明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常237 引導を渡す

こんにちは。

 

昨日は、2週間ぶりの通院で、朝8時半から夕方4時半までずっと病院にいました。前にも書きましたが、こちらは待合室にいたり、ベッドで寝転んだりしているだけなのですが、やはり疲れます。途中、点滴の間にはおやつは食べましたが、もちろん本格的に食事をとることはできませんので、空腹もあって、最後はヘロヘロになっていました。とはいえ、その時間からガッツリ食べてしまっては、今度は夕食に差し支えますので、コンビニで軽くおにぎりを買って帰りましたが、何だかイマイチでした。とくにご飯が・・・。

最近は何処のコンビニも、おにぎりに関してかなり工夫が進んでいるという話を聞いていたのですが、私の感想は、「前よりは良くなったかもしれないが、もっとがんばってくれ」というものです。やっぱりご飯は家できちんと炊くのがいちばんのようです。ちなみに、最近は高いものだと10万円越えの高級な電気炊飯器などもありますが、ガスの方がうまく炊けるような気がします。近年のガスレンジについているご飯を炊く機能は大変な優れモノで、ちゃんと「はじめチョロチョロ、中パッパ」を自動でやってくれますし、水加減がある程度適当でも、まず炊きそこないにはなりません。

いずれにしろ昨日は、食事の面ではあんまり良い日ではなかったですね。

ただ、検査結果は非常に良好で「上がるべき数値はちゃんと上がって、下がるべき数値はちゃんと下がってますね」というものでした。また、歯科でも「最近歯の調子が良くなってますね。磨き方も前より上手になっているみたいですよ」と褒められました。こんな感じでずっといければ良いのですが、ぬか喜びはしないように、と自重しています。

そういえば、漫画家の鳥山明さんが亡くなりましたね。享年68歳。死因は急性硬膜下血腫だそうです。報道ではもっぱら「代表作であるドラゴン・ボール」について触れているようですが、私の世代にはやはり「Dr.スランプ」ですね。あれをはじめて読んだ時の衝撃は忘れません。あんなに過激なのに、ほのぼのした、そしてほとんど説話じみたところのないギャグマンガにはなかなか出会えるものではない、と感じたものです。と思っていたら、今度は「ちびまる子ちゃん」の声優として有名だったTARAKOさんが63歳という若さで亡くなったという訃報が飛び込んできました・・・本当に、声を失ってしまいます。せめての思いとして、故人のご冥福をお祈りするばかりです。

 

さて、今日の本題は日本語の慣用句についてです。

皆さんは「引導を渡す」という言葉をご存じですよね。でも、その本当の意味というか、本来の使いかたをご存じでしょうか? 恐らく多くの人は、相手に詰め寄って、その言動をあきらめさせる、というような意味、つまり、相手をやり込める、というような意味だと思っておられるかもしれません。かく言う私もそうでした。

しかし、これは少し違っています。

私はつい最近、「引導を渡す」場面に遭遇しました。場所は葬儀会場。渡したのはお経をあげておられた僧侶の方。そして渡されたのは亡くなった方でした。

そう、つまりもともとこの言葉は仏教用語なのです。そして本来「引導」は、人を悟りに導いたり、亡くなった人が問題なく仏の世界へ行くために唱える「法(真理や教え)」のことを指すのです。仏教では、亡くなったことに気づいていない故人がこの世をさまよい、亡霊になることを防ぐため、僧侶が法語を唱えて死を伝えるのが基本です。このように滞りなく仏の世界へ行けるよう導くことを「引導を渡す」と言います。もうあの世へ行くときが来たことを故人にわかってもらう行為であることに由来して、その後、相手への最後の通告、諦めさせる、といった意味で用いられるようになりました。

このように本来は「教え、ただし、導く」のが言葉の正確な意味なのです。

ただ、同じ仏教の中でも、宗派によってその方法は少々異なっています。

例えば、一般的には、葬儀前に僧侶が親族に亡くなった人の生きていた頃の話を聞き、引導法語を作ります。四六文(しろくもん)と呼ばれる形式の漢詩文を取り入れるのが基本です。もう少し細かく見ていくと、曹洞宗では松明を用い、禅師による引導法語(いんどうほうご)によって葬儀の儀式が行われます。終盤で「喝(カツ)」や「露(ロ)」など大きな声を出すのが特徴です。亡くなったことを故人に告げ、心安らかに仏の世界へ行ってもらうための意味があります。また臨済宗では、松明で円を描き、引導法語を唱えます。亡くなった人の人徳を称え、禅の教えを説くことでこの世への未練を断ち、仏性が目覚めるように導くのが基本です。仏性とは、仏になるための素質のこと。そして、言葉では表せない禅の教えを「喝」や「露」の一声に込めます。

これに対して、浄土宗では、引導のことを下炬(あこ)と呼ぶことがあります。下炬はもともと、故人の遺体を火葬する際に薪などに火をつける行為を意味する言葉でした。現在の葬儀では導師が2本の松明を持ち、1本を捨て、残りの1本で円を描き引導の句を唱えます。ところが、浄土宗に近い宗派である浄土真宗の教えでは、亡くなった人は阿弥陀如来によって浄土に生まれ変わり、導師が浄土へ導くわけではないと考えられています。そのため、葬儀では引導はおこなわれません。

この他、天台宗真言宗などでも独自の引導の方法が定められています。ただ、現代の屋内で行われる葬儀では、松明に火をつけて使用することはありません。まあ、これは当たり前ですね。あっという間に火災報知器が鳴って、消防車が飛んできてしまいます。

私が今回経験したのは、浄土宗の葬儀でした。これまでに浄土宗の葬儀に参列したことがあったのか、なかったのか、ちょっと記憶が曖昧なのですが、とにかく、僧侶の方が松明らしきものを上に持ち上げたかと思うと、いきなりそれを放り投げた時には、心底びっくりしました。眠気も吹っ飛ぶ、というやつでしたね。(笑)。そして帰宅後、ちょっと調べてみて、それが「引導を渡す」という行為だと知った時には、もう一度驚いたことは言うまでもありません。ちなみに、放り投げられた松明は、供花の飾ってある付近に落下し、葬儀が終わるまで、そのままにされていました。屋外で、火がついている状態だったら、もっと宗教的意味を感じられたのかもしれませんね。

いやあ、何歳になっても「はじめて知る」ことってたくさんあるんですね。勉強になりました。

 

というわけで、今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。