明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常214 ヒマラヤスギに思いを寄せて 

 

こんにちは。

 

すっかり季節が入れ替わったので、先日久しぶりに、京都府立植物園に行ってきました。

訪れたのは10月初旬だったのですがコスモスは早くも見ごろを迎えつつありました。バラはこれからかなあ等と思いながら歩いていると、目に留まったのが、巨大なヒマラヤスギです。

京都府立植物園の象徴的存在


この木は樹齢約110年と言われており、高さは20メートル、幹の太さは4.2メートルで、周囲を見下ろすかのように、威風堂々とした、そして悠然とした姿を見せてくれています。

その姿に畏敬の念を抱く人が多かったからでしょうか、古代インドでは賢者がヒマラヤスギの森に好んで住み、シヴァ神に祈りを捧げ、厳しい精神修行を積んでいたそうです。また、ヒンドゥ教では神聖な浄化の木とされており、古い伝説にもしばしば登場します。さらに、ケルトの人々の間では道徳、長寿、保護の象徴として大切にされています。なお、パキスタンはこの木を「国の木」と定めています。

このように、世界各地で信仰の対象と結びつけられている木ですが、実はマツ科で、その名の通り元々はヒマラヤ地方のさほど標高の高くないところに植生しているようです。そして、日本でも明治初期に横浜に住むイギリス人がインドから種子を取り寄せて以来、その栽培が広がり、今では各地の公園等でごく普通に見ることができるほどになっています。それでも、その堂々とした姿には変わりありません。

実は、私が小学生の頃に住んでいた家のすぐそばにも高さ10メートルを超えるヒマラヤスギがありました。枝が張り出してくると、電線とからまってしまわないように、電力会社の人が高いところにのぼって、枝の切り落とし作業をしていたことを思い出します。また、夏場にはここに数十匹、いや百匹を越えるセミが張り付いて大合唱をするものですから、毎朝それが目覚まし時計がわりになっていたものです。

個人的思い出はともかくとして、百年以上もしっかりと根を張り、今も私達を見下ろしている姿を眺めていると、人間という存在がなんだかとても小さなものに思えてきます。ずっと同じ場所で生き続けるこの大木は、人間社会のゴタゴタをどんな気持ちで眺めているのでしょうか。それとも何にも惑わされることなく、今日も明日も、超然とした姿を私達に見せつけているのでしょうか。

 

さて、私の方は、先日虫歯を一本抜いてきました。以前にも書きましたように、どうも骨の状況に不安を覚えていたもので、骨粗しょう症等にも使われる骨を強化する薬、つまり骨密度を向上させる薬を使おう、ということになったのですが、これを使用するには、歯の状態がある程度良くないと駄目なようです。というのも、歯の状態が悪いと、あごの骨に刺激がかかりすぎ、「顎骨骨髄炎」や「顎骨壊死」といった事態を引き起こすリスクが高いのです。

そんなわけで、まずは歯の治療に専念してください、とのことで、詰め物が取れたまま3年以上放置していた歯を抜いてしまうことになったのです。歯科治療はずいぶん久しぶりだったので、若干緊張はしましたが、抜歯そのものは10分ほどで終わり、さほど出血もしませんでした。今はもう、うずき等もなく、まったくの平常に戻っています。ただ、なんとなく気にはなるので、食事の際には、抜いたほうではない左側の歯を使うことが多くなっているのですが、仕方ないですよね。まあ、だんだん慣れるでしょう。

なお、私は血液内科の主治医からの紹介ということで、いつも通院している総合病院の歯科・口腔外科で受診しましたが、さすがに最新の機器が揃っており、歯科医や歯科衛生士の方の腕もたしかで、快適、とまでは言いませんが、非常にストレスの少ない治療を受けることができました。ただ、こうした総合病院の歯科は町で開業している歯科医院とは異なり、いきなり訪れても、治療もクリーニングもしてくれません。あくまで、他の診療科での治療と関連する場合にのみ、受け入れてくれるようです。そのため、比較的空いていて、待ち時間が少ないのも、ストレスが少ない要因かもしれません。

 

今回は何だか取りとめのない話になってしまいましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常213 「それってあなたの(単なる)感想ですよね」

こんにちは。

 

10月の声を聞いた途端にめっきり涼しくなりました。最近は季節の変わり目がやや乱暴になり体調管理に苦労すると感じるようになったのは、私がトシを取ってきたせいでしょうか? それとも、温暖化のせいで日本全体の気候変動が以前とは異なってきているのでしょうか? いずれにしろ、もう少し自然で穏やかな四季の変化を実感したいと思う今日この頃です。

さて、今回の表題は日本最大の匿名掲示板として知られる「2ちゃんねる」(現・5ちゃんねる)の創設者であり、現在は実業家、コメンテーター等として活躍しているひろゆきさん(本名:西村博之さん)の決め台詞としてしばしば引用される言葉です。また、この人はインターネットやテレビ番組上でかなり思い切った発言を繰り返して相手を黙らせてしまうことから、賛同者からは「論破王」などと呼ばれて、多くの「信者」を生んでいる存在です。

(ただし、彼自身は、「それってあなたの感想ですよね。」という言葉はテレビで一度使っただけだと主張していますし、「論破王」と呼ばれることにはかなり戸惑いを感じているようです。)

様々な発言で、ネットを賑わしている彼ですが、私はここで、ひろゆきさん自身について論評するつもりはありません。ただ、この言葉が昨年小学生の流行語ランキング(ベネッセ・ホールディング社による調査)で1位になったことには、かなりの危惧を抱かざるを得ないのです。小学生たちの言葉を借りれば、ひろゆきさんのような歯切れのよい断言の仕方は、「スカッとする」とのことで、会話の相手を言い負かすにはとても手軽に使えてしまう言葉だ、ということになるのです。

ひろゆきさん自身は、こうした現象について、必ずしも諸手を挙げて喜んでいるわけではないようですが、他方「事実と感想を切り分けて話すべきだと思う」とも述べています。

まあ、それもあなたが「思っている」だけですよね、という軽いツッコミは置いておくとして、事実と感想をごちゃまぜにして話を進めることが誤解や曲解を生むものであることは確かです。その意味では、この主張は正しいようにも見えます。

しかし、実はこのふたつの区別はそんなに簡単でないことも、実社会ではしばしば起きます。ひとつだけ例を出しておきましょう。

ここに円柱形の立体があります。


これを真上から見た人は「円柱形とは丸の形をしている」というでしょう。

そして真横から見た人は「円柱形とは長方形をしている。」というでしょう。

もちろん、現在私達は、それを斜め上から見ることによって、円柱形の正しい形を捉えることができることを知っていますが、それでは、そうしたことを知らずに、真上から見た人、真横から見た人の認識は、嘘でしょうか。あるいは単なる感想でしょうか。否、それぞれの方向から見た限りにおいては、それらは真実なのです。ただ、ものの見方が一面的で、全体像を捉えるのに適していなかったに過ぎないのです。

こんな例は、毎日流れているニュースの中でもたくさんあることは、同じニュースを報道しているのに、新聞によって随分伝え方が異なることから見ても、明らかです。つまり、「事実」と「感想」を切り分けるという作業は、総論としてはその通りであっても、実際にはそんなに簡単ではないのです。というより、物事をこのふたつに分類して、決めつけてしまうこと自体がかなり危険で乱暴なことなのです。

なぜ、こんな乱暴なものの言い方が流行ってしまうのか。それは、会話をコミュニケーションとして捉えるのではなく、「相手より上に立つ」「相手を打ち負かす」(最近は「マウントを取る」という言葉がよく使われるようですが、個人的にはあまり好きな言葉ではありません。)手段と考える人が増えているからではないでしょうか。

いつからこんな風潮が生まれたのでしょうか。私の記憶にある限りでは、田原総一郎さん司会のテレビ朝日で長年続いている「朝まで生テレビ」あたりからではないか、と思います。この番組は毎回10名以上の評論家、政治家その他「論客」と呼ばれる人々がひとつのテーマについて議論する、というスタイルを取っていますが、元々かなり立場の異なる人達が同席しているので、議論そのものはほとんど平行線のまま終わってしまうことがほとんどで、ここで将来に向けての建設的な合意や結論が導き出されることはありません。というよりも、そんなことはまったく想定していません。テレビ局側も視聴者も、論客たちが時に感情をあらわにして声高に発言するのを楽しんでいるだけなのです。

しかし、これは本当の意味での「議論」と呼べるものではありません。

 

止揚アウフヘーベン)」という言葉をご存じでしょうか。これはドイツの哲学者ヘーゲルが提唱した概念で、「あるものを、そのものとしては否定しても、契機として保存し、より高い段階で活かすこと」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて、発展的に統一すること」などと説明されます。つまり、あらゆる議論・討論は、一方が他方をやり込め、自らの優位性を確立させるものではなく、あくまで将来的な発展に向けての共同作業のようなものとして、互いの主張の良いところを認め合う、というものなのです。言うまでもないことですが、こうした議論・討論に勝ち負けはありません。いや、そこから新たな発展に向けての道筋が導き出されるならば、すべての参加者が勝者になるのです。ぜひとも、学校の先生方には、こんなスタイルのモノの見方、考え方を子供たちに教えてほしいと心から願うものです。


作家であり、明治学院大学教授でもある高橋源一郎さんは自分の主宰するゼミの基本方針として「論破禁止」を挙げています。「誰かを論破しようとしている時の人間の顔つきは、自分の正しさに酔っているみたいで、すごく卑しい感じがするから」だそうです。これを受けて鷲田清一さんは「対話は、それを通じて各人が自分を越えることを希ってなされる。相手へのリスペクト(敬意)と自己へのサスペクト(疑念)がなければ成り立たない。」と述べています。私はこの意見に全面的に賛成するものです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常212 左手のためのピアノ曲

 

こんにちは。

 

前回の投稿で、私の病状に関する近況を書きましたが、その中でひとつ、書き落としたことがあります。それは、骨髄腫細胞の産出する物質によって、破骨細胞、すなわち、骨を壊す働きを持つ細胞が活性化してしまうことがあるということです。これによって、骨が溶けやすくなる症状が出ることがあるのです。私の場合も、当初、というか病名を告知される少し前、腰痛に苦しめられました。その時は単なる腰痛かな、と思っていたのですが、実は・・・というわけだったのです。ですから、腰痛には少し敏感になっています。そして今回、igAの値が急上昇したタイミングで、少し腰痛、というか腰に違和感あるいは軽いしびれのようなものを感じたのです。これについては、主治医に相談し、現在対応をしようとしているところです。まだ、原因がこの病気に関わるものなのかどうかもよくわかりませんが、ある程度めどが立ちましたら、また、このブログでお知らせします。

 

というわけで、今回の話題に入っていきます。前回の内容とはまったく関係なく、久しぶりにクラシック音楽に関する話題です。

皆さんは「左手のためのピアノ」というカテゴリーがあるのをご存じでしょうか。事故や戦争による負傷、脳神経障害、局所性ジストニア、重度の腱鞘炎などによって、右手が自由に使えなくなったピアニストのために、左手だけで演奏できるように書かれたピアノ曲のことです。といっても、芸術的な完成度が、両手で弾く曲よりも低い、ということはありません。左手だけでもとても高い技術と音楽性が要求されるため、これに取り組む人の数は決して多くないのが現状です。

