことは、歴史が物語っています。音楽家は政治に対してどのようなスタンスを取っていけばよいのか、その答えはさまざまでしょうが、音楽家一人ひとりがこのことを十分に意識する必要があることは確かでしょう。事は科学においても似たようなものです。科学者が新しい科学技術を研究開発しようとするとき、そこには一種の哲学のようなものが必要なはずです。そうでなければ、科学は、実に簡単に、政治に一方的に利用されてしまうリスクを背負うからです。そんな時、個人の考え方、哲学をそっと支えるのが、音楽の役割なのです。そして、このことは、音楽だけに限ったことではなく、あらゆる芸術においても言えることなのです。

私は音楽を聴く時、それが作られた時の社会的・個人的背景と、その曲が現代において演奏されることの意味という2つの側面から聴くようにしています。単に流行を追いかけるだけではおもしろくない。かといって、懐メロとしてだけ曲を聴くのもつまらない。

ただ、過去の曲を聴く場合、あまりにも政治的背景や社会情勢に引っ張られすぎると、その曲が本来持っている魅力を見失うことになりかねません。あくまで主役は音楽そのもの。音楽がもつ力を、今を生きる自分の全身で感じることこそが、私の音楽鑑賞なのです。

 

そんなことをぼんやりと考えながら、先日、大阪のあべのハルカル美術館で開かれている「円空 ―旅して、彫って、祈って―」と題する展覧会を見てきました。

ご存じの方も多いと思いますが、円空は江戸時代初期(1632-1695年)に活動した修験僧であり、仏師だった人です。若い時は現在の岐阜県高山市丹生川町にある千光寺等で修業を重ねたのですが、35歳の時から全国修験の旅に出て、そこで大小の木造仏像をたった一人で作り続けた人です。諸国行脚の旅に出かけ、説法によって仏教を広めた僧侶は親鸞聖人をはじめとしてたくさんいらっしゃいますが、仏像を作ることによって、教えを広めた人は他にあまりいらっしゃらないかもしれません。この修行をはじめた時、円空は12万体の仏像を作るという誓いを立てたそうですが、既に失われたものも多く、目標が達成されたかどうかはよくわかっていません。ただ、現存するものだけでも4000体から5000体を数えると言われています。

日本における仏像の歴史を振り返ると、飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代・・・というように、時代とともにその外見は変化してきました。例えば、貴族文化が花開いた平安時代と武士の力が非常に強くなった鎌倉時代では、その趣はかなり異なります。それでも、そこには仏師達が政治との結びつきを利用しながら、威厳に満ちた、そして芸術的にもすぐれた仏像を残してきた、ひとつの「流れ」のようなものが感じられます。つまり、ある種の一貫性のようなものが存在するのです。それは、どの時代の権力者が仏教をどのように利用してきたのか、ということと深く関連しています。そうした思惑をどのように受け止め、そのうえで利用するのかというのが、多くの仏師達が権力層に近づいて仕事をするうえで重要なことだったと言っても過言ではないでしょう。彼等にとっては、それが「生きていくための道」だったのです。

しかし、円空の仏像づくりは一味も二味も違います。

まず、彼の仏像は、一見するととても荒々しいのです。一本の木をノミなどで削ってつくるのですが、木の特徴を生かし、無駄にすることなく、そのまま鉈とノミで大胆に彫っていく仏像は、木の中に神がいるとの思想が反映されているのです。そのプリミティブ(原初的)ともいえるスタイルが大きな魅力の一つとなっているのです。そこには、「きれいに整える」という発想はありません。彼は、一時北海道に滞在していたことから、アイヌ文化の影響を指摘する向きもあるようです。

もう一点、彼の仏像の魅力として、微笑みを浮かべている顔立ちの穏やかさ、優しさが挙げられます。とくに、口元から溢れる笑みは、これを拝もうとする人にも自然と笑みを浮かべさせる効果を持っています。こんなにも拝む人の心を穏やかにする仏像も他にあまりないように思います。

彼はあくまで修行の一環として仏像づくりをしていたのであり、そこには彼の思想や生き方が明確に反映されています。余分なものは一切彫らずに、木の中に仏を見て、木のもつ生命を仏像という形に表現しているのです。そこには「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」などの日本人の心に潜在する精神性があります。一見完成していないような造形で、それを拝む人の心に、安心や慈愛、微笑を醸し出してくれるのが円空仏の魅力なのです。つまり、彼の心はいつも地域に住む人々、とくに農民達に向いていたのです。

彼の生きた江戸時代初期は、徳川幕府による天下統一がなされ、国内情勢は次第に安定しつつあった時代です。そんな中で、農民に関しては、「生かさず、殺さず」という圧政が行われたというのが定説です。この説に関しては、「そうでもなかった、少なくとも食に関しては、当時比較的余裕があったのではないだろうか」という新しい研究成果もあるようですが、少なくとも、気候の変化等の影響を大きく受けやすい農業という仕事に従事する彼等にとって、神仏に祈りを捧げることは、何よりも重要な行事であり、日常だったのです。そんななかで円空仏の微笑みに救われた人はとても多かっただろう、と想像できるのです。

