明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常256 大原美術館と児島虎次郎

こんにちは。

 

毎日暑い日が続きますね。

マスコミも連日この話題を取りあげていますが、ちょっと気になることがあります。というのは、毎日、最高気温を記録した地域を紹介しているのですが、誰でも知っているように、気象庁の発表する気温は風通しの良い日陰でのものです。ですから、実際の体感気温はもっと高く、すでに多くの場所で40℃をはるかに超えてしまっているはずなのです。つまり、「どこにいても暑い」のが実情なのです。

また、もっとも気をつけなければならない熱中症に関しては、気温が高ければ高いほどリスクが高まるという単純なものではありません。たとえ30℃以下であっても、熱中症への予防策は、35℃を上回った場合と基本的には変わるものではありません。しかし、数字のマジックとは怖いもので、「○○市の本日の最高気温は38℃でした。」などというとニュースを聞くと、「私の住んでいる地域はこれよりはマシだ。」と思い、何となく安心してしまっている人が案外多いのではないでしょうか。

「日本で一番暑い」等というニュースはたしかにインパクトがありますが、それに振り回されてしまうことは、この猛暑の本質を見誤ることになりかねません。さしあたっては、自分の体調管理を怠らないようにすることが、私達にとってもっとも重要ですね。夏の気候はまだまだ続きますが、おそらく来年以降はもっと猛暑になってくるかもしれません。

 

ところで、前回書きました左足の水ぶくれについてですが、その後も回復は順調で、傷跡の皮膚再生は進んでいますし、痛みはほとんどなくなってきました。ただ、この10日間ほど通院以外ほとんど外出していなかったため、外を歩くのはまだ慎重になってしまいます。少しずつ歩く距離を長くして、完全な日常生活に戻れるよう努力していかねば・・・と思っています。とはいえ、この猛暑のため昼間に用もないのに外出するのはためらわれる・・・むずかしいところですね。(笑)まあとにかく、感染症等の危険はかなり減ってきているようで、一安心しているところです。

 

実は、この水ぶくれ騒動の素少し前、倉敷にある大原美術館に行ってきました。ここを訪れるのは2回目です。ただ、前回は高松から倉敷へと電車で向かおうとしたまさにその時、大きな地震に見舞われ、瀬戸大橋が長時間にわたって不通になるという事態に陥ってしまったため、倉敷で十分な時間が取れなかったのです。この地震は後に芸予地震と呼ばれることになるのですが、もう23年も前のことになるんですね。いやあ、あの時は、高松駅で3時間ほど足止めを食らったうえに、運行再開後も瀬戸大橋を時速20㎞という超鈍足でゆっくり走る満員電車に辟易としたものです。

それはさておき、大原美術館倉敷紡績の経営者だった大原孫三郎氏が建てたことで良く知られていますね。大原孫三郎氏については、このブログ126回(2022年7月20日)でも取り上げましたので、未読の方は一読いただければ幸いです。

この美術館に収蔵されている多くの絵画は、児島虎次郎氏という画家が大原の命を受けて、ヨーロッパで買い付けてきたものです。そのため、児島と言えば、大原というパトロンを得て自由に海外をまわっていた人物というイメージが強いようです。

しかし、今回この美術館を訪れて非常に印象に残ったのが、児島氏の画家としてのただならぬ才能でした。

もちろんここには、エル・グレコをはじめとして、マティスゴーギャン、モネその他の名だたるヨーロッパの画家の作品が展示されているのですが、訪れた人々がはじめに目にする第1展示室には児島氏の作品が多数展示されています。つまり、美術館側が彼に最大限の敬意を払っていることが良くわかるのです。そしてそれらの多くは、既に名声を得ていた上記の画家たちに勝るとも劣らない素晴らしいものだったのです。一般には、この人の画力、業績を過小評価しているような気がします。実際にこの美術館を訪れれば、そのことを痛感させられます。

現在、大原美術館は『異文化は共鳴するのか?』と題する特別展示を開催しています。その解説等にはっきりと示されているわけではありませんが、関係者の皆さんの頭には企画段階から児島虎次郎をひとつの柱にすることがあったのだろうと思います。ちなみに、そのチラシには以下のように記されています。

「児島にとって、異文化とは他者であると同時に、自身の中に共存し、混交し、創作の原動力を生み出すもの、つまり、自己の重要な一部であったと言えるでしょう。」

彼は、フランス、スペイン、中国、日本等の各地をめぐりながら、その地の人々や文化を描いているのですが、個人的にとくに印象に残ったのは、それぞれの土地における「光」の描き方でした。当然ながら、児島氏はヨーロッパで多くの名画を鑑賞し、そこから多くのことを学び、吸収したのですが、単にそれらを模倣しただけではありません。例えばスペインの地に降り注ぐ眩しくも、どこかにほの暗さを感じる太陽の光と、日本の晴れ渡った空に輝く柔らかい太陽との相違、またそれに伴ってそれぞれの土地で生まれる「影」の相違を見事に描写しているのです。それは、彼がヨーロッパや中国で学んできたものを自分自身の血肉として消化していたことの証なのだと思った次第です。

「光」という形のないものを描くことは、古今東西の画家にとって、悩ましい課題であり、同時に、腕(すなわち個性と技術)の見せどころだったわけですが、児島氏はその課題をクリアした、当時としては稀有な日本画家であることを強く感じさせられた鑑賞体験でした。

 


今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 255 水ぶくれって意外に怖い

こんにちは。

 

今回、更新のタイミングが遅くなってしまい、申し訳ありません。

実は、新たな体調不良に見舞われていました。今月初め、左足くるぶし付近にかなり大きな水疱(水ぶくれ)ができ、それが破れてしまったため、まるで火傷でできたような皮膚の損傷を抱えてしまったのです。一歩踏み出したり、立ったり座ったりするたびに痛みが走って、とてもではないけれど通常の生活を支障なく過ごすことができない、という状況に陥っていたのです。まあ、写真をご覧いただければもう少し理解していただけるのかもしれませんが、けっこうエグイので、ここに載せるのは自重します。

 こうした事情のため、ここ10日間は通院以外ほとんど外出せず、自宅療養を強いられていて、パソコンを開く気にもなれなかったのです。それどころか、ほんの3歩を歩くのにもかなりの気合が必要で、結局、自宅内でもほとんど何もできず、忸怩たる思いを抱いて過ごしていました。

とはいえ、経過は順調で、毎日患部を見ると、確実に皮膚が再生され始めていることはわかります。痛みも、徐々に軽減されつつあります。次の診察は明日(金曜日)ですので、その結果次第ですが、この調子でいけば、来週あたりにはかなり自由に動き回ることができるようになるのではないか、と期待しているところです。

ところで、そもそも水疱とは何なのでしょうか?そして、それが大きくなるとはどういうことなのでしょうか? 皮膚は、体のもっとも外側で、 私達を守ってくれている存在です。それだけに、皮膚に関係する病気は実に様々なのですが、水ぶくれになる原因としては、以下のものが挙げられるようです。

・火傷

・虫刺され

帯状疱疹

・膿痂疹(細菌による感染症

・かぶれ

・その他

私の場合、火傷ではないことは確かですが、なぜできたのかははっきりとはわかっていません。ただ、これまでの病気や服用している薬のせいで、皮膚(とくに末端分近いところ)が薄くなる傾向が強く、そのために、炎症等が起きやすいようです。今回も、もう少し早く水ぶくれができていることに気がついていれば軽症で済んだかもしれないのですが、ちょっとばかり気がつくのが遅かったため、破れた後が看護師さん達も驚くようなものになってしまったのです。

まあ、そんなわけで、もうしばらくは感染症等に気をつけて生活することが求められます。それにしても、水ぶくれが原因で歩行に支障が生じるような事態になるとは思いもしませんでした。身体のちょっとした変化にも敏感になる必要があることを、改めて痛感させられた次第です。

閑話休題

各地で梅雨明け宣言が出ていますが、他方で、新型コロナ・ウイルスによる感染症の患者が先月あたりから急増しているようです。これから、レジャー・シーズンの最盛期もやってきますが、皆さん、くれぐれもお気を付け下さい。真夏に高熱や強い倦怠感が続くと、本当に辛いと思いますので。(以前も書いたかもしれませんが、昨年、知人が京都の祇園祭宵山に出かけて感染してしまって、大変だったそうです。)

NHKのサイトから転載



今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常254 優生保護法違憲判決をめぐって

こんにちは。

 

今年の梅雨は異常なほど湿度が高いですね。こんなに蒸すのは滅多にないことだと思います。これも気候変動の一環なのでしょうか。私はもともと高湿度に弱い体質なので、いささか参っているところです。

そんななか、注目すべき最高裁判決がありました。旧優生保護法憲法違反であるとの判決が下されたのです。最高裁判事15名全員の賛成をもっての判決だそうで、旧法を「立法時点で違憲だった」とする指摘は、立法府である国会、この損害賠償訴訟をこれまで維持してきた政府に対する痛烈な批判メッセージです。最高裁の判決としてはとても珍しい「一歩踏み込んだ」ものだったと言えるでしょう。

このニュースは、かなり大きく報道されましたので、既にご存じの方も多いでしょう。しかし、特定の病気や障害があると見なされた人に、国が不妊手術を強いるという人権侵害を許容するこのような法律がなぜ作られ、永らく維持されてきたのか、疑問に思うところも多いのが事実です。

そこでまず、その経緯を簡単にまとめておきましょう。

 

1947年  日本国憲法施行

1948年  「優生保護法」、超党派議員立法で成立。目的のひとつに、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すること」と明記されている。(第1条)

この法律の中で、場合によっては、本人の同意なしに不妊手術を行うことが可能とされた。(第2条) また、暴行などで妊娠した人の中絶を認めることとなった。

1949年  中絶を認める理由に、「経済的理由」を追加。

 なお、法施行後、今日までに、本人の同意・不同意を含めると、約25000人が不妊手術を受けているとのことです。(強制手術は約15000件)

1949年  旧法務府は、旧厚生省の照会に対して、「不良な子孫の出生を防止する」ことは公益上の目的であるとの回答を行って、この法律に「お墨付き」を与えている。

1955年  不妊手術数はピークに。

1972~1974年     法改正案が2度国会に提出。(ただし、ここでの動きは主に中絶に関する事項についてであるので、今回のブログでは割愛します。)

1980年代            「衛生」という言葉がナチス・ドイツの衛生思想と結び付けられ、障害者の人権を否定するものではないか、との主張が次第に浸透するようになる。

1996年 衛生条項(「不良な子孫の出生防止」という文言)が削除され、「母胎保護法」に改正。

1998年  国連自由権規約委員会が保障のための法的措置を取るよう、政府に勧告

2016年  国連女性差別撤廃委員会が法的救済を政府に勧告

2018年 宮城県の女性が旧優生保護法の元で強制的に不妊手術を受けさせられたことについて、仙台地方裁判所に損害賠償請求を起こす。以降、この動きは全国に広がる。

2019年  被害者への一時金支給法が成立

なお、これまでに39人が12の地方裁判所支部に訴えを起こし、1審と2審の判決は、原告の勝訴が12件、敗訴が9件となっているそうです。敗訴の主な理由は、除斥期間不法行為から20年で損害賠償請求権が消滅するというもの。いわゆる「時効」と似たものと考えてよいのでしょうか?)であったようです。

 

このように流れを見ると、「衛生」という言葉が法律から削除されるまでに約50年もの年月がかかっています。ドイツで広まったこの考え方は、簡単に言えば、「望ましい性質」と「望ましくない」性質を遺伝概念と結び付け、子孫の遺伝的質のコントロールをめざす思想とその実践を表すものです。長い目で見れば、そうやってあらかじめ子孫の質を「高める」(望ましいものだけに限定いていく)ことによって国力を増強しようとする考えがそこにあったわけです。

日本政府は、このような考えを下敷きにした法律を作ったわけではないとしていますが、衛生思想に強い影響を受けた人は決して少なくなく、結果として、悲惨な殺人事件が起きたことがあるのはご存じの方も多いでしょう。(2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件では、このような考え方の影響を受けた加害者によって、19人もの尊い命が奪われています。)