ちなみに、局所性ジストニアとは、通常よりも激しく手先を使う機会が多い職業(ピアニストやスポーツ選手等)が特定の動作中に筋肉のこわばり、異常姿勢、大きな震え等の不随意で持続的な筋肉収縮が引き起こされてしまう神経疾患のことです。自分で手や指の動きをコントロールできなくなるため、ピアニストにとっては致命的ともいえる障害で、プロのピアニストの50人に1人は何らかの形でこの症状を抱えているとも言われている厄介な代物です。

左手のための曲として、一般に比較的よく知られている曲としては以下のようなものがあります。

ラヴェル 「左手のためのピアノ協奏曲」

 オーストリアの名ピアニスト、ヴィトケンシュタインは、第一次世界大戦の際に右手を失い、ピアニストとしてのキャリアを失いかけたのですが、ラヴェルに、左手だけで演奏できる曲の作曲を委嘱したものです。おそらく最も有名な「左手のためのピアノ曲」です。なお、ラヴェル自身も志願兵として戦場に赴いた経験を持っており、その悲惨さを知っていたため、この作曲には相当の力を入れたようです。

スクリャービン「左手のための小品」

スクリャービンは、ラフマニノフと同級生だった人です。しかし、ラフマニノフが大変な大男で、手も大きかったのに対して、スクリャービンは小さな手。それでも対抗するために猛練習を重ねた結果、右手を痛めてしまいます。そんな彼が自分のために作ったのがこの曲です。

バッハ作曲ブラームス編曲 「シャコンヌ

シャコンヌ」はもともと「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」として有名な曲で、多くのヴァイオリニストが取り上げている作品です。ブラームスは、これを当代一と言われたピアニスト、クララ・シューマンのために左手だけで弾くように編曲しました。クララは、けがのために一時右手が使えない時期があったそうで、その時期に贈られたものですね。なお、クララは作曲家として有名なロベルト・シューマンの妻ですが、ブラームスはこの人に密かに恋心を寄せ続けていたと伝えられています。

 

他にもたくさんの曲がありますが、先にも書きましたように取り上げるピアニストが少ないこと、かなり演奏上の難易度が高いものが多いこともあり、ほとんどは時代の波に埋もれてしまったようです。

ピアニストがこれらの作品を取り上げるときには、両手のためのピアノとはかなり異なる工夫をしなければなりません。まず、左手だけでメロディと伴奏を同時にこなさなければならないので、かなり忙しく手を動かすことになります。また、一度に出せる音は左手の指の数、すなわち最大限で5つしかないわけですから、それ以上たくさんの音を出そうとすると、ペダルを駆使したり、和音をふたつに分散して「ジャ、ジャーン」という感じで弾き分けたりしなければなりません。さらに、高音から低音までを全部左手だけでカバーしなければならないので、時として体をかなり捻じ曲げる必要も出てきます。しかし、ピアニスト達はこういった技術面での難しさをクリアしなければ、演奏活動を続けているのです。

現在活躍している左手だけのピアニストの多くは、もともと両手のピアニストとしてそのキャリアを積み重ねていた人です。それを断念せざるを得なくなった時の失望感は計り知れません。もちろん、それを契機に、ピアノの道をあきらめてしまった人も少なくありません。しかし、ピアノを続けようとした人は、自分のこれまでの弾き方を根本的に見直し、それこそ「ドレミファソ」を無理なく弾くにはどうしたらよいのか、という原点に立ち返って、自分とピアノの関係を見つめ直して、次第に上記のような難曲にも挑戦するようになっているのです。

彼らの生き方には、私達も学ばなければならない点がたくさん含まれています。ヒトは誰でも自分が積み重ねてきたキャリアの上に、次の計画を立てていきます。しかし、それは必ずしも保証されているものではなく、さまざまな事情で、ある日突然その計画が崩れてしまうことがあるかもしれません。そんな時、「すべてが崩壊した」と絶望してしまうのではなく、自分の来た道を振り返りながら、「今の自分に何ができるのか」と冷静に考えることこそ、次の一歩を踏み出すきっかけになるはずなのです。

なお、日本人の「左手のピアニスト」として有名な人に館野泉(たてのいずみ)さんがいます。1936年生まれのこの人は、両手のピアニストとしてかなりの名声を博していた人で、ベートーヴェンの録音なども高い評価を得ています。そして、30歳代半ばからはフィンランドに拠点を移し、北欧音楽の伝道師としても幅広く活躍していました。ところが、2002年、脳溢血のため転倒し、右半身に麻痺が遺ってしまいます。リハビリを経ても右手が不自由のままでしたが、2003年8月の音楽祭で、スクリャービンリパッティによる左手のためのピアノ作品の演奏を行い復帰したのです。その後は、数多くの日本人作曲家に左手のためのピアノ曲を作曲依頼し、これを初演するなどして、80歳を超えた現在でも積極的な活動を展開しています。この人の活動は、不自由な身体を抱えている音楽家に希望の光を与えていますし、このジャンルが注目されるのに大きな役割を果たしているということができます。詳しくは、以下の本を参照してください。

館野泉著「左手のコンチェルト―新たな音楽のはじまり」(佼成出版社、2008年)

また、YouTube等で実際の演奏を数多く視聴することもできます。

 

最後に、蛇足をひとつだけ。

「左手のための曲」を右手だけで弾くことはルール違反なのか?

結論だけ言ってしまうと、別にルール違反ではないようです。ただ、これにチャレンジする人はおそらくいません。理由は色々あるのですが、もっとも説得力のある説明として、左手だけの方がメロディを浮きだたせやすいというのがあります。左手だけの場合、メロディの部分は主に親指とひとさし指という比較的力を入れやすい指で弾くことになるためです。これが右手の場合、小指と薬指という力の入れ方にちょっとした工夫が必要な指でメロディを弾くことになるため、どうしてもそこに無理がいってしまい。全体のバランスをとるのが難しいようです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常211 近況、そして佐野史郎さんのこと

こんにちは。

 

彼岸が近づき、朝夕は少し涼しくなってきましたが、昼間はまだけっこう暑い日が続いていますね。この時期は、細菌性の食中毒にもっとも気を付けなくてはならないシーズンだそうです。実際、先日青森県の弁当製造会社で大規模な食中毒が発生してしまったようです。少し涼しくなってきたこの時期だからこそ、ちょっとした油断が生まれてしまうのもひとつの原因かもしれません。皆さん、ご自身の冷蔵庫の中も含めて、賞味期限や消費期限を再度チェックした方が良いかもしれません。(もっとも、こういった期限を鵜吞みにして、まったく疑わないのも良くないことだと思いますが。)

 

さて、多発性骨髄腫について、けっこう大変な治療を受けておられるkihachijyouさんから暖かいコメントをいただきました。まことにありがとうございます。

この方がおっしゃる通り、この病気の治療には気長に取り組んでいく姿勢が何よりも大事なようです。焦らず、不必要に不安にならず、日々穏やかに過ごしていきたいものです。私の場合は、来年6月で告知から10年になりますので、さしあたりの目標はそれまで現在の状況をキープすることになりそうです。

そこで今回は最近の治療の動き、その他についてです。

8月中旬にサークリサという抗がん剤を中心にした新しい治療が始まって、一ヶ月以上が経過し、現在は第2クールに入っています。(4週間で1クールという括りになっています。)

第1クールは毎週通院して、4時間程度の点滴を受けていたのですが、第2クールからは、これが2週間に一度になりました。このため、心身の負担感はかなり軽減されてきているように思います。それは「毎週、通院しなければならない」「仕事やその他のスケジュールとの調整が難しい」という気持ちに加えて、実際に、種々の薬を点滴したり服用したりすることによって生じる副作用が続く期間が短くなっているということです。

薬の副作用は、患者ごとにその出方が異なるため、一概には言えないのですが、ひどい場合は、39℃を越えるような発熱、耐え難い体の痛みやどうしようもないような倦怠感などを発症してしまうようです。もちろん、そのような場合は即刻薬の使用を中止することになるのですが、そうすると、では次にどんな治療法を選べばよいのか?ということになり、患者の不安感は増してしまうのです。

私の場合、これまでに経験した主な副作用は、下痢や便秘、皮膚に軽い赤みがさしたこと、そしてしゃっくりが止まらなくなったことなどが挙げられます。まあ、いずれも比較的軽い症状で、たいていは1~2日で治まっています。とは言え、それが毎週となると、いささかうんざりしてくるものです。これが2週間に1回となると、かなり気持ちが楽になるのです。

それにしても、4時間の点滴というのは、やはり気が重いものです。点滴中は別に何をしていてもかまわないですし、軽い食事や水分補給、トイレなども自由です。もちろん、そんなに、がっつりしたものを食べるわけにはいきませんが、「終わるまで飲まず食わず」ということはありません。(看護師さんに聞いたところでは、以前コンビニで売っているラーメンを持ち込もうとした人がいるそうです。いくら空腹になるとはいえ、化学療法室のベッドでラーメンを食べる気には、私はなれません。よほどラーメンを食べたかったんでしょうかねえ、と看護師さんも笑っていました。)ただ、トイレに行くときも含めて、ずっと点滴はつながれっぱなしですし、そのために、どうしても動きは制限されてしまいます。大体の時間はスマホで音楽を聴くか、読書で時間をつぶしていますが、仕事をしている方の場合は、そんなにぼんやりとはしていないのかもしれません。この時間を利用してメールのチェックやネットで出来る資料収集などをしておられるのでしょうか。

この治療が終わった翌日、翌々日あたりはかなりの確率で胃腸の調子がおかしくなります。というよりも、その働きが鈍くなってしまいます。そのため、普段通りの食事をしてしまうと、後で必ずと言ってよいほど下痢や便秘に苦しめられることになります。これを避けるために、この2日間はできるだけ粗食で乗り切っているのです。

まあ、そんなわけで、治療法を見直さなければならないようなことはこれまで起きていません。そして、肝心の薬の効果の方についてですが、これは腫瘍マーカーを見ると、改善の傾向が明らかになっています。

腫瘍マーカーとは、がんの種類によって特徴的に作られるたんぱく質などの物質のことで、たいていの場合、血液検査や尿検査によって、がんがどの程度進行しているのか、判断する重要な材料になります。そして、私の場合は免疫グロブリンと呼ばれるたんぱく質の一種であるigAがもっとも重要なマーカーになっていて、この数値が異常に高くなることは、体内で良からぬことが起きていることを示していることになるのです。もっとも免疫グロブリンそのものはその名のとおり、免疫をつかさどるものですから、全部で5種類あるそれが同じように上昇していれば、何の問題もありません。むしろ、体内の免疫力が上がったものとして評価されます。しかし、igAだけが上昇するのは異常なのです。

ということを踏まえて最近のデータを見てみると、5月25日には378mg/dl(1デシリットル中に378ミリグラムのigAが存在するということ。ちなみに正常値は93~399とされています)で正常値の範囲内だったものが、6月22日には439。そして7月20日には560というように、急激に上昇してしまっています。それが、現在の治療法に変更してから1か月経過して262にまで下がり、見事に薬の効果が出ているようなのです。もちろん、今後どのように推移していくのかは慎重に見極めていく必要がありますし、igGなどの他の免疫グロブリンの数値は低いままですので、免疫力は全くアップしていませんから、その点での注意も必要です。