円空の体現する宗教観の根底には、縄文弥生から日本に脈々と連綿する思想があります。古代人は草木、動物といった自然物、自然現象、さらには人工物にも精霊が宿ると考え、生活には祭りを通じた祀りや祈りがあったのです。つまり、中国から伝来した仏教そのものではなく、こうした土着思想と結びつくことによって、円空の作り出す仏像は、都や江戸ではさほど知られることなく、静かに広まっていったのです。

では、なぜ現代に生きる私達の心にも円空仏は突き刺さるのでしょうか。それは、現代という社会が「静かな微笑み」を忘れた社会になりつつあるからではないだろうか、と私は考えています。殺伐としたニュースばかりが流れ、世の中全体の「許容範囲」がどんどん狭くなり、息苦しくなっていると感じることの多い社会で、荒々しさと穏やかさの同居する円空仏が私達に語りかけていることは、無言でありながら、とても多くの含蓄に溢れたものなのです。「慈愛」という言葉が見失われがちな社会だからこそ、仏像の微笑みに私達はハッとさせられるのです。

円空仏 あべのハルカス美術館にて 以下も同様





今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常234 春一番、そして小澤征爾さんのこと

こんにちは。

 

各地で春一番が観測され、いよいよ本格的に春が近づいてきているようですね。

ところで、春一番の定義ってご存じですか。

気象庁によると、「2月4日ごろの立春から3月21日ごろの春分までの間に、日本海で低気圧が発達し、初めて南よりの毎秒8メートル以上の風が吹き、気温が上がる現象のこと」とされています。ただ、地方によって、その認定基準は若干異なるそうです。そして、その後も低気圧の発達具合によっては、強風が吹き荒れる天候がしばしば見られ、「春の嵐」への警戒が必要となるのです。これが、わざわざ気象庁がこれを公式発表している理由のようです。

ただ、この発表が始まったのは意外なことがきっかけとなっています。

1976年にアイドル・グループ、キャンディーズ(ラン、スー、ミキの3人組・・・伊藤蘭さんは昨年の紅白に出場していましたし、お嬢さんである趣里さんは現在NHKの連続ドラマ「ブギウギ」に主役として出演中ですね)による曲「春一番」(作詞・作曲・編曲:穂口雄右さん)が大ヒットしたことから、これに関する問い合わせが殺到するようになり、気象庁春一番の定義を決め、昭和26年(1951年)まで遡って春一番が吹いた日を特定し、平年値を作り、『春一番の情報』を発表せざるをえなくなったのです。春一番という言葉が浸透したことを利用し、防災情報の充実をはかった、という側面も見逃せません。

それにしても、アイドルの力、恐るべしですね。

そんなわけですので、しばらくは突然の気温や気候の変化には気を付けないといけないのです。とはいえ、既に梅はかなり咲いてきています。好天の日を狙って、春の息吹を感じるために、梅の花見に出かけるのもいいものですよ。

京都御苑にて 2024.2.6 

 

 

 

さて、先日指揮者の小澤征爾さんが亡くなりました。享年88歳。ここ数年は、彼が主催者であるサイトウ・キネン・フェスティバル(2015年からは「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」と改称)でもほとんど公の場に顔を出すことなく、ゲスト達に挨拶するとともに、体調面を考慮して、長くても10~15分程度という最小限のステージをこなすだけでしたので、彼の訃報に接したこと自体は、正直言ってさほど驚くようなことではありませんでした。実際、ここ十数年は、食道がんに始まり、術後の体調不良、そして近年では心臓弁膜症などのため、ずっと苦しい闘病生活が続いていたようです。

ボストン交響楽団音楽監督ウィーン国立歌劇場音楽監督等を歴任していた、つまりアメリカとヨーロッパの両方で高く評価された指揮者ですから、海外のマスコミでも訃報は大きく取り上げられています。日本人指揮者として世界に門戸を開いた第一人者であり、後進に多大な影響を与えた人であることは間違いありません。

小澤さんのプロフィールを詳細に記すのは「今さら」感がありますので割愛しますが、彼が注目されるようになったきっかけであるブザンソン国際指揮者コンクールについては少し書いておきましょう。

フランス東部にあるブザンソンで国際指揮者コンクールが開催され始めたのは1951年で、このカテゴリーのコンクールとしては古い歴史を持っている方です。そして、小澤さんが第1位を獲得したのは1959年の第9回大会。まだ無名だった彼が手っ取り早く「名を売る」にはコンクールで結果を出すのがもっとも近道だったのです。彼自身は最初の渡欧先としてなぜフランスを選んだのか、必ずしも明言していませんが、おそらくフランスに強く惹かれたというよりは、ターゲットとするコンクールがフランスで開催されていたから、ということだと私は思っています。

オーケストラの指揮者に求められる能力とは何でしょうか。指揮(つまり棒振り)そのものの技術はもちろんですが、楽譜を読み込む力、団員とのコミュニケーションを円滑に進める力(語学力を含む)、そして音楽を構築し、まとめあげていく統率力と想像力などがあげられます。また、コンクールによっては、団員にわざと本来の楽譜とは異なる音を弾かせて、それを指揮者が見破れるかどうかを試す、という少々意地悪な審査をすることもあるようです。(実際、ブザンソンの時の小澤さんは、ほとんど初見の楽譜であるにもかかわらず、団員の演奏している音がそれとは異なっていることを見破ったという話が伝わっています。)