 

さて、ここからは少し私見を交えて書いていきます。基本的人権の理念やダイバーシティの観念が広く浸透している現代に生きる我々の感覚からすれば、衛生保護法という法律が施行されていたこと自体、信じられないような話です。不妊手術を受けた人達の「子供を産みたい」という希望は、誰がどんな形で償ったとしても、戻ってくるものではありません。「取り返しのつかない」とはこういうことを言うのでしょう。まったく、時代遅れという言葉だけでは片づけられないほど罪深いものだったのです。

しかし、少し冷静に考えてみる必要がありそうです。「望ましい」と「望ましくない」、あるいは「役に立つ」と「役に立たない」という線引きを、私達は色々なところで何となくやってしまいがちです。しかし、少し視点を変えれば、その線引きはとんでもない筋違い、勘違いであるということもまた、よくある話です。「障害者」と「健常者」という言葉の線引きもまた同様です。そして、自分は何とか「厄介でない方」に身を置こうとする一種の防衛本能を働かせてしまっていることがあるのではないでしょうか。

ひとつだけ例を出しましょう。現在、障害があることを理由にして妊婦の出産を奨励しない医師はいないはずです。しかし、周囲の人達はどうでしょうか、「子育て大変だよ」「責任、最後までもてるの?」といった声はかなり多く寄せられるようですが、「大変のこともあるかもしれないけど、私もできる限り応援するから、がんばろうね」という声は残念ながら少数派のようです。何となく、自分は関わりたくないし、関わっても自分の役に立つことではない、という考えが、その根底にあるからでしょう。殺人などいう極端な方向に走る人は例外的でしょうが、その種になるような考え方が「まったくない」と言い切れる人はむしろ少なくないのではないか。私はそんなことを考えてしまうのです。

つまり、衛生保護法を巡る国会や政府のあり方を非難することは簡単ですが、私達の心の奥底のどこかにも、そんな考え方があるのかもしれない、ということを自省するきっかけとして、このニュースを読むべきだと思うのです。また、そういう恐ろしい心の声(ささやき)から耳や目を背けることなく、これからの自分の生き方を見直して

いくべきなのだとも考えます。

 

私自身、身体障害者としての認定を受けている身ですが、そのことを恥ずかしいとは思ったことはありませんし、隠そうと思ったこともありません。むしろ、周囲の人々にも明確に、そしてなるべく詳細に(でも、相手のプレッシャーにならないように、時にはユーモアを交えて)これを伝えることによって、少しでも障害というものについての理解を深めてもらえれば、と思っている次第です。このブログがその一助となれば、望外の喜びです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常253 落語は「古臭くて敷居が高いもの」なのか?

こんにちは。

今年1月に発生した能登地震によって亡くなった方の数が300人を超えたそうです。(震災関連死を含む) 300という数字だけを見ると、私達はついつい他の震災で亡くなった人の数と単純に比較してしまいます。しかし、ちょっと想像してみてください。300もの墓碑銘が並んでいる墓地のさまを。ぞして、そのひとつひとつに刻まれている文字は誰がどんな思いを込めて記したのか・・・。他の何かと比べるまでもなく、これは大変なことだと、再認識しなくてはなりません。

あの地震から間もなく半年が経過しようとしていますが、私達は、無念の思いを残しながら亡くなった方、そしてそのご家族一人ひとりの思いを絶対に忘れてはならない。そんなことを改めて考えさせられた次第です。

 

さて、前回は桂ざこばさんを偲んで文章を綴りました。ちなみに「ざこば」とはざっくり言えば大衆魚を主に扱う魚屋さん(雑喉場)のことで、大阪では、明治時代頃まで存在していたものです。先日亡くなったざこばさんは2代目にあたります。初代は明治期に活躍し、人気を博したそうですが、それにあやかって、ということでしょうか。朝丸からの改名話がもちあがったときに、この名前を強く推したのは兄弟子だった桂枝雀さんだったということです。つまり、ざこばさんの実家が魚屋さんだったとか、そういうことはありません。

 

ご存じの方も多いかもしれませんが、関西には東京の鈴本演芸場新宿末廣亭池袋演芸場、浅草演芸場のような落語専用の定席小屋(舞台)は長らくありませんでした。

第2次大戦終戦後、落語という演芸を受け継ぐ人材もほとんどいないという壊滅的な状況だった上方(かみがた)落語界のなかで、「四天王」と呼ばれた3代目桂米朝、6代目笑福亭松鶴桂小文枝、2代目桂春団治の各氏が懸命に寄席を盛り上げたのですが、それでも、落語だけを演じる小屋を手に入れるところまではなかなか遠い道のりで、これを実現できたのは、2006年に現在上方落語協会の会長である桂文枝さん(一般には三枝さんという名前の方がよく知られているかもしれません)が中心になって、天満天神繁昌亭をつくってからのことになります。まあ、それだけ、上方落語は、江戸落語に比べて、噺家の数も少なく、漫才に比べて影の薄い存在だったのかもしれません。

ただ、そのため、関西の寄席では、漫才も落語も手品も浪曲も、アクロバットも、そして新喜劇も・・・というように、実に様々な演芸が一か所の劇場で披露されていました。つまり、観客側から見れば、一度寄席に足を運べば、一日中様々なタイプの演芸を見ることができたのです。このスタイルは、吉本興業が運営する「花月」、松竹芸能が運営する「松竹演芸場」では今でもさほど変わっていません。さらに言うならば、テレビの寄席中継でも、そのスタイルはそのまま貫かれていました。そのおかげで、私達は、落語とか漫才とかのようにレッテルを貼ることなく、すべてを楽しんでいたように思います。言い換えれば、落語というものに対する「心の敷居」が比較的低かったのです。

最近、テレビで落語を扱う番組が放映されるときしばしば「落語というと何となく敷居が高いように感じる人もいらっしゃいますが・・・」などと解説する演芸評論家がいらっしゃいますが、個人的には、まったくそんなことを思ったことはありませんし、なぜ敷居が高いと感じるのか、不思議でなりません。あれは何故なのでしょうか。演者が着物を着て、座布団に座っているから? 何となく言い回しが古臭いから? 江戸時代を舞台にした古典落語が多いから?よく考えると、これは他の古典芸能と呼ばれるものとの共通性が多く見られます。例えば、歌舞伎など、もともと大衆演劇だったはずなのに、いつの間にか「古典芸能」に祭り上げられてしまいましたね。実際には、歌舞伎役者さんたちは、歌舞伎だけでなく、色々な場面で活躍されているにもかかわらず。

落語の世界に目を転じましょう。東京でも上方でも、現在売れっ子となっている多くの噺家さんが、キャリアの入り口でテレビやラジオでの落語以外の仕事を出発点としている例は非常に多いのが現実です。それだけ、落語だけで「食っていく」のは大変厳しいことで、長年にわたる勉強と粘り強い鍛錬が必要なのです。また、桂米朝さんのように、江戸時代から口述だけで伝えられてきたネタを文章として残して、「全集」という形で発行し、後世に伝えられるようにしたという地道な努力が現在の多くの噺家に大きな財産となっていることも見逃せません。少し一一人語りが上手いとか、即興の小噺を作るのが上手い、とかいうレベルでは決して長期的に活躍していくことが困難なのが、落語の世界なのです。だからこそ、今でも師匠と弟子の強固な関係が存在しているのです。(ただ、インターネット等を通じて多くの情報が入手できるようになった現代、師匠をもたない落語家が出てきてもまったく不思議ではありません。実際、漫才の世界では、この10~20年の間に師匠と弟子という関係はほとんどなくなってしまいました。本人の強い意志と絶え間ない努力さえあれば、こうした落語家が誕生するのは時間の問題かもしれません。ただ、それでも「師匠について修行する」ということを大事にしている月亭方正さん(テレビ・タレント名は山崎方正)や桂三度さん(テレビ・タレントとしてブレイクした時の名前は「世界のナベアツ」)のような方もいらっしゃいます。

どちらが良いのか、個人の資質にもよるでしょうから、何とも言えませんね。

落語には古典落語新作落語があります。「古臭い」とされるのは主に古典落語なのですが、実は、よく作り込まれた古典落語は現代の風潮や小道具を入れ込んでもさほど違和感のないものもたくさんあります。つまり、元のネタは確立されていても、それをどう料理するのかは演者次第であり、そこに面白さがあるのです。桂枝雀さんは、ネタが途中からSFっぽくなるようなもの(例えば「頭が池」)を得意にしておられましたし、桂米朝さんは、古典の中に現代風刺を入れ込むのが常でした。(例えば「東の旅」)また、桂文枝さんや桂文珍さんは、どんどん新作落語を作っていて、その中にはシンセやミラーボールを使っているものもあります。

江戸時代と現代、そこに厳然として存在するさまざまなハードルを乗り越えて、若い世代にもアピールするような噺を披露する落語家さんは着々と現れています。見た目の「古臭さ」に惑わされず、彼らの話に耳を傾け、できればその高座に触れてみれば、そこから新しい世界が広がってくるかもしれません。

また、私の知る限り、現在は、江戸と上方以外に落語はありませんが、それ以外の地方を舞台にしたものであっても何の問題もありません。いやむしろ、現代の多様化社会を反映した新しい視点から演じていくような人がさまざまな地方から出てくれば、きっと落語は「敷居が高い」などとは言われない演芸として新たな成長期を迎えるかもしれないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

追記 桂枝雀さんは生前「座布団に片足が残っていれば、後はどんなオーバーな動きをしても、それは落語の伝統を踏まえたことになると思っている」と発言されていました。ここに現代において落語を演じることの深い意味が隠されていると思います。

 

今回も、最後まで読んでいただきありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常252 関西演芸界の巨星墜つ

こんにちは。

 

ふと気がつくと、6月も半分が過ぎてしまいました。街を歩いていると、時々紫陽花が咲いているのを見かけます。また、「あじさい寺」と呼ばれるような名所では、今が盛りとばかりに、色とりどりの紫陽花が咲き誇っています。そんなわけで、先日京都府宇治市にある三室戸(みむろど)寺の紫陽花苑を訪れました。

一言に紫陽花と言っても、色、形、大きさ千差万別ですね。思っていたよりもはるかに多様で、楽しめました。

この寺、別名「花の寺」とも称され、年中何らかの花が見ごろを迎えるように庭園が整備されています。最寄りの駅(京阪電鉄宇治線三室戸駅)からはだらだらした上り坂を15分ほど歩かなければなりませんので、少し不便かもしれませんが、訪れる価値は十分にあると思います。実際、参拝に訪れる方は非常に多く、とても賑わっていました。

三室戸寺の紫陽花(以下の写真も)





ところで、今回は少し思い出話を書いていきましょう。

私がまだ若いころ、関西の各民放テレビ局は、争うように、深夜の時間帯にユニークなバラエティ番組を放送していました。とりあえずその代表的なものを少しだけ列挙してみましょう。

探偵!ナイトスクープ」(放送:1988年~現在)

  これは現在も全国ネットで放送中ですので、ご存じの方も多いでしょう。なので、内容については割愛しますが、午後11時台の深夜枠にもかかわらず、一時は視聴率が約30%にも届くというおばけ番組でした。

「夜はクネクネ」(放送:1983年~1986年)

  テレビ・タレントの原田伸郎さんと毎日放送テレビのアナウンサー角淳一さんが、二人で夜の街を歩き回る、というただそれだけの番組。そこで出会う人々との交流、夜中に開いている店でのお客さんや店員の方とのやり取りなどがとても印象的でした。全体的には静かで温かく、くつろいだ雰囲気で、就寝前にはとてもふさわしい番組でした。

突然ガバチョ」(放送:1982年~1985年)

  いくつかのコーナーを笑福亭鶴瓶さんが中心となって回していたバラエティ番組。午後10時からの放映で、厳密には深夜枠とは言えないため、少しにぎやかなコーナーもありましたが、最も名物だったのは「テレビにらめっこ」。鶴瓶さんが視聴者からの「くだらないはがき」を読み上げ、それに対して、くすりとでも笑ってしまったスタジオ参加者は強制的に外へ退場させられてしまうというもので、大いに盛り上がったものです。