今後薬を使い続けることによって、白血球の数の減少なども予想されるのですが、これは免疫力低下に拍車をかけるリスクもありますから、なおさら注意が必要なのです。また、血小板の減少によって、血が止まりにくくなるということにも留意する必要があります。

つまり、とりあえずスタートとしてはうまくいっているようだが、まだまだ先は長い、ということですね。今回最初にも書きましたが、気長に取り組んでいこうと思っています。

最後に、このブログで何度か取り上げてきた多発性骨髄罹患者の俳優、佐野史郎さんについての最新情報を記しておきます。佐野さんは、ゆるゆると仕事を再開していますが、7月に、佐野史郎 meets SKYEという名義で、新しいCDアルバムを発表しています。タイトルはズバリ”ALBUM”。SKYEは 鈴木茂さん、小原礼さん、林立夫さん、松任谷正隆さんという日本のロック史を語るうえで欠かせない大物ミュージシャンによって結成されたグループで、全曲、佐野さんが作詞・作曲を担当しています。そして注目したいのはその内容です。佐野さんが大好きと思われるアメリカン・ロックを基調としているのですが、詩も曲も、そして歌い方も、とても明るく、良い意味で「軽さ」が光っているのです。彼の病状が現在どんなであるのか、私はよく知りませんが、病気の治療をしながら制作したとは思えない、自然体の姿勢がとても心地よいのです。これは、同じ病気に罹患している人への、彼なりのメッセージのような気がしました。こんな病気を抱えていると、自分は一体何歳まで生きられるのだろうか、と不安になってしまうこともありますが、できるだけ長く、このアルバムで佐野さんが見せてくれた姿勢を自分なりに捉えて、無理しない、しかし、しっかりと前を見据えた生き方をしていきたいものです。

佐野さんの音源は、下のURLから視聴できるはずです。

https://okmusic.jp/news/526696

https://www.uta-net.com/otona/news/post/47263/

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常210 阪神タイガースの優勝に思うこと

こんにちは。

 

あっという間に9月も半ば。リビアでは洪水のために10000人以上の人が亡くなっているようですし、モロッコ地震での死者も約3000人に上っているようです。自然災害対策が比較的進んでいる国なら、もう少し犠牲は減らせたのかもしれない、と思うと残念でなりません。ただ、自然の脅威はいつも私達の想定を大きく上回る形で日常生活に襲い掛かってきます。「日本はわりと安全だから」などと呑気に構えているべきではないでしょうね。

 

さて、私の新しい治療、サークリサという抗がん剤を用いた治療は、第2クールに入りました。第1クールは約4時間の点滴が毎週あったのですが、第2クールからは隔週になるので、少しは負担感が減るのかな、と思っています。これについては、次回もう少し書く予定です。ちなみに、今のところ一定の効果は出ているようで、一安心しているところです。

 

ということで、今回の話題に。

昨日、9月14日、阪神タイガースが18年ぶりのセントラル・リーグ優勝を決めました。8月の成績が18勝7敗、9月に入ってからは11連勝で負けなし、というとんでもない勢いで一気に2位広島東洋カープを引き離し、あっという間に優勝に到達したのです。

何を隠そう、って別に隠してはいませんが、私は関西で育ったこともあり、小学生の頃から、野球は何処のファンか、と問われれば、迷わず「阪神!」と答えてきた身なので、今秋の優勝はひときわ嬉しいものです。

といっても最近はテレビで中継を見ることはほとんどなくなってしまい、後でニュースで結果を知るだけなので、今ではさほど熱心なファンだというわけではありませんし、感動したか?と問われれば、「さほどでもない」というのが正直な気持ちです。。

ただ、長く関西にお住まいの方ならご存じだと思いますが、神戸に本社を置くサンテレビという独立系テレビ局がかなり熱心に阪神戦を「全試合、試合開始から終了まで」をうたい文句にしてきましたので、とくに中学生・高校生ぐらいのときは、夕食時にとくに面白い番組がない時は、自然とチャンネルを合わせていたものです。その結果の「擦り込み」が阪神ファンを生んでいるのですね。

ちなみに、独立系テレビ局とは、東京にあるキー局(TBS、テレビ朝日、フジテレビ、日本テレビテレビ東京)のネットに入ることなく、なるべく自社制作の番組を放送しているテレビ局のことです。もちろん、キー局の番組をスポット買いしていたりもするのですが、全体の番組の中での自社制作比率は大変高いのが特徴です。とはいっても番組を制作するには多大な労力と費用が掛かります。そこで、人気のあるスポーツを生中継で流す、というのがこの局の基本戦略となっているのです。

最近は、野球中継の全体的な人気低迷の流れを受けて、サンテレビでも、地上波での生中継は以前より減っていますが、9月14日に関しては、優勝決定の可能性があるにもかかわらず、当初、どこの放送局にも中継予定がなかったため、サンテレビが急遽手を挙げたようです。ちなみに、この試合、ジャイアンツ戦で、他の対戦よりも放映料が高いせいか、サンテレビでT-G戦が放送されることは滅多にありません。それだけでも多くの阪神ファンは喜んだのですが、解説陣が掛布雅之さんと真弓昭信さんという1985年に優勝を決めた時のレジェンドで、このことにも感動した人は少なくないはずです。

優勝が決まって岡田彰布監督(この人も85年優勝メンバーです)の胴上げが始まった時、恥ずかしながら私は少し目を潤ませてしまいました。それは優勝が決まったからではありません。胴上げの輪の中に7月に脳腫瘍のため亡くなった横田慎太郎さんが現役時代に身に着けていたユニフォームがあったからです。同期入団だった数名のメンバーが、横田家から借り受けてきたそうで、ご遺族の方も喜んで協力してくれたそうです。

なお、横田慎太郎さんのことについては、このブログの第202回(2023年7月21日)に少し詳しく書いていますので、未読の方はアクセスして頂ければ幸いです。

野球選手には、必ずいつかは引退し、野球界から離れる時がやってきます。惜しまれつつ志半ばで辞める人もいれば、すべてをやり尽くしたという清々しい気持ちで辞める人もいるでしょうが、いずれにしろ、それまで自分の人生の大半を捧げてきたものからの離別であることには変わりありません。そんな時、横田さんのような人がいて、今はどこかで見守っているはずの彼と一緒に優勝の喜びを分かち合えたという記憶は、彼等にとってとても大きな財産になるような気がするのです。一緒に切磋琢磨し、戦った仲間のことを忘れない気持ちは、私達にとってもとても大事でしょうね。

さて、ここまでかなり個人的な思い入れに基づく感想でしたが、もう少し、阪神タイガースの関西における位置づけを客観的に考えておこうと思います。

かつて、関西には4つのプロ野球球団がありました。パシフィック・リーグの阪急ブレーブス南海ホークス近鉄バファローズ、そしてセントラル・リーグ阪神タイガースです。鉄道会社ばかり並んでいるのは、もちろん偶然ではありません。「私鉄王国」とも呼ばれる関西において、その存在はJR(旧国鉄)よりも大きく、人々の暮らしに密接に結びついたものでした。そして、鉄道各社は、より集客をアップさせる手段として、沿線にさまざまな施設や遊園地、デパート、そして宅地等を次々に開発していたのです。野球の場合は、ひとつの球団を作るのにさまざまな人件費やその他の費用が掛かる他に、そのホームグラウンドとなる球場建設が欠かせません。そこで、各社は沿線に球場をつくり、アクセスを良くすることによって、これらの費用を回収できると判断し、さらには全国的な知名度をアップさせることもできると期待し、採算度外視、とまでは言わないまでも、自社の経営規模からすればかなり高額とも言える金銭を野球に注ぎ込んだのです。そうして張り合った結果が、上に書いたことだったのです。

しかし、パ・リーグ6球団の内3球団が関西にあるというのはどう考えても過剰です。どの球団もそれなりの黄金時代を迎えた時期もあったのですが、そんな時でも球場には閑古鳥が鳴き、一升瓶を持ち込んでへべれけに酔っぱらったおじさん達のヤジが、空しく球場中に響き渡る、などということも珍しくなかったようです。

結局、1990年代のバブル経済崩壊後、各鉄道会社は次々と球団経営から手を引くこととなり、現在では、阪急ブレーブス近鉄バファローズの後を継いだ形で球団経営に乗り出したオリックスが「オリックス・バファローズ」として大阪市の京セラドームを本拠地として活動しているのみです。オリックス創始者であり、日本を代表する企業経営者の一人である宮内義彦氏は神戸の出身で、関西とは浅からぬ縁があるはずなのですが、関西人の間では、この人は何となく「東京の人」のように思われていて、関西への執着や愛はあまりないのではないか、と思われてしまっているようです。

この「東京」というのが阪神タイガースの人気を考えるうえでの重要なキーワードになります。セ・リーグに入ったタイガースは、毎年、多数のジャイアンツ戦を戦うことになります。ただでさえも、この二つの球団は、職業野球球団としてはもっとも古いものと2番目に古いものですから、当初から相当の対抗意識があったのは当然のことです。また、そもそも大阪という街の東京に対する対抗意識、というか反発心は計り知れないもので、タイガースの戦い方にその思いを乗せようとした人が多数にのぼったのは間違いないところです。しかし実際には両球団の力にはかなりの差あったようで、優勝回数その他の数字を見ても、それは歴然としています。加えて、ジャイアンツには王さんと長嶋さん(いわゆるON)という全国的なスターがいたため、人気の面でも大きな差をつけられていて、関西在住の野球ファンとしては、毎年のようにイライラが募っていたのです。

そんななかで迎えた1985年の優勝。その導火線となったのが、ジャイアンツ戦でのタイガース3人(バース、掛布、岡田)によるバックスクリーンに飛び込むホームラン3連発だったのですから、その爽快感は何にも代え難いものでした。迎えた優勝決定の日、人々は大阪屈指の繁華街である道頓堀に集まり、大騒ぎを始めてしまったのです。(今年も道頓堀に飛び込む馬鹿者が多数出たようですが、その始まりがこの時だったわけですね)

実はこの時川に飛び込んだのは人間だけではなかったのです。最寄りのケンタッキー・フライドチキンに押し寄せた人々は、あのカーンル・サンダースおじさんの像を「バースに似ている」と言い出し、そのまま胴上げしながら、川に投げ込んでしまった、というのです。

1990年代に入り、タイガースは毎年5位か最下位に低迷するという暗黒時代に突入するのですが、これを「カーネルおじさんの呪い」とする都市伝説まで生まれてしまいました。これを発見し、引き上げようとするプロジェクトは何回か実施され、テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」でも取り上げられることによって、長らく関西人の持ちネタになってしまったほどです。

サンダース像は、この番組では発見できなかったのですが、2009年に大阪市建設局による水辺整備事業の一環として行われた障害物調査の際に無事発見されたそうです。こうして「呪い」は解けたことになっています。でもまあ、それまでに2003.年、2005年にタイガースはリーグ優勝を果たしていますし、その後最下位に沈んだこともありますので、関係はなかったということになりますね。当たり前の話ですが。

 