このブザンソンのコンクール、どうやら日本人とは比較的相性が良いらしく、その後も1982年 (第32回)に 松尾葉子、1989年 (第39回):に佐渡裕、1990年 (第40回)に 沼尻竜典、1993年 (第43回)に曽我大介、1995年 (第44回)に 阪哲朗、2001年 (第47回):に下野竜也、2011年 (第52回):には垣内悠希、そして2019年 (第56回):には沖澤のどかの諸氏がいずれも1位を獲得しています。まるで日本人指揮者の登竜門、というとちょっと言い過ぎですが、小澤さんの後を追いかけていこうとする若き指揮者がそれだけ多数いらっしゃるということですね。ただ、今までのところ、小澤さんの匹敵するような実績をあげることができている方はまだ現れていません。(この中で、世界的に知名度がもっとも高いのは、佐渡裕さんでしょう。)いかに小澤征爾という指揮者の存在が大きかったのか、このデータを見るだけでも理解できると思います。

学生時代の小澤さんには、山本直純さんという同級生であり、盟友である存在がありました。この二人はとても仲が良く、互いにピアノと指揮を交代しながら、練習に励んでいたりしたそうです。そして、小澤さんが渡欧を考えていたとき、直純さんは次のように言って、その背中を押したそうです。小澤さんは、自分は音楽的には天才肌である直純さんにはかなわない、と思っていたのですが、これで吹っ切れたそうです。

「お前は世界に出て、日本人によるクラシックを成し遂げろ。俺は日本に残って、お前が帰って来た時に指揮できるよう、クラシックの土壌を整える」「オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」

直純さん自身の仕事も凄いものです。「フーテンの寅さん」や「8時だよ!全員集合」の音楽担当、チョコレートのCM(「大きいことはいいことだ!」というやつですね)、さらには、テレビ番組「オーケストラがやってきた」の司会など、まさに上に書いた言葉を有言実行していく大活躍を見せ、わずか69歳で亡くなってしまいます。しかし、彼の仕事がなければ、当時、日本でクラシック音楽が大衆に注目される機会は、今よりずっと少なかったのかもしれません。そんななかで直純さんの存在はとても大きなものだったのです。

小澤さんの場合は、こうした大衆向けの音楽を手掛けることはありませんでしたが、彼の欧米での活躍そのものが、大衆を音楽に引き付けるのに大きな役割を果たしました。このことについて、“音楽を大衆化”した山本直純、“大衆を音楽化”した小澤征爾“と表現している評論家もいます。

さて、そんな小澤さんですが、実は私は小澤さんが指揮するCDやレコードを一枚も持っていません。とは言っても、彼の指揮する姿は、しばしばテレビで見てきました。そこでの思い入れたっぷりの、そして内面からの感情が溢れんばかりの佇まいの指揮は、聴衆を魅了するのに十分なものでした。ただ、こう言ってはなんですが、その割には、奏でられる音楽はよく言えば「整った音」、悪く言えば「情熱が足りない」「やや平板」のように聞こえてしまうのです。非常に統率力のある指揮ではあるのですが、団員たちの自発的な音楽性を引きだし、それを活かしていくような音楽づくりはあまりしていないのでは?と感じてしまった次第です。

まあ、これはあくまで私の個人的な感想であり、偏見かもしれません。小澤さんの功績や業績にケチをつけるつもりは毛頭ありません。何よりも、彼が残した足跡は、日本の音楽界にとってあまりにも大きく、そして誰にも真似できない説得力を持っていたことは事実なのです。

時代は移り変わり、現代では、例えばショパン・コンクールで一躍有名になった反田恭平さんが「外国から日本にクラシックを勉強しに来る機会を増やし、そうした人を受け入れる学校を作りたい」と発言していますし、宮崎駿さんの映画音楽で有名になった久石譲さんは自作の曲を欧米の有名オーケストラで指揮する機会を多く獲得しています。(意外に思う人もいらっしゃるかもしれませんが、久石さんはもともと純粋にクラシック畑の人で、映画音楽以外の曲もたくさん作っておられます。)つまり、日本人がヨーロッパに勉強しに行って、そこで名をあげることだけが、クラシック界で一旗揚げる唯一の道ではなくなってきているのです。しかし、それは、かつて小澤さんやその教えを直接受けた人達が「ヨーロッパこそ音楽の本場」という固定観念に捕らわれていた現地の人々と渡り合い、戦ってきたという歴史があるからこそ、なのです。

あらためて、故人のご冥福をお祈りします。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常233 能登の将来(2)消滅可能性都市からの脱却

こんにちは。

 

今週木曜日は、2週間に1回の多発性骨髄腫治療の日でした。血液検査の結果はまずまず良好で、これまでどおりの治療を継続することになったのは良かったのですが、病院に到着したのが午前8時半ころで、帰宅の途についたのが午後4時前。以前紹介しましたように、4時間ほどの点滴を中心にして、いくつかの注射や検査があるため、待ち時間も含めると、このような長時間滞在になってしまい、やはり疲れますね。まあ、健康第一?ですから、別に不満はないのですが、これで一日が終わってしまうというのも、なんだかなあ、という気分が残るのは確かです。

 