パペポTV」(放送;1987年~1998年)

  約一時間の枠の中で、上岡龍太郎さんと笑福亭鶴瓶さんの二人が、フリートークを繰り広げるだけの番組。事前の打ち合わせはなく、原則的にはゲストの出演もない、とてもシンプルなつくりでしたが、この番組によって、鶴瓶さんのトーク力が大きく飛躍したことは間違いないでしょう。上岡さんの笑いの要素を含んだ切れ味鋭いトークは、とても心地よかったものです。

現代用語の基礎体力」(放送:1989年~1990年)

ムイミダス」(放送:1990年~1991年)

  このタイトルを見て、「おやっ」と思った人は私と同世代でしょう。ベストセラーとなって、毎年発行されていた百科全書「イミダス」「現代用語の基礎知識」をもじったものです。これらの番組は、短いコントを繋いだ内容で、上記の番組よりはかなり作り込んだものでした。コントは時にシュール、時にベタで、バラエティに富んでいました。出演者の中には、生瀬勝久さん(当時の芸名は槍魔栗 三助(やりまくりさんすけ)、後にNHKに出演するにあたって、本名に戻したそうです)、古田新太さん、升毅さん、立原啓介さんなど、後に全国ネットのドラマや映画で名脇役として高く評価されることになる人が名前を連ねていたのですから、レベルが高くなるのは当然のことでしょう。また、狂言師和泉元彌さんの妻である羽野晶紀さんもこの番組の出身です。

 

これらの番組は、タイトルを見ただけでも、怪しげな雰囲気が漂っていました。それだけ、製作者側も「何か新しいことをしたい」というやる気に溢れていたのです。その気配を感じた人のみがチャンネルを合わせていたのですが、最近のテレビ番組のように「ひな壇芸人」達がトークを繰り広げるタイプの番組ではなく、にぎやかさや騒がしさとは無縁で、若者だけではなく、ある程度高い年齢層の人達でも楽しめるもの、という点で共通していたように思います。

そして、そうした雰囲気をもっとも具現化していた番組が次のものです。

「らくごのご」(放送:1992年~1998年)

出演者は笑福亭鶴瓶さんと桂ざこばさん。この二人がいわゆる「三題噺」を披露し合うというのがこの番組。「三題噺」とは客席から募った3つのお題を入れ込んだ小咄を即興でつくる、という昔から大喜利等でよくあるものでした。なお、現在も売れっ子である鶴瓶さんは、六代目笑福亭松鶴(しょかく)さんの弟子で兄弟子には、笑福亭仁鶴さん、笑福亭鶴光さんなどがいらっしゃいます。鶴瓶さんはテレビやラジオの司会進行などを担当するタレントとして出発しましたが、1990年代頃から次第に落語に力を入れるようになり、この番組に出演する頃は、その原点ともいえる時期に当たります。一方のざこばさんもテレビ・タレントとして出発した人ですが、もともと三代目桂米朝さんの弟子で、兄弟子としてもっとも有名な人に桂枝雀さんがいらっしゃいます。テレビ・タレントとしての仕事が主だった時代は桂朝丸という名前で活躍していましたが、1988年には改名し、本格的に落語家としての道を歩んでいました。このプロフィールからわかるように、落語家としてのキャリアはざこばさんの方が一歩先を行っていました。しかし、経験があるからと言ってうまくいくとは限らないのが「三題噺」です。外見とは裏腹にけっこう器用なところのある鶴瓶さんがきれいなまとめ方をするのが常であるのに対して、ざこばさんはわりと直情型で、自分にも他人にも厳しく、やんちゃながらも、どこまでもぎごちなく、まっすぐな性格で、喋っているうちに、いったい自分が何を話しているのか、最後のオチ(サゲ)をどうするのかわからなくなってしまい、最後は「かんべんしてくれえ」と叫んで終わってしまうことすらあったのです。要するに、即興はあまり得意ではなかったのですね。でも、観客もテレビの前の我々も、そうしたざこばさんの仕草を楽しみにしていたところがあるのですから、面白いものです。でも、彼の名誉のために付言しておきますが、ざこばさん、この後どんどん成長して、上方落語界でも指折りの噺家として確固たるポジションを築いていくことになります。

そんな桂ざこばさんが、先日76歳という若さで亡くなってしまいました。直接の死因は喘息と発表されていますが、これまでに左中大脳動脈閉鎖症、塞栓性脳梗塞で入院加療していた経験もあり、体力的にはかなり弱っていたと考えられます。まだまだ良い落語を聴かせてくれると期待されていただけに本当に残念です。

関西では、このところ演芸界においてキダタローさん、今くるよさん、坂田利夫さん等次々とベテランが逝去してしまって、とても寂しい日々が続いている状況ですが、こういう時だからこそ、若手にはしっかりと頑張ってもらいたいですね。

 

故人のご冥福をお祈りいたします。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常251 がんと「経済毒性」

こんにちは。

 

今回は、まず前回の補足を手短に。

 

まず、多発性骨髄腫という病気の原因は今のところよくわかっていません。例えば、アルコール依存症になるほど酒をよく飲む人は肝臓がん発症リスクが高いとか、チェーン・スモーカーは肺がんリスクが高くなる傾向があるなどという比較的わかりやすい因果関係はなく、いわゆる生活習慣に起因するものではないのです。当時の主治医は「まあ、交通事故のようなものですね」と仰っていましたが、それだけに、「なぜ自分がこんな病気に・・・」というもやもやした気持ちはなかなか晴れるものではありませんでした。

この病気、いわゆる難病指定されているわけではありませんが、前回も書きましたように、今のところ「全快」を望むことはできません。同じように困難な病気に罹患している人は皆このような気持ちを抱いているのでしょうね。

もう一点。がんという病気。若い時に罹患すると、がん細胞が元気で、進行が早いと思っている人が少なからずいらっしゃいます。しかし、これは必ずしも正しくありません。そういった側面があることも多少はあるのですが、むしろ、若い時の方が、ある程度ハードな治療に耐えられるだけの体力があるため、病院側としては、治療の選択肢が多くあり、さまざまな対処がしやすいのです。

実際、私が受けた造血幹細胞自家移植も、原則として。65歳以上の患者には実施しないことになっているそうです。余命宣告された日、しきりに「若いのが救いかもしれない」と言われたのです、その時には、その意味を少し測りかねていたのですが、治療が進むにつれて、このことを実感した次第です。

 

そんなこんなで、これからもこの病気と付き合い続けていくことになるわけですが、とにもかくにも無理をしないように日々暮らしていきたいと思っています。

 

ところで、皆さんは「経済毒性」という言葉をご存じでしょうか。

ガンという病気の治療、療養にはどうしても相当のおカネが必要です。実際に私達患者が支払う金額は、高額医療費制度のおかげで上限が定められていますが、それでも、ある程度の出費になることは確かです。そして、さらに罹患者が不安に駆られるのは、「仕事はどうするのか」という点です。「仕事はいつまで休まなければならないのか?その期間の収入はどうなるのか?あるいは、やはり退職せざるを得ないのだろうか?」こうした主として経済的な要因による精神的な不安感を「経済毒性(financial toxicity)」と呼ぶのです。

大規模な総合病院には、たいていがん罹患者のための相談センター、支援センターが設けられていますが、そこに寄せられる相談の過半数が、こうした面にかかわることだそうで、実際、私もいくつかの総合病院でソーシャル・ワーカーの方にお話を伺いましたが、がん罹患者の場合、病気の進行状況や治療の仕方、副作用の出方、今後の通院・入院の必要性の有無、個人の資産状況などに大きな個人差があるため、結局のところ一件ずつ対応するしかなく、本当に大変だそうです。

それでも、こうした機関を頼ろうとする人には、専門的な立場から公的な支援策等を教えたり、精神的なサポートをしたりすることができますから、まだ「救われる」可能性はあります。

問題は、会社にも相談する機関や窓口がなく(あるいはそうした部署を訪れる勇気がなく、結局誰にも相談できず、一人で思い悩んでしまい、とにかく支出を抑えたいという気持ちが強くなりすぎたために、最悪の場合、必要な検査や治療を拒否したり、せっかく薬を処方してもらっても、その薬を受け取らなかったりするような場合も出てくるということなのです。「そんなバカな」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、国立がん研究センターが各地の総合病院を調査した結果でも、このような傾向が一定程度存在することは明らかなのです。

ここで重要なのは、「経済毒性」という用語が使われてはいるものの、これが単にお金の問題ではないということです。つまり、支援金をばらまけば、それで解決するという単純な問題ではないのです。日本人の約5割ががんに罹患すると言われる今日、この病気に対する理解は、以前に比べれば進んだとは思います。しかしまだまだ十分ではなく、また、会社によっては、がんに罹患しながらも働き続けるという希望を持った従業員を勤務させる経験をあまり有していない所も多く、実際問題として、彼等を孤立させてしまうという事例は、とくに中小企業においては相当多く見受けられます。そうした人達に寄り添い、少しでも不安感を軽減していくにはどうすればよいのか、それには、病院と勤務先、あるいはその他の専門機関が、本人および家族とどのように連携をとっていくのか、という「精神的なサポート」が大変重要となるのです。こうし側面の充実がなければ、せっかくまだ働くことのできる年齢であり、意欲もあるにもかかわらず、労働力としては排除されてしまい、本人だけでなく、勤務先にとっても、あるいは労働力不足に悩む日本社会全体にとっても、大きな損失になってしまうのです。

厚生労働省も、このような状況について、手をこまねいているわけではありません。「仕事と治療の両立」を重要なキーワードとして、がん治療に関するガイドラインを作成していますし、先進的な取り組み事例を広く公表しています。さらに、全国でこの問題に関するセミナーや講演会を開催しています。(残念ながらコロナ禍のために最近は激減してしまいましたが、その前は年間10回以上開催されていました。私もそのいくつかに参加したことがありますが、とくに某アルコール飲料メーカの事例や化粧品メーカの事例など、とても参考になるものも多く、後日、単独でそれぞれの企業にインタビューに伺ったほどです。)

さらに、やや余談になりますが、厚生労働省のチラシには、「課長 島耕作」のキャラクターを使った漫画が掲載されており、この問題にかなり力を入れていたことは確かだろうと思うのです。

 

厚生労働省のチラシの一例


具体的な施策については、ここでは割愛しますが、職場としては、これまでの人事制度の在り方を根本から見直し、従業員(契約社員や非正規雇用労働者を含む)個人個人が、何らかの病気や怪我に見舞われた時に、「治療と仕事の両立」を実現するための「使いやすい制度の工夫と日常的なコミュニケーション、サポート」を充実させていくことが、「人生100年時代」とか年金受給年齢の引き上げ等が喧伝される今日、とても重要になってくるのです。そうやって、「毒」が社会全体に回ってしまわないように、この問題を考えていかなければならないのです。

 

今回のテーマはやや理屈っぽくなってしまいました。しかし、誰でも「老い」に伴う病気罹患は避けられないものですし、そうしたことに直面した時、慌てなくて済むように、個人としても、心の準備はしておかなければいけませんね。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常250 おかげさまで10年経ちました

こんにちは。

 

 

今回は、このブログの元々のテーマである私の罹患している病気についてです。

去る6月2日で、私が多発性骨髄腫に罹患しているという診断を受け、余命宣告を受けてから、ちょうど10年が経過しました。

その当時示唆された数字は以下の通りです。

・現在、多発性骨髄腫のステージⅢである。(ほとんどのガンはステージⅣまでありますが、多発性骨髄腫に関しては、ステージⅠ~Ⅲまでの3分類だけです。ただし、私の場合、末期と診断されたわけではありませんでした。)

・多発性骨髄腫の罹患率は、日本人の場合10万人あたり数名程度。(現在は、もう少し増えているそうです。)

・このままだと、余命は約2年である。

・5年生存率はおそらく20%程度となる。

・ただし、10年間生き続ける患者もいないわけではない。

 

こうやって当時説明された内容を読み返しても、かなり絶望的なものですね。しかしあれから10年。体調は少し低空飛行になることもあったりしますが、とにかくこうやって今日も基本的には平常運転で生活しています。これまで直接的・間接的に支えて下さった皆さんに改めて御礼申し上げます。また、このブログを読んで下っている方にも深く感謝いたします。

なお、5年生存率に関しては、現在約50%にまで改善しているようです。

 

さて、多発性骨髄腫という聞き慣れない病気について、今一度、簡単に説明しておきましょう。

血液の中にある赤血球、白血球、血小板などを血液細胞といいます。血液細胞は、骨の中心部にある骨髄で、血液細胞のもとになる造血幹細胞からつくられます。

多発性骨髄腫は、白血球の中のリンパ球のうち、B細胞から分化(未熟な細胞が変化して特定の働きを持つようになること)した形質細胞ががん化して骨髄腫細胞になり、骨髄腫細胞が主に骨髄で増える病気です。

形質細胞は、体内に侵入した細菌やウイルスなどの異物から体を守る抗体をつくる働きをもっていますが、がん化した骨髄腫細胞は異物を攻撃する能力がない抗体(M蛋白)をつくり続けます。多発性骨髄腫は、骨髄腫細胞やM蛋白が増えることによって、さまざまな症状が起こるのです。(以上、国立がん研究センターのサイトより)とくに、骨を弱くし、場合によっては溶かしてしまうという症状が現れることが多く、これがとても厄介なのです。この病気の患者で、車椅子生活を強いられている方が少なからずいらっしゃいますが、それはこのような事情によるものであることが多いのです。

その他、腎臓機能の低下、貧血等の症状が現れる人も多いのですが、私自身、これらすべての症状が出てしまいました。腎臓機能は入院初日には平常の3割程度しか機能していなかったのですが、幸いなことに、1週間で7割程度までに改善させることができました。また、骨に関しては、骨盤付近にまん丸の穴が開いており、最初写真を見た時にはそのあまりにきれいな穴に、少し笑ってしまったものです。

多発性骨髄腫のうち、治療が必要になるのは、血液中のカルシウム濃度が高い(高カルシウム血症)、腎不全、貧血、背骨の骨折による腰痛や骨折しやすい(骨病変)などの症状が1つ以上ある場合です。この段階がおおよそステージⅡです。症状がない場合を無症候性多発性骨髄腫といい、これはステージⅠにあたります。この場合は、すぐには治療を始めず、定期的な検査による経過観察が続くことになります。

しかし、ステージⅢになると、上記症状のいくつかについてはっきりした自覚症状が現れ、一刻も早く本格的な治療を開始することが必要となるのです。

私自身、入院当時のことは今でも色々と覚えています。それまで長期入院にはまったく縁のなかった私ですが、いきなり「最低数か月」という入院生活を強いられたことによって、はじめて気づかされたこと、感じたことはたくさんあります。そして、それは決して忘れてはならないことだと思っています。

そこで、今回は宣告され、いきなり入院となった当初のことを、今一度振り返っておきたいと思います。(ここから後の記述は、既に紹介したことのある内容を多く含んでいます。既に読んだことのある方は、適当に読み飛ばしてください。)

・2013年3月頃 

友人と食事をしている時、急に腰に強い痛みを感じました。

翌日から、整形外科に週1~2回程度通院しましたが、なかなか腰の痛みは改善しませんでした。やむをえず、ロキソニン等対処療法的な薬でなんとかやり過ごしていました。

この当時、かなり仕事が立て込んでおり、一ヶ月に一度は東京に出張するような状況でした。また、執筆しなければならない原稿もいくつかあり、おそらく体はかなり悲鳴を上げていたものと思われます。

・2014年3月頃

最初の腰痛から1年が経過しましたが、まったく改善の余地が見られないことを踏まえて、医師からはMRI検査を受けることを勧められました。その結果、何らかの腫瘍ができていることが確認されたのです。

この結果を受けて、総合病院を受診したのが2014年6月2日。最初は整形外科を受診したのですが、すぐに血液内科に回され、そこで即刻「多発性骨髄腫という病気です」という診断を受け、そのまま入院の手続きに入りました。なんだか夢の中にいるような一日でした。医師の説明も、何だかぼんやりした気持ちの中で聞いていたものです。それぐらい、現実離れしたことのように思えてしまったのです。現実をなかなか受け入れられなかったとも言えるのでしょうね。

・入院後1週間

最初数日間は、さらなる検査とかなり機能が弱っていた腎臓の機能回復、そして痛みをとるための処置が施されました。また、放射線治療の準備に入りました。このときは、娑婆?に残した仕事の残務処理もしなけれぼならず、毎日、けっこう忙しかったものです。

・入院後2週間目以降

本格的な治療を開始。この時点での主な治療は、化学療法(抗がん剤投与)と放射線治療放射線治療は約1か月間続きました。放射線治療そのものは、まったく痛みもありません。ただ、治療後しばらくはベッドで安静にしている必要はありました。また、1台数億円すると言われる機械の冷たい寝台に寝ていると、得も言われぬ孤独感にさいなまれることが何度もあったことは事実です。

あと、化学療法では、さっそく味覚障害という副作用が出ました。あれはなんとも気持ちの悪いものですね。

・8月初め

治療が本格化してから2か月経過し、とりあえず腫瘍はある程度小さくすることができたので、これで第1段階は終了となりました。と同時に、一時退院となりました。ただ、体調は万全とは言えませんでしたし、結局、約2週間の一時退院の間はほとんど自宅で過ごすことになりました。

・8月下旬

再入院して、いよいよ第2段階である造血幹細胞自家移植の準備に入りました。これは、意図的に白血球の値を急上昇させ、造血幹細胞をたくさん作らせて、それを採取したうえで、後日、これを再度体内に入れることによって、がん細胞をやっつけるというものです。ただ、そのためにはまず強力な抗がん剤を大量に使う必要があり、これは相当体に負担となります。私の場合、21時間の点滴を2日間連続で行うというかなり厳しい治療でした。(ただし、点滴で入れたのは、抗がん剤だけでなく、アレルギー止めや吐き気止め等も含めてのものです。)全部の点滴が終わった時、体中が水分過剰摂取となり、「これ以上水を飲むこともできない」という状態でした。あれはかなり苦しかったなあ。皆さんは水を飲んだだけで吐き気をもよおした経験ってありますか?

・9月

いよいよ自家移植。もともと自分の体の中にあったものをもう一度入れるわけですから、拒絶反応のリスクはほとんどありません。それでも、移植が終わった後数日は、とてつもない倦怠感にさいなまれ、また、胃腸の調子は最悪で、何も食べることができず、また、音楽を聴いたり、新聞を読んだりすることもできませんでした。まあ、端的に言って、最悪の数日間でしたね。

・10月はじめ

ある程度体力が回復しましたので、やっと退院することになりました。ただし、まだ万全と言える状態にはほど遠く、何かを食べてもすぐにもどしてしまうということが続きました。

・退院の翌々日

微熱が続き、咳も止まらなかったので、夜間診療を受けたところ、「これは肺炎ですね。ほら、肺が真っ白になってます」というとてもショッキングな診断を受けてしまいました。せっかく退院できたのに,・・・ やはり、抗がん剤の影響などもあり、かなり免疫力が低下していたことが原因だったのです。もちろん即再入院です。

当初はどのような種類の肺炎か不明だったので、色々な抗生剤を試したりして、やっと平熱に戻るまで約1ヶ月かかりました。この1ヶ月の間に体重は約10㎏も減ってしまいました。

・11月初め

ようやく本格的な退院。しかし肺炎は、予想以上に体力を奪うものでした。少しでも体力を回復させるため、近所を散歩するなどして毎日を過ごしました。最初は5分。3日後には10分というように、少しずつ歩く距離を長くしていき、年末までには、自分だけである程度歩けるようになりました。また、クリスマスや正月は、それなりに過ごすことができました。

ただし、仕事に関しては、産業医の勧めもあって、そのまま3月末まで休職して、自宅療養を続けることになりました。

 

 

以上が、2014年後半の経過です。私の場合、自家移植は成功しましたし、抗がん剤は多少の副作用があったものの、比較的問題なく摂取することができましたので、治療は全般としてスムーズに進んだと言ってよいようです。もちろん、この後もいくつかの山や谷はあったのですが、その後10年間の間に色々な新薬が認可され、「この薬が効かなくなったら次の候補はこちら」ということが可能となっています。ただ、残念ながら根本的な治癒、つまり全快につながるような薬や治療法の開発はまだできていません。

したがって、生きている限り、この病気とは「共存」していかなければならないというのが現状なのです。

ただ、最初にも書きましたように、基本的には大きな問題を抱えることなく日常生活を送ることができている私は、本当に幸せだと思っています。

皆さん、どうかあまり気を遣わずに私と接して頂ければ幸いです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常249 映画「関心領域」は何を描いているのか

 

こんにちは。

 

3か月ほど前、このブログの第232回(2024.2.2)でアカデミー賞の候補にもなって話題となった映画「PERFECT DAYS」についてレビューしました。結果的にはこの作品は賞には輝きませんでしたが、個人的には非常に印象に残る映画でした。役所広司さんの演技や現代の東京という街の描き方を含めて、何度も頭の中で反芻したくなるのです。まだ見ておられない方は、ぜひご覧になることをお勧めします。

ところで、この映画、ノミネートされていたのは「国際長編映画賞」という部門だったのですが、この部門で見事受賞し、さらに「音響賞」も獲得したのが「関心領域(The Zone of Interest)」です。最近になってこの映画が封切りされましたので、「さてさて、どんなもんだろう?」と興味半分で観てきました。

でも、この映画、そんな軽い気持ちで鑑賞すべきものではありませんでした。

監督は、イギリス人の映像作家、ジョナサン・グレイザー。映画監督としてのキャリアはまださほど豊富なわけではありませんが、数多くのCMやミュージック・ヴィデオの制作にかかわっているようです。

舞台は第二次大戦中ポーランドにあったアウシュヴィッツ強制収容所。というか、そこで働く所長であるドイツ兵とその家族が主な登場人物です。

これまでにもナチスアウシュヴィッツを扱った映画はたくさんありました。しかし、この映画はこれまでのものとは根本的に異ります。描かれるのは、あくまで所長一家(所長とその妻、そして子供たち、犬)の日常の裕福な生活で、収容所で行われたはずの残酷な場面は一切出てきません。ただ、注意深くみていると、遠くで銃声や爆発音、収容されている人々のものと思われる叫び声等、残虐な行為を想起させるような音がたびたび聞こえてきます。実際、彼らの住居は収容所に隣接していたのですから、こういう音がたくさん聞こえてくることは不思議でも何でもありません。彼らはそういう日常の中で裕福に暮らしていたのです。

まあ、穿った見方をすれば、収容所を管理するという仕事はそれだけ大変な仕事であることをナチス政府も理解していたからこそ、彼らにぜいたくな生活環境を与えていたのでしょう。

また、登場人物たち、とくに所長の表情はあまりはっきりとは描かれません。妻や子供たちは、この余裕のある生活を享受しているように見えるのです、他方で、肝心の所長はどんな気持ちでいるのか、判断がつきにくいような演出がされています。

彼等の生活や当時のドイツ軍の立場について、詳しい説明はありません。ただ、舞台がアウシュヴィッツであることから、私達は漠然と様々なことを想像するのみです。

そういえば、この映画、冒頭の3分ほどは真っ暗な映像が流れます。これをどのように解釈するのかは人によって異なるでしょうが、私は、「この映画は目よりも耳をしっかりと使って鑑賞してほしい」という監督のメッセージのように感じました。また、しばしば流れる不吉で不穏な音響は、私達の心臓を直接刺激してくるような、ぞわぞわしたものでした。このあたりが「音響賞」を獲得した所以なのでしょうか。たしかに、高く評価された映画だけのことはあります。こんな演出方法もあるのだな、と感心する、というよりも打ち負かされたような気持ちにさせられる、圧倒的なものでした。

ところで「関心領域」という言葉についてです。

現代は、情報に溢れた社会です。私達はとくに何の努力をせずとも、ありとあらゆる領域の情報を入手できる状況にあります。そのすべてに目を通すことは物理的に不可能ですし、そもそも、世の中すべてのことに関心をもつことはできません。つまり、個人が関心を持つことのできる領域は、ある程度限られているのです。そういった姿勢を貫いているからこそ、平常心で日常生活を送ることができるのです。

ただ、「まったく無関心であること」と「関心をもつべきかもしれないことは何となく理解していても、目をつぶっている」ことは大きく異なります。前者のような領域があることは当たり前ですし、個人の生活にとくに支障はありません。ちなみに、私の場合ですと、例えばいわゆる芸能スキャンダル的な話にはまったく興味を持てませんし、それを知らなくても、生活には何の支障もないと思っています。しかし、世界情勢や政治の動向、あるいは環境の変化等については、どこかに引っ掛かりを感じながらも、時間がなかったり、他のことに興味をもっていたりするために、「もっと考えないといけないのはわかっている」と感じながらも、「それはそれとして、今晩は何を食べようか」などというような卑近なことに思いを馳せ、じっくり考えなければならないことは少し避けてしまうことがしばしばあることは、残念ながら否定できません。

この映画で描かれる家族の場合、夫である所長は毎日収容所の現場を見ているだけに、精神的にかなり苦悩を感じているようですが、家族たちも、上に書いたさまざまな音は聴こえているだけに、「まったく知らない」とは言えないはずです。しかし、今の恵まれた生活を維持するためには、「見て見ぬふり」を続けるしかないのかもしれません。つまり、人間にはできる限り自らの関心のある領域の中でずっと暮らしていこうとするある種の防衛本能のようなものを働かせて、日々暮らしているのです。

 

映画の終盤、所長は明らかに精神のバランスを崩しかけているような態度をとることになります。嗚咽を繰り返す彼の脳裏に浮かんだのはどんな思いだったのでしょうか。そして彼は薄暗い階段をトボトボと降りていきます。それは一体どこにつながっているのでしょうか。さらにエンディングでは、エンドロールが流れる中、またもや不吉な叫び声のような音響が鳴り響きます。私達は、なんとも不安感や不快感が残ったまま映画館の外に出ることになるのです。

 

「関心領域」と「PERFECT DAYS」はまったく異なる時代、場面を描いた映画です。第二次大戦中のアウシュヴィッツと現代の東京。そこには、一見すると何の共通項もありません。また、演出の方法も両者ではかなり異なります。ただ、どんな時代でも、そしてどんな社会でも、そこに暮らしている人間はある意味で「必死になって」何気ない日常生活を送ろうとしています。何も考えていないように見えても、実は歯を食いしばって、昨日と同じ今日を送りまた、明日に希望をつなげようとしているのではないでしょうか。実は、それこそが社会と自分を「支える」ことにつながっているように思えてならないのです。

まったく趣の異なるふたつの映画を見て、そんなことを考える今日この頃です。

映画のチラシ

 

すごい豪邸に暮らしていたのですね



今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常248 線路は続くよどこまでも?(2)敦賀以西はどうなる

 

こんにちは。

 

GWはとっくに終わりましたが、相変わらず外国人観光客の方は多いですね。

先日、駅のカフェに立ち寄ったところ、外国人(おそらくヨーロッパ系)の方が席取りのために自分の荷物を椅子に置いて、そのままどこかに行ってしまうという光景を目にしました。日本ではしばし見かける光景ですが、置き引きなどの犯罪が日常茶飯事のように起きる諸国では、まずありえないことでしょう。数分後には戻ってこられて、何事もなかったかのようにコーヒーを飲んでおられましたが、よほど日本という国の治安の良さを過信しているのか、それとも旅先で警戒心が多少緩んでしまっているのか・・・何だか不思議な気持ちになりました。

 

さて、このブログの第242回(2024年4月12日)で「線路は続くよどこまでも?」と題して、北陸新幹線を話題にしました。その主旨は、本来途中駅である敦賀駅が当面の終着駅となり、多くの利用者にとってはそこでの乗り換えが必要となったけれども、改修された敦賀駅の現在の様子を見るにつけ、必ずしも乗り換えに便利なようにはできていない、むしろ高齢者や障害者にとっては大きなストレスになっている、また、地元にとっても、このままではあまりメリットを享受できないのではないか、というものでした。

では、その根本的な解決方法は何か、というと、敦賀より先の延伸計画を一日も早く進めることに他ありません。そう、新幹線は大阪方面までつながることによって、はじめてその効果を十分に発揮するようになるのです。1964年の東海道新幹線東京―新大阪間開通以来60年の時間が経過していますが、この長い時間の間に、少しずつ日本の「新幹線網」はその営業距離を伸ばし、利用者が享受する便益は大きなものとなってきたのです。

そこで、敦賀以西のルートです。

敦賀以西のルート案(再掲)


以前紹介しましたように、これについてはいわゆる「小浜―京都ルート」が自民党の作業部会で決定され、今のところ正式なルートとして認められていますが、その他に、「若狭ルート(小浜ルート)」「米原ルート」「湖西ルート」「舞鶴・京都ルート」が有力な案として検討されてきた経緯があります。その中で、舞鶴を通るルートは、山陰地方につなげられる可能性を生むものの、関西へはあまりにも遠回りになることから、まず除外され、また、大都市である京都市内を通らないで新大阪に向かう若狭ルートは、利用客の増加がさほど見込めないのではないか、ということで早々に却下されています。次いで、米原ルートと湖西ルートという滋賀県を通るルートが有力視されたものの、政治的な理由やJRおよび沿線自治体の思惑等によって、実現困難とされてしまいました。なお、湖西ルートについては、二種類のゲージ(レール幅)を走ることのできるFGT(フリー・ゲージ・トレイン=軌間可変電車)で運行することを視野に入れたものでしたが、技術的問題により、その開発は断念されています。ちなみに、FGTの技術開発が成功すれば、新幹線の走る標準軌だろうが、在来線の走る狭軌だろうが、線路の幅に関係なく列車は走れるようになるため、新幹線の工事が行われていないところでも、自由に走り回ることができるようになります。つまり、敦賀以西の工事を行わなくても、そこから京都・大阪、あるいは米原・名古屋方面へと乗り換えを必要とすることなく、足を延ばすことができるようになるのです。

FGTの技術開発は、もともと九州新幹線の長崎ルートで採用することを念頭に置いて行われていたのがですが、それが「困難」になったため、北陸での採用も実現不可となってしまったのです。開発断念は本当に残念なことなのです。

九州新幹線長崎ルートのFGT利用案


こうして残ったのが小浜・京都ルートですが、沿線自治体や地元住民の中でその早期着工・開業を本気で期待している人はおそらく大変少ないというのが現状です。

私自身も、2040年代とされている開業時期について、ほとんど無理だろうと思っています。というか、今のままでは、敦賀が恒久的な終着駅になってしまうのではないか、と懸念しています。

その理由は主に以下の点に集約されます。

・延伸区間の距離が比較的長いうえに、トンネルや地下部分を通るルートになるため、工事費用がかなり膨大なものになる。にもかかわらず、費用捻出の目途はまったくといってよいほどたっていない。

・沿線にある中規模以上の都市は、小浜市以外にはほとんどないため、乗降客の増加を期待することはあまりできない。つまり、たとえ全線開通したとしても、大きな利益を生む路線になるという保障はない。

京都府内はほとんど山中や地下を走ることになり、駅も設置されないため、京都府および住民にとっては、まったくメリットがない。それどころか、工事によって地下水脈が分断されてしまうのではないか、自然環境が壊滅的な被害を受けるのではないか、という懸念は大きい。

京都市内はさらに深刻で、京都駅に隣接して北陸新幹線ホームを作ろうとすると、京都盆地の地下を通すしかない。しかし、ここには平安時代からのさまざまな遺跡が埋もれている上に、盆地の下には大きな水脈がある。これらを避けたり、調査したりしながら工事を進めるのは、相当の時間と費用が必要であり、全面開業まで何年かかるかわからない。

公表されている京都市内の測量地点等 京都駅へは現行の各路線とは直角に交わる計画


・京都以南新大阪までは、JR東海が運営する東海道新幹線に並行して線路を設置するわけにもいかないので、少し遠回りする予定となっている。(京都府京田辺市のJR片町線学研都市線松井山手駅付近に駅を設置することを想定)しかし、本当にそんなルートを走る線路が必要なのか、疑問の声は大きい。

 

もちろん、関西と北陸が一本の路線によって結ばれるようになることの意味は大変大きいのも事実です。歴史的に見ても、関西と北陸の人的・物的交流は非常に活発であったのが、敦賀での「分断」によって希薄になってしまう両地域の関係を再び強化することが可能となります。また、近い将来起きることが予想されている東海地域や南海トラフの大地震の際には、東海道新幹線のバイパスとしての役割にも期待は集まるでしょう。

しかし、それにしても上に書いたようにクリアしなければならない課題はあまりにも山積しているのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

最近になって、北陸地方のいくつかの自治体やその地方議員からは、米原ルートを再浮上させる意見が出てきています。敦賀から米原までは現在の特急「しらさぎ」でも約30分の所要時間なので、工事区間はかなり短くなります。ただ、どうしても「米原から先はどうするのか」という問題は残ります。今のところ、JR東海は自社の路線である東海道新幹線に他社の車両を乗り入れさせることには否定的で、あまり協力を得られそうにありません。ただ、ルートの工事負担が少なくなる分、米原駅の改修工事を徹底的に行い、少なくとも敦賀乗り換えよりはマシな乗換駅として再整備することは可能かもしれません。いずれにせよ、米原が終着駅となりますが、まあ、現状よりははるかに良い形で新幹線網の整備が進むはずです。

もうひとつの案は、10~15年程度の長いスパンでFGTの開発を再スタートさせることです。日本の鉄道開発技術をもってすれば、決して夢物語ではないでしょうし、費用は、延伸工事にかかる分を回せば済むことです。

FGTの簡略図

 

FGT車両の車軸はこんな感じになる



これが成功すれば、今後の新幹線整備計画そのものが大きく変更されることになるはずです。もちろん、FGTが在来線部分を走る際には、新幹線と同じ時速250㎞等(北陸新幹線の場合の時速)を出すことは不可能です。在来線部分での最高速度はせいぜい130~140㎞ぐらいでしょう。それでも、現在の状況よりはかなり速達になりますし、実際に利用する人がそれ以上のスピードを求めるのか、というとおそらくそのことに執着する人はそんなにはいないと思われるのです。何よりも、乗り換えによるストレスがなくなるだけでも、これを歓迎する人は多いでしょう。なお、FGTの車両はかなりの重量になるため、安全性や走行安定性の問題は慎重にクリアしていかなければならないことは当然です。

以前も書きましたが、私は鉄路が日本中張り巡らせていて、自分の住んでいる街とまだ見知らぬ街がそれによって「つながっている」という感覚をもつことに、とても幸せを感じます。FGTはそんな夢をもう一度見せてくれるのではないか、と期待してしまうのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 247 高砂淳二さんの写真展を鑑賞して

こんにちは。

スロヴァキアでは、首相が狙撃されるという事件が起きたそうです。日本に住む私達としては、思わず安倍元首相暗殺事件を思い出してしまいますが、今回は幸いにも、命の危機からは脱しつつあるようです。

かと思っていると、フランスのマルセイユでは犯人護送車を襲うという事件が起きました。重大犯罪を犯した犯人を逃走させるとともに、護送を担当していた警察官2名が殺されるという、映画やドラマにでも出てきそうな事件です。フランスではこの夏オリンピックが開催されることになっており、警備体制はかなり強化されているはずなのですが、このような事件が起きたことは、警察はもちろん、一般市民にも大きな不安が広がっていることでしょう。

この二つの事件には、おそらくまったく何の関連性もないはずです。ここで、その背景等について深堀りするつもりもありません。ただ、理由がどのようなものであるにせよ、暴力で何事かを解決しようとする姿勢は決して許されるものではありません。

暴力はさらなる暴力しか生みません。暴力から生まれる憎しみは、さらなる憎しみの連鎖しか生まないのです。そしてその延長線上にあるのが、戦争というもっとも憎むべき行為です。現在、世界の各地で戦争を行っているすべての当事者には、原点に返って、本当の問題解決には何が必要なのか、しっかりと考えてもらいたいものです。

