明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常 235 円空仏が語り掛けるもの

こんにちは。

 

前回は小澤征爾さんについて書きました。その小澤さんと日本を代表する現代作曲家である武満徹さんとの対談の中で、武満さんは以下のような発言をしています。

「政治とか科学とかがすごく極端に進んでいるときに、時どきそれを引き戻すのが、音楽の役割だと思うよ。」

音楽は本来とてもパーソナルなもので、だからこそ個人の発露としての音楽は誰にも邪魔されてはならないものなのです。しかし、時としてそれが政治的に利用されてしまうことは、歴史が物語っています。音楽家は政治に対してどのようなスタンスを取っていけばよいのか、その答えはさまざまでしょうが、音楽家一人ひとりがこのことを十分に意識する必要があることは確かでしょう。事は科学においても似たようなものです。科学者が新しい科学技術を研究開発しようとするとき、そこには一種の哲学のようなものが必要なはずです。そうでなければ、科学は、実に簡単に、政治に一方的に利用されてしまうリスクを背負うからです。そんな時、個人の考え方、哲学をそっと支えるのが、音楽の役割なのです。そして、このことは、音楽だけに限ったことではなく、あらゆる芸術においても言えることなのです。

私は音楽を聴く時、それが作られた時の社会的・個人的背景と、その曲が現代において演奏されることの意味という2つの側面から聴くようにしています。単に流行を追いかけるだけではおもしろくない。かといって、懐メロとしてだけ曲を聴くのもつまらない。

ただ、過去の曲を聴く場合、あまりにも政治的背景や社会情勢に引っ張られすぎると、その曲が本来持っている魅力を見失うことになりかねません。あくまで主役は音楽そのもの。音楽がもつ力を、今を生きる自分の全身で感じることこそが、私の音楽鑑賞なのです。

 

そんなことをぼんやりと考えながら、先日、大阪のあべのハルカル美術館で開かれている「円空 ―旅して、彫って、祈って―」と題する展覧会を見てきました。

ご存じの方も多いと思いますが、円空は江戸時代初期(1632-1695年)に活動した修験僧であり、仏師だった人です。若い時は現在の岐阜県高山市丹生川町にある千光寺等で修業を重ねたのですが、35歳の時から全国修験の旅に出て、そこで大小の木造仏像をたった一人で作り続けた人です。諸国行脚の旅に出かけ、説法によって仏教を広めた僧侶は親鸞聖人をはじめとしてたくさんいらっしゃいますが、仏像を作ることによって、教えを広めた人は他にあまりいらっしゃらないかもしれません。この修行をはじめた時、円空は12万体の仏像を作るという誓いを立てたそうですが、既に失われたものも多く、目標が達成されたかどうかはよくわかっていません。ただ、現存するものだけでも4000体から5000体を数えると言われています。

日本における仏像の歴史を振り返ると、飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代・・・というように、時代とともにその外見は変化してきました。例えば、貴族文化が花開いた平安時代と武士の力が非常に強くなった鎌倉時代では、その趣はかなり異なります。それでも、そこには仏師達が政治との結びつきを利用しながら、威厳に満ちた、そして芸術的にもすぐれた仏像を残してきた、ひとつの「流れ」のようなものが感じられます。つまり、ある種の一貫性のようなものが存在するのです。それは、どの時代の権力者が仏教をどのように利用してきたのか、ということと深く関連しています。そうした思惑をどのように受け止め、そのうえで利用するのかというのが、多くの仏師達が権力層に近づいて仕事をするうえで重要なことだったと言っても過言ではないでしょう。彼等にとっては、それが「生きていくための道」だったのです。

しかし、円空の仏像づくりは一味も二味も違います。

まず、彼の仏像は、一見するととても荒々しいのです。一本の木をノミなどで削ってつくるのですが、木の特徴を生かし、無駄にすることなく、そのまま鉈とノミで大胆に彫っていく仏像は、木の中に神がいるとの思想が反映されているのです。そのプリミティブ(原初的)ともいえるスタイルが大きな魅力の一つとなっているのです。そこには、「きれいに整える」という発想はありません。彼は、一時北海道に滞在していたことから、アイヌ文化の影響を指摘する向きもあるようです。

もう一点、彼の仏像の魅力として、微笑みを浮かべている顔立ちの穏やかさ、優しさが挙げられます。とくに、口元から溢れる笑みは、これを拝もうとする人にも自然と笑みを浮かべさせる効果を持っています。こんなにも拝む人の心を穏やかにする仏像も他にあまりないように思います。

彼はあくまで修行の一環として仏像づくりをしていたのであり、そこには彼の思想や生き方が明確に反映されています。余分なものは一切彫らずに、木の中に仏を見て、木のもつ生命を仏像という形に表現しているのです。そこには「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」などの日本人の心に潜在する精神性があります。一見完成していないような造形で、それを拝む人の心に、安心や慈愛、微笑を醸し出してくれるのが円空仏の魅力なのです。つまり、彼の心はいつも地域に住む人々、とくに農民達に向いていたのです。

彼の生きた江戸時代初期は、徳川幕府による天下統一がなされ、国内情勢は次第に安定しつつあった時代です。そんな中で、農民に関しては、「生かさず、殺さず」という圧政が行われたというのが定説です。この説に関しては、「そうでもなかった、少なくとも食に関しては、当時比較的余裕があったのではないだろうか」という新しい研究成果もあるようですが、少なくとも、気候の変化等の影響を大きく受けやすい農業という仕事に従事する彼等にとって、神仏に祈りを捧げることは、何よりも重要な行事であり、日常だったのです。そんななかで円空仏の微笑みに救われた人はとても多かっただろう、と想像できるのです。

円空の体現する宗教観の根底には、縄文弥生から日本に脈々と連綿する思想があります。古代人は草木、動物といった自然物、自然現象、さらには人工物にも精霊が宿ると考え、生活には祭りを通じた祀りや祈りがあったのです。つまり、中国から伝来した仏教そのものではなく、こうした土着思想と結びつくことによって、円空の作り出す仏像は、都や江戸ではさほど知られることなく、静かに広まっていったのです。

では、なぜ現代に生きる私達の心にも円空仏は突き刺さるのでしょうか。それは、現代という社会が「静かな微笑み」を忘れた社会になりつつあるからではないだろうか、と私は考えています。殺伐としたニュースばかりが流れ、世の中全体の「許容範囲」がどんどん狭くなり、息苦しくなっていると感じることの多い社会で、荒々しさと穏やかさの同居する円空仏が私達に語りかけていることは、無言でありながら、とても多くの含蓄に溢れたものなのです。「慈愛」という言葉が見失われがちな社会だからこそ、仏像の微笑みに私達はハッとさせられるのです。

円空仏 あべのハルカス美術館にて 以下も同様





今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。