さて、今回はまず前回の補足から。

前回映画『PERFECT DAYS』をご紹介しましたが、主人公がカセットテープで聴く音楽はいずれも960年代から70年代頃までのもので、すべてウェンダース監督が選曲したものです。それらはいずれも、厳しく悲しい世相や現実を目の前にしながら、どこかポジティブな雰囲気を漂わせるもので、この映画の含意を示唆するものであると同時に、監督のセンスの良さをうかがい知ることのできるものでした。

ちなみに、選曲リストは以下の通りです。

アニマルズ “House of the Rising Sun”(朝日の当たる家)

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド “Pale Blue Eyes”

オーティス・レディング “(Sittin’ On) The Dock Of The Bay”(ドック・オブ・ザ・ベイ)

パティ・スミス “Redondo Beach”

ルー・リード “Perfect Day”

ローリング・ストーンズ “(Walkin’ Thru The) Sleepy City”

金延幸子“青い魚”

キンクス“Sunny Afternoon”、(サニー・アフターヌーン)

ヴァン・モリソン “Brown Eyed Girl”

ニーナ・シモン “Feeling Good”

すぐにわかるように、この中で、ルー・リードの曲がこの映画のタイトルの元ネタになっています。とても穏やかで優しいラヴ・ソングなのですが、曲の制作当時、ルー・リードはヘロイン中毒でボロボロの状態だったらしいです。そんななかで書かれた曲は最後に次のような詞で締めくくられています。

「自分が蒔いた種は、すべて自分で刈り取らなくてはいけない」

この詞の持つ深い意味を感じながら音楽や映画に接すると、ますます色々と考えさせられるのは私だけではないでしょう。

 

ここからが今回の本題です。

1月に入ってから、何回かに分けて能登で起きた震災および能登半島自体のことについて書いてきましたが、立春も過ぎ、2月も半ばに入ってきましたので、そろそろ一度この話は打ち止めにしようと思います。(もちろん今後も機会あるごとに触れるつもりです。)そして、最終回は、輪島や七尾など、能登半島の中では比較的産業や人口が集積している都市の将来についてです。

今からちょうど10年前の2014年、日本創世会議(増田寛也座長)は、このまま少子高齢化と東京一極集中が進むと、2040年までに日本にある都市の約半数は消滅してしまう可能性がある、との内容のレポートを発表しました。これがいわゆる「消滅可能性都市」です。これによると、石川県能登地区では七尾市輪島市珠洲市羽咋市志賀町宝達志水町穴水町、能都町の8自治体がこの脅威にさらされているというのです。

このレポートが各自治体に与えたショックはあまりにも大きなものでした。もちろん、名指しされてしまった各自治体の反発も相当なものでしたが、直面している課題を明確に示したレポートであったため、反発ばかりをしてもいられず、各地で対策が練られるようになったのは言うまでもありません。また、政府(総務省国土交通省)も対策を発表し始めます。

国土交通省がまとめた下記の資料によると、第3象限がもっとも危険な状態ですが、第2象限や第4象限も決して安泰というわけではありません。そこで、まずは域内の「稼ぐ力」を育て、それをテコにしてとくに若年層の流入をはかり、域内消費増加を促し、ひいては出生率の増大にも寄与させる、つまり年齢別人口バランスを改善させる、というのが自治体でが描くべき粗筋ということになります。


そして、今回の地震による住民の「避難」が長期化すれば、次第に能登に戻る人は少なくなってしまい、「消滅可能性都市」化に拍車がかかってしまうことは明白でしょう。つまり、とりあえずの避難先での住民の生活支援という短期的視点と同時に、いかにして能登の復興再生計画をたて、魅力ある地域にしていくのか、という長期的視点をもつことが、喫緊の課題なのです。

能登地区の場合、その中心である輪島には、伝統産業である輪島塗と輪島朝市という全国にその名を知られた貴重な観光資源があります。普通に考えれば、これらをどのように活かすのか、というのがポイントでしょう。また、七尾の場合は、和倉温泉という能登全体のハブ、つまり観光拠点の役割を果たすことのできる場所があります。ここを起点にして、数回前にご紹介したような各スポットに足を延ばすことは決して難しくないのです。つまり、観光を中心産業として地域の再生を図ると腹をくくれば、自ずから目指す方向は見えてくるはずなのです。


しかし、輪島塗にしても、朝市にしても、その担い手は年々高齢化が進んでおり、担い手そのものが減少してしまっている状況です。例えば、輪島塗に関しては、生活様式の変化もあって、これまで主力であった膳や椀などの食器類の売り上げはかなり落ちています。ただ、漆器の美しさに魅せられた若手作家や外国人作家による、もっと芸術性の高い作品も作られつつあります。

また、朝市に関しては、もともと「地元のおばちゃん」が店頭にいること自体がその魅力であったため、簡単には世代交代が進みにくくなってしまっているようです。今回の地震では、朝市地区全体が大規模火災に見舞われ、元の場所での再開は当面困難と考えられています。最近、とりあえずの措置として、金沢市内での仮店舗がオープンしましたが、これはあくまで「仮」であり、本格的に元の場所で再会できるかどうか、まだまったく見通しは立っていません。よほどの支援と地元の努力がなければ、元の姿に戻すのは難しいのかもしれません。

つまり、全体としてこれまで基幹であったものにはそのままでは頼れないのです。では、どうすればよいのか? そこで出てくるのがもっと「観光産業」寄りへとそのスタンスをシフトさせることでしょう。また、その際にはほかの地域と連携し、能登全体を周遊するようなコースの立案、広報を推し進めていくことが求められます。新しい朝市の姿もそんな中から見えてくるのではないでしょうか。