今回は随分長い文章になってしまい申し訳ありません。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

なお、球団経営の歴史については、かなり省略してしまったため、不正確な部分もあります。なにとぞご容赦ください。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常209 映画「福田村事件」が私達に問いかけるもの

こんにちは。

 

まだまだ暑い日が続きますね。とはいえ、朝晩は少しマシになってきたので、最近はエアコンを一晩中つけっぱなし、ということはほとんどなくなりました。明け方の少し気温が下がる時間、窓を開けて換気するのは気持ちいいですね。

 

ところで、去る9月1日は、関東大震災発生からちょうど100年が経過した日でした。この首都直下型地震マグニチュードは7.9、最大震度は埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県の広い地域で震度6を記録し、死者・行方不明者は10万5000人とされています。また、東京都内では、その東部を中心に大規模な火災が発生し、焼け野が原になってしまったことも、多くの写真や新聞記事で確認できます。

ちなみに、日本における大規模地震の発生の歴史を調べてみると、明治以降の大地震としては、1872年(明治5年)山陰地方を襲った浜田地震(死者555人)、1891年(明治24年)の濃尾地震(死者7273人)、1894年(明治27年)の荘内地震(死者726人)、そして1896年(明治29年)の明治三陸地震(死者21959人)と陸羽地震(死者209人)が挙げられます。つまり、少なくとも関東地方ではさほど大きな地震は発生しておらず、ほとんどの人にとってははじめて経験する恐怖だったのです。また、当然ながら現代のように情報網が発達していたわけではありませんから、他地域で起きた地震について、その詳細を知る機会は決して多くなかったはずです。こうしたことを踏まえると、地震発生直後にさまざまなデマ(フェイク・ニュース)が流れ、パニックに陥ってしまった人々が多数にのぼったのも理解できないことではありません。しかし、広まってしまったデマの中には「日本に反感を持つ朝鮮人がこの機に乗じて、井戸に毒を投げ込んでいる」などというものがあり、その噂に怯え(必ずしも全面的に信じていたわけではないのかもしれませんが)、「それならば、やられる前にやっつけてしまえ」とばかりに、朝鮮人を虐殺するという痛ましい事件が多数起きたことは、看過できません。この犠牲者の数は数百名から数千名、とされており、数そのものが明らかになっていないのですから、ひどい話です。とくに、官憲や政府がそれを容認し、あるいは先導していたことは、近代日本国家の闇を表すものだと言えるでしょう。

ここまでは、今回の話題のイントロです。

先日、地震直後に千葉県で起きた「福田村事件」を題材にした映画を観に行ってきました。タイトルはずばり「福田村事件」。森達也監督の戦略だと思いますが、9月1日に一般上映が開始されたこともあり、大変大きな話題を呼んでいます。私が映画館を訪れたのは9月3日でしたが、見事に満席で、こうした社会派の映画としては異例なほどにぎわっていました。

今も上映中の映画ですので、ネタバレしないように紹介しないといけないのですが、史実としての福田村事件と、ストーリーそのものには直接関係のない感想を少し記しておこうと思います。

この事件は、地震当時たまたま当地(福田村、現在の千葉県野田市)を訪れていた讃岐の薬売り行商の一行が、「言葉がおかしい」などの理由で朝鮮人と疑われ、感情的な行き違いもあって、15人のうち子供を含む9人が、地元の自警団や軍隊あがりの「ごく普通の人々」によって惨殺されてしまったのです。彼らが持っていた鑑札から「ちゃんとした日本人だ」ということが証明され、残りの6人はかろうじて命を落とさずにすんだのですが、その心の傷は計り知れないものだったでしょう。また、この殺戮に加わった地元住民たちは、「自分たちは国の方針に従い、国を、そして故郷を守るために、やっただけなのだ。」と主張しています。ここまでは既に史実として認められている所です。(といっても、かなり長い間闇に葬られていた事件で、事実が明らかにされたのは1970年代に入ってからのことです。)


この映画、テーマは大地震でもなければ、デマの恐ろしさでもありません。

私達は、社会の中で生活していくうえで、さまざまな矛盾を抱えながら、日々の生活を送っています。個人としての思惑や感情と自分が所属する組織としての思惑や感情はいつもぶつかり合いますし、組織と別の組織の間でも同じことは起きています。そうした矛盾をきわどいところでバランスをとることによって、日常を送っているのです。しかし、何かのはずみでそのバランスは一気に崩壊してしまいます。地震やデマはそのトリガー(引き金)のひとつなのです。

映画では地震が起きるまでの数日間を、最初1時間ぐらいかけて、丁寧に描写しています。それは、こうした平和でありながら「危うい日常」を描写するためのものであり、出演者の誰もがいつもどおりの生活を送る中でも何となく感じている不安感や苛立ちの表情が印象的です。そして、さりげないセリフの中に、とても重い意味が込められていたりします。(そこには、戦争の暗い影も次第に色濃くなっていることが示されています。)

そして後半、いよいよ惨殺がはじまってしまう場面は、今、映画館の中でスクリーンを眺めている私達から見れば「どうしてその方向に行ってしまうのかなあ。もうちょっと冷静になれなかったのだろうか」と感じてしまいがちなシーンが連続するのですが、それは自分が安全な場所にいるからこその感想であって、むしろ信じていたバランスがいともたやすく崩れてしまうこと、そしてその結果、人は簡単に加害者にも被害者にもなってしまうことが克明に描かれます。そして私達は「お前はどうだ?」と厳しく問われるのです。

森監督は映画の公式サイトの中で、次のようなメッセージを記しています。

「ヒトは群れる生き物」

「だからこそこの地球でここまで繫栄した。でも群れには副作用がある。」

「群れは同質であることを求めながら、異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする。」

言うまでもないことですが、この事件の犠牲者が日本人だったにもかかわらず、朝鮮人と間違われてしまったことが問題なのではありません。どこの出身であろうと、殺人という行為が許されるはずもありません。ただ、「同胞」であるか否かにすがった人々の精神状態は、きっと、少しでもバランスを取り戻そうとする心情の表れだったのだろうと思うのです。ラスト・シーンで主人公2人(井浦新さんと田中麗奈さん)が利根川を行く船の上で交わす短い会話は、そのまま、私達への重い問いかけとして、映画館を出た後も頭の中をぐるぐると回り続けるのです。

関東大震災当時、人々が得ることのできるニュースや情報はごく限られたものでした。そのことが、このような事件の温床になってしまったという見方もできるかもしれません。しかし、毎日のように大量のニュースが流れ、その真偽も含めて、判断、情報処理が困難になっている現在でも、一歩間違えれば、いや、間違えなくても、このような事態が引き起こされてしまう危うさの中で、私達は生きているということを再認識する必要があるのです。

他にも色々と書きたいことはあるのですが、とりあえずもう一点だけ。

この映画、東出昌大さん、ピエール瀧さん、水道橋博士さんといった、最近(といってもここ数年ですが)テレビのワイドショーを賑わしてしまった人達が出演しています。いわば「テレビ番組にはちょっと使いにくい」人達です。私は、これらのキャスティングにも監督の強いメッセージが込められているような気がします。他人や世間の風評に惑わされることなく、自分のモノサシで判断することがいかに大事であるのか。彼らの演技は監督の期待に十分応えるものでした。また、元「水曜日のカンパネラ」のコムアイさんの体当たり演技も、彼女のこれまでのイメージを一新するもので、とても迫力のあるものでした。

 

 

今回も、最後までよんでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常208 ス―パームーン

こんにちは。

 

ある日の眼科健診での視力検査にて。

技師の方「これは?」

私「上」

技師の方「これは?」

私「下」

技師の方「はい。ではこれは?」

私「横・・・」

技師の方「(笑いながら)まあ、合ってはいますけどね」

・・・失礼しました。「右」です。自分でも自分の口から出た言葉にびっくりしてしまいました。よほど、ぼんやりしていたんでしょうね。

 

前回、病院食のことを話題にしましたが、それを読んでくださった方が、「自分の時はこんな食事だった」と写真を送ってくださいました。見ると、ボリュームたっぷりで、美味しそう。純粋にうらやましく思った次第です。

誤解のないように再度書いておきますが、私は味付けやメニューそのものに大きな不満があったわけではありません。ただ、彩や盛り付けに、もう少し工夫があっても良いのではないか、と思った次第です。

入院患者にとって、食事は治療の一環であると同時に、一日に三回訪れる、数少ないお楽しみイベントなのです。それが少しでも盛り上がれば、入院生活もちょっとは楽しくなるきっかけになるのではないか・・・と思うのですが、どうでしょうか。「食べる」ことは充実した生活をおくるうえで、もっとも大事な要素のひとつですよね。

 

さて、8月31日はスーパームーンの日でした。といっても、これは天文学用語ではありません。もともと占星術等で使われていた言葉なのですが、今ではアメリカのNASA(航空宇宙局)が「地球と月の距離が近い時に満月になると、平均的な満月よりも大きく、そして明るく見える月のこと」というように定義して、一定のお墨付きを与えています。そして地球と月の距離についてですが、明文化はされていませんが、およそ36万km以内という扱いになっているようです。ちなみに、この距離がもっとも近くなった場合は、もっとも遠くなった時と比べて30%も明るく見えるとのことですから、夜空を映すその存在感は相当のものですね。

 

こんな明るい月を眺めていると、何だか怪しい気分になってくるものです。古来、月というものがどのように考えられ、その存在が人間社会に影響を及ぼしてきたのかについては、このブログの第40回(2021年9月24日)にも書きましたが、要するに、昼間餐々と輝く太陽との対比で、夜空ではそれなりに明るいものの、全天を照らすほどではなく、しかも一定期間のうちに満ち欠けを繰り返す、という不思議さから、「人間の精神を錯乱させる怪しげなもの」として畏怖の念をもって見られてきたということのようです。古くは、新約聖書の中に、自身の精神状態を月の満ち欠けになぞらえてしまい、6年もの間苦悩に満ちた日々を送った人の話が出てきます。

月を巡っては、近現代の芸術作品やポップ・ミュージックの中でもさまざまに扱われてきました。例えば、フランスの近代作曲家フォーレの歌曲に「月の光」という作品がありますが、これはヴェルレーヌの以下のような詩に曲をつけたものです。

短調の調べにのせて歌う

 愛の勝利と心地よい人生を

 でも幸せを信じていないようで

 彼らの歌は月の光に溶け込む」(一部抜粋)

ここで「彼等」とは仮面をつけて幻想的な変装で歩く踊り子のことで、その姿にヴェルレーヌは物悲しさを感じたのです。

同じくフランスを代表する近代の作曲家ドビュッシーにも「月の光」という曲があります。こちらはピアノ独奏曲として大変有名なので、どなたでも聴いたことはあると思いますが、これもまた、ヴェルレーヌの詩に着想を得て、つくられたものだそうです。明るさと、それとは裏腹の物悲しさ。これこそ、古代より人々が月に抱いてきた感情ということができるのでしょう。

