明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常221 多田武彦合唱曲への思い

こんにちは。

 

今回は、前回、前々回に引き続き、紅葉がらみの話を書くつもりだったのですが、急遽予定を変更して、少し趣の異なる話をさせていただきます。

突然ですが、多田武彦という作曲家をご存じでしょうか。おそらくこれを読んでいただいている方の90%以上の方は、名前を聞いたこともない、どんなジャンルなのか、まったく知らないとお答えになるでしょう。しかしごく一部の方にとっては「おおっ!」という反応を示されるはずです。

この方は、1930年生まれ(2017年没)。大学等で専門的な高等音楽教育を受けたわけではないのですが、京都大学を卒業した後富士銀行(現在のみずほ銀行)に入社し、銀行員として主に民間企業再建の仕事に携わりながら、他方で「日曜作曲家」として100曲以上の作曲を手掛けた方です。そして、そのほとんどは無伴奏男声合唱曲で、北原白秋草野心平三好達治中原中也など、抒情的な香りの高い詩に男声四部(トップテナー、セカンドテナー、バリトン、バス)の分厚いハーモニーを合わせて、独特の世界を作り出したことで、合唱愛好者にはよく知られています。とくに男声合唱経験者で、この人の作った曲を歌ったことがない人はおそらく皆無と思われるほど、愛唱されているのです。

私自身大学生だった4年間には、この人の曲には随分感化されたものです。とくに、1年生(関西風に言えば1回生)のときには、代表曲である「男声合唱組曲 富士山」「男声合唱組曲 雨」に出会い、自然の中で佇む人間の力強さとナイーブさを表した世界にどっぷりと浸ったものです。その後、混声合唱に親しむことが多くなった私ですが、あの独特の雰囲気は、混声合唱や女声合唱にはなく、また、世界中探してもおそらく日本以外には見当たらないものだろうと、今でも思っています。

といってもピンとこない方に1曲だけお勧めするとしたら、前出の「男声合唱組曲 雨」の終曲である「雨」(八木重吉詩)でしょうか。とてもシンプルなメロディが3回繰り返されるだけの短い曲ですが、詩に込められた「生きる中ですべてを乗り越え、そして死んでいくこと」に対する深い思いとそれを見事な和声の展開で表現している多田氏の曲には、ただただため息をつき、しみじみとこれを味わう以外にできることはなくなってしまうのです。

多田氏自身は「今後私がつらいことにぶつかった時にも私を慰め、『そっと世のためにはたらく』ことを私にささやくことであろうし、私が死ぬ瞬間にも、静かに死んでゆける鎮魂曲となるであろう。」と記しています。

(多田氏の合唱曲は、YouTubeに多くアップされていますし、Spotifyでもいくつも聴くことができます)

また、私は在学中にいくつかの高校や中学校の校歌を男声合唱用に編曲した経験があるのですが、この時には、多田氏の使う和声や編曲手法を大いに参考にさせてもらったものです。細かいことは省略しますが、抒情的なのに決して繊細過ぎることはなく、むしろ力強さを感じさせるには、多田氏の紡ぎ出したオルガンのような分厚い響きと畳みかけるような旋律の繰り返しが、とても効果的だったのです。

さて、なぜ突然こんな話を持ち出したのかというと、先週末、学生時代に一緒に歌った仲間と久しぶりに再会し、旧交を温めるという機会を得たからです。同期は全部で19名。6年ほど前に同窓会としてのイベントが復活したのですが、この4年間はコロナ禍のため、やむを得ず中止していました。今回は、久しぶりにもかかわらず、12名が参加し、とても盛り上がった宴席となりました。話題はどうしても健康問題やセカンド・キャリア問題、それにお孫さんのことなどが中心になりがちでしたが、決して昔話に終始して「あの頃はよかったなあ」などと言う感傷にふけるものではなく、あくまで「現在をどう生きるのか」という姿勢を皆が貫いていたのはとても気持ちよかったものです。

それはそれとして良かったのですが、問題?は二次会。カラオケの一部屋で3時間ほど過ごしたのですが、その間、実際にカラオケを入れることはほとんどなく、昔、皆で歌っていた合唱曲をひたすら歌い続ける、という感じで、店の人から見れば「わけのわからない歌を歌い続けている変なおじさんの集団」としか見えていなかったでしょう。それでも、狭い部屋で思いきり歌い、久しぶりにハモる快感は何にも代えがたいものでした。そしてその中で多田武彦作品のすばらしさを再認識したというわけです。

合唱の魅力については、以前にも少し書きましたが、考え方も音楽的志向も異なるメンバーが指揮者の指示のもとでひとつの音楽を作り上げていくというところにあると私は思っています。本当の意味で「心をひとつにする」ことはなくとも、楽譜を追いかけ、お互いの声や響きを聴いているうちになぜか皆の気持ちがまとまっていく。これは経験したことのある方にしかわからない感覚でしょう。こんな醍醐味を経験をできるのならば、また再会したいものだと強く感じました。

「同窓」という言葉がありますね。あれは本来同じ窓、つまり同じ教室で学んだという意味ですが、私は少し違うものとして捉えています。それは「同じ窓から外を見ていた仲間」というものです。窓から見える景色はそれぞれ異なるかもしれません。それでも、同じ場所(教室)にいるというだけで、何か特別の感覚を共有することができ、それを基盤にして、自分が目指すべき空を思い思いに眺める。それこそが単なる懐かしさに浸るのではない「真の同窓」ではないでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。