もちろん、観光産業というものは、もともと景気変動等によって売り上げが高下するという不安定性を持っているものです。また、ブームになればなったで、オーバーツーリズムの弊害等も発生する危険性をはらむものです。だからこそ、この方向性を選択することには、それなりの覚悟が必要です。

もちろん、能登にはさまざまな農産物や漁業製品などの名産もあり、それを軸に再生を考えるという道もあります。しかし、それだけでは、全国へのアピールという点ではやや弱く、若年層の地域流入を促すには相当の時間が必要となります。ですから、もう少し即効性のある手段として観光産業推進が注目されるべきだと思うのです。また、その過程では、アグリ・ツーリズムなど、既存の一次産業と観光産業を結びつけるような取り組みも、有効でしょう。

 

もちろん、ここに記したのは単なる私の思い付きであり、具体的かつ有効なプログラム策定には、専門家の綿密な調査が必要です。そして、何よりも必要なのは、その担い手になるはずの地元の方々の総意と工夫です。

 

突然の自然災害によって多くの人命が失われたうえに、大きな経済的損失を被ったことは、本当に不幸なことで、今の私達ができることはどうしても限られてしまいます。ただただ、深くお見舞い申し上げるしかありません。また、ボランティアとして早くも現地に入り、活動している方々には尊敬の念しかありません。

 

私としては、この大きな災害を、能登という特徴的な、そしてとても興味深い場所を「作り直す」きっかけにしてくだされば、と思うばかりです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常232 映画「PERFECT DAYS」と完璧な日々

 

こんにちは。

 

少し前、アメリカのアカデミー賞候補作品が発表されましたが、日本人がスタッフあるいは出演者としてかかわった作品が3作、候補作品として最終ノミネートされました。宮崎駿さんが久しぶりに監督を務めた「君たちはどう生きるか」が長編アニメ映画賞、ゴジラ生誕70周年を記念して制作された「ゴジラ-10」が視覚効果賞、そして役所広司さんが主役を務め、現代東京の日常を舞台にした「PERFECT  DAYS」が国際長編映画賞の各部門で選出されたのです。このうち、日本のマスコミでもっとも地味な扱いなのが{PERFECT  DAYS}でしょう。そこで、先日この映画を見てきました。(もっとも、昨年のカンヌ映画祭役所広司さんが男優賞を受賞していますので、既に映画好きの人の間ではかなり話題になっていた映画のようです。)

この映画は、公衆トイレの清掃を職業とする初老の男性の何と言うことのない日常生活を描いただけの内容ですが、大変奥深く、考えさせられるところの多い映画でした。また、詳細な説明のないまま進行していくので、解釈は人によってそれぞれ異なるだろうと思います。ただ、まだ公開中の映画ですので、ネタバレになるような説明や先入観を持たれてしまうような私見は避けるべきでしょう。以下に、ストーリーとは直接関係のない、私自身が感じたことをいくつか記しておきます。

・まずは監督のヴィム・ヴェンダース。この人はドイツ人ですが「映画を撮っているうちに、私には日本人の血が流れていると感じた」と述べています。日本、そして東京のことを本当によく調べ、理解している仕上がりでした。まあ、そうでなければ、他のスタッフや出演者はすべて日本人なのですから、彼の指示に従う人はいなかったでしょう。私はこの人のドキュメンタリー「ヴエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」というキューバの年老いたミュージシャン達を追いかけた映画をみたことがありますが、その時にも、現地にしっかりと寄り添い、丁寧に描いていて、決して「欧米以外のあまり紹介されない地域の美味しいところどり」をするような人ではないと感じました。その思いは、今回も同じです。

・主役の平山(役所広司さん)は大変口数が少なく、ほとんどの演技は顔の表情だけです。でもそれがすばらしい。とくに、朝家を出て空を見上げた瞬間の少し眩しそうな表情、そして休憩中に公園のベンチで背の高い木を通して地上に降ってくる木漏れ日を見つめるときの、柔らかな表情は絶品です。

・平山が愛しているのは、カセットテープに録音された1960年代から1970年代頃の洋楽が中心。その他には、フィルム・カメラと文庫本の古本。でも決して昔にだけ生きている人ではありません。それと、最新式の公衆トイレの清掃というギャップが面白いのです。

・居酒屋のママを演じているのが石川さゆりさん。この人が「朝日の当たる家」(原曲は大変古いトラディショナル・フォークですが、1964年にイギリスのロック・バンド、アニマルズが世界中に大ヒットさせています)を歌うシーンも聴き逃せません。個人的には、この人はコブシを回す歌よりも、こういう艶やかで粋な、それでいて軽い節回しで歌う方が魅力的だと思います。「ウイスキーはお好きでしょう」とかルパン3世のエンディング曲「ちゃんと言わなきゃ愛さない」等です。ちなみに、ギター伴奏はあがた森魚さん。しばらく前にテレビ・ドラマ「深夜食堂」で流しの歌うたいを演じていた彼ですが、この人も実にいい味を出していますね。

