明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常28 ある決断

こんにちは。

 

昨日で、オリンピックが閉幕しました。この東京大会ほど、次から次へとトラブルに見舞われた大会は珍しいかもしれませんね。今さらそれらを蒸し返すつもりはありませんが、ひとつ明らかになったことがあるような気がします。それは、判断、決断の遅さが余計な混乱を招く、ということです。もちろん、さまざまなしがらみの中で動いている大きなイベントは、無数とも言える利害関係者やその他の事情を汲もうとすると、何かを決定するのは簡単ではないのは当然です。しかし、決定を先送りにしたり、長々と様子見をしたりすることが、さらに問題を大きくしてしまうことを、多くの人が痛感したのではないでしょうか。ただ、大事なのは、私達がそれを反面教師とすることです。他人の言動を批判しているだけでは、何も建設的な意見は出てきません。判断が遅いのは、政府や行政、大きな組織だけではないのです。一人一人が、「決められない日本人」からの脱却を志すようになればいいな、と思う次第です。

 

さて、今回の話題は表題にあるとおり、私自身の「決断」に関するものです。とはいっても、上に書いたような大きなイベントにかかわる話ではありません。

順に書いていきましょう。

2018年5月末、無事退院した私は、翌々日、早速職場に出向きました。といっても、いきなり仕事をしたわけではありません。関係する方々や管理職の方への事情説明と、産業医の先生との面談のためです。既にこの年度の前期の授業は半分ほど終わっていましたし、夏休み前までの授業計画は、私抜きで固まっていました。したがって7月末までは、代わりの担当者が簡単には見つからず、どうしても私が担当しなければならなかった演習(ゼミ)の指導と大学院の授業だけを担当することとなりました。また、管理業務は大幅に免除されました。それはそれで、大変ありがたかったのですが、他方で、その分、同僚の先生方にしわ寄せがいくことになるため、申し訳ない気持ちでいっぱいだったのも事実です。

ただ、産業医との面談の中で、やはり仕事はかなり軽めにすることが強く求められましたし、自分の感覚としても、仕事はかなり制限していかないと無理だな、と感じました。2014年、2018年と、わずかの期間の間に2回も仕事に大きな穴をあけてしまったことが、かなりのトラウマになっていたのかもしれません。もう、このようなことは二度と許されるものではない、との思いが強かったのです。(許されない、といっても、別に処分されるとかそういうわけではありません。あくまで自分の気持ちとしての話です。)

自分の健康には大きな不安が残ったままである。そして、職場や学生達にこれ以上迷惑をかけることはできない。そう考えた時、頭に浮かんだのが、早期退職、というものでした。定年年齢まではまだ少し時間はあったのですが、このままの状態で、定年まで勤めあげる自信は持てない、となった時、まだ、ある程度心身の余裕があるうちに退職して、これ以上の混乱がおきることを回避するとともに、自分が「楽になる」という考えが浮かんだのは、すごく自然なことだったのです。

ただ、最後まで悩んだのがゼミで学んでいる学生達のことでした。この年度に新しくゼミに入ってきた学生達は、まだまったくゼミにはなじんでいません。にもかかわらず、彼らは、「このゼミで、そして、このメンバーで、勉強を続けたい」という意志を示してくれました。「彼らの思いには是が非でも応えたい。そうなると、彼らが卒業する2年後、つまり2020年3月末までは退職することはできない。」これは次第に確固たる考えになっていきました。

そういうわけで、この年の秋ごろに、大学側に正式に退職の旨を伝えました。(実は、他にもプライベートな理由があったのですが、それはここでは書きません。)

自分の仕事のゴールを決めたことで、ずいぶん気持ちは楽になりました。また、実際の退職日よりもかなり早く意志表明をしたため、大学側も次に向けての準備をする上で好都合だったと思います。ただ、30年も務めた職場です。「店じまい」するとなると、それなりに色々とやるべきことがあり、その後の2年間は、予想以上に忙しかったものです。

ただ、そんななかで、ひとつ、とてもうれしかったことがあります。これまで、私のゼミで学んだ学生は約320名いたのですが、私の退職を知った彼らが、合同で「大同窓会」を開いてくれたのです。2019年11月に市内のホテルの大広間を借り切って行われた会には、100人以上の卒業生達が集まってくれたのです。遠方に住んでいて出席がかなわなかった人、連絡先がどうしてもわからず、最後まで開催を通知できなかった人もある程度いたことを考えると、この出席率は相当なものだったのではないでしょうか。

そんなこともあって、いよいよ退職する日を迎えた時、私は借別の思いよりも、さわやかで晴れ晴れとした気持ちのほうが、はるかに大きかったのです。

 

本日はここまで。あと一回でとりあえずこの話は一区切りになります。明日投稿する予定ですので、引き続きよろしくお願いします。