時は変わって1970年代、イギリスのプログレッシブ・ロックを牽引したピンク・フロイドというグループがいました。彼らが1973年に発表した「The Dark Side of the Moon」は、全世界で5000万枚を売り上げるという空前絶後の大ヒットとなるのですが、その邦題はズバリ「狂気」。月の裏側というものは、月の公転と自転のスピードの関係で、地球上からではほぼ観察できないのですが、それだけに、怪しさ全開の月の中でも、とくに「よくわからないもの」として見られてきたのです。このアルバムは全体がひとつの物語となっているのですが、そのストーリー全体の主人公の誕生から苦悩と葛藤に満ちた人生を送り、ついには狂気の人となってしまうことを描いています。月の裏側は、まさに「畏れ多い月」の究極の姿なのかもしれません。ただ、このアルバムでは、その最後に、次のようなナレーションが入ります。

「本当は、月の裏側(暗い側)なんてものは存在しない。実のところ、この世のすべてが闇そのものだからだ。」

結局、ここでも月というものの姿に人間の生活を重ね合わせているのですね。

もちろん、月を見て何を感じるかは人それぞれですし、「きれいだなあ。月見団子でも食べようか。」と楽観的にお月見をするのも、悪くありません。ただ、スーパームーンのように、その存在感のアピールが大きければ大きいほど、私達の想像力はさまざまに広がっていくような気がします。

下の写真は、8月31日の深夜、つまり9月1日の未明に撮ったものです。本当は、一日前が満月だったのですが、これでも十分に明るいですよね。

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常207 新しい治療の開始と短期入院

こんにちは。

 

前回も少し書きましたが、8月16日から20日まで、短期入院してきました。

具体的には以下のようなスケジュールでした。

8.16       入院 各種検査。担当医からのインフォームド・コンセント

8.17       治療開始(約4時間半にわたる点滴など)

8.18       採血による血液検査。治療の後の様子見

8.19       土曜日のため、とくに何もなし。引き続き様子見

8.20       大きな問題は見つからなかったため、午前10時頃退院

 

今回新しく始めた治療は、「サークリサ+ポマリドミド+テキサメタゾン併用療法」と呼ばれるものです。要するに、三種類の薬品を同時に使うのですが、ポマリドミドはサリドマイド系で、国から管理を厳しく義務付けられている内服薬、そしてそれ以外は点滴によるものです。テキサメタゾンはステロイド系の薬です。そしてサークリサは、これまで使ってきたダラキューロと同じような働きをする薬で、特定の分子(タンパク質)と結びついて異物を取り除く「抗体」の性質を利用した「抗体医薬品」と呼ばれるものです。これは、攻撃する細胞の目印が決まっているため、がん細胞を効率的に取り除くことができる、というものだそうです。


いずれの薬も、名前を聞いたことがある方はほとんどいらっしゃらないと思います。私自身、最初はまったく覚えられず、今も、もらった小冊子を確認しながら書いている次第です。

多発性骨髄腫の治療薬は、ここ10年ほどの間に飛躍的に種類が増えてきました。それだけ選択肢が増えたということで、患者にとってはありがたい話です。また、製薬会社にとっても、世界中で次第に患者数が増えつつあるこの病気への対応に力を入れているようです。新型コロナのワクチンで有名になったモデルナ社は、実は、このワクチンよりも、多発性骨髄腫の治療薬であるレブラミドの方が大きな売り上げを計上しているということですから、推して知るべしですよね。

ただ、いずれの薬も単体では効果が限定的で、いくつかを併用することによって効果をより高める工夫が製薬会社と医療現場の間でさまざまに行われているのです。私の新しい治療もその一環なのです。ただ、使う薬の種類が増えると、それだけ副作用が出てしまうリスクも高くなります。そのため、初回(第一クール)は、患者を入院させて、数日間様子を見ることが強く推奨されているのです。大したことがなければ、この数日間はとてつもなくヒマなものになりますが、やむを得ません。とくに、ステロイド系の薬は、一般に副作用が出やすいようで、使用中止する場合もあるようです。

私の場合、さほど重篤な副作用は出ませんでした。軽い発疹の前触れのように、体の一部が赤くなったことと、一日中しゃっくりがとまらない日があったことぐらいです。発熱や下痢、しびれ、強い吐き気などが多数報告されているようですから、それに比べれば些細なものだったと言えます。ただ、白血球や赤血球、そして血小板の減少はほぼ確実に起こるようで、そのために免疫力が低下し、結果として肺炎などの感染症に罹患してしまう恐れが十分にあるのです。私の場合は白血球の数はまだ標準値の範囲内ですが、今後治療を重ねていく中で、どこまで減少してしまうのか、不安感は残ります。

なお、24日に第2回の治療を通院にて行いましたが、これまでは無事に過ごしています。あと2回、つまり最初1ヶ月は毎週治療の必要があるのですが、その後は隔週になる予定なので、少し負担感は減るかもしれませんね。

と、新しい治療について書いてきましたが、正直なところ、ここまでの文章に深い興味を抱いていただける方はそんなにいらっしゃらないだろうと思います。がんに限らないのですが、病気の話というのは、同じ病気に罹患した人でないとピンとこないものですから、まあ、やむを得ません。

そこで、ここからは入院中に感じたこと、体験したことを少しだけ書いておきます。

今回は4人部屋に入ったため、同室の方たちの様子は何となく知ることができました。いずれも私より高齢の方だったのですが、とくに、もっとも高齢(おそらく85歳前後)の方は、既にあまり治療の手立てが見つからなくなっているらしくて、かなり弱気になっておられました。そして、病院内にある緩和ケア病棟に見学に行かれたのです。

緩和ケア病棟とは、病気を治すための積極的な治療はあきらめ、もっぱら痛みや苦しみを和らげる治療に専念し、できるだけ心穏やかに最後の日を迎える手伝いをするという病棟です。また、その際には家族も一緒になってそのことに立ち会っていくことが求められるため、一般の病棟よりも、面会や差し入れなどの規制は大幅に緩和されています。

普通、このような病棟に患者を入れるかどうかは、医師と家族の相談のうえ、本人の同意を得て決定する、ということになるのですが、上に書いた方の場合、それを自分自身で決めようとしているのです。これはけっこう辛い選択です。いわば、自分で最後の日までのカウントダウンを自分で開始するようなものですから、決定にはそれなりの勇気がいるはずです。実際、この方もまだ心は揺れ動いていて、調子の良さそうに日は元気に話をされていました。それでも「まだ戦う気持ちはあるんだけどね、これ以上はこの体が可哀相だ・・・」という言葉には胸を締め付けられたものです。

話が暗くなりましたので、少し明るめの話題、ということで病院食について。

下の3枚の写真は、ある日私に届いた朝食、昼食、夕食です。現在、患者の食費負担は一食460円と定められているので、その予算内で収めようとしているのですが、皆さん、この写真を見てどう思いますか?


今時、コンビニ弁当でももう少しマシなメニューを提供できるんじゃないか、と思うのは私だけではないはずです。もちろん、栄養バランスやカロリー計算を重視しなければならないため、安直なメニュー提供ができないことは承知の上ですが、それでも「もうちょっとなんとかできないのかなあ」と毎度毎度思いながら、それでも全部完食していました。私は味覚のストライク・ゾーンがわりと広いようで、よほどのことがない限り食べ物が口に合わない、ということはないのですが、きっと食欲がわかずに食べ残してしまう、という方も結構いらっしゃるだろうと思います。昔の病院食から見れば、これでも随分良くなった、という話はしばしば聞きますが、管理栄養士さんや病院スタッフの方々には、なおいっそう努力して頂きたいものです。なお、先進的な病院の中には、「食べることは治療の一環である」と明確に位置付け、栄養士をリハビリ部門に配置して、これに積極的に取り組んでいる所もあるそうですが、そんな病院に入院している方はうらやましいですね。

まあ、そんな感じでブツブツ文句を云いながら食事をとり、あとは本を読み、スマホで音楽を聴いている間に5日間は過ぎていきました。日曜日の退院はとてもホッとして嬉しいものだったのですが、病院を出た瞬間に「今は真夏だ」という現実世界に引き戻され、げんなりしてしまいました。暑さに負けて、何だか軽い熱中症にでもかかったような気分の悪さでした。

完ぺきな空調が行われている病院というのは、本当にありがたいということを痛感させられた次第です。かといって、ずっとあそこに入っているのも嫌なことは、言うまでもありませんが。

 

今回も、最後まで読んでくださりありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常206 花火と大文字

こんにちは。

 

8月16日から20日まで、予定通り、新しい治療への移行のための短期入院していたため、投稿が遅くなってしまいました。短い期間とはいえ、入院という非日常の中で色々と感じたこともあったのですが、それは、次回に譲るとして、今回は、夏の風物詩のひとつである花火についてです。

私が居住する関西にも、全国的に知られるような花火大会はいくつかあります。ひとつは、今年から専ら有料観覧者だけを不当とも言えるほど優遇し、「地元市民をないがしろにした愚行」と報道されてしまった琵琶湖花火大会。そしてもうひとつは、一時は全国でもっとも大規模だと言われていた大阪府富田林市のPL花火大会です。これは、名前からもわかる通りPL(パーフェクト・リバティ)教団が主催するもので、正式名称は「教祖祭PL花火芸術」。つまり、同教団のれっきとした宗教行事です。ただ、2020年以降、この花火はずっと中止されたままです。教団関係者だけでなく、一般市民にも非常に人気のある行事なのですが、コロナ禍における「三密状態」回避のための措置とされているようです。

ところが、関西でももっとも観光集客を見込むことのできる京都には、いわゆる花火大会はありません。何故なのか、幼いころの私は「京都でも派手な花火をやればいいのに」と思いながら、他の地域の花火大会をうらやましく思っていたものです。

後から知ったことなのですが、実はこのことは京都の夏の行事と言えば祇園祭とともに思い起こす人が多い大文字(五山)の送り火と少し関連しているのです。

大文字送り火。地元の人間は単に「大文字」とか「送り火」と呼ぶことが多いようです。間違っても「大文字焼き」とは言いません。地元民の前でそんな言い間違いをしたら、冷たい目を向けられてしまいますので、ご用心ください。ちなみに、先日祇園祭のテレビ中継をしていたとき、ゲストが山鉾巡行(やまほこじゅんこう)のことを「やまぼこじゅんぎょう」と読み違えていました。これも祭に関わる人から見れば、とんでもない冒涜になるのです。

さて、このように京都市民にとって誇りのひとつとなっている大文字の送り火ですが、実はその起源は必ずしもはっきりしていません。一説には平安時代から既に行われていたそうですが、現在のような形に落ち着いたのはおそらく江戸時代のことです。そして一時は、「十山」の送り火になるほど盛り上がったようです。つまり、それぞれの山里や関連する寺院が競い合うように、送り火を行っていたのですが、こうした伝統行事を維持していくのはやはり大変なことで、結局今の五山、つまり「大文字」「妙・法」「舟形」「左大文字」「鳥居形」に落ち着いているのです。

送り火」という名前から容易に想像できると思いますが、これは本来お盆に帰ってきていた霊が再び旅立つのを送る、という意味が込められています。つまり、お盆の終わりを静かに感じる神聖なものであり、観光的なものではありません。しかし、夜空に浮かぶ「大」の字の美しさは多くの人を魅了してきましたし、そこに非宗教的な側面が付け加えられていったのも当然だったかもしれません。

 