・平山が姪っ子に「海まで連れて行ってよ」と言われた時の「今度ね」と少し困った表情で答えるシーン。「今度っていつ?」と訊かれた彼は「今度は今度」「今は今」と答えるのです。姪っ子は何故かその答えをとても気に入ったようでした。

・終盤に出てくる三浦友和さん(石川さゆりさんの元夫という役どころ)と平山のやり取り。「影は重なると色濃くなるのか」という話題を真剣に論じ、実証しようとします。その後、いいトシのおっさん二人は影踏み遊びを始めてしまいます。なんだか可愛い。

 

他にも、紹介したいシーンはいくつもあるのですが、遠慮しておきましょう。

平山の周囲では、基本的に毎日変化のない日常が繰り返されます。ただ、そうは言っても、小さなさざ波のような出来事は起きます。しかし結局、またもとの静かな日常にゆっくりと戻っていきます。過去にどんな生活をしていたのか、最後までわからずじまいですが、公衆トイレの掃除夫という今の仕事に彼は満足していますし、経済的にも、決して裕福ではないものの、食うに困るようなことはありません。これが、長い人生の中で彼が獲得してきた「日常」なのです。

ヴェンダース監督は、「平山のように生きていきたい」とも述べています。世界中で名監督としての名を馳せた彼ならば「そうかもしれないなあ」とぼんやり思ってしまいます。

ただ、よく考えると、この生活は、あくまで社会がある程度安定した状況でなければ成立しえないものです。例えば、ガザ地区で、あるいはウクライナのキーウで、さらに言うなら、震災により大打撃を受けた能登地方で、こんな生活が今可能か、と問われれば、その答えは書くまでもないでしょう。長い人生の中では、予定外、予想外のことは常に起きてしまう可能性をはらんでいます。今、獲得している「安定したさり気ない日常」は、次の瞬間にはもろくも崩れ去ってしまうかもしれない。そんな思いもまた、観終わったあとにふつふつと湧いてきてしまいました。本当のperfect days(完璧な日々)とはいったい何なのでしょうか。

しかし、それにしても色々と感じさせられるところの多い映画でした。ある程度以下の年齢の方には少し理解しにくいところもあるかもしれませんが、私としては、ぜひおすすめしたい映画です。上には紹介しなかった他の俳優さんも、実にいい演技をしています。例えば柄本明さんの息子(次男)である柄本時生さんの一見するとちゃらんぽらんな役どころも、この映画のスパイスとしては欠かせません。




今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常231 今、私達にできること

こんにちは。

 

今回は、前回に引き続き、能登の将来について書いていく予定でした。しかしそれは例えば5年後、10年後を見越した時に描くべき将来像です。他方、地震から間もなく1ヶ月が経過しようとしている現在でも、今すぐにやらなければならないことが山積みの状態で、多くのことが未解決のままです。そこで今回は、輪島や七尾といった能登半島の中では比較的大きな街について触れる前に、現時点で私達ができること、するべきことについて、軽く触れていきたいと思います。

 

といっても、災害救助等について特殊な技能を持ち合わせていない私達にできることと言えば、ボランティアとしての比較的単純な作業や被災者の心に寄り添うような人道的支援、そして、経済的支援ぐらいのものでしょう。

このうち、ボランティアによる支援に関しては、ようやく能登の各地域や金沢市等で受け入れの準備が整いつつある段階です。おそらく全国からの問い合わせは相当数にのぼっているものと思われますが、現地入りしたボランティアを統括し、効率よく働いてもらうための指示を行っていく組織的な体制がなければ、混乱は深まるばかりです。個人の勝手な判断で現地入りすることは、かえって迷惑をかけるということは肝に銘じておかなければならないでしょう。もちろん、杉良太郎さんやMISIAさんのように、現地に出かけて炊き出し等積極的な支援を行っている人もいらっしゃいますが、彼らはきちんと自治体と連携を取り、事前に綿密な打ち合わせをしてから現地入りしています。結局、私達が個人で出来ることとなると、どうしても限られてしまいますよね。

また、宿泊や食料調達の用意も欠かすことはできません。 これらを地元に期待することは酷というものです。自分で準備をできるのかがポイントになるはずです。

以上のことは、阪神淡路大震災や東北大震災の経験から学んだはずなのですが、いざ、新たな大災害を目の前にしてしまうと、人の心は揺れ動いてしまいます。こんなときだからこそ、冷静な心を失わないようにしないといけないのですね。

そこで、経済的支援に焦点が当てられます。

皆さん、義援金と支援金の違いってご存じでしょうか。マスコミによる報道等をチェックするまでもなく、現在、さまざまな団体がさまざまな方法で経済的支援を募っていますし、有名人の中には、それに応えて多額の支援を申し出ている人も少なくありません。しかし、あまりにも多くの支援方法があるために、どのルートを利用すればよいのか、迷っている人も多いのではないでしょうか。

ここで、そのすべてを詳細に紹介することは、あまりにも膨大な分量の文章になってしまいますので割愛しますが、大枠として「義援金」と「支援金」の違いについて少し説明しておきたいと思います。

