明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常234 春一番、そして小澤征爾さんのこと

こんにちは。

 

各地で春一番が観測され、いよいよ本格的に春が近づいてきているようですね。

ところで、春一番の定義ってご存じですか。

気象庁によると、「2月4日ごろの立春から3月21日ごろの春分までの間に、日本海で低気圧が発達し、初めて南よりの毎秒8メートル以上の風が吹き、気温が上がる現象のこと」とされています。ただ、地方によって、その認定基準は若干異なるそうです。そして、その後も低気圧の発達具合によっては、強風が吹き荒れる天候がしばしば見られ、「春の嵐」への警戒が必要となるのです。これが、わざわざ気象庁がこれを公式発表している理由のようです。

ただ、この発表が始まったのは意外なことがきっかけとなっています。

1976年にアイドル・グループ、キャンディーズ(ラン、スー、ミキの3人組・・・伊藤蘭さんは昨年の紅白に出場していましたし、お嬢さんである趣里さんは現在NHKの連続ドラマ「ブギウギ」に主役として出演中ですね)による曲「春一番」(作詞・作曲・編曲:穂口雄右さん)が大ヒットしたことから、これに関する問い合わせが殺到するようになり、気象庁春一番の定義を決め、昭和26年(1951年)まで遡って春一番が吹いた日を特定し、平年値を作り、『春一番の情報』を発表せざるをえなくなったのです。春一番という言葉が浸透したことを利用し、防災情報の充実をはかった、という側面も見逃せません。

それにしても、アイドルの力、恐るべしですね。

そんなわけですので、しばらくは突然の気温や気候の変化には気を付けないといけないのです。とはいえ、既に梅はかなり咲いてきています。好天の日を狙って、春の息吹を感じるために、梅の花見に出かけるのもいいものですよ。

京都御苑にて 2024.2.6 

 

 

 

さて、先日指揮者の小澤征爾さんが亡くなりました。享年88歳。ここ数年は、彼が主催者であるサイトウ・キネン・フェスティバル(2015年からは「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」と改称)でもほとんど公の場に顔を出すことなく、ゲスト達に挨拶するとともに、体調面を考慮して、長くても10~15分程度という最小限のステージをこなすだけでしたので、彼の訃報に接したこと自体は、正直言ってさほど驚くようなことではありませんでした。実際、ここ十数年は、食道がんに始まり、術後の体調不良、そして近年では心臓弁膜症などのため、ずっと苦しい闘病生活が続いていたようです。

ボストン交響楽団音楽監督ウィーン国立歌劇場音楽監督等を歴任していた、つまりアメリカとヨーロッパの両方で高く評価された指揮者ですから、海外のマスコミでも訃報は大きく取り上げられています。日本人指揮者として世界に門戸を開いた第一人者であり、後進に多大な影響を与えた人であることは間違いありません。

小澤さんのプロフィールを詳細に記すのは「今さら」感がありますので割愛しますが、彼が注目されるようになったきっかけであるブザンソン国際指揮者コンクールについては少し書いておきましょう。

フランス東部にあるブザンソンで国際指揮者コンクールが開催され始めたのは1951年で、このカテゴリーのコンクールとしては古い歴史を持っている方です。そして、小澤さんが第1位を獲得したのは1959年の第9回大会。まだ無名だった彼が手っ取り早く「名を売る」にはコンクールで結果を出すのがもっとも近道だったのです。彼自身は最初の渡欧先としてなぜフランスを選んだのか、必ずしも明言していませんが、おそらくフランスに強く惹かれたというよりは、ターゲットとするコンクールがフランスで開催されていたから、ということだと私は思っています。

オーケストラの指揮者に求められる能力とは何でしょうか。指揮(つまり棒振り)そのものの技術はもちろんですが、楽譜を読み込む力、団員とのコミュニケーションを円滑に進める力(語学力を含む)、そして音楽を構築し、まとめあげていく統率力と想像力などがあげられます。また、コンクールによっては、団員にわざと本来の楽譜とは異なる音を弾かせて、それを指揮者が見破れるかどうかを試す、という少々意地悪な審査をすることもあるようです。(実際、ブザンソンの時の小澤さんは、ほとんど初見の楽譜であるにもかかわらず、団員の演奏している音がそれとは異なっていることを見破ったという話が伝わっています。)