大文字が派手な観光行事になったのは最近になってからのことではありません。第二次大戦後の京都では、戻ってきた平和を噛みしめ、あるいは祝うような風潮の中で、大文字という行事も少し様相が変わったようです。

しかし、ここに大きな事件が起きてしまいます。1949(昭和24)年、8月16日、例年通りに送り火が行われ、それが終了した夜半、京都御所の一角で火災が発生したのです。原因は、当日鴨川河川敷で行われた花火大会で打ち上げられた落下傘型花火で、結局小御所という建物が全焼してしまったのです。この花火大会を主催していた新聞社は当日の風向きなどから「花火原因説」を強く否定したのですが、京都市消防局は結局出火の原因をこの花火にあると結論付けています。

この小御所という建物、作られたのは1855年ですから、古い建造物の多い京都では、さほど古いものとは言えなかったかもしれません。しかし幕末の1868年に行われたいわゆる「小御所会議」が行われた場所として知られています。これは、既に大政奉還していた徳川家の処分を決定した会議でいわば将軍家としての徳川家の命脈を完全に絶った、歴史上のターニング・ポイントとも言えるものだったのです。(なお、この会議には徳川家最後の将軍であった慶喜は列席を許されず、いわば欠席裁判のようなものになってしまったことは、付記しておかなければならないでしょう。)

この「貴重な歴史的価値のある建物の焼失」に加え、そもそも「大文字というきわめて宗教的な意味の高い行事の当日に花火大会を開催するなどとは何事だ」という批判も噴出しこれを契機に、京都市内で延焼が広がる可能性のある花火大会は行われなくなったのです。ちなみにそれまで鴨川周辺では他にも花火大会が行われており、それが原因で繁華街である木屋町付近が火災に遭うという被害も出ていたそうです。しかし御所での火災というのはやはり決定的だったわけですね。

現在は、条例によって京都市内の加茂川、高野川、鴨川の流域や公園、広場等での打ち上げ花火は禁止されています。もちろん京都市全域が禁止の対象であるわけではありませんが、リスクの大きい行事を行おうとする企業等はいない、ということですね。

これが、私が幼かったころに抱いた疑問の答えだったのです。

 

今回も最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常205 映画「ショー・シャンクの空に」

 

こんにちは。

 

いよいよお盆ですね。帰省や旅行でお出かけの方も多いでしょうね。でも、来週前半には台風がまたまた来てしまう予報が出ています。毎年のことですが、高速道の渋滞もひどいことになるでしょう。皆さん、くれぐれもお気を付け下さい。ちなみに、私は以前からお伝えしていた短期入院の日程が今月16日からとなってしまったため、お盆らしき予定はまったくありません。京都では大文字の送り火がありますが、これも、今年は見送りです。昨年は、猛烈な夕立の後の澄んだ空に見事な「大」の字が浮かび上がるのを鴨川の岸辺で見たのですが・・・

 

気を取り直して、今回の話題に行きましょう。

以前、私の好きな映画についてご紹介しました。(今年5月7日の第191回で「アマデウス」、6月23日の第198回で「ローズ」を取り上げています。未読の方は、ぜひ読んでいただければ幸いです。)

今回はその3回目、「ショー・シャンクの空に」です。前のふたつの映画は音楽を題材にしていたのですが、こちらはいわゆる「脱獄モノ」です。そして、ショー・シャンクとは刑務所の名前です。

脱獄を主題にした映画というと「大脱走」、「パピヨン」、「アルカトラスからの脱出」など、どちらかというと勇ましい、というか激しく戦って自由を勝ち取る男達、というゴツゴツしたイメージが強いのですが、この映画は一味違います。もちろん戦う男を描いているですが、肉体よりも頭脳をフルに活用して道を切り開いていく主人公なのです。また、刑務所内での壮絶なイジメ、深い悩み、そこから少しずつ生まれていく友情などがたっぷり描かれています。そして何より、塀の外に出た後、出所者や脱獄者がどのように現実世界に向き合うのかが丁寧に示されているのです。

さて、主人公アンディは妻とその愛人を射殺したという罪を着せられ、ショー・シャンク刑務所送りになってしまいます。もともとエリート銀行マンだった彼は、最初のうちこそ、劣悪な環境と所長や刑務官の理不尽な脅しに苦しめられ、悩み、孤立してしまいますが、長年ここに収監されているレッドとの交流をきっかけに、次第に自分の居場所を作っていきます。そして、銀行家としての知識と経験を活かして、次第に刑務官達に取り入ることに成功します。そしてついには、所長達の不正蓄財の管理までも任されるようになるのです。他方で、自分が犯したとされた殺人の真犯人についても、証拠をつかんでいきます。ところが、彼にそのことを教えてくれた囚人トミーは「脱走を企てた」として殺されてしまいます。そう、このあたりから彼は復讐のための準備を用意周到に進めていくのです。そして収監から20年経ったある朝、彼の姿は忽然と消えてしまいます。彼の独房には、ポスターが貼られているだけだったのです。驚いている刑務官、所長達が、不正経理の疑いで警察に逮捕されるのはその直後のことでした。

話はここで終わるわけではありません。40年の刑期を終えて釈放されたレッドは、外の生活に順応できず、自殺を試みようとするのですが、アンディの残した書き置き、そして手紙を頼りに、彼の行方を捜し、そこで人生を再スタートさせるきっかけを掴むことになるのです。

アンディを演じたティム・ロビンス、レッドを演じたモーガン・フリーマンは、いずれもハリウッドになくてはならない名優です。そして、柔らかで繊細だけど、どこかにしたたかな側面をもつこの二人の信頼感、友情は厳しく理不尽な刑務所の世界の中でも失われることなく、見ている私達をとてもやさしい気持ちにしてくれます。そして、ラスト・シーンの爽快感は、他のどんな映画にもないものだろうと思います。

この映画、演出やセリフを細かく分析していけば、キリスト教神秘主義の影響を強くうけたものであることがわかるとも言われています。しかし、あまり分析的にならずに物語の流れに身を任せるだけでも、十分に楽しめるものだと思います。そして、映像の美しさも特筆すべきものです。

原作はスティーヴン・キングの短編小説「刑務所のリタ・ヘイワーズ」です。リタ・ヘイワーズとは、実在するアメリカの俳優で、アンディの独房に貼られていたポスターはこの人のものだったのです。キングというと「キャリー」や「シャイニング」など心理ホラー的な要素の強い作品の作り手というイメージが強いのですが、この映画にホラー要素はまったくありません。ただ、心理描写の巧みさはやはりキングならでは、ということなのかもしれません。

ちなみに、ショー・シャンク(shawshank)という言葉には、俗語として「こっそりと何か大きなことを成し遂げる」という意味があるそうですが、その語源がこの映画であることは言うまでもありません。。

 

外出するのを躊躇ってしまうような最近の気候ですが、お気に入りの映画を自室でゆっくりと鑑賞するのもいいですね。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常204 猛暑の夜に思うこと

こんにちは。

連日「真夏日」が続いていますが、熱中症対策等は万全でしょうか。この1週間で。緊急搬送された患者は全国で1万人にものぼっているそうです。熱中症の恐いところは、数日間かけてじわじわと体調が悪化し、気がついた時にはかなり重症化してしまっているというケースがかなりあることです。だからこそ、室内でも起きるんですよね。倦怠感や発熱を感じたら、単なる夏バテや風邪と思い込まず、自分の体調に十分に気を配る必要があるようです。

国語辞典等によれば、「好天」とは本来「よく晴れた天気で、何かをするのに都合の良い天気」という意味だそうです。しかし「何かをする」と言っても曖昧で、むしろ雨天や曇り空の方が好ましいこともあるでしょう。そして何より、毎日のように熱中症警戒アラートが出て、「できるだけ外出は避けるように」などという注意喚起がなされている状況は、単純に「好天」とは言えないような気がします。「今日も良い天気ですね」などというのは、それこそ能天気な挨拶ですよね。

 

気象庁のデータによると日本の平均気温は、過去30年間にわたってほぼ一貫して上昇し続けているようです。そして、長期的には100年あたり1.30℃の割合で上昇しています。こうした傾向は日本に限られたことではなく、世界全体で見ても、過去100年で0.74℃の割合で上昇しています。特に1990年代以降、高温となる年が頻出しているのです。

日本の平均気温  細線(黒):各年の平均気温の基準値からの偏差、太線(青):偏差の5年移動平均値、直線(赤):長期変化傾向。 基準値は1991〜2020年の30年平均値。


もうひとつデータを紹介しましょう。東京における猛暑日(最高気温35℃以上)と熱帯夜(最低気温25℃以上)の各年の日数を見ると、とくに最近10年ほどの間に熱帯夜の日数が多くなってきていることがわかります。

年次ごとの推移(東京)


「最近暑い日が多くなったなあ」「寝苦しい夜が増えたなあ」と感じる人は多いと思いますが、ちゃんと統計的にもこのことは証明されているのですね。

地球温暖化の脅威が叫ばれ始めてから随分年月が経っていますが、これらの数字を見る限り、状況はまったく好転していないようです。ちなみに、IPCC(Intergovernmental Panel of Climate Change:国連・気候変動に関する政府間パネル)が2013年に公表した第5次評価報告書は、「20世紀半ば以降、観測されている温暖化の主な原因は人間の影響である可能性が極めて高い」と結論づけています。また同機関の第6次評価報告書(2022年)によると、人為的なGHG(温室効果ガス)排出量は、2010年以降世界的に増加しているそうです。排出量のうち、都市域での人間活動に原因を特定できる割合が増加しているのです。もちろんCO2排出量削減の取組は色々と行われていますが、現状では、増加量が削減量を上回っているのです。ものすごく荒っぽい言い方をしてしまえば私達は目の前の日常的な快適さ、便利さを求めてきた結果、長期的には地球という星を次第に住みにくいものへと変えつつあるということになるのです。現代人は、自分で自分の首を少しずつ締めているのかもしれません。

この状況を一気に解決することは、正直言ってかなり困難なことでしょう。もちろんCO2削減に向けてのさまざまな取組はもっと促進するべきですが、ひょっとすると最終的には、人間の生活空間を自然環境の激変から完全に遮断してしまう必要が出てくるのかもしれません。つまりいわゆる「ドーム型都市」のようなものの建設が必須になるということです。

これは、人間が居住、活動する都市空間を完全に巨大な半球型のドームで覆ってしまい、すべてをその中だけで行うようにする、というものです。昔のSF小説にはしばしば登場していますし、月や火星等に人類が居住しようとすればおそらくこのようなタイプの空間が建設されることになるのでしょう。そして、これが地球上で人類が生存していくために必要なものとして、現実味を帯びてくる可能性があるのです。ちなみに、1980年代後半には人工的な閉鎖生態系が実現可能かどうかテストするために「バイオスフィア2」(収容人数は8人)という施設が建設されたことがあるそうです。

もちろんドーム型都市には大きな課題があります。ひとつは、建設および維持管理に莫大な費用が掛かることです。費用面でひとつだけメリットがあるとすれば、現在のように個々の建物で空調を行うよりも、全体で行う方が効率的になる可能性はあります。ただ、それにしても、全体でどのぐらいの費用が掛かるのか想像もできません。

