明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常121 なくなる仕事と残る仕事

こんにちは。

 

今年も半分が過ぎてしまいました。この時期の代表的な行事として、茅の輪くぐりというのがありますね。これは、神社の参道の鳥居などに、茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの大きな輪を作り、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願するというものです。また、一年の半分が無事過ぎたことに感謝するという意味もあるようです。 素戔嗚尊スサノオノミコト)に由来するといわれ、そのくぐり方には決まった作法があります。全国各地、けっこう多くの神社で行われているようなので、皆さんのお住まいのお近くにやっている神社がありましたら、少し暑さの和らいでいる時間帯に訪れてみてもよいかもしれません。ただ、中には自動車に乗ったまま参拝できる巨大な茅の輪を設けている神社もあるみたいですが、それってどうなんでしょうね? たしかに、暑さを避けられるという意味では、現代に即してはいますが、なんだか神様に怒られそうな気がします。(笑)

 

前回の投稿ではカルカントという職業について書きました。人力で“ふいご”を動かすパイプオルガンそのものは現代でも少しは残っていますが、カルカントを専業とする人は、おそらくほとんど残っていないでしょう。

このように、機械や技術の発達によって、人間が従事していた仕事がなくなる、というのは古今東西、さまざまな現場で起きてきたことです。古くは、産業革命による動力の発達によって、工場の機械が蒸気機関等で動かされるようになったことが有名です。この時には、仕事を奪われまいとした労働者が、機械を破壊するなどの暴力行為に及んだことがいくつも記録に残っています。また、ある力自慢の労働者が機械と作業のスピード競争に挑み、勝負には勝ったものの、その直後に体調を崩して亡くなるという笑えない悲惨な事故も起きたようです。

また近年では、コンピュータやAIの発達、普及によって「将来亡くなってしまう仕事」というリストがさまざまな人によって発表されて、その仕事に従事している人々を不安のどん底へと追いやっています。

これについては、ネットで調べてみると、本当にさまざまなリストが出てくるのですが、そのほとんどは出典が明記されておらず、記事を書いた人の主観に基づくものが多いようなので、それを具体的に紹介することはあえてしません。ただ、共通して言えることは、判断や意思決定をまったく必要としない単純労働や、AIの学習能力によって十分に人間の判断能力にとって代わることができると思われるような仕事がなくなると考えられていることです。とくに単純労働であるにもかかわらず、非常に体力を要求される仕事や危険な場所での作業が必要な仕事などは、人権の観点からも、この傾向がとくに強くなっていると言えるでしょう。そして逆に、対人コミュニケーションが必須となる仕事は「残っていく仕事」とみなされる風潮が強いようです。医療や介護の現場などはその典型でしょうね。

もちろんこれらの現場でも、「機械に任せられることはなるべく機械で」という傾向は既に相当広まっています。しかし仕事の主役はあくまで人間です。それは、単に最終判断は人間が行う、ということだけを意味しているのではありません。このブログでもしばしば書いてきましたが、患者や介護サービスを受ける人間にとって、ちょっとしたコミュニケーションがどれだけ救いになるか、私自身身に染みて実感してきたところなのです。こればかりは、いくら「おしゃべりロボット」が発達しても、簡単には置き換えられないでしょうね。余談ですが、先日携帯電話のショップに行くと、少し前まで大きな顔をしていたペッパー君が、電源を抜かれ、段ボール箱の中に片づけられていました。でも他方で、フロントでの対応を全部ロボットが行う「変なホテル」(H.I.S.グループが展開)とかができてきていますので、将来はどうなるかわかりません。

私は、こうした論調に、大枠では賛成です。というか、我々個人がどのように思っても、コンピュータへの置き換えはどんどん加速化していくでしょう。これから職業選択をしようとする人は、このことを意識しておく必要があるのは事実です。

こうした流れの中で、仕事を失ってしまう人が多数出てきてしまうのもある程度やむを得ないことです。ただ、雇用主は「不要になったから退職してもらう」という単純な発想ではなく、その人の経験や蓄積を少しでも生かせる新たな職場・仕事づくりに取り組んでもらいたいものです。

それは、単に「仕事探しのお手伝いをせよ」というものではありません。時代の波の中で、あまり必要とされなくなった仕事であっても、それまでの時代には確実に世の中から必要とされていたものですし、その積み重ね、そこから得られた知恵などを無視してしまうことは、歴史の断絶であり、過去から何も学ばないことになってしまう、と言う意味で、危うさを感じてしまうのです。前回投稿の最後の方にも少し書きましたが、人力で動くパイプオルガンが現在でも残っているのには、それなりの意味があるのです。

現代の私達の生活は、決して現代になっていきなり確立されたものではなく、長い歴史の流れの中でスクラップ・アンド・ビルドを繰り返しながら、少しずつ進化してきたものです。しかも、そのスクラップは単なる「ゴミ箱行き」ではなく、そこに集約されたさまざまな英知が新しい様式の中に取り込まれていく、という形での進化なのです。そのことを忘れた技術ン発展はあり得ない、と私は思っています。

もうひとつ、少し別の観点で危機感を覚えることがあります。

それは、仕事を進めていくうえで機械が主となり、その補助的作業を行う人間は、機械の都合やスピードに合わせて作業することを強いられる、という危機感です。かつてチャップリンは映画「モダン・タイムス」の中で、ベルトコンベアによる作業に振り回され、翻弄されてしまう人間を描きましたが、これはフィクションではありません。彼は実際にフォード社の最新鋭工場を見学し、そこで得たインスピレーションを喜劇という形に昇華させたのです。チャップリンは喜劇役者でしたから、そこに笑いを盛り込むことに注力しましたが、実際のオートメーション化された工場では、これは喜劇ではなく、ある種の悲劇となってしまった例も数多くあるのです。労働や作業が、人間的な営みでなくなってしまったら、この世界はいったい誰が主役になるのでしょうか。

便利で拘高速の機械に安易に飛びつくのではなく、これからの社会の中で機械と人間の関係をどのように設計していくのか、改めて考えてみるべきだと思うのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

実は、7月3日で、このブログを書き始めてからちょうど一年になります。今後とも、できるだけ今のペースで色々書いていきますので、よろしくお願いします。