明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常175 佐野史郎さんのインタビューを読んで

こんにちは。

 

トルコとシリアにまたがる地域での地震、連日報道されていますが、東日本大震災を上回る死者が出てしまっていますね。本当に痛ましい限りです。とくに、シリアは内戦状態がずっと続いており、今回の地震で大きな被害が出た地域は、反政府組織側が支配していた地域であるため、政府からの支援が遅れがちになることが懸念されているようです。もちろん、これはまだ憶測の段階に過ぎませんが、もしこの報道が事実ならば、それは天災+人災ということになります。

大きな自然災害があったとき、いつも思うことなのですが、政治や経済面での社会の歪みが災害の大きさの差に直結してしまう、という残念な事実が浮き彫りになってしまいます。つまり、何らかの事情で不安定な生活状態を抱えている人のほうが、大きな被害を被ってしまったり、なかなか救援や支援を受けられなかったりする傾向が非常に強いのです。それは、阪神・淡路大震災東日本大震災の時にも明らかでした。そして、そのたびに私たちはやりきれない気持ちになってしまうのです。

社会に矛盾や格差がある程度存在することは止むを得ないのかもしれません。しかし、そのことが人命や最低限の生活を続けられるかどうかに影響してしまうことを避けるのは、どうしても無理な相談なのでしょうか。

 

いきなり暗い雰囲気になってしまいましたので、少し気を取り直して、今回の話題に移りましょう。

先日、朝日新聞(2月4日付け)に俳優・佐野史郎さんの比較的長いインタビューが載りました。このブログでも以前紹介した通り、佐野さんは私と同じ多発性骨髄腫に罹患し、苦しい治療を乗り越えてきておられる方です。(当ブログ第68回、2021年12月14日 )以前から彼の演技に魅せられていた私ですが、同じ病気への罹患ということで、ますます親近感がわいていましたので、興味を持って読ませていただいた次第です。そして、その内容を、私自身の心情と照らし合わせながら、少しだけ紹介していこうと思います。

彼が罹患の宣告をされたのは2021年春ですから、もうすぐ丸2年です。

治療をはじめた当初、彼に不安や落ち込みはなかったそうです。「あらがっても仕方がない」とも話しておられます。しかしそれは自分が強い人間だったということではなく、「自分が苦しくなる受け止め方は避けるという本能」だったそうです。これは、私もまったく同じような気持ちでした。もちろん、医師から余命○年などと言われることが辛くないはずがありません。しかし、これを真正面から受け止めてしまうと、どんどん落ち込んでしまいます。だからこそ、わざとくだらない話をしてみたり、「せっかくの機会だから」と思い、病院内の様子を色々と観察したりしていたものです。不思議なことに、余命宣告されていたにもかかわらず、自分が死に直面しているという実感はありませんでした。数か月したら元の生活に戻る、ということしか考えていなかったのです。これを、前向きの人生への意識とでも言うことができるのでしょうか。そしてこれは、佐野さんの言う「本能」と同じようなものだったような気がします。

ただ、入院が長くなると、どうしても弱気になってしまうことは一度や二度ではありません。佐野さんはそんな時「乗り越えなきゃ」とか「まだまだ」と声に出し、それが効いたのかどうかわかりませんが、そのことによって高熱が下がったりして、それが「人智知れない、目に見えない大きな力の中で生かされている」とも感じたそうです。

私の場合、声に出すことはなかったのですが、不安に心が押しつぶされないように、意図的に明るい話題を考えたり、看護師さん達にこちらから声をかけて雑談をしたりしたものです。また、あえていつもより強い気持ちをもって病気のことを調べたりしたこともありました。おそらく、自分の精神状態への効果という点では、佐野さんと同様だったのだろうと思います。

彼は言います。「権力者は、『幸せであることは、経済的に満たされることだ』という『物語』をつくり、多くの人がそのルールを信じている。この物語の中では、病人は『弱者』になる。しかし、実際の自分は何も変わっていない。」と。 彼の言うように、人間が優位に立ちたがる生きものであるならば、病気でそれまでのキャリアが途切れたり、中断したりした人を「脱落者」と見る傾向は確かにあるのかもしれません。しかし、優位に立つとか、キャリアの連続性とか、そんなことはどうでもよく、自分という人間を正面から見つめ、日々「生かされている」ことに感謝することの大切さに気づくことのできるのが治療・療養生活というものなのです。

もちろん、彼の感じ方と私の感じ方がすべて同じだということではありません。例えば、彼は「いたずらに悲観的にならない、根拠のない期待も持たない」つまり常にニュートラルな気持ちでいることによって再発のリスクに不安を感じる自分を正気に保っているそうです。しかし私の場合は、できれば「小さなことに一喜一憂してやろう」と思ったものです。そのことによって、病気という「大きな一憂」をあまり強く意識しないで済むし、日々の生活に変化が生まれやすいと考えたからです。

まあ、このあたりは、その人の性格によって考え方は違うでしょうし、病気の進行具合、治療の進み方によって変わってくるはずですので、正解がないことは言うまでもありません。

ただ、病気という貴重な経験を自分の中でどのように消化していくかによって、その人のその後の生活の充実度は大きく変わってくることは間違いありません。大病・長期入院を経験したことのない人には決して感じることのできないものを心の中に芽生えさせることができた。それは自分にとって大きなプラスであって、決してマイナスや脱落ではないと、私は信じています。だからといって、病気に感謝する気持ちはありませんが(笑)

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。