明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常08 治療が進むと余裕ができる

こんにちは。

しゃっくりは、昨晩寝る直前にようやく止まりました。結局、断続的に8時間ぐらい続いていましたが、どうやら、しゃっくりという奴は、止めるのをあきらめた頃に止まるものみたいですね。

さて、世の中は相変わらずワクチン接種やら東京オリパラやらで大騒ぎしていますが、このブログでは、そういう時事ネタはなるべく扱わず、あくまで、2014年から起きた自分の過去の経験を元にして、「明日を生きる」ことを考えています。

 

本日は、6月から約2か月続いた初期治療が軌道に乗った中盤から終盤にかけて、何をしていたのか、どんなことを考えていたのか、思い起こしていきましょう。

化学療法そのものが日常的なものになってくると、副作用のことは別として、次第に病院での生活にも慣れ、自分のペースで様々なことができるようになります。治療と言っても、点滴以外は数分で終わってしまうものばかりですからね。要するに、ヒマをもてあますようになるのです、(点滴中も、それがよほど特殊な薬品等でない限り、自由に動けます。まあ、針を刺している方の腕は、若干不自由にはなりますが。)面会客も、そんなに都合よく毎日来てくれるわけではありません。

では、何をするのか?

私は、結局かなりの時間を読書に費やしていました。といっても、専門書の類やあまりにも暗い雰囲気の漂う小説はちょっと避けたい。写真集やエッセイは気楽で良いのだが、だんだん飽きてきます。そこで思いついたのが「少年時代に接したことはあるものの、中身をよく覚えていない小説の読み返し」でした。これなら気軽に手にできて、内容も過度に重くない。うん、これだ、ということでとりあえず選んだのが「トム・ソーヤの冒険」と「ハックルベリー・フィンの冒険」。誰でも知っているのに、「では粗筋を喋ってみろ」と言われると答えに窮するような作品です。

私はこれら2冊を、それぞれ2種類の翻訳で読みました。内容の紹介はここでは控えますが、「こんなに当時のアメリカ社会を反映した作品だったのか」という思いともに、翻訳の仕方によってこんなにも印象が変わるものか、と驚きを感じたものです。私自身、専門書の翻訳作業に携わった経験がありますが、果たして自分の訳はあれで良かったのか、ちょっと焦ってしまいました。結局、翻訳というのはそれを行う人間の思いや世界観が介在する作業になるので、必ずしも原作の世界を忠実に再現できているかどうかはわからない、ということでしょうね。とくに小説の場合はオリジナルな作品を書くよりも、よほど大変な仕事になると思います。村上春樹氏はたくさんの翻訳を行っていますが、「よくやるよなあ」と感心しながら、今度は、彼の翻訳した「グレート・ギャツビー」(フィッツジェラルド作、元々の日本語翻訳作品タイトルは「華麗なるギャツビー」)を手に取ったりしていました。

 

閑話休題

ベッドで寝そべりながらよく思っていたことのひとつに、「小さなことに一喜一憂しよう」というものがありました。ふつうは逆ですよね。小さなことに心を乱されずに、もっと大局を見て、考え、行動せよ」と言われたことのある方は多いでしょう。

でも、先のなかなか見通せない病気を抱えている身としては、そんなに長い目で色々考えることはできない、というのが正直なところです。それよりも朝起きた時、「ああ、今日も生きている」という実感の方がよほど大事なのです。むしろ、ちょっとしたことを喜んだり、憂いたり・・という過ごし方の方が、日常に変化が生まれてきます。「今朝の採血の検査結果が少し良かった。」でも「今日の夕食のデザートに出たゼリーはまずかった。」でもかまわないのです。平板な生活に慣れきってしまわないようにするには、けっこう大事なことのような気がします。

上に食事のことを書いて急に思い出したのですが、ある日の夕食、ご飯の入ったどんぶりの蓋を開けると、そこに鰻のかば焼きが乗っていたことがあります。そう、その日は土用の丑の日だったのです。もちろん、小さな切り身が3つ、というささやかのものでしたが、周囲の患者さんも一様に「おお!」と驚きの声をあげておられました。

管理栄養士さん、きっとこのサプライズを演出するために、色々と苦労されたのでしょうね。感謝感謝です。それをいまだに覚えているということは、それだけ私が変化に飢えていたということなのだと思います。

 

さて、そうこうしているうちに、初期治療は終わりを迎えます。次回は一時退院した時のことを書きつづっていく予定です。

 

いつも読んでくださって、ありがとうございます。それでは。