まず、義援金とは被災された方一人ひとりに分配されるお金です。

義援金の多くは非営利組織や自治体、内閣府などが窓口となり、通常はいったん被災自治体に送られ、「配分委員会」のもとに被災者に対し「公平・平等」に配分されます。

以下に義援金の特徴を記載します。

義援金は被災者に分配されるもので、ボランティア団体や行政が行う復興事業や緊急支援には使われない。

・被災した県が設置した義援金分配委員会によって、寄付金の100%が公平・平等に被災者に配布される。

・被災者数などの正確な情報を把握した後に均等に分配される。配布作業も混乱する被災自治体が担当するために負担がかかる。(以上、農林水産省のサイトより)

今回の震災に関して言えば、日本赤十字社やゆうちょ銀行の義援金送付などがその例です。義援金のメリットは「公平性が高い」ということ、デメリットは「被災者へ分配されるまでに時間がかかる」ということです。自治体や配分委員会などが間に入り、被災者へ公正・平等に配られます。公的機関が責任を持つことは、支援する人の安心感にもつながるでしょうが、一方で、義援金が被災者のもとへ届くまでには時間がかかってしまうのです。

公的機関が扱うのですから事前に決められたプロセスに従って被災者に確実に届けることが最重要となりますので、どうしても、スピーディというわけにはいかないのです。

つまり、義援金は被災者の手元に届くまでに少々時間はかかるものの、「安心できるルートで確実に被災者へ届けたい方」に向いています。

他方、支援金とは、支援金とは被災地で活動する非営利団体に送る寄付金のことです。

支援金の特徴として以下のようなことが挙げられます。

・各機関や非営利団体の判断によって、人命救助やインフラ整備などの復旧活動に速やかに役立てられる。

・支援金の使い道は支援先団体に任せることになる。各団体ごとに支援金の使途や収支の報告を行なって透明性を確保している。

被災者からのニーズに対して、各機関や団体が各自の判断と責任において柔軟に使用できるためすぐに活用される。(日本財団のサイトより)

まとめると、以下のようになります。

・支援金は被災地で活動するNPO法人NGO法人に送る寄付金

・各機関や非営利団体、ボランティア団体の判断によって、人命救助やインフラ整備などの復旧活動に速やかに役立てられる

・各機関や団体が各自の判断と責任において柔軟に使用できるためすぐに活用される

「被災地で支援する活動に役立てられるお金」です。「被災者一人ひとりに直接分配されるお金」である義援金とは、違った意味を持つのです。

出典)日本財団のサイト


また、今回の被災者支援で目立っているのが、いわゆる「ふるさと納税」を利用した支援です。これは、各自治体が募集をかけているもので、お金は直接各自治体に入りますが、それをどのように利用するのかは、概ね各自治体の判断に任されています。ただし、あくまで復興支援ですから、返礼品などはありません。確定申告の際に控除の対象としてカウントされるのみです。どの自治体が現在募集しているのかは、「さとふる」など、ふるさと納税のサイトを見れば、わかります。ただ、石川県に関して言えば、ほとんどすべての市や町が募集していますので、「どこでもいいから、被害のひどそうなところに。・・・」と思っている方は、迷ってしまうかもしれません。

また、これに関しては事務作業そのものが、被災自治体の職員にとっては大きな負担となりますので、今回の震災とはまったく無関係の自治体が代理で事務作業を行う「代理寄付受付」を開始したところもいくつかあります。これも自治体同士が連携し合う立派な被災地支援と言えるでしょう。これに関しては、例えば「ふるさとチョイス」というサイトを見れば、どこの地自体がどの自治体の支援金募集業務を代理で行っているのか、よくわかります。目立つのは、東北地方の自治体が手を上げている例が多く見られることです。先般の震災の際にお世話になった「お礼」といったところでしょうか。

tps://www.furusato-tax.jp/feature/a/furusato-choice_column-vol8

 

さて、ここまで見てきたように、一口に経済的支援と言っても様々な方法があり、それぞれ性格を異にしているようです。ですから、私達は自分がどのような支援をしたいのか、その目的意識をはっきりと持ち、それに合わせて方法を選ぶ必要があるのです。

また、この復興支援はおそらくかなり長期的に続けていく必要があるでしょうから、長い目で見た時に何ができるのかを考える必要がありますね。

 

現在まで、私自身の知人や友人に亡くなった方はいらっしゃいませんが、家族が大きな被害を受けた人、実家が全壊または半壊など深刻な損傷を被った人は相当数にのぼっています。そうした人々にはできるだけのことはしていきたいと思っていますし、翻って、地震大国である日本に住んでいる以上、決して他人事ではないことを改めて強く認識している次第です。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常230 能登の将来(1) 農業・漁業の側面から

こんにちは。

 

去る1月17日で阪神淡路大震災からちょうど29年が経過しました。来年で30年。本当に早いもので。神戸の街は見事に復興しましたし、阪神間の街並みは、地震前よりも発展しているかのように見えます。また、淡路島は今や京阪神から手軽に訪れることのできるリゾート地として、また、大都市を離れた企業が新たな本社機能を置く拠点としても、大きな注目を浴びるに至っています。

しかし、細かく見ていくと、この復興には色々と問題が隠されているようです。そして、今回の能登地震からの復興、再建を考えるうえで、この経験はとても役に立つように思います。

 