もうひとつは、ドーム外の環境をどのようにしていくのか、という点です。SFでは完全に砂漠化してしまい、動植物が住める環境とは程遠いものになった世界が描かれています。果たして、地球という星をそんな風に作り変えてしまってよいのか、それともドーム外の自然環境にもある程度の配慮を行うのか、意見が分かれるところかもしれません。個人的には、「人類さえ良ければそれでよい」という発想には大変違和感を覚えざるを得ません。

ドーム型都市の完成予想図(東京都ホームページより)


まあ、私達が生きている間にそんな世界になるとは想像できませんが、近年の環境の激変をみると、そろそろ本気で問題の解決に向けての本格的な議論し始めるべきなのかもしれない、と思ってしまうのは私だけでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常203 早朝の京都散歩

こんにちは。

 

京都は周囲を山に囲まれた盆地ですので、比較的空気が停滞しやすく、夏の暑さは格別のものとなります。とくに、夜になってもなかなか気温が下がらず、熱帯夜が続くのが気候上の特徴でしょう。また、湿気もたまりやすいので、蒸し暑さは時として異常なほどのものになります。

とはいえ、まだ本格的に陽が高くなる前の早朝は、まだマシです。京都の町を歩いて回るのならば、朝5時から2時間程度がベストということになります。というわけで、先日、早朝から開門しているふたつの寺院を散策してきました。

ひとつは真言宗総本山の教王護国寺、いわゆる東寺です。京都駅からも近く、五重塔で有名なこの寺、拝観料金が必要なエリアは午前8時からですが、境内の開門そのものは5時となっており、瓢箪池(ひょうたんいけ)周辺などは自由に見て回ることができます。私が訪れた時は、ちょうどハスが盛りの時期で、見事でした。

794年の平安京遷都当初、この新しい都には原則的に新たな寺院の創建は認められておらず、例外は都の入り口にあたる羅城門をはさんで建立された東寺と西寺のふたつだけだったのです。つまり、このふたつの寺院はもともと官営寺院だったのです。今では消滅してしまった西寺は、東寺とほぼ同じ規模、伽藍を有しており、五重塔もあったようです。つまり、このふたつの寺院の塔(高さ約55m)は、平安京の道標であり、かなり遠くからでも確認できるランドマークだったのです。

今でも、五重塔の存在感は素晴らしいものですが、羅城門とそれをはさんでふたつの高い塔がそびえる威風堂々とした姿を想い描くと、なんだかワクワクしてしまいます。

ちなみに、創建当時は同格であった西寺がその後勢いを失い、遂には廃寺となったのは、この二つの寺院の「顔」であった僧、空海と守敏の政治力やコミュニケーション力、そして持って生まれた「運」の強さの差のためだと言われています。実際、ライバル関係にあった二人ですが、空海弘法大師)が誰もが知る有名な存在であるのに対して、守敏については語り継がれることもなく、今やほとんど忘れられた存在になってしまっていますね。

そんなわけで、非常に格の高い、そして京都でももっとも古い寺院のひとつである東寺ですが、他方で、常に地元の人々に愛されてきた「地域のお寺」としての側面も持っています。毎月21日には「弘法さん」と呼ばれる市が境内で開かれ、古書や古道具、食品など多彩な品を扱う露店が立ち並びます。ここを訪れる人は、毎月数万人にものぼるそうです。

そんなことがあるからでしょうか。早朝の境内でも、近所に住んでいると思われる方々が自由に思い思いの時間を過ごしておられました。6時からは法要があって、それに参加する人もかなりいらっしゃるようです。そして、観光客はほとんど目にしませんでした。(カメラを片手にブツブツと喋っているユーチューバーらしき人は2人ほど見かけました。)その代わりに、水辺をのんびりと鳥(サギやカモ)が朝の空気の中で佇んでいました。

ちなみに、五重塔の最上部の標高は、ここからほぼまっすぐ北に6kmほど行ったところにある北野天満宮の境内の標高とほぼ同じだそうです。勾配の角度を計算すると、かなりの角度であることがわかります。京都という街は、けっこうな坂の上に建設されているわけです。京都を自転車で回ろうと思っている方、北に向かう時にはお気を付け下さい。

瓢箪池と五重塔

瓢箪池と宝蔵



代わって、京都を代表する観光地のひとつ、清水寺です。(訪れたのは別の日ですが) ここは、朝6時から開門していて、所定の拝観料(400円)を納めることによって、清水の舞台を含めた境内のすべてのエリアを拝観することができます。また、清水寺と言えば、そこに至るまでの清水坂、茶わん坂、産寧坂(通称三年坂)そして二寧坂(二年坂)に立ち並ぶ土産店や料理屋さんなども、訪れる人の楽しみのひとつとなっていて、連日満員電車の中のような賑わいを見せています。しかし、朝6時に開いている店は一軒もなく、歩いている人もまばらです。

それでも、開門直前の仁王門前には20人ほどの人が待っていました。そしてその多くは、やはり近所に住んでいると思われる方々と早朝ランニングに訪れた方です。ここは、境内も結構高低差があるので、ランニング、ジョギングにはかなり負荷がかかるようです。そのため、かなり本気で身体を鍛えている感じの人々も散見されました。

それにしても、ほとんど人のいない清水の舞台、そしてそこから見える朝の日差しに輝く京都の町は本当に美しいものでした。そして、人波を気にすることなく、ゆっくりとくつろぐことができたのは言うまでもありません。ここもまた、朝の顔は、地域の方に愛され続けている素朴な寺院の姿でした。

この清水の舞台(本堂)、実は京都盆地の東部を走る大規模な断層のほぼ真上に建てられています。大地震が来たらどうなるんだろう、と不安がよぎるような危なっかしい感じもするのですが、その土台は非常に堅固で、耐震構造の専門家などによる調査では、マグニチュード7.3程度の地震が来てもおそらく崩壊しないだろう、と結論付けられています。ただ、周囲も坂道が多いので、多くの観光客が訪れているタイミングで地震が発生してしまうと、少し恐いというのが本音です。こうした懸念があるためか、この近隣では防災意識が非常に高くなっているそうです。

開門前の清水寺仁王門

三重塔と京都の街並み

 

人影まばらな産寧坂



今回訪れたふたつの寺院、いずれも人がまばらで、早朝の気持ちよさを満喫することができました。お守りや御朱印を入手したい人、お土産を買いたい人には向いていませんが、ゆっくりとビュー・スポットをまわり、写真を撮りたい人には、お勧めです。夏の京都に観光で訪れる方は、ぜひ早起きしてみてください。チェックアウト時刻前に宿に帰ってこられるので、手ぶらで気楽に観光できるのも大きなメリットですね。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常202 プロ野球選手とがん罹患

こんにちは。

 

多くの地域で梅雨が明けいよいよ夏本番です。とはいえ、今年はしばらく前から高い気温が続いており、既にうんざりしているというのも否定できません。まだまだこれから2か月近く、こういう暑さが続くのでしょうか。せめて、今も東北地方で続いている大雨が早く収まってくれればいいのですが。

 

ところで、横田慎太郎というプロ野球選手をご存じでしょうか。1995年生まれのこの人は、2014年に阪神タイガースに入団、強肩俊足の外野手として将来を嘱望されたのですが、2017年に脳腫瘍と診断れ、その後懸命に治療とリハビリを続け、一時は実践復帰も果たしましたが、「ボールが二重に見える」ということで2019年シーズンを最後に、現役を引退しています。その後も野球にかかわる活動を行っていましたが、2020年には脊髄に腫瘍が見つかり、それが完全に消滅し、以降は執筆や講演活動も行っていたのですが、2022年には脳腫瘍の再々発が見つかり、結局、つい先日、2023年7月18日に帰らぬ人となってしまいました。享年28歳。本当に若すぎる最期でした。

この人の著書に「奇跡のバックホーム」(幻冬舎刊)があります。このタイトルは、彼の引退試合となった2019年9月の対ソフトバンク・ホークスの試合(ウエスタンリーグの2軍戦)で、途中出場の彼が起こした、まさに「奇跡」とも言えるような好返球で、ヒットでホームへの生還を狙っていた2塁ランナーをアウトにしたことに由来しています。なかなか実績を残せないことへの焦りもあったでしょうし、「なぜ自分がこんな病気に」という悔しい思いもあったでしょうが、現役最後の試合でこんなスーパープレイを披露した彼は、ひょっとすると幸せだったのかもしれません。

なお、このプレーの様子は、現在でもYouTubeで見ることができます。興味のある方は、一度ご覧ください。

 

https://youtu.be/Pyc84naQaj8

 

こんな、ドラマみたいなことが実際にあるんですね。

 

もうひとつ、野球選手の病気にかかわる、ドラマティックなエピソードを紹介します。

横田さんと同じ阪神タイガース原口文仁という選手がいます。1992年生まれのこの人は今も現役で頑張っていますが、これまでにかなりの紆余曲折を経てきた人です。その最大のものが、2019年はじめ、大腸がんのステージ3Bに罹患していることを公表、それから約半年は治療とリハビリに専念する日々を送ったことです。しかし、なんと6月には一軍に復帰する、という驚異的な回復を見せたのです。そして、周囲の熱い応援もあり、この年のオールスターゲームへの出場を果たし、驚くことに、ここで2試合連続ホームランを打つ、という離れ業をやってのけたのです。

その後、若手選手の台頭などもあり、残念ながらレギュラー・ポジションを獲得するには至っていませんが、勝負強い打撃は、この球団にとって今も貴重な戦力となっていることはたしかです。

 

言うまでもないことですが、スポーツ選手は普通の人間よりもはるかに厳しく体を鍛えているはずです。健康にも人一倍気をつけているでしょう。それでも、がんという病気は容赦してくれません。もちろん、罹患した部位やそれがわかった時のステージ、転移の状況によって、その後の経過は大きく変わってきますので、一概に言うことができないのは、横田さん、原口さんの例を見ても明らかです。また、野球選手以外でも、競泳の池江璃花子さん(白血病)のように見事な復活を果たしている人もいれば、バレーボールの藤井直伸さん(胃がん)のように、わずか31歳で亡くなってしまう例もあります。しかし、これらすべての人達に共通するのは、「残された命は保証されたものではない。だからこそ、前を向き、日々、充実した生き方をしていかなければならない。」という思いだったのではないでしょうか。現役スポーツ選手の場合は、皆さん年齢も若いですから、余計に「なんとか現役復帰を」という強い意志があったのでしょう。しかし、こういう気持ちは、年齢に関係なく、持つべきなのでしょう。我が身を振り返って、そんなことを想った次第です。

 

かく言う私ですが、既にこのブログでもお伝えしましたが、そろそろ現在使用している薬であるダラキューロを中心とした治療の効果が弱くなってきたので、次の薬への切り替えをすることになりました。次は、サークリサという2021年に承認されたばかりの新薬を中心に、いくつかの薬を併用することになりそうです。今回は、点滴による治療、ということで、毎回、ちょっと時間がかかりそうですが、まあ、しょうがないですね。

その第1回は8月中旬に予定されているのですが、初回は、副作用などがないか様子を見るために、数日の入院が必要となります。これらについては、もっとはっきりしたことがわかったら、また、このブログでお伝えしようと思っています。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常201 トランスジェンダーとトイレ問題

 

こんにちは。

 

