明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常63 No Music No Life

こんにちは。

 

ダラキューロによる治療も第5クールに入りました。看護師さんにお聞きしたところでは、これによる深刻な副作用等はまだ全国でもほとんど報告されていないそうです。実は、同じような効能をもつ薬(ダラザレックス)はもう少し以前からあったのですが、これは点滴タイプで、1回あたりの治療に数時間がかかったそうです。これに対して、ダラキューロは注射タイプで、1回あたり3分~5分に短縮されるので、これまでダラザレックスを使用していた人も、もうすでにほとんどがダラキューロに切り替えたのではないだろうか、ということのようです。私は、タイミング良くダラキューロ販売開始当初からこれを使えて、ラッキーだったわけです。もっとも、新しい薬には当然ながらそれなりのリスクがあるかもしれないわけで、そこは難しい問題ですが。

 

さて、前3回はオーストリアのやや深刻な問題を取り上げましたので、今回は私自身のかなりお気楽な話題を。

以前の投稿で、ラジカセのことを取り上げましたが、今はもうラジカセは使っていません。かといって、元がアナログ人間の私は、ネット配信(サブスクリプション・サービス等)に全面的に切り替えるということにはなっていませんまあ、Spotifyの無料サービスなどは入院中に大変お世話になりましたが、それがメインではありません。

それはなぜか?

私にとって音楽を聴くという行為は、呼吸するのと同じ、とまでは言いませんが、日常的な行為のひとつです。では主に利用しているメディアはなにか、というとCDということになります。レコード業界全体の潮流を見ると、下の図の通り、日本ではあ音楽ソフト(CDの他DVD等も含む)が元気かな、という感じですが、例えば最大の音楽売上国であるアメリカでは、音楽配信が71%に達しているのに対して、音楽ソフトは26%に過ぎません。今のところ、日本と同様の傾向をもつ国もありますが、だんだんアメリカ的になっていくのは時間の問題でしょう。レコード・ショップでCDの旧盤が安値で投げ売りされているのも仕方ないかもしれませんね。

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日本における音楽売り上げの推移(出典:日本レコード協会の資料)

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世界の音楽売り上げ(2014年現在)

 

でも、私の場合、そういった傾向に反発するなどという大げさなことではなく、単純に、今までに買いためたCDを改めて聴き直すのに忙しい、という事情がはたらいています。ちゃんと数えたことはないのですが、我が家には現在1200枚ほどのCDがあります。(内訳は、クラシック50%、ジャズ15%、ポップス・ロック35%といったところでしょうか)中には随分長い間聴いていないものも結構あります。これを1枚ずつ聴き直していくだけでも、けっこう時間がかかるのです。また、ただ聴いているだけではつまらないので、データベースを作るとともに、1枚ずつ私なりの感想のようなものも1500字ほど書いています。

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これはクラシックの棚です

 

毎日、というわけではなく、平均すると2~3日に1枚程度のペースですが、これは私にとって日課のようなものになっているのです。CDはそのうち完全になくなってしまうのかもしれませんが、まあ、プレーやーだけでも入手可能ならいいのかな、と思っています。ちなみにCDプレーヤーとプリメインアンプはマランツ、スピーカーはダイアトーンのものを使っていますが、いずれもそんなに高価な機種ではありません。私は別に―ディオ・マニアではありませんので、「それなりの音」で聴ける今のシステムにまあまあ満足しているのです。オーディオは、上を見ればキリがありませんからね。

この他、LPも20枚~30枚ほどありますが、こちらは引っ越しの際に古いプレーヤーを処分してしまいましたので、今は聴くことができません。そのうちに新しいものを買うつもりですが。

ただ、上のグラフをみると明らかなのですが、音楽に関する売上そのものが長期的にかなり減少しているのは、大変気になりますね。音楽以外のエンターテインメントが非常に増えたことに加え、気になる音楽があれば、無料配信やYouTubeを通じてスマホでチェックすることができるからでしょうか。ただ、若い人には、スマホの貧弱なスピーカーで「音楽を聴いた」気になるのではなく、せめてもう少し音の良いスピーカーにつないだり、専用の音楽プレーヤーを使ったりするなどしてほしいものだ、と思います。

 

今回は大変私的なことを交えた話題につき合ってくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常62 遠くへ行きたい

こんにちは。

 

さて、2回続けてオーストリアでのコロナ対策をめぐる混乱状況を取り上げてきましたが、私たちが普段オーストリアとかウイーンとかの地名を耳にしたとき、真っ先にイメージするのは、そういった生々しいことではなく、「モーツアルトの生まれた国」とか「音楽の都」というフレーズですよね。そして、そんなイメージの中心に位置しているのが、世界最高峰のオーケストラのひとつとも言われるウイーン・フィルハーモニー管弦楽団ではないでしょうか。クラシックにさほど興味のない方でも、1月2日にウイーン楽友協会大ホール(ムジーク・フェライン・ザール)で行われるニューイヤー・コンサートの様子をテレビで見たことがある、という方は多いだろうと思います。

1870年に竣工したこのホールは、別名「黄金のホール」とも呼ばれており、1939年からの長い歴史を有するニューイヤー・コンサートでは、観客全員が正装で訪れるという、大変きらびやかなものです。おそらく、ウイーンの人達は、これを聴いてはじめて、新年を迎えたという実感を抱くのでしょうね。

私の友人に、あのステージでベートーヴェンの第九を歌ったといううらやましい奴がいますが、それはさておき、ウイーン・フィルにはもうひとつ、大切な年中行事があります。それは、毎年6月頃にシェーンブルグ宮殿の庭園に屋外ステージをしつらえて行われるサマーナイト・コンサートです。ハプルブルグ家の夏の離宮だったこの宮殿で行われるコンサートは、2004年から始まった比較的新しい行事ですが、今や夏の始まりには欠かせない季節の風物詩になっているようです。ニューイヤー・コンサートとは異なり、こちらはカジュアルな雰囲気で行われるのですが、もうひとつの特徴として、毎年ひとつのテーマが設定されていることなのです。

今年のサマーナイト・コンサートは観客を3000人に限定し、医療従事者や教育関係者を招待して行われたのですが、そのテーマはFernweh(フェルンヴェー)でした。この、あまり聴きなれないドイツ語は非常に観念的な言葉で、ドイツではいわゆるホームシックの反対語として使われるようです。これを日本語に無理やり訳すとすれば、「遠方への憧憬」ということになるようです。つまり「遠くへ行きたい」ということですね。(「遠くへ行きたい」と聞いて、懐かしいテレビ番組を思い浮かべた方、あなたは私と同世代か、もう少し年上でしょうか 笑 ちなみに、あの番組、まだ日曜朝にやっていますよ。すごい長寿番組ですね。)なお