能登半島の各自治体は、長期的な人口減少と少子高齢化に歯止めがかからず、次代を担うはずの若い世代が不足する状況が続いています。私がかつて指導していた学生の中にも能登出身の学生が何人もいましたが、地元に戻った者はほとんどおらず、たいていは「能登は好きだけど、仕事がないし、将来も見通せない」といって、都市部での就職を選択しました。もちろん、彼らは大学進学を考える時点で能登から離れているのですから、就職においてもこのような志向になるのは当然かもしれません。しかし、この傾向は大学や短期大学等に進学した若者だけの特徴ではありません。能登半島の基幹産業である農業や漁業を継いでいこうとする若者は年々少なくなり、この分野での高齢化、後継者不足はかなり深刻な状況になりつつあります。珠洲のある地域では、65歳以上の高齢者が人口に占める割合が60~70%にも達しているのです。つまり、限界集落になりつつあるのです。

 

もちろん、これまでも行政はこうしうた事態を、ただ指をくわえてみていたわけではありません。珠洲では、地元企業ともタッグを組んで「限界集落を現代集落へ」というプロジェクトが始動しています。そのサイトを見ると、冒頭に次のような文章が載せられています。

「それは単なる過疎化対策の施策ではありません。わたしたちはここで「100年後の豊かな暮らし」を実験します。人は、自然から何も奪わない暮らしが実現できるのか?モノやお金に縛られない生活ができるのか?わたしたちの問題意識は、たとえば「行き過ぎた資本主義」であり「都市の一極集中」です。この潮流のなかで人は100年後も本当に豊かに暮らせるのか?と、懐疑と不安を覚えています。わたしたちは「都市生活のオルタナティブ(代替生活圏)」を考えます。そのために「水や電気や食を自給自足できる集落をつくり、自然のなかで楽しむ生活を、先人の知恵とテクノロジーで実現したい」。そう本気で考え、プロジェクトを立ち上げました。」 https://villagedx.com/

そのため自然と共生しながら人の快適性を追求する、という志向を持ち、その実現のためにテクノロジーを駆使する「VILLAGE DX(ヴィレッジ・デジタル・トランスフォーメーション)」を謳っています。これは、明らかに若年層を視野に入れた訴えかけですね。ただ、理念がかなり壮大なものであるため、いくつかの動きは始動しているものの、現時点では大きな成果を上げるには至っていません。あくまで100年先を見据えた動きなのです。

珠洲に限った話ではないのですが、今回の地震では津波だけでなく、大きな地殻変動が起きたため、これまで利用してきた漁港のほとんどがまったく使えない状況になってしまいました。海岸線そのものが変わってしまったため、漁船が使えるような港にするには、おそらく単なる修復ではなく、イチから港を作り直すような大工事が必要でしょう。そうなると、地元の努力だけでは限界があります。政府を含めた相当大規模な支援がなければ、どうにもならないのです。しかし、そうやって何とか漁港を復活させたとしても、肝心の漁業従事者の高齢化が進んだままだったら、結局この地域での漁業は衰退の一途をたどるしかないのです。このことは、農業においてもまったく同様です。もともと能登地域には、利用できる農業用土地がさほど大きくなかったこともあり、いわゆる大規模農地はあまりありません。そのため、さまざまな質の良い農作物が収穫できるにもかかわらず、全国的な知名度はいまひとつ、というのが現状です。そこに今回の地震による大きな地割れ等は、ただでさえ高齢化が進む農業従事者に、「もう農業はあきらめるしかない」と思わせるに十分な打撃を与えてしまいました。そんな人たちばかりしかこの地域に留まらないならば、多額の税金を使って農地を整備し直すことに「どれだけの意味があるのか」という疑問が出てきても不思議ではないのです。

農業、漁業の将来は、おそらく40歳台ぐらいから下の若い世代にかかっています。次代を担う人材をどうやって育て、あるいは他地域から呼び寄せるのか。そうした時に、上に紹介した「現代集落プロジェクト」のような新しい取組との連動が必要となるのです。また、三次産業との機動的な連携を推し進めていくことも必要でしょう。描ける道はひとつだけではないのです。ただ、いずれにせよ、新しい感覚と意識をもった若い世代が必要です。それには、この土地に住む人が能登という場所に「誇り」と「希望」を持ち、若い世代に「あこがれ」を抱かせるようにならなければならないのです。

ただ、二次避難がなかなか進まない現状で、このようなことを書いても、地元の方からすれば「今はそれどころではない」というのが本音でしょう。そこで行政の出番なのです。石川県や各地方自治体は、今のうちから「二次避難のその後」を描くことが必要だと思うのです。例えば5年後、10年後にどのような形で復興するのか、そのためには、二次避難した人々にいつ頃帰ってきてもらうのか。そうした将来像がある程度示されれば、今は避難に消極的な人々の中にも、少しは安心感が広がるのではないでしょうか。

ただ、この将来像は行政が一方的に計画する「押しつけ」のようなものになってはなりません。これは、阪神淡路大震災の時にも、そして東日本大震災の時にもしばしば議論されたことですが、地元には必ず「この地で復活したい」という強い意識をもった人々がいます。そうした人々と連携し、協力し合いながら、計画を進めていかなければならないのです。

 

今回、最初に阪神淡路大震災のことを少し取り上げたのは、今回の輪島での大火災が当時の神戸市長田地区での大火災の映像と見事に重なり合ったからです。しかし、文章が随分長くなってしまい、輪島のことを書く余裕がなくなってしまいました。輪島を含めた、能登の中でも都市部と呼ばれる地域については、次回に回したいと思います。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。