明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常16-2 やっぱり副作用は恐い。だけど・・・

こんにちは。

(この記事は、後日見直した時に、敏夫氏番号に重複があることに気づいたため、少し変則的な番号に修正しています。)

本当に毎日暑いですね。私は時々、早朝5時頃から6時にかけて、散歩をしています。今の季節だと、日の出が5時30分前後なのですが、だんだんと明るくなってくる空を眺めながら約1時間、車も人もまだまだ少ない町を散歩するのは、実に気持ちの良いものです。人と出会うことも少ないので、ほとんどマスクもしなくて大丈夫です。この時間帯は、町が次第に目覚めていく様子を肌で感じることができ、おもしろいですよ、それと、帰宅してからシャワーを浴びるのが最高です。

ただ、早朝散歩の欠点のひとつは、昼前に早くも眠くなってしまうことでしょうか。早起きする以上、これはしょうがないですね。

 

さて、そういったことはまったくできない無菌室での生活の続きです。

移植が終わった時は、体にまったく何の変化もなく、本当に、治療のクライマックスを終えたということにピンときませんでした。

ところが、その夜ぐらいからでしょうか。ついに大きな副作用がやってきました。

まず、体のだるさと倦怠感がやってきます。ベッドで寝転がっていること以外、何もする気が起きなくなってしまいました。本を読むことも、音楽を聴くことも、テレビを見ることも、すべてが鬱陶しくなって、ただただ寝転がっているだけです。多分、何かを考えていたのでしょうが、それもよく覚えていません。

食欲もなくなり、当初は、出された食事の3分の1も食べることができれば上出来、という感じでした。私はもともと病室で音楽を聴くことが多かったのですが、耳に入ってくるどんな音もすべて、勘弁願いたいなどと思ったのはこの時が初めてでした。

つまり、ひたすら副作用に耐えるだけの日々が数日過ぎていったのです。当然ながら、気持ちももやもやしたままです。見舞いに来てくれた家族には「何でもいいから面白いことをしゃべってくれ」などと言っていましたが、今になって思えば、あれは結構無茶ぶりでしたね。人間、そんなに面白いネタをもっているわけではないし、その時の私は、どんな話を聞いても面白いとは感じることができなかったのですから。

 

さてさて、ようやく副作用が抜けてきて、無菌室から一般病室へと移されたのは、結局一週間と少し経ってからでした。この時は、食欲はまだ100%回復していたわけではありませんが、病室を出て、病院内をうろうろと歩き回る程度の余裕はもてるようになっていました。ここまでくれば、退院まであと一息です。

一般病棟でさらに一週間ほど過ごした後、ついに待ちに待った退院の日がやってきたのです、季節は巡り、もう10月の上旬になっていました。

 

副作用がどの程度出るかは、かなり個人差があるようです。私の副作用がとくに強かったのか、それとも軽度のものだったのかはよくわかりません。ただ、いずれにせよ言えることは、副作用を恐れていては、前に進むことができないということです。

もちろん、ある程度以上の高齢患者になると、副作用に耐えることができる体力そのものがなくなっている可能性は高いです。私の受けた治療が65歳以下の患者にほぼ限定されていることも、そのためです。

ただ、少なくとも入院中は医師や看護師がきちんとチェックしてくれていますし、それを信頼して身を委ねることができるはずです。今行われている新型コロナのワクチン接種の副反応でもまったく同じことが言えるのですが、きちんとした治療を受けないことによるリスクよりも、副作用・副反応のリスクの方がはるかに小さいのです。

 

今日はここまで。残念ながら、これで私の入院にかかわる話は終わり、というわけにはいきませんでした。そこに思いがけない展開が待っていたのです。ただ、それは医師側すれば、ある程度想定内のことだったようです。

 

今回も読んでくださって、ありがとうございました。