明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常209 映画「福田村事件」が私達に問いかけるもの

こんにちは。

 

まだまだ暑い日が続きますね。とはいえ、朝晩は少しマシになってきたので、最近はエアコンを一晩中つけっぱなし、ということはほとんどなくなりました。明け方の少し気温が下がる時間、窓を開けて換気するのは気持ちいいですね。

 

ところで、去る9月1日は、関東大震災発生からちょうど100年が経過した日でした。この首都直下型地震マグニチュードは7.9、最大震度は埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県の広い地域で震度6を記録し、死者・行方不明者は10万5000人とされています。また、東京都内では、その東部を中心に大規模な火災が発生し、焼け野が原になってしまったことも、多くの写真や新聞記事で確認できます。

ちなみに、日本における大規模地震の発生の歴史を調べてみると、明治以降の大地震としては、1872年(明治5年)山陰地方を襲った浜田地震(死者555人)、1891年(明治24年)の濃尾地震(死者7273人)、1894年(明治27年)の荘内地震(死者726人)、そして1896年(明治29年)の明治三陸地震(死者21959人)と陸羽地震(死者209人)が挙げられます。つまり、少なくとも関東地方ではさほど大きな地震は発生しておらず、ほとんどの人にとってははじめて経験する恐怖だったのです。また、当然ながら現代のように情報網が発達していたわけではありませんから、他地域で起きた地震について、その詳細を知る機会は決して多くなかったはずです。こうしたことを踏まえると、地震発生直後にさまざまなデマ(フェイク・ニュース)が流れ、パニックに陥ってしまった人々が多数にのぼったのも理解できないことではありません。しかし、広まってしまったデマの中には「日本に反感を持つ朝鮮人がこの機に乗じて、井戸に毒を投げ込んでいる」などというものがあり、その噂に怯え(必ずしも全面的に信じていたわけではないのかもしれませんが)、「それならば、やられる前にやっつけてしまえ」とばかりに、朝鮮人を虐殺するという痛ましい事件が多数起きたことは、看過できません。この犠牲者の数は数百名から数千名、とされており、数そのものが明らかになっていないのですから、ひどい話です。とくに、官憲や政府がそれを容認し、あるいは先導していたことは、近代日本国家の闇を表すものだと言えるでしょう。

ここまでは、今回の話題のイントロです。

先日、地震直後に千葉県で起きた「福田村事件」を題材にした映画を観に行ってきました。タイトルはずばり「福田村事件」。森達也監督の戦略だと思いますが、9月1日に一般上映が開始されたこともあり、大変大きな話題を呼んでいます。私が映画館を訪れたのは9月3日でしたが、見事に満席で、こうした社会派の映画としては異例なほどにぎわっていました。

今も上映中の映画ですので、ネタバレしないように紹介しないといけないのですが、史実としての福田村事件と、ストーリーそのものには直接関係のない感想を少し記しておこうと思います。

この事件は、地震当時たまたま当地(福田村、現在の千葉県野田市)を訪れていた讃岐の薬売り行商の一行が、「言葉がおかしい」などの理由で朝鮮人と疑われ、感情的な行き違いもあって、15人のうち子供を含む9人が、地元の自警団や軍隊あがりの「ごく普通の人々」によって惨殺されてしまったのです。彼らが持っていた鑑札から「ちゃんとした日本人だ」ということが証明され、残りの6人はかろうじて命を落とさずにすんだのですが、その心の傷は計り知れないものだったでしょう。また、この殺戮に加わった地元住民たちは、「自分たちは国の方針に従い、国を、そして故郷を守るために、やっただけなのだ。」と主張しています。ここまでは既に史実として認められている所です。(といっても、かなり長い間闇に葬られていた事件で、事実が明らかにされたのは1970年代に入ってからのことです。)


この映画、テーマは大地震でもなければ、デマの恐ろしさでもありません。

私達は、社会の中で生活していくうえで、さまざまな矛盾を抱えながら、日々の生活を送っています。個人としての思惑や感情と自分が所属する組織としての思惑や感情はいつもぶつかり合いますし、組織と別の組織の間でも同じことは起きています。そうした矛盾をきわどいところでバランスをとることによって、日常を送っているのです。しかし、何かのはずみでそのバランスは一気に崩壊してしまいます。地震やデマはそのトリガー(引き金)のひとつなのです。

映画では地震が起きるまでの数日間を、最初1時間ぐらいかけて、丁寧に描写しています。それは、こうした平和でありながら「危うい日常」を描写するためのものであり、出演者の誰もがいつもどおりの生活を送る中でも何となく感じている不安感や苛立ちの表情が印象的です。そして、さりげないセリフの中に、とても重い意味が込められていたりします。(そこには、戦争の暗い影も次第に色濃くなっていることが示されています。)

そして後半、いよいよ惨殺がはじまってしまう場面は、今、映画館の中でスクリーンを眺めている私達から見れば「どうしてその方向に行ってしまうのかなあ。もうちょっと冷静になれなかったのだろうか」と感じてしまいがちなシーンが連続するのですが、それは自分が安全な場所にいるからこその感想であって、むしろ信じていたバランスがいともたやすく崩れてしまうこと、そしてその結果、人は簡単に加害者にも被害者にもなってしまうことが克明に描かれます。そして私達は「お前はどうだ?」と厳しく問われるのです。

森監督は映画の公式サイトの中で、次のようなメッセージを記しています。

「ヒトは群れる生き物」

「だからこそこの地球でここまで繫栄した。でも群れには副作用がある。」

「群れは同質であることを求めながら、異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする。」

言うまでもないことですが、この事件の犠牲者が日本人だったにもかかわらず、朝鮮人と間違われてしまったことが問題なのではありません。どこの出身であろうと、殺人という行為が許されるはずもありません。ただ、「同胞」であるか否かにすがった人々の精神状態は、きっと、少しでもバランスを取り戻そうとする心情の表れだったのだろうと思うのです。ラスト・シーンで主人公2人(井浦新さんと田中麗奈さん)が利根川を行く船の上で交わす短い会話は、そのまま、私達への重い問いかけとして、映画館を出た後も頭の中をぐるぐると回り続けるのです。

関東大震災当時、人々が得ることのできるニュースや情報はごく限られたものでした。そのことが、このような事件の温床になってしまったという見方もできるかもしれません。しかし、毎日のように大量のニュースが流れ、その真偽も含めて、判断、情報処理が困難になっている現在でも、一歩間違えれば、いや、間違えなくても、このような事態が引き起こされてしまう危うさの中で、私達は生きているということを再認識する必要があるのです。

他にも色々と書きたいことはあるのですが、とりあえずもう一点だけ。

この映画、東出昌大さん、ピエール瀧さん、水道橋博士さんといった、最近(といってもここ数年ですが)テレビのワイドショーを賑わしてしまった人達が出演しています。いわば「テレビ番組にはちょっと使いにくい」人達です。私は、これらのキャスティングにも監督の強いメッセージが込められているような気がします。他人や世間の風評に惑わされることなく、自分のモノサシで判断することがいかに大事であるのか。彼らの演技は監督の期待に十分応えるものでした。また、元「水曜日のカンパネラ」のコムアイさんの体当たり演技も、彼女のこれまでのイメージを一新するもので、とても迫力のあるものでした。

 

 

今回も、最後までよんでくださり、ありがとうございました。