毎年、梅雨末期になると九州地方を中心に大雨による土砂災害等がニュースになりますが、今年は九州だけでなく、全国各地で同様のことが起きていますね。テレビに登場する気象予報士の方たちも「どこで豪雨による災害があってもおかしくない」と言っている状況ですから、もうしばらくは、他人事と思わず、天気予報等に注意しておく必要がありそうです。

そんなわけで、真夏本番までにはあと少しだけ時間がかかりそうですが、京都では、夏の象徴的行事である祇園祭が始まり、先日から山鉾建てが始まりました。16日には前祭の宵山、そして17日は山鉾巡行があり、一気に夏のムードが盛り上がるはずです。今年は、この両日が3連休に重なりますので、相当の人出が予想されます。でも、昨年ここでコロナ・ウイルスに感染してしまった知人もいますので、お出かけになる場合は、色々と対策を講じてください。ただでさえも、京都の夏の暑さは時として尋常ではないものいなりますので。

 

ところで、先日少し気になる裁判所の判決がありました。それは、経済産業省に勤めるトランスジェンダーの職員が、職場の女性用トイレの使用を制限されているのは不当だとして国を訴えた裁判で、最高裁判所は、トイレの使用制限を認めた国の対応が違法だとする判決を言い渡したのです。もともと使用制限を「問題ない」としていた人事院の対応が厳しく問われたわけです。

いわゆるLGBTQをめぐる問題はしばしば話題になりますし、現在の風潮としては、「マイノリティ」であることを理由にこれら性的少数者の権利、利益が損なわれることはあってはならない、という考え方が一般的になってきていると思います。もちろん、こうした考えに同調しない方が少なからずいらっしゃるのは事実ですが・・・ それにしても最高裁でこのような判決が出たことの意味は大変大きいです。他の公共的な施設や企業の対応にも影響を与えるでしょうし、他の人権問題にも判例として少なからぬ重みをもつものになるはずです。

今回の判決が大きな注目を集めるであろうことは、裁判所側も十分意識していたようで、5人の裁判官全員がそれぞれ補足意見を表明するという若干異例な判決になりました。そこで指摘されていたのは、①経済産業省人事院の対応は、配慮を欠いたものである、②他の職員に不安感や不快感が生じる可能性があったというのならば、その意識を改革するための研修等が必要、➂社会の多様化に対応していくには、法的な保護も含めて、より強力な対策が必要、という点に集約されます。一部、当初は混乱を避けるためにやむを得なかったとして経済産業省側の初期対応を擁護する意見もみられますが、その場合も「その後の状況の変化に応じて、検討・見直しの必要があった」とされています。

私は、この判決自体には全面的に賛成ですし、LGBTQだけでなく、あらゆる少数者の権利が守られ、社会もそのことをきちんと受け止め、真の共生社会を作っていくためのプロセスとして積極的に理解し、あるいはその推進にかかわっていくべきだと思っています。

ただ、トイレというきわめて個別性の高い繊細な空間のあり方について考えると、現実的にはなかなか難しい問題があることも事実です。

女性の中には、「男女どちらなのかわからない」人が女性用トイレに入ってくることに大きな不安感を抱く人がかなり多いことは容易に想像できます。これは「考え方が古い」などという言葉で片づけられる問題ではありません。また、これを逆手にとって、心身ともに男性であるにもかかわらず女性用トイレに侵入し、性犯罪を行おうとする人間が出てくる危険性もあります。

これらの問題を解決するにはどうすれば良いのでしょうか。

究極的には、すべてのトイレをいわゆる多目的トイレのようにして、どの個室も男女の区別なく使えるようにする、というのが理想なのかもしれません。私が以前入院していた病院のひとつは、4年ほど前に竣工したばかりの比較的新しい建物で、入院病棟のトイレのほとんどはこのような形式をとっていました。ただ、このようにすると、必然的にトイレの数そのものが減ってしまいますので、利用者の多い建物には不向きということになってしまいます。

今回の判決での裁判の個別意見の中にも、個別の事情に応じて適切な対応をとるべき、というものがありましたが、何が「適切」なのか、当事者が自由に意見を出し合って合意できる方法を探る、というのがとりあえずの解決に向けての方向なのかもしれません。また、そうした話し合いの過程こそが、問題への理解を深めるのに役立つならば、大きな副産物になりますね。

ちなみに、イギリスのイングランド地方では、2022年7月に政府が「新しく建設する公的建造物は男女別のトイレを設けることを義務付ける」ことを発表しています。その際、トランスジェンダー問題に関しては、ジェンダーニュートラル(性的に中立)なトイレが増えることは、女性が不利益を被る等と説明し、「女性が安心できることが重要」「女性のニーズは尊重されるべき」と強調して、女性専用トイレの確保を優先したのです。生理や妊娠中など、女性特有のニーズが大きいことも、この背景にはあったようです。

この問題、思った以上にさまざまな事情が絡んでおり、一筋縄では捉えきれない要素がたくさんあるようです。ただ、それらをひとつずつ考えていくことが、性的少数者のことを理解し、あるいはそもそも人権とは何かということについての共通理解を深めていく契機になるのかもしれませんね。

 

今回も、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常200 図書館の復権

こんにちは。

 

まだほとんどの地域では梅雨は明けていないようですが、この数日、気温は連日30度どころか35度に達している所も数多く見られます。かと思うと大雨が来たりして、本当に天候が不順ですね。

ずいぶん昔の話になりますが、学生時代はこの時期になると、涼を求めて、大学の図書館に入り浸っていたことを覚えています。あの頃、まだ教室にはほとんどエアコンは入っていませんでしたし、喫茶店に行くとコーヒー代がかかってしまいます。結局、カネをかけずに涼める場所というと、図書館ぐらいしかなかったのです。もちろん、本や新聞を読んだりすることもできますしね。

 

昨今は、ネットでさまざまな情報を収集したり、本を読んだりすることができるようになったため、学生たちは図書館をもっぱら勉強場所として使っているようです。今の時期だと、ちょうど公務員試験が迫っていますので、その勉強のために、一日中図書館で過ごしている学生も少なくないようです。机は広いし、周りは静かだし、冷房代もかからない。腹が減れば、近くにある学生食堂に行けばよい。まあ彼等からすれば、天国のような場所なのかもしれません。毎日同じ席に陣取っている者も多いのです。

しかし、こうした一部の人以外にとって、図書館は次第に縁遠い存在になりつつあるようです。そもそも「本を読む」という時間そのものが減っているようですし、先に書いたように、調べものなら、自宅でネットを通じてできるのです。

しかし、大学図書館に限らず、公立の図書館等も含めて、各図書館は相互利用や相互貸借などをどんどん進めています。手に入りにくい資料なども、他の図書館にコピーを依頼できるサービスもあります。さらに、カウンターにいらっしゃる司書の方に質問をぶつけてみれば、自分では見つけられなかったものに出会うこともあります。これらをうまく利用すれば、あちこちに出かけなくても、ひとつの図書館に行くだけで、めぼしい資料はほとんど入手できる体制が、日本中で整えられているのです。ただ、こうした利用の仕方が増えすぎると、図書館側の手間が大変になるためか、さほど積極的にはこのことを広報しているところは少ないように思います。言い換えれば、「知っている人だけが便利に使える」という状態ですね。これを不公平と思うのはちょっと筋違いでしょう。とにかく一度、図書館を訪れてみて、少しずつ利用方法に慣れていくことができれば、ネットを通じての情報収集とは一味違ったものになると思います。

 

図書館を巡る動きとしてはもうひとつ、図書館そのものにエンターテイメント性を持たせるという動きが広がっていることが注目されます。そして、これにはふたつの流れがあります。

ひとつは自治体の財源問題等とも絡んで、図書館の運営自体を全面的に民間業者に委託する方法です。代表的なのが、いわゆる「ツタヤ図書館」です。これは大手のレンタル・書店であるツタヤ(蔦屋あるいはTSUTAYAという表記の店もあります)を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(CCC)を各自治体が指定管理者として、その運営の一切を任せるもので、オシャレなカフェやくつろぎのスペースを併設して、誰でも気軽に利用できるようにしたものです。1号館は2013年にオープンした佐賀県武雄市のものですが、その後、神奈川県海老名市、宮城県多賀城市山口県周南市和歌山県和歌山市等に広がっています。

「ツタヤ図書館」に関しては、指定管理者としての決定プロセスや施設充実のための費用の不適切な流用などの問題も指摘されていますが、本に出合うための空間としてもっともよく指摘されるのが、ほとんどの図書館で用いられている図書の分類方法(日本十進分類法)とはまったく異なる観点から、図書の配列が行われているという点です。これは、従来の配列に慣れ親しんでいる人にとっては、とても戸惑うもののようです。ただ、書店としてのツタヤを訪れたことがある人ならわかると思いますが、この工夫、予想外の本と出合うきっかけにもなる可能性があるもので、私は一概に否定的にはなれません。いわば「知の冒険旅行」とも言えるエンターテイメント性がそこにあるのです。本というものに慣れ親しむ機会の少ない、とくに若い人に読書の魅力を感じてもらうには、とても良い入口だと思うのです。

もちろん、現段階ではさまざまな問題があぶりだされている状況です。とくに、自治体にとって必要不可欠な公文書の収集・管理がきちんと行われていくかどうかは、長期的には重要な課題になってくるでしょう。

もうひとつの動きとして、自治体自らが主導権を握りながら、従来とは大きく異なる発想で図書館をデザインし、運営していこうというものです。これもいくつか事例があるのですが、ここでは昨年オープンした新しい金沢市にある石川県立図書館に注目しましょう。

金沢大学工学部の跡地を利用して、広大な土地に建てられたこの図書館は、入った瞬間にその斬新なデザインに目を奪われます。天井までの吹き抜けと、階段状に設置された書架や閲覧用の椅子・机、少人数のミーティング用のスペースもあり、自由な使いかたができます。もちろんとてもお洒落です。本を探す方法も色々と用意されているし、カフェも併設されています。何よりも特徴的なのが、落ち着いた雰囲気で読書や調べ物をできる、ゆったりとした空間です。ここになら、特に目的がなくても、半日は十分過ごせそうです。

個人的な印象としては、図書館初心者にやさしく、中級レベルの愛用者も十分満足できるもので、公共図書館としての機能は果たしているのではないか、と思った次第です。

石川県立図書館 下の写真も

 



この他、例えば、大阪には建築家安藤忠雄氏の発案・設計でつくられた児童用の図書と遊び場所に特化した「こども本の森中之島」がオープンして、連日子供たちでにぎわっています。今後も、こうした特徴ある図書館が各地にできれば、日本全体の文化的な民度はかなり上がるのではないでしょうか。

ツタヤ図書館にしても、新しいタイプの公共図書館にしても、ネットやデジタルを排除しているわけではありません。ただ、印刷された本というものは、1000年以上の歴史をもつもので、メディアとしての完成度はきわめて高いというのが現実です。これに、新たなメディアである各種デジタル資料等をどのように組み合わせていくのかが、これからの図書館の大きな課題となるのでしょう。

そういえば、最近図書館って全然縁がないなあ、という方、一度近隣の図書館に出かけてみてはいかがでしょうか。冒頭に書いたように、避暑にもなりますしね。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。