明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常215 「ヌエ派」竹内栖鳳

こんにちは。

 

先日、新型コロナ・ウイルスのワクチン接種をしてきました。これで7回目です。

最近はニュースで取り上げられることも少なくなってきた感がありますし、実際、厚生労働省の発表を元にNHKがまとめた統計によると9月頃から次第に患者数は減少傾向にあります。しかし、これからは季節性インフルエンザの流行時期にもなりますし、それとの同時流行も懸念されています。まだまだ予断は許されない状況なのです。

マスクを外して出かける人も多くなっていますね。もちろんこれは自己判断によるものですから、それに対して色々と言うつもりはありませんが、私に限らずさまざまな病気のために免疫力が低下している人もたくさんいますので、咳をするときは周囲に唾液が飛び散らないように配慮するなど、最低限のマナーは守ってもらいたいものです。


ところで、竹内栖鳳という日本画家をご存じでしょうか。明治から大正、昭和初期にかけて活躍した人で、近代京都画壇に大変大きな影響を与えたと称されている人です。そしてもっとも有名な作品として、東京の山種美術館に所蔵されている「班猫」というものがあります。この絵は、猫のさりげない仕草を見事な筆致で描いた作品としてよく知られており、どこかで見たことがあるという方も多いかと思います。私も10年以上前に山種美術館で拝見しましたが、猫の毛一本一本を柔らかで繊細なタッチで描いたこの絵に見とれてしまい、しばらく前を動けなかったことを覚えています。

この竹内栖鳳の大規模な展覧会に少し前に出かけてきたのですが、人物や動物、風景そしてヨーロッパや中国を描いたものなど、対象も、そしてそこから漂うテイストも非常に多岐にわたっていて、半ば圧倒されてしまいました。(ただし先述の「班猫」は出展されていません。)



竹内は1864年に料亭の長男として生まれ、そこを継ぐものとして期待されていたようなのですが、店の常客であった友禅画家がさりげなく描いた絵に魅せられてからは画家を目指し、10歳代の頃から早くも頭角を現していました。しかしこの人は単なる「若き天才」ではなく、当時厳然と存在していた日本画のさまざまな流派(四条円山派、狩野派その他)をはじめとして、西洋の絵画にも深い興味を覚え、それらを自分のものとして作品の中に取り込むべく、徹底的に研究していくというスタイルをとっていました。そのため一部の評論家や画家からは「ヌエ派」と揶揄されたそうです。ちなみにヌエとは平家物語にも登場する想像上の生物で、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビという姿をしていて、「ヒョー、ヒョー」という鳴き声はツグミにも似ていた、とされています。つまりさまざまな生物の寄せ集めで、その正体がよくわからないが故に不気味な存在として怖れられていたのです。これが、伝統的な流派の枠組みにまったくとらわれない画風の蔑称として流布されたのです。ただ、私自身はこの蔑称に、当時の人達の「自分たちの固定観念では捉えきれない画家が出てきた」という戸惑いや畏怖を垣間見ることができるように思うのです。

この展覧会では、「破壊と創世のエネルギー」という副題がつけられています。「破壊」という言葉は竹内自身が使った言葉で、周囲の関係者を叱咤激励するために使った言葉だと伝えられています。しかし私には、伝統的な日本画の枠組みを「破壊」しようとしたのではなく、もっと軽々と乗り越えて、新しい日本画の可能性を模索していったと感じられたのです。そこに思想的な背景や伝統的枠組みの持つ強い閉塞に対する反発心をもっていたというよりも、あくまで自分が魅力を感じたものを積極的に吸収していった結果が独自の画風構築につながっていたと思うのです。

ですから、ヌエ派と呼ばれることに対しても、おそらく彼自身はとくに気にしていなかったと思うのです。(ただ、彼はしばしばサルを描いています。ひょっとしたらヌエと呼ばれることに対する軽い皮肉だったのかもしれません。「ヌエですが、何か問題ありますか?」とでも考えていたとしたら、古い固定観念に縛られていた画壇に対する軽いジャブのようなものだったのかもしれません。)

現在では、絵画の世界に関わらずさまざまなジャンルで、伝統的な枠組みを打ち破ろうとする動きは当たり前のように息づいていますし、それが新たな機軸を形成していくことにつながることを頭から否定する人もあまりいないだろうと思います。ひょっとすると竹内栖鳳という人は、そうした動きの先駆けとも言える存在であり、いわばコスモポリタン的なスタンスを貫いた人だったのではないでしょうか。

私達は何か新しいものに出会った時にどうしても、それまでの自分の経験からそれについて判断しようとしてしまいます。経験を積み重ねれば積み重ねるほど、つまり、トシを重ねるほどにその傾向は強くなるような気がします。しかし本当に世界に新風を吹き込むものは、そうしたモノの見方では決して測ることのできない価値を持っているのだ、ということを改めて感じさせられた次第です。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。