このブザンソンのコンクール、どうやら日本人とは比較的相性が良いらしく、その後も1982年 (第32回)に 松尾葉子、1989年 (第39回):に佐渡裕、1990年 (第40回)に 沼尻竜典、1993年 (第43回)に曽我大介、1995年 (第44回)に 阪哲朗、2001年 (第47回):に下野竜也、2011年 (第52回):には垣内悠希、そして2019年 (第56回):には沖澤のどかの諸氏がいずれも1位を獲得しています。まるで日本人指揮者の登竜門、というとちょっと言い過ぎですが、小澤さんの後を追いかけていこうとする若き指揮者がそれだけ多数いらっしゃるということですね。ただ、今までのところ、小澤さんの匹敵するような実績をあげることができている方はまだ現れていません。(この中で、世界的に知名度がもっとも高いのは、佐渡裕さんでしょう。)いかに小澤征爾という指揮者の存在が大きかったのか、このデータを見るだけでも理解できると思います。

学生時代の小澤さんには、山本直純さんという同級生であり、盟友である存在がありました。この二人はとても仲が良く、互いにピアノと指揮を交代しながら、練習に励んでいたりしたそうです。そして、小澤さんが渡欧を考えていたとき、直純さんは次のように言って、その背中を押したそうです。小澤さんは、自分は音楽的には天才肌である直純さんにはかなわない、と思っていたのですが、これで吹っ切れたそうです。

「お前は世界に出て、日本人によるクラシックを成し遂げろ。俺は日本に残って、お前が帰って来た時に指揮できるよう、クラシックの土壌を整える」「オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」

直純さん自身の仕事も凄いものです。「フーテンの寅さん」や「8時だよ!全員集合」の音楽担当、チョコレートのCM(「大きいことはいいことだ!」というやつですね)、さらには、テレビ番組「オーケストラがやってきた」の司会など、まさに上に書いた言葉を有言実行していく大活躍を見せ、わずか69歳で亡くなってしまいます。しかし、彼の仕事がなければ、当時、日本でクラシック音楽が大衆に注目される機会は、今よりずっと少なかったのかもしれません。そんななかで直純さんの存在はとても大きなものだったのです。

小澤さんの場合は、こうした大衆向けの音楽を手掛けることはありませんでしたが、彼の欧米での活躍そのものが、大衆を音楽に引き付けるのに大きな役割を果たしました。このことについて、“音楽を大衆化”した山本直純、“大衆を音楽化”した小澤征爾“と表現している評論家もいます。

さて、そんな小澤さんですが、実は私は小澤さんが指揮するCDやレコードを一枚も持っていません。とは言っても、彼の指揮する姿は、しばしばテレビで見てきました。そこでの思い入れたっぷりの、そして内面からの感情が溢れんばかりの佇まいの指揮は、聴衆を魅了するのに十分なものでした。ただ、こう言ってはなんですが、その割には、奏でられる音楽はよく言えば「整った音」、悪く言えば「情熱が足りない」「やや平板」のように聞こえてしまうのです。非常に統率力のある指揮ではあるのですが、団員たちの自発的な音楽性を引きだし、それを活かしていくような音楽づくりはあまりしていないのでは?と感じてしまった次第です。

まあ、これはあくまで私の個人的な感想であり、偏見かもしれません。小澤さんの功績や業績にケチをつけるつもりは毛頭ありません。何よりも、彼が残した足跡は、日本の音楽界にとってあまりにも大きく、そして誰にも真似できない説得力を持っていたことは事実なのです。

時代は移り変わり、現代では、例えばショパン・コンクールで一躍有名になった反田恭平さんが「外国から日本にクラシックを勉強しに来る機会を増やし、そうした人を受け入れる学校を作りたい」と発言していますし、宮崎駿さんの映画音楽で有名になった久石譲さんは自作の曲を欧米の有名オーケストラで指揮する機会を多く獲得しています。(意外に思う人もいらっしゃるかもしれませんが、久石さんはもともと純粋にクラシック畑の人で、映画音楽以外の曲もたくさん作っておられます。)つまり、日本人がヨーロッパに勉強しに行って、そこで名をあげることだけが、クラシック界で一旗揚げる唯一の道ではなくなってきているのです。しかし、それは、かつて小澤さんやその教えを直接受けた人達が「ヨーロッパこそ音楽の本場」という固定観念に捕らわれていた現地の人々と渡り合い、戦ってきたという歴史があるからこそ、なのです。

あらためて、故人のご冥福をお祈りします。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。