明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常03 仕事はどうする?

2021-07-06

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常03 仕事はどうする?

こんにちは。

さて、日本人の約半数ががんに罹患するということは前にも書きましたが、その発症率が急激に上昇するのが、男性では60歳前後から、そして女性の場合は45歳前後からのようです・つまり「働く世代」ど真ん中ですね。

そして、医師から宣告を受けた方の約3割が、勤め先等に一切相談せずに退職してしまう道を選ぶようです。「続けていく自信がない」「職場の上司や同僚に迷惑をかけられない」といったのが主な理由のようです。

もちろん、治療と仕事の両立を支援する体制は、会社によってかなり相違というか格差がありますし、非正規雇用の方や自営業の方は余計に大変なのですが、それにしても「何も相談せずに」というのはあまりにももったいない話です。5年生存率、10年生存率が年々長くなり、がんという病気が、決して「絶命への一本道」ではなくなった現在、少しでも可能性のある道を、探すべきではないでしょうか。

とはいえ、急遽入院になった場合、まずは、昨日までやっていた仕事、どうするんだ??という課題に直面することになります。治療期間がある程度長期間にわたる以上、自分の仕事を引き継いでくれる体制を作れないと、オチオチ病室のベッドで寝てもいられません。

私の場合、大学の教員でしたので、主な仕事は研究・教育・そして地方自治体やその関連機関から依頼された学外の仕事、ということになります。このうち、研究は、まあしばらくの間は休業せざるを得ないし、学外の仕事も、お断りするしかありません。電話連絡を何本かすれば、それで一応は解決しました。

問題は、教育です。入院したのは6月はじめで、すでに前期の授業は半分ほど終わっていました。その後を引き継いでもらうため、関連する専門領域の先生方には随分とご迷惑をおかけすることになりました。そして、その際に苦労したのが、自分の病状を説明することでした。自分の余命を口にするというのは、やはり心が張り裂けるようなことです。話をしながらも、ひょっとすると、このまま復帰できずに自分の人生が終わりの時を迎えるのではないか、という気持ちに襲われることが何度かありました。

もうひとつの関門が、指導している学生たちのゼミ(演習)をどうするのか、ということでした。当時、3年生9名、4年生9名の学生がいたのですが、場合によっては、ゼミを閉鎖し、学生は他の先生方のゼミに分属させる、ということが必要になります。

かなり悩んだのですが、ある夕方、学生たちに病院の面談室に集まってもらい、自分の病状をなるべく詳細に説明したうえで、「ゼミをどのようにするのかについては、自分たちで話し合って決めてほしい」と伝えることにしました。どんな結論になろうとも、それにしたがう覚悟はできていたのですが、大変幸せなことに、彼らは、「先生が不在の間、ゼミはできるだけ自主運営という形で進めていきたい。先生には、リモートでよいから、指示・指導をお願いしたい」と言ってくれたのです。

 

これによって、私は病院外との定期的なつながりを継続することができるようになりました。ゼミが行われる火曜日には、終了後の夕刻、数名が病院を訪ねて、その日の様子を詳しく教えてくれました。(おかげで、毎週火曜日の夕食は、ずいぶん遅い時間に取ることになってしまいましたが)

もうひとつ、当時の私にとって大きな課題だったのが、学会関連の仕事でした。ある学会で事務局を務めていたのですが、その学会の全国大会が入院から2週間後に迫っており、そこでは、会員総会でさまざまな議題の提案・説明や報告を行うのが私の役割だったからです。自分がいなくてもこれが円滑に進むように、完璧な原稿や資料を作成しなければならない。これは、結構な負担でした。しかも、事務局を引き継いでくれる人物を探さなくてはなりません。

このため、ほぼ毎日、夕食が終わった後消灯までの約2~3時間、パソコンに向かい合ったのです。なんだか、それまでよりも忙しい日々を送っているような気分になったものです。

 

こうして、安心して治療・療養に専念できるまでの約2週間、本当にかなり忙しく過ごすことになってしまいました。ただ、後から思い起こすと、良かったこともあります。

それは、さまざまな方々に自分の病状を繰り返し説明するうちに、次第に説明の仕方にも慣れ、胸を締め付けられるような感覚は次第になくなったということです。言い換えれば、自分の状況を、本当の意味で、客観的に見つめることができるようになったのです。

 

今の自分に何ができるのか、そして何はできないのか。感情に流されることなく、これを考えることは、とても大事なことだと思った次第です。それこそが「明日を生きる」ことにつながるのです。

 

長文を読んでいただき、ありがとうございました。