 

さて、今回の本題です。

皆さんは高砂淳二さんという自然写真家をご存じでしょうか。

自然写真とは、ネイチャーフォトとも呼ばれ、自然の風景を撮影した風景写真、山岳写真、野生の動植物等の生物(人間やペットなどは通常除かれる)を主な対象とした写真で、水中写真もこのカテゴリーに含まれます。

こうした写真を専門に撮影しているのが自然写真家で、日本でネーム・ヴァリューのある方としては、星野道夫中村征夫田淵行男海野和男らの諸氏がいらっしゃいます。そして、高砂さんもこれの方に肩を並べる実績をもつ自然写真家として名を知られた存在なのです。

高砂さんは1962年宮城県石巻市生まれ。世界各地で撮影を敢行するとともに、展覧会や講演会を積極的に開催しています。彼の身上は「自然のこと、自然と人間の関係、人間の関係を伝え続けること」で、彼の作品にはそんな思いが詰まっているのです。

高砂さんの写真展が今回、京都駅に直結している伊勢丹の7階にある美術館「えき」KYOTOで開催されています。

題して「この惑星(ほし)の声を聴く」。全体で100点以上の写真が、「大地の声」「空の声」「海の声」という3つのパートに分けて展示されています。

それらをじっくりと眺めていて感じたこと。それはここでいう「声」にはさまざまな意味が込められているのだろう、ということです。

それは、第1に自然の中で生きる動物たちの発する「声」、第2に、自然そのものが発する「声」、そして第3に、地球そのものの発する雄たけびのような「声」です。

第1に動物たちの「声」。これは、彼等を強い意志と感情を持つ存在として捉えていることから、写真の中からはっきりと聞こえてくるような気がします。決して、かわいいだけでも、恐ろしいだけでもない。彼らの姿から私達は何を受け取り、感じるのか、これだけでも、この写真展を鑑賞する価値は十分にあります。

第2の自然の「声」。当たり前のことですが、写真からは声や音は聞こえてきません。しかし、写真という枠の外にまで溢れ、また奥行きを感じさせる写真は、唯一無二のものです。そこには人工的な物音は全くしません。しんとした空間の中で響くのは、ざあっという波の音、ばりばりと氷の割れる音、ぴゅーぴゅーと吹き荒れる風の音、ざわざわという木々の揺れる音など、すべて自然から発せられる音ばかりです。(もちろん、撮影のセッティングに必要な機材の音や、スタッフ達の打ち合わせのための声は別です)そして、それらはそのまま、自然が自らの存在を誇示する「声」なのです。

第3は、上の二つを総合して私達に迫ってくる地球という星の「声」。都市部に住む私達には、普段決して感じることのできない、力強いのに、どこか優しく、そして人間が発する不躾(ぶしつけ)な音の前では押し黙ってしまうような、「声」です。人間が自らの生活をより便利なものにするだけのために進めてきた温室効果ガスの大量発生、主に南極で拡大し続けるオゾンホール、そして地球温暖化・・・。先ほど「雄たけびのようなもの」と書きましたが、ひょっとすると、断末魔のような悲鳴なのかもしれません。などと思うと、この、どこまでも広がりを持つ写真から見えてくるものは、まったく別物にみえてくるのです。今という時代だからこそ、これらを鑑賞することに深い意味があるのです。

スマホやデジカメの普及によって、プロの写真家が撮る写真には、以前とは異なる意味が生まれています。私達は、彼らがファインダー越しに見た風景のもつ意味を単なる残すべき記録として見るのではなく、一枚一枚をしっかりと心の奥底に残すべきものとして理解し、味わっていくべきなのでしょう。

 


なお、この写真展は5月19日(日)までとなっています。期限が迫っていますので、興味のある方は、この週末、もともとあった予定を変更してでも、訪れられることを強くお勧めします。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 246 プロ野球選手の右腕切断から考える人生

こんにちは。

 

今回は、まず前回のフジコヘミングさんについて若干の補足をさせていただきます。

 

私の身内のことを少しだけ紹介し、60歳代半ばにもなると、ピアノの演奏活動をやめてしまう人も多いという主旨のことを書きましたが、これを読んだ本人が、「これだと、私自身がピアノをやめてしまう、と誤解する人が出てくるかもしれない」と心配しているのです。

ご安心ください。といっても、これを読んでいただいている方の中で、直接彼女のことをご存じの方がどれだけいらっしゃるのかわかりませんが、とにかく、彼女は当分演奏活動を辞める予定はありません。今年9月には、京都市にてソロ・リサイタルを開く予定で、ますます充実しているようです。長年ピアノを弾いていても、まだ新たな発見の日々だということだそうです。

この件に関しては、日程が近づいてきましたら、もう一度このブログで取り上げますが、とりあえず、リサイタルのチラシは既に出来上がっていますので、下に挙げておきます。

さて、今回の話題は、前回予告しましたように、最近のニュースの中から元プロ・スポーツ選手のことです。

皆さんは、元プロ野球選手の佐野慈紀(さのしげき)さんという方をご存じでしょうか。今はなくなってしまった近鉄バファローズに在籍し、その黄金時代を支えた投手の一人です。1991年から2000年までの現役10年間(最後の2年間は中日ドラゴンズオリックス・バファローズに在籍)での通算成績は、登板試合数353、41勝31敗27セーブ、防御率3.80というように、超一流選手と言えるほど目立ったものではありませんが、セットアッパー(先発投手と抑え投手をつなぐ、主に勝ちを見込める試合で登板する中継ぎ投手)としての活躍は、当時の打力中心だった近鉄バファローズというチームの中で、非常に重要な役割を担っていました。

そして、それ以上に注目を浴びていたのが、この人のキャラクターです。球界屈指の明るい性格とサービス精神あふれるパフォーマンスで常にファンを喜ばせたのです。とくに、かなり若い時から髪の毛が薄かったことを「自虐ネタ」としてしばしば利用したのです。真面目な顔をしていたかと思うと、いきなり帽子を脱いで相手バッターに見せつけたり、また、鏡の前で自分の頭に光を当てて自分で眩しがったり、といったベタなパフォーマンスでしたが、「ピッカリ投法」とも呼ばれ、思わず笑ってしまうものだったことを、とくに近鉄というチームに注目はしていなかった私でさえも、よく覚えています。

現役時代の佐野選手(スポニチのサイトより転載)


そんな佐野さん、引退後も野球解説者や少年チームのコーチなど、常に野球とかかわりを持ってこられたものの、とくに目立った活躍をしてこられたわけではありません。しかし、つい最近、突然、ニュースに取り上げられることになりました。

それは、感染症の進行がひどいため、右腕の切断手術に踏み切ることになった、というものでした。それまでも約1年間入院生活を強いられ、その間に心臓弁膜症をも患っておられたのですが、感染症の症状はかなり重大なものだったようです。その原因について、本人は明言はしていないようですが、どうやら糖尿病らしいです。(ブログの中で「糖尿病は恐いよ」という書き込みはしておられます。)

先に書きましたように、彼は右腕投手としてプロの世界で活躍した人です。つまり、彼にとって、右腕はいわば相棒のようなものであり、それなしには、これまでの人生など考えられなかったに違いありません。そんな右腕と別れなければならない・・・これは、おそらく私達が想像している以上に辛い決断に違いありません。「戦ってくれた右腕 ごめんなさい」という彼の言葉はとても重く感じられます。

糖尿病は、よく知られているように、その主な原因として遺伝性のものと生活習慣病によるものが考えられます。佐野さんの場合がどちらに当てはまるのかはわかりませんが、生活習慣に起因するものだとしたら、「それは自業自得だ」と冷たく言い放ってしまうこともできなくはありません。

しかし、どのような経緯があったにせよ、腕の切断という大手術に直面した人間の戸惑いと苦しみについて、私達は少し正面から考えてみる必要がると思うのです。

幸い、佐野さんの手術は成功し、今後はリハビリに努めることになります。そして「受け入れようと思いつつもやっぱり観てみぬふり なかなか弱気なハゲオヤジです」「元来ただの強がり。ならば命ある限り強がって生きる。やる事はまだまだたくさんある。目一杯抗いでやる。」とブログに記しておられます。また、こどもの日に合わせて、ファン向けに「健康第一」とし、「みんなかがや毛~!」と呼びかけるなど、現役時代さながらの茶目っ気も披露しています。とくにファンではない私も、彼の今後の人生を応援したくなります。

病気や怪我は、誰の肉体をも襲う可能性があるものですし、それは本人の思いや覚悟とは関係なく、突然やってきます。かくいう私も日常から非日常の世界に突然放り込まれるという経験をしていますので、ほんの少しなら、佐野さんの気持ちがわかるような気がします。だからこそ、この日常を大切に生きなければならない、と改めて強く感じるのです。「何気ない日常の中にこそ幸せは詰まっている」・・・これは、以前私が良く聴いていたFMラジオ・パーソナリティである井門宗之さんの決め台詞です。毎日を驚くような充実した立派な送り方をすることなど、できるものではありません。それよりも、昨日と同じように暮らした今日、今日と同じように過ぎていくであろう明日の中に、ちょっとした幸せを見出していくことこそ、私達に求められることなのではないでしょうか。そして、どんな時もユーモアの精神も忘れたくないものです。佐野さんのように。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 245 フジコ・ヘミングの人生とキャリア

こんにちは。

今回は、最近のニュースで気になったことについて、ちょっとした私見を交えて紹介したいと思います。

それは、ピアニストであるフジコ・ヘミングさんがすい臓がんのため、92歳で亡くなられたことです。昨年11月に自宅で転倒された後、静養されていたのですが、今年春にすい臓がんと診断されていたそうです。すい臓がんは発見された時には既にステージ4に進行していることも多いため、止むを得なかったのかもしれませんが、残念なことです。

この人は、スウェーデン人の画家・建築家であるお父様と、日本人ピアニストであるお母様の間に1931年にベルリンで生まれ、しばらくは日本に居を構えました。しかし、お父様が日本に馴染めなったこともあって、比較的幼少時からお母様と日本で二人暮らしをすることになりました。しかし、幼少の頃から馴染んでいたピアノの腕は相当なものだったらしく、「天才少女」と騒がれ、1961年には国立ベルリン音楽大学に留学しています。日本からヨーロッパの各地に留学する道が広く開かれている現代ならいざ知らず、この時代のこの経歴だけでも彼女の才能がいかに秀でていたのか、よくわかります。ただ、経済的にはとても貧しい状態が続いていたようで、「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたそうですから、かなり追い詰められていたのかもしれません。

しかも、やっとめぐってきた大きなチャンスであるソロ・リサイタルの直前に風邪をこじらせ、聴力を失ってしまうという大きなトラブルに見舞われて、それまでの苦労がすべて水泡に帰してしまいます(その後、左耳の聴力は40%にまで回復)

その後は、主にストックホルムでピアノ教師として糊口を 凌いでいたのですが、1995年にお母様が亡くなったことをきっかけに、日本に帰国しています。そして、母校である東京芸術大学奏楽堂でコンサートを行ったりしたのですが、そのことが既に60歳を超えていた彼女にとって大きな転機となったのです。

1999年にNHKで放映されたドキュメンタリー番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」は、当時彼女が住んでいた東京の下町のアパートでの普段の飾り気のない暮らしを中心に、無名でありながら、実に楽しげにピアニストとしての活動を細々と続けていた彼女を追いかけた素晴らしい番組でした。私は偶然、途中からですが、これをリアルタイムで見ることができました。そこに映される、大好きな絵画やネコ達に囲まれながら、お母様の形見でもあるグランド・ピアノを奏でる彼女の姿はとても輝いていました。そして、後に彼女の代表的な演奏曲目となるリストの「ラ・カンパネラ」やショパンのいくつかの曲も、猫たちが周りをウロウロと遊び回る中で演奏されたのですが、これが実に素晴らしいものでした。リストの作品は「ラ・カンパネラ」に限らず、ピアニストにとってかなり高度なテクニックを必要とする難曲が多く、これを演奏するピアニストにとっては「チャレンジ!」という感じになって、必要以上に肩に力の入ったものになりやすいのですが、フジコさんの演奏はそれとは一線を画するものでした。今思い返しても、あんなに艶やかで、抒情的で、歌心に溢れた演奏に出会ったことはありません。大げさに言えば、リストに対する考え方を変えるきっかけとなった演奏だと言っても過言ではなかったのです。

私と同じような感想を持った方は、全国に数多くいらっしゃったようで、その後まもなく、全国に「フジコ・ブーム」が訪れます。そして、既に65歳になろうとしていた彼女は、いきなり売れっ子ピアニストになってしまい、つい最近まで、レコーディングに、コンサート活動にと大忙しの日々を送っておられたのです。

少し詳しくプロフィールを紹介しましたが、「こんな人生の送り方もあるんだなあ」というのが素朴な感想です。こんなキャリアの重ね方は、どんなキャリア・マネジメントの本にもおそらく載っていないでしょう。唯一、教科書的にまとめられることがあるとすれば、「人生、何があるかわからないから、あきらめないで続けることだ」ということぐらいでしょうか。しかし当たり前のことですが、すべてのピアノの道を目指す人がこのような成功を収められるわけではありません。私の身内にずっとピアノを弾いてきて、それを究めようとしてきた人がいますが、60歳代半ばにもなると、「今後できることは何だろうか」と考えるようになるのが普通で、これからまったく新たなステージに向かうことを考える人はまずいないだろう、と言います。というか、そもそもピアノをやめてしまう人の方が圧倒的に多いはずです。

ただ、その後の彼女は、売れっ子になったのは良いのですが、スケジュールはプロモーターやマネジメント会社に厳格に管理され、ほとんど自分の思うようにはできなかったようです。しかも、どこに行っても、リストやショパンの同じ曲の演奏ばかりを求められていました。これが70歳を超えた老ピアニストにとって、本当に幸せなことだったのか、私には判断ができませんが、少なくとも彼女に「トシを取ったのだから悠々自適に」という老後がなかったことは確かです。もちろん、経済的には若いときのような苦労はしなくて済んだでしょうが。

これをどのように感じるのかは、人によって異なるかもしれませんね。難しいところです。

 

なお、彼女がブレイクするきっかけになったドキュメンタリー番組は、以下のスケジュールで再放送されるそうですから、興味のある方はぜひご覧になることをお勧めします。

【番組名】おとなのEテレタイムマシン

ETV特集 「フジコ~あるピアニストの軌跡~」

【放送日時】Eテレ 5月4日(土・祝)22時~22時45分

(再放送)5月 6日(月・休) 13時10分~13時55分

(初回放送1999年 2月 11日)

また、彼女がスペインを訪れたドキュメンタリーの再放送も以下の通り決定しています。

【番組名】フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して

~スペイン・マヨルカ島への旅~

【放送日時】NHK BS 5月4日(土・祝) 11時00分~12時29分

(初回放送2022年12 月28日)

 

今回、もうお一人、スポーツ界で紹介したかった人がいるのですが、フジコさんの紹介だけでかなり長くなってしまいました。上記の通り、再放送の日程が迫っていますので、とりあえずここまでで筆?を置くことにします。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常244 福田平八郎に見る具象画と客観性の行く先

こんにちは。

 

来週はゴールデン・ウイークに突入しますね。既に定職をもっていない私のような人間にとってはあまり関係のない話ですが、昨年以上に関西を訪れる観光客の数も増えるのでしょうね。最近は、一時減っているように見えた中国からの方も徐々に増加しています。

そんなわけですから、関西在住の方で、近場への観光を考えている方は、混みあう前にお出かけになることをお勧めします。

かく言う私は、先日、大阪中之島美術館で「没後50年 福田平八郎」という展覧会を見てきました。同美術館では同時開催でモネ展もやっていて、そちらは平日にもかかわらず、とんでもない行列ができていて、ぎょっとしたのですが、福田平八郎の方はさほどでもなく、ゆっくりと彼の足跡をたどることができました。それにしても、モネってやっぱり抜群の人気を誇っているようですね。

 

福田平八郎(1892-1974,明治25-昭和49年)画伯と言っても、名前はともかく、その画業についてよくご存じの方は案外少ないかもしれません。大分市で生まれたこの人は、幼い時から絵をかくことは得意だったものの、数学がとんでもなく苦手で、そのために中学校を落第してしまうという憂き目を見ています。しかし、これをきっかけに故郷を離れ、京都の美術学校に入学し、そこで腕を上げることになります。ただ、さまざまな美術展に応募したものの、なかなか入選することはできなかったようです。そして、何でも器用に書きこなしてしまう彼の姿を見かねた教師からは、「自然に直面したとき、主観的に進むか、客観的に進むかのどちらかなのだが、君は自然を客観的に見つめていく方がよいのではないか」という助言を得たのです。これが彼のその後の進む道を決定づけることになります。今回の展覧会で見られる絵も、ほとんどは自然、とくに水、竹、植物、鳥、魚(主に鯉や鮎)など、自然の素材をどこまでも客観的に見つめ、それを自分なりの表現に昇華させる、という手法で作品を描いています。写生帖や素描もたくさん展示されていますので、一枚の作品を仕上げるために、数えきれないほどの下絵を描いて、試行錯誤を繰り返していることがよくわかります。

日本画家である千住博氏は次のように言っています。「福田の絵は、客観性をどこまでも尽きつめたところにある抽象的なもの(抽象画そのものではない)に辿り着いたところに大きな魅力がある。」すなわち、その本質は、あくまで客観性に基づく具象画だということです。

そんな姿勢がもっとも結実したのが、代表作とされる「漣(さざなみ)」でしょう。

「漣」(1932年)素晴らしいデザイン性です。思わず、この柄のTシャツを購入してしまいました。


この絵だけを見ると、まるで現代アート作家が描いたデザイン重視のもののように見えてしまいますが、琵琶湖で釣りをしながら湖面を見つめ、肌にも感じないような微風が美しい漣をつくっていることに気づいたことが、発想の原点になっているそうです。

彼は、この絵だけではなく、雪や氷、池など、「水の姿」を描いていますが、徹底した具象観察を出発点としているからこそ、私達は水というものにさまざまな姿、表情があることに気づかされるのです。

新雪」(1948年)


もうひとつ、彼の絵の特徴として、マティス等に端を発する「大胆な色彩表現」を自らの表現手段としていることです。(マティスについてはこのブログ241回(2024.4.5)「マティスに見る「自由さ」でも少し書きましたので、未読の方はよろしければご覧ください。)若い時から稀代のカラリストと呼ばれた彼ですが、その代表的な作品が、さまざまな色遣いで描かれた竹の姿です。こちらは今回写真撮影可能な作品がありませんでしたので、ここで写真をあげることはできませんが、やはり膨大な数の写生帖、素描、下絵を通じて、自己の表現として確立させる過程で、マティスゴーギャンの手法を創造の活路として注目し、それを日本画の伝統を深く意識したうえで受け入れるという成長を遂げているのです。

しかし、全体を通してみているうちに、どうやら彼が描いていてもっとも楽しそうなのは魚の姿だということに気づきます。そこで描かれる魚は、鮎にせよ、鯉にせよ、あるいは甘鯛にせよ、とても生き生きとしています。それぞれの顔や眼の表情がそれを物語っています。このたりはやはり江戸時代以降の日本画の伝統を踏まえていると言えるでしょうか。そして、その背景(当然、それは「水」ということになります)をどのような色彩で表せば、魚たちの姿をよりクローズアップさせることができるのか、ということに心を砕いているのです。

「游鮎」(1965年) 仕上がりだけ見るととてもポップな絵に見えますが・・・


そして、ここまであげた彼の特徴、つまり大胆な構図、豊かな色彩、徹底した具象描写といったものは、従来の日本画にはあまり見られなかったものであり、むしろ西洋絵画の影響を強く受けていること、そしてそれらを総合的に組み合わせたところに現代にも通じるすぐれたデザイン性があることに気づかされるはずです。しかし、当時の京都画壇には、そうした彼の絵を快く受け入れない閉鎖的な風潮があったようで、結局、彼は故郷である大分に戻って、そこでそれまでよりも伸び伸びと画業に専念していくことになるのです。

福田氏の晩年の作として、「雲」というのがあります。これは、それまでの作品とはかなり様相が異なり、描かれているのは、ほとんど空と雲だけ。しかも彼はこの絵について公式には何もコメントを残していないそうです。この絵から何を感じるのか、鑑賞者のイマジネーションに任せたということなのでしょうか。

「雲」(1950年)

 

余談ですが、最晩年の彼は、もらった和菓子やハマグリ、林檎から子供の絵、新聞の報道写真に至るまで、目につくものを手あたり次第描いています。まさに根っからの画家だったということになりますが、その際にも、若い時から身に着けた対象を徹底して客観的に捉えていくという手法が十分に活かされていたのです。時として、身内からは「変人」扱いされたりもしたようですが、それはそうでしょう。せっかくの菓子なのに、絵が描き終わるまで食べられないのですから(笑)

最後に、彼の言葉をひとつ紹介しておきます。

「人間は凡人になればなるほど、落ち着くようだ。

俺(わし)らは画にこそ多少の自信はあっても

土台、凡人であることを

欣(よろこ)んでいる。」

うーん。画業でこれだけの実績を上げた人の言葉だからこそ、とても深い含蓄を感じますね。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

皆さん、よいゴールデン・ウイークをお過ごしください。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常243 季節の移ろいと桜

こんにちは。

 

この一週間ほど、4月としては異常なほど気温が上がっていますね。早くも熱中症が心配されていますが、皆さん、体調管理は万全でしょうか。

などと、天候不順についてぼんやり考えていたら、今度は愛媛・高知方面で大きな地震。とりあえずは南海トラフとは直接関係はないようですが、何らかの影響が出る可能性はあるとのことです。本当に地震が多いですよね。こういう状況を見ていると、1970年代に大流行した小松左京氏作の「日本沈没」を思い出してしまいます。映画も大ヒットした作品ですが、今後、この国はどうなってしまうのでしょうか。ある程度の大地震が発生するのは避けられないでしょうが、少しでも被害が小さく収まることを祈るばかりです。

 

さて、当初の予定では、今前回に引き続き、北陸新幹線の話題を取り上げようと思っていたのですが、そろそろ桜も、北海道や東北地方以外は、見納めになってきましたので、「今春の見納め」として、もう一度だけ桜の話題を書くことにしました。

今年もいくつかの「桜の名所」を訪れましたが、そんななかで、このブログでまだ取り上げていなかったところを2カ所ご紹介します。

まずひとつは、京都市上京区西陣の近くにある興聖寺(こうしょうじ)。ここは1603年に建立されたのですが、茶道織部流の祖でもある武将・古田織部がその開山に関わったことから「織部寺(おりべでら)」とも呼ばれています。普段は非公開のため、知名度はさほど高くありませんが、本堂前や方丈の庭園の美しさは格別です。また、本堂天井画「雲龍図」や、青が印象的な青波の襖が奉納された方丈もみどころです。とくに枯山水庭園の見事さは特筆すべきものです。また、臨済宗の寺院であるこのお寺は、「本気の座禅」をキャッチフレーズに、座禅体験を積極的に企画しているそうです。

ここの本堂前庭にある桜が下の写真です。桜の木そのものは数本しかありませんが、とても枝ぶりが良く、手入れが行き届いていることがうかがわれます。

興聖寺本堂(2024.4.9撮影) 以下も同様

興聖寺 中庭

美しい枝垂れ桜

咲き誇っています

 

もう一件。それは京都市伏見区にある墨染寺(ぼくせんじ)。ここは京阪電車墨染(すみぞめ)駅近くの商店街の中にあるとてもこじんまりとした寺院で、一見すると、町中にある単なる小さなお寺、と思ってしまいますが、実は、古今集に詠まれた桜が植えられており、長い歴史を有しています。それは、平安時代前期、太政大臣であった藤原基経の死を悼んだ友人の上野岑雄(かんつけのみねお)が詠んだ歌です。

深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」

という歌で、この歌が詠まれた後、境内の桜が薄墨色の花を咲かせたという伝説が残っているのです。寺の名前やこの地の地名は、この歌と伝説に基づいています。今植えられている桜は、もちろん当時のものではありませんし、その花は薄墨色というわけでもありませんが、今でもこのお寺は「桜寺」という別名で、近隣の住民には親しまれています。

墨染寺山門 今回撮り忘れたので、伏見区のサイトから拝借しました

墨染寺の桜 2024.4.12撮影

 

こちらも墨染桜

sumizome 

それにしても、この伝説からもわかるように、日本人はずいぶん昔から桜を愛でる、ということに一種特別の感情を抱いていたようです。

例えば万葉集には桜を詠んだ歌がいくつも掲載されています。

梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや」

「あしひきの 山桜 花日並べて 斯く咲きたらば いと恋ひめやも」 (山部赤人

また、伊勢物語には在原業平の歌があります。

「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 浮き世になにか久しかるべき」

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

現代歌人では、俵万智さんにこんな歌があります。

「散るという 飛翔のかたち 花びらは ふと 微笑んで 花を離れる」

キリがないのでこのあたりにしておきますが、もちろん俳句にも桜を詠んだものがたくさんあります。歌謡曲や流行歌にも桜をテーマにしたものは数えきれないほどありますよね。

 

そして、これらを味わっていると、すぐに気がつくのは、人々にとって、桜の花は「春の使者」であると同時に、「季節の移ろいをもっとも雄弁に語る花」だということです。古来、四季の移り変わりが比較的わかりやすかった日本という国。しかも桜の花は「桜前線」という言葉の示すとおり、南から徐々に北上し、日本中にくまなく春の訪れを告げてくれます。そんな花に人は浮き立つ心を隠すことはできません。しかも桜の開花時期はほんの2週間程度。とても短いのですが、だからと言って、それで桜の魅力がなくなるわけではありません。花の命が短いからこそ、人はそこに無常を感じるというのは、よく言われることです。しかし、それだけではありません。花が散った後の桜もまたとても魅力的です。新緑の息吹を感じさせる葉桜も見事ですし、下を見れば、散った花びらが道路や水面を飾る姿もとても美しいものです。とくに、水面を覆い尽くすような花びらの群れは、古来より「花筏(はないかだ)」とも呼ばれ、愛されてきました。

そんなわけで、主として平安時代頃から観賞用の花として桜を栽培し、あるいは品種改良が行われてきたようです。

現代は、少し前までのようなスムーズな季節の移り変わりがだんだんなくなりつつあり、一日で気温が10度から15度も変わってしまったり、季節外れの真夏日や豪雨が頻繁にみられるようになったりしてしまいました。しかし、いや、だからこそ、季節の移り変わりをもっと感じたいと思うのは、日本という風土の中で生まれ育った私達にとって、自然な感情でしょう。そして、その象徴となるのが桜なのです。つまり、桜を愛でるという行為は、自然に触れる行為であるようにも見えますが、現代では、きわめて人工的に作られた「春の装い」としての側面が強くなっているのです。

でも、そうしたことを踏まえても、やはり桜は美しいものです。いや、桜に限らず、「季節の移ろい」を感じさせるさまざまな花鳥風月や身の回りの物達は、きっと不滅だろうと思います。私達は、そうしたもの達に囲まれながら、ゆったりと季節を感じながら暮らしていければ・・・そんなことを想う今日この頃です。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 242 線路は続くよどこまでも?(1)

こんにちは。

 

先日、はじめて整形外科を受診してきました。前にも少し報告した腰の具合にあまり改善が認められないため、近所にある開業医で診てもらったのです。本当は、いつも通院している総合病院の方が手っ取り早いのですが、血液内科の主治医から「あそこはいつもすごく混んでいるから・・・」と言われたので、止むを得ず、という感じだったのです。しかし結果としては、気楽に話せる先生で、良かったと思っています。レントゲン

を撮って診断を受けた結果は、腰あたりの筋肉が衰えてしまっているので、ストレッチ等の体操(先生は「筋トレ」という言葉を使っていましたが、まあ、それほど大袈裟なものではないでしょう。)をした方がよい」という程度のものでした。つまり、さほど深刻な状況ではなく、中高年に差し掛かった人にもっともよくある一般的な「腰痛」というわけです。したがって、今のところは定期的に通う必要はなさそうです。人によっては、50歳前後から腰痛持ちになるようなので、私の年齢を考えると、発症はむしろ遅かった方かもしれません。「とにかく毎日体操をした方がよい。最近は、歩くことよりも体操が推奨されています。」とのことでした。

というわけで、朝夕15~20分程度のストレッチを始めたところです。さてさて、効果が出てくれれば良いのですが。

それから、念のために、腰に巻くコルセットをもらってきましたが、これはなかなか効果的ですね。外出先で着脱するのはちょっと煩わしいですが。

 

さて、以前も少し書きましたが、私は子供の頃から鉄道が大好きな人間でした。といっても、撮り鉄乗り鉄あるいは模型マニアではありません。小学生・中学生の頃は、ヒマがあれば飽きもせず時刻表を眺めていたものです。また、レールを見ているだけで、「ああ、この線路が日本中に繋がっていて、辿っていけば、全国どこにでも行けるんだ。」と妄想を膨らませていました。けっこうロマンティストだったのかもしれませんね。(笑)

そんな鉄道ファンにとって、今年3月は大きなニュースがありました。それは、北陸新幹線の金沢―敦賀間延伸開業です。長野―金沢間が開業してから9年。本来、北陸新幹線上越新幹線高崎駅から日本海側をまわって新大阪まで結ぶ、というルートが想定されており、敦賀は途中駅になります。そして、敦賀以西については、いくつかルートの候補があったものの、2016年、「小浜ルート」が自民党国会議員で作る与党整備新幹線建設推進プロジェクトチームで決定されています。当初は、もっとも建設距離が短い米原ルートまたは既存の湖西線を利用できる湖西ルートが有力視されていたのですが、これが覆された形となっています。ただ、その開業は早くても2040年代になるだろうと予想されています。(この点については、別項で少し詳しく書くつもりです。)

つまり、敦賀が終点となるのは、あくまで新大阪開業までの暫定的な措置なのです。そして、敦賀から京都・大坂方面、あるいは名古屋方面に行くには、これから20~30年もの間、ここで在来線への乗り換えが必須となってしまったのです。

既に色々なところで報道されていますので、詳細は割愛しますが、敦賀駅での乗り換え、かなり評判が悪いようです。乗り換えに必要な時間は8分というのがJR西日本の想定ですが、それはあくまで移動にまったく支障のない場合であって、ある程度駅構内の様子がわかっている場合に限られます。高齢者や身体障碍者、多くの子供を連れている家族、大きなキャリーバッグ等を抱えている場合などは、この短時間での乗り換えは「絶対無理!」と酷評されています。また、普通に早足で歩ける人でも、敦賀駅でトイレに立ち寄ったり、買い物をしたりする余裕はおそらくほとんどないでしょう。ということは、敦賀駅売店も大きな売り上げは期待できない、ということですね。

もちろん、次の電車に乗れば時間的余裕は生まれますが、そうすると、せっかく新幹線に乗ったことによる時短効果がなくなってしまいます。また、これまで新幹線と在来線特急を乗り継ぐ際に適用されていた「乗り継ぎ割引(在来線特急券が半額になる)」が廃止されたため、特急料金は相当高くなってしまっているのです。(この「乗り継ぎ割引」は北陸新幹線だけのものではなく、基本的にはJR全線で適用されていたものですが、先月全面的に廃止されてしまいました。念のため。)

また、敦賀から関西へと走る特急サンダーバードはかなりの強風が吹き荒れることで有名な湖西線を走るため、しばしば大幅に遅延します。そんな時、敦賀での乗り換えがどうなるのか、下手をすると、大混乱になってしまうのではないか、と憂慮されています。

過去の事例を見ると、金沢・富山方面から北陸線を経由して越後湯沢で上越新幹線に乗り換えて東京方面に向かっていた際にも、北陸線の特急はしばしば遅延し、そのたびに越後湯沢駅の乗り換え改札口は自動改札を全開放して対応せざるを得ないことがよくありました。それでも新幹線ホームに着くのはギリギリになってしまい、ようやく自分の席で落ち着いたと思ったら、既に高崎付近まで来ていた、などということもありました。また、あんなことが繰り返されるのでしょうか。

北陸新幹線を走るE7系W7系) JR西日本のサイトより転載

 

 

在来線の特急サンダーバード(681系、683系)の先頭車両と最後尾車両。特急しらさぎも同じ車両を使用している。(カラーリングは異なる)JR西日本のサイトより転載



敦賀は京都・大坂からは1時間から1時間30分、富山・金沢からでもほぼ同様の所要時間となります。つまり、乗客は、旅の行程の途中で、乗り換えのために自分の時間を中断されてしまうのです。うたた寝していた人、パソコンで仕事をしていた人、読書していた人、食事をしていた人・・・皆にとって迷惑ですよね。私の場合は、列車でうつらうつらするのが好きなのですが、そんな時に「はい、乗り換えです!」とたたき起こされるのは正直なところまったく迷惑な話です。

ちなみに、敦賀から特急しらさぎ米原・名古屋方面に向かう人にとっては、もっとせわしなくなっています。敦賀からわずか30分の米原で、東海道新幹線への乗り換えまたはしらさぎ車内での座席の方向転換協力を要請されるため、ゆっくりしている時間はまったくないのです。

しかし、最大の問題は、やはり上にあげたような、通常より歩行に時間を要する人に「優しくない」ことでしょう。敦賀駅の新幹線ホームは3階、そして在来線特急のホームは1階ですので、エレベーターやエスカレーターを利用しても、どうしてもある程度は歩かざるを得ません。これが肉体的・精神的にかなりのストレスを誘発させてしまうことは、事前に予測できたはずなのですが、私の知る限り、JR側からのフォローはまったく不十分です。こんなに利用者に「優しくない」乗り換えは他にあまりないのでは?と思ってしまいます。

とはいえ、既に完成してしまった敦賀駅を今から大幅に改築することは不可能です。では、現段階でとりあえずできることは何なのでしょうか。

私にも妙案があるわけではないのですが、最低限出来ることとして、指定席券を販売する際、とくに客側からの希望がなくても、なるべく歩く距離が短くなるように、両列車の席を確保するよう、みどりの窓口等で徹底する、ということは必要だと思います。新幹線車両は1両25~30m程度ありますから、たとえ1両分だけでも歩くのに1分以上かかってしまう方も少なくないはずです。そうした負担を少しでも軽減するには、指定席の確定時点で出来る限り歩く距離が短くなるよう配慮を行う、というのは、鉄道を動かしている会社としての責務ではないでしょうか。(最近は、みどりの窓口そのものがどんどん閉鎖されていて、これもまた利用客をないがしろにするものではないか、と問題視されているところですが、ここではこれ以上深堀りは止めておきます。まあ、みどりの券売機みどりの券売機プラスをもっと利用しやすいように工夫してもらいたい、ということだけ、とりあえず記しておきます。ちなみに、私自身は、JTB等事前予約のできる旅行会社の窓口で切符を買うようにしています。大きな駅のみどりの窓口の行列は、とんでもないことになっていますので。)

敦賀以西のルート案



敦賀という街は、明治時代には大陸に渡る航路の港として注目され、とても栄えたところですが、その後はどちらかというと地味な存在で、1970年代以降は、原発のイメージが強くなってしまったところです。つまり、観光地としての注目はあまり浴びてこなかったところです。しかし今、新幹線開業に合わせて、敦賀近郊を観光地として見直し、首都圏等からの集客を図ろうとする動きが加速化しています。その中にはとても魅力的な試みもあるようで、これを機会に敦賀(あるいは福井県全体)がもっと繫栄するようになれば素晴らしいことだと思います。しかし、今回紹介したような新幹線および駅のマイナスの面が注目されてしまうと、せっかくのチャンスが萎んでしまいかねません。そんなことにならないよう、JRや福井県敦賀市には不断の努力を重ねてほしいものです。

 

今回も、最後まで読んでくださりありがとうございました。