明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常173 極私的京都散歩(徘徊)その1

こんにちは。

 

このところ、新型コロナ・ウイルスの新規感染者数が次第に減ってきているようです。各都道府県の病床使用率も徐々に低下してきているようで、幸いなことです。このまま第8波が収束してくれれば良いのですが・・・

ところで、皆さんコロナで大打撃を受けている旅行業等支援のために行われている全国旅行支援、あるいは各自治体が行っている支援、利用されていますか? 私は先日奈良県に小旅行をした際に利用しました。(昨年、出雲大社等に行ったときにも利用しています。)自宅から奈良へは比較的近いので、わざわざ宿泊することはこれまでなかったのですが、この機会に、ゆっくり寺社を見て回って、奈良の夜を過ごそうと思った次第ですが、思った以上に旅行支援による割引が多くて、なんだか非常に得をしたような気分になったものです。この支援、おそらく第5類への移行以後はなくなってしまうと思われますので、今のうちに国内旅行を計画することをお勧めします。

 

さて、奈良の話は次回以降に回すとして、今回は、前回書きました京都の小学校建設を巡る話に続き、私が卒業した小学校近辺の様子を少しご紹介したいと思います。大変個人的なものではありますが、ありきたりの京都案内とは一味違うと思いますので、よろしければおつきあいください。

 

まず、御所から出発しましょう。「京都御苑」と「京都御所」は正確には異なります。御苑というのはおおまかに言うと、北は今出川通、東は寺町通、南は丸太町通、そして西は烏丸通に囲まれた広大な国民公園で、周囲は約4km以上、面積は65haにも及びます。(東側は一部寺町通に面していません)江戸時代までは多くの宮家や公家が建ち並んでいたそうですが、今は桜や梅をはじめとする様々な樹木約5万本が植えられていて、市民の憩いの場になっています。また、いくつか休憩所も設けられています。ちょっとしたトリビア・ネタですが、御苑内の広い砂利道をよく見ると、砂利がなくなっている(はげている)箇所が細長く続いています。これは、自転車が長年にわたってここを通ってきた跡で、砂利道の中でそこだけ走りやすいので、今でも皆さんここを通っています。通称「御所の細道」とも呼ばれています。ここの管轄は環境省で、まさに誰にでも開かれた公園となっているのです。

これに対して御所とはかつて天皇がお住まいになったところ、つまり皇居にあたります。こちらは原則として特別公開のときにしか入ることはできず(他に、事前申し込みによる観覧がおこなわれています)、宮内庁が管理しています。つまり行政としては明確に区別しているのですが、地元の人間はほとんど意識せず、全体を「御所」と呼んでいるのが実情です。

私の小学校は校歌の歌詞にあるとおり、御苑のすぐそばにあります。学校の裏門を出ると真向かいに「石薬師御門」があり、そこをくぐると、もう御苑です。学校はグラウンドが狭かったこともあり、私の時代にはよく体育の授業がここで行われていました。広い砂利道を走らされたり、あるいは旧馬場であった大きなグラウンドでソフトボールやサッカーをしたりしたものです。(学校から行政への申請をしていたのかどうかはわかりません。)また、放課後も、ここは子供たちにとって格好の遊び場だったのです。

御苑や御所は観光客が比較的少ないところですが、春や秋に行われる御所の一般公開は見応えがありますので、一度ご覧になってはどうでしょうか。

さて、学校は寺町通に面しています。この通、その名前の通り小さな寺院が並んでいる通で、平安時代の東京極大路にあたるそうです。京極とは「京の端」つまり、このあたりが平安京の東の端(果て?)だったわけです。応仁の乱で荒廃した京都を「大改造」する計画を立てた豊臣秀吉は、その一環として、街中に散らばっていた80もの寺院をこの通に集めたそうです。ただし、今はその数は減ってしまっています。

校門の真向かいには「旧大久保利通邸」という立派な石碑が立っていますが、今は普通の民家です。ただ数年前、この民家を取り壊そうとしたときに、奥に大久保、岩倉具視らが使っていた茶室「有待庵」が現存していることがわかり、大きな話題になりました。京都市によって、解体・移築が進められているそうです。また、この近所には、詩人中原中也が学生時代に下宿していた民家が残っているそうです。(未確認)

そこから南へ進むとやがて見えてくるのが、清浄華院(しょうじょうけいん)そして蘆山寺(ろざんじ)という比較的大きな寺院です。全国的な知名度はほとんどないと思いますが、前者は、比叡山の僧が阿闍梨あじゃり)になるための修行の一環として行う「京都大廻り」の際に一時休息する場所として知られています。早朝に延暦寺を出発した修行僧は、京都の町をぐるぐると回りながら84kmを歩き、夕刻この寺に入り、お勤め、食事、入浴、睡眠、もう一度お勤めを行って、深夜1時頃にもと来た道を比叡山まで帰っていくというかなりの苦行をこなすのです。(この道中に参拝する箇所は300か所にも及ぶそうです。)でも、子供の頃の私は、境内の一角に立つ借家に友人が住んでいたこともあり、単なる遊び場所としてしか認識していませんでした。他方後者は、このあたりの寺院では唯一拝観料を徴収するところなので気軽な遊び場所と言うわけにはいきませんでしたが、毎年節分の日に行われる「鬼踊り」と「豆まき」には必ずと言って良いほど、放課後に訪れたものです。当時から比較的衛生観念が発達していたのでしょうか。豆まきと言っても、餅と豆を入れたビニール袋を投げていたような記憶があります。また、ここは紫式部源氏物語のほとんどを執筆した場所でもあり、それにちなんで「源氏の庭」がしつらえてあります。さらに、豊臣秀吉が建設した御土居の遺構が残っているそうです。

もう少し南には同志社大学を創設した新島襄の旧邸宅、そのほぼ向かい側には梨木神社があります。この神社、京都三名水のひとつである「染井の水」があることで有名なのですが、今は境内全体に大きなマンションが立っていて、鳥居の真ん前で異様ともいえるほどの存在感を放っています。大変無粋で、残念なことなのですが、神社も管理・維持していくには色々と大変なのでしょうね。

もう一度北に足を向けて、今出川通を越え、さらに寺町通を進むと、いよいよ「寺町」の本領発揮という感じで、次から次へと寺院が現れます。ただ、いずれも小規模で、見どころらしきものも少なく、ここを訪れる観光客はほとんどありません。ただ、今出川通から5分ほど歩いたところにある本満寺のしだれ桜は見事なものです。たった一本なのですが、その雄大さと優美さに惹かれる人は大変多く、ちょっとしたフォト・ジェニックとなっています。

また、寺町通から少し外れますが、幸神社(さいのかみのやしろ)も注目スポットかもしれません。大変小さな神社ですが、建てられたのは平安初期で、御所から見て東北、つまり鬼門の方向にあり、ここにある猿の神像(木造、左甚五郎作とも言われています)が御所をお守りするという重要な役割を果たしています。ただ、ここも私にとってはそんな歴史は関係なく、たびたび訪れていた遊び場です。

寺町通の終点、鞍馬口通りに近いところに上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)があります。ここは平安遷都と同時に建てられたのですが、奈良の寺院の人達と深く繋がりがあり、遷都に最後まで反対していたという罪を着せられ、これに抗議して壮絶な最期を迎えた早良親王の霊を鎮めるために、建てられたという因縁のある神社なのです。そして、ここもまた、子供にとっては日常の遊び場で、お祭りの時の神輿と縁日は楽しみだったものです。

 

さて、もう少し書く予定だったのですが、ずいぶん長くなってしまいました。続きは次回に回すことにしますので、申し訳ありませんが、もうしばらくおつきあいください。それにしても、小学校時代にはまったく意識していなかった歴史が、この地域には色々と詰まっているものですね。

なお、今回、地図や写真はあえて一切載せませんでした。載せだしたらキリがない、というのもありますが、興味ある方にはご自身で検索してみて頂ければ、と思った次第です。そのほうが、探求心をくすぐられるのではないだろうか?と考えたのですが、いかがでしょうか。(笑)

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。