明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 241 マティスの「自由さ」 

こんにちは。

 

 

先日、所用のため東京に行ったのですが、相変わらず人が多いですね。八重洲中央口にあるタクシー乗り場では、30分以上待たされることになりました。まあ、長蛇の列ができていても、タクシーはどんどんやって来るので、さほどイライラすることはありませんでしたが。

 

さて、東京では、空き時間を利用して新国立美術館で開催中の「マティス 自由なフォルム」展」を見てきました。アンリ・マティス(1869-1954)は20世紀を代表する「巨匠」と呼ばれる画家の一人で、「色彩の魔術師」とも称されたことは良く知られていますね。

マティス展の撮影自由エリアより 以下も同様





彼は、若い時はその大胆な色彩感覚から「野獣派」(フォーヴィスム: Fauvisme)と呼ばれていました。

伝統的に西洋画の世界では、写実的、つまり目に見える色彩に基づいて描くことが当たり前とされてきたのですが、そうした書き方からは決別して、心に映る色彩を通して自己の内面を表現しようとしたのが、野獣派の基本的なスタンスでした。その、これまでとはあまりにも異なる手法から、野獣派と名付けられたのです。野獣派の画家としては、マティスの他、アルベール・マルケ(Albert Marquet)、ラウル・デュフィ(Raoul Dufy)、キース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen)等がいますが、20世紀初頭に現れたこの運動そのものは、さほど長期にわたって画壇を席巻することにはなりませんでした。

後の多くの画家に大きな影響を与えたにもかかわらず、西洋絵画史の中で、野獣派が現代ではさほど注目されていないのには、上にあげたような画家たちが必ずしも同じ方向を向いていたわけではない、ということがあります。それに加えて、「自由」を愛する彼等にとって、○○派と分類されることにはかなりの抵抗感があったのではないか、と私は思っています。

人間の個性は一つの言葉や枠組み押し込められるほど単純なものではありませんし、日々変化していくものですから、画壇に限らず、○○派とか○○流と呼ばれることに息苦しさを感じる人が出てくるのは当然のことです。思い返してみると、私自身も若い時に「○○大学の出身者」とか「○○先生の弟子筋」などと呼ばれることには、ちょっとした戸惑いを覚えたものです。もちろん、はじめてお会いする人にそのように紹介されることは、「自己紹介の入り口」としては有効なのはよく理解できるのですが、いつまでもそれに引きずられてしまうことは、自分を表現するうえでは邪魔なものになってしまうのです。

話が横道に逸れてしまいましたが、何よりも「自由」を愛していた野獣派の彼等にとっては、このような気持ちが強かったことは想像に難くありません。

南フランスのニースに移住後、マティスは明るい空と日差し、そしてそこで自由に闊歩する美女たちに出会います。北フランス出身の彼にとって、それはとても衝撃的だったようで、「翌朝またこの光を見られると知った時、私は自分の幸運が信じられなかった。」と記しています。そして、瑞々しい色彩感覚はそのままに、人物画や風景画を数多く生み出し、また身体が思うように動かなくなった晩年は切り紙絵で新境地を開き、また、ニースから約20㎞離れたヴァンスにロザリオ礼拝堂の建設等に深くかかわったことは彼のライフワークとも集大成とも言われています。さらに、舞台芸術や彫刻にも注目すべき足跡を残しています。

さまざまなジャンルの作品を残したマティスですが、一見すると、実に簡単に絵をかいているようにも見えます。それは現代にも通じる「軽さ」を内包したデザイン感覚とも言うべきものでしょう。しかし、注意深く見ていると、それは安直に「自由」という言葉を使うのがためらわれるほど、とても細かく計算され、試行錯誤を繰り返した結果としての作品であることが良くわかります。たしかに、色彩やフォルムはとても自由な着想に基づいているのですが、決してアドリブ的に筆を進めたものではなく、自己表現の手段として自問自答を繰り返した結果としての筆遣いであり、切り絵なのです。そういう意味では、同時代に生きたピカソとの共通性が見られると言えるのかもしれません。(もっとも、キュビズムの旗手とされたピカソがより理知的であったのに対して、マティスは、もっと自己の内面にある「感覚」を大事にしていたようです。)

とくに晩年になればなるほど、マティスの作品の色彩やデザインは単純なものへと変化していきます。だからこそ、誤解されるところがあるのかもしれません。しかし、その表面に現れた自由な感性は実はそれとはまったく異なる内面を表したものである。それがマティスの作品をたくさん見た私の感想です。やはり、何かを見たり聴いたりしたとき、その表面だけから判断することは、その本質を見誤ることに繋がるかもしれないからこそ、注意しなければならないということですね。そんなことをつくづく考えさせられました。

 

東京からの帰路の途中、好天に恵まれ、新幹線から見える富士山はとても美しかったです。富士山に登ったことはないのですが、こうやって遠くから眺めるだけでも、ここが日本を代表する場所であることは実感できます。でもその美しさに魅せられたばかりに、そこが実は荒々しい気候を有していることを忘れ、軽装ででかけてしまった故に、亡くなったり、大きな傷病を背負ってしまったりした人もたくさんいるわけです。


物事にはなんでも両面がある、というのは乱暴すぎるまとめかたでしょうか (笑)

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。