明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常174 極私的京都散歩(徘徊)その2

こんにちは。

 

最近は、2月にしては比較的穏やかな天気が続いていますね。立春も過ぎ、そろそろ梅も咲き始めています。1月の大雪の時はどうなることかと思いましたが、このまま春へと季節は変わっていくのでしょうか・・・まあ、そんなに甘くはないでしょうね。

 

前回は大変私的な京都案内を書きましたが、今回はその続きです。

前回、写真や地図を一枚も載せなかったのですが、後で読み返してみて、さすがにちょっと不愛想かな、と思いましたので、今回は何枚か入れていきます。と言っても、検索すればすぐに色々と出てくるような写真を載せてもしょうがないので、手持ちの写真から少し選んで入れていきます。

まずは、前回紹介しました「御所の細道」と「本満寺のしだれ桜」をどうぞ。

通称「御所の細道」

 

本満寺の枝垂れ桜 見ごろは4月上旬です

さて、今回はまず加茂川沿いに出てみましょう。

加茂川にかかる出雲路橋の近くには京都市交響楽団の練習場があり、定期的に練習風景を公開しています。このオーケストラ(略称は京響)はもともと日本で唯一の自治体直営の楽団として誕生したのですが、2009年からは関連する財団法人の運営となっています。市の直営だった時は、楽団員は準公務員扱いで、「日本で最も安定した地位が保証されているクラシック演奏家」などと揶揄されたものですが、現在は、基本的にすべての団員は財団職員となって、他のオーケストラと、そんなに変わらない扱いになっているようです。いずれにせよ、クラシック音楽でメシを食っていくというのは大変なことで、ここに入団するのは大変狭き門のようです。

川沿いに南へと歩いていくと、やがて加茂川と高野川が合流して鴨川となる地点、通称「鴨川デルタ」が現れます。もっとも、この通称は1990年代頃からのもので、私が子供の頃は「三角州」と呼んでいました。ただ実際には、地理学でいうところのデルタ地帯や三角州ではありません。

鴨川デルタ 左が加茂川、右が高野川 奥の森が糺の森


ふたつの川がまっすぐ流れてきて、きれいなY字型に合流する姿は、人工的に作られたもののように見えますが、平安時代から、ほぼ今の形だったようです。(もちろん、護岸工事等はかなり行われています。平安初期、鴨川は大変な「暴れ川」で頻繁に氾濫を起こしていたようですから)

写真を見て頂ければわかるように、鴨川デルタ付近はかなり開けていて、市民の憩いの場となっています。また、鴨川というと「等間隔の法則」つまりカップルが川岸に仲良く座って語らうのですが、なぜかカップル間の距離が見事に等間隔になっている風景を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、あれはもっと下流三条大橋から四条大橋にかけてのことであって、この付近は、老若男女、学生、楽器を練習する人々、飛び石で遊ぶ子供たちが思い思いに過ごす、開放的かつ自由な空間です。また、この北隣には糺の森、そして下鴨神社が続いており、散歩にも絶好の場所です。ちなみに、糺の森は街中にあるにもかかわらず、完全な自然林だそうです。

ここで少し休憩するには何か食べ物を口にしたいですよね。その格好の品が、加茂川側にかかる出町橋を少し西に進んだところにある「出町ふたば」の豆餅です。ずいぶん昔からある街の和菓子屋さんですが、いつの頃からか、マスコミで紹介されたり、ドラマの舞台になったりして、大変な人気店になりました。今では、いつ訪れても長蛇の行列ができています。行列は苦手だけど食べてみたい、という人にはひとつ朗報を。「ふたば」さんは京都駅にある伊勢丹四条烏丸の大丸にも店を出しています。また、のれん分けして出店いる店も市内に何軒かあります。そして多分、そういった店の方が混雑していないと思います。また、ふたばさんの左隣にある岡田精肉店も揚げたてのコロッケとかを売っているので、加茂川での休憩にはこちらもお勧めです。

この2軒の店は、「出町枡形商店街」という河原町通から寺町通まで続く狭い道の河原町通側の入り口付近にあります。この商店街、小規模ながら大変活気にあふれていて、昔ながらの魚屋さんや古本屋さん、洋服屋さん等が軒を連ねる一方で、新しくできたカフェや寿司屋さん、そして映画館まである、大変楽しいところです。「出町」とは京都の端の少し出たところにある町、という意味で、古くは、日本海側の若狭から続く鯖街道の終点として、そして京都郊外の大原(三千院のあるあたりですね)付近の農家から新鮮な野菜が届く場所として、栄えてきたところです。また近年では「たまこマーケット」というアニメ映画(京都アニメーションの制作)の舞台となったため、その「聖地」としての賑わいも見せています。私の小学校時代の同級生の何人かは、今でもここで商売をしています。ここに限らないのですが、京都市の中心部には大型のスーパーマーケットが進出していないので、こうした小さな店も元気にやっていけるようです。前回の投稿を読んで、どちらかというと富裕層が多く住んでいる地域ではないだろうか、と思った人もいらっしゃるかもしれませんが、実はまったくそんなことはなく、ごく普通の庶民的な町であることは、この商店街に来れば納得してもらえるはずです。

出町枡形商店街(寺町通側の入り口)

 

もうひとつだけ庶民的と言うか、御苑の近くというイメージにはふさわしくない?場所を紹介しましょう。河原町今出川から10分ほど南へ歩いたところ、京都府立医科大学付属病院の手前付近には、かつて「白梅図子(しらうめずし)」と呼ばれる一角がありました。(私の子どもの頃はこの名前のバス停があり、私にとってはそこが自宅から最も近いバス停でした。今はなくなってしまいましたが) 図子は路地(ろうじ)と同じように、人家の間の細い道のことですが、後者が行き止まりになっているのに対して、前者はそのまま通り抜けできるものです。そして「白梅」なのですが、この名称が生まれたのにはふたつの説があります。ひとつは、この付近が遊郭となっていて、江戸時代に実在した最も人気の高かった遊女の名前をとって図子の名前にしたという説。そしてもうひとつは、このあたりに公家屋敷があったのですが、大変貧乏で、着ている服からしらみが湧いてくる始末だったため、「しらみ図子」と揶揄されたのだが、その後「それではあまりにもひどい」ということでもっと美しい名前にした、という説です。遊郭にせよ、貧乏公家屋敷にせよ、御苑の近く、という一般的なイメージとはほど遠いものですが、江戸時代の京都は「都」とはいえ、実態はかなり荒れ果てていた地域も多かったということのようです。でも、それも含めて街の「味わい」なのだと思います。

 

さて、急ぎ足で私が子供の頃ウロウロしていた地域をめぐってきましたが、本当はまだまだ紹介したいところがあります。でも、それはまた別の機会に譲りましょう。

皆さんも、ご自身の地元について少し歴史や地理を改めて調べてみてはいかがでしょうか。きっと新しい発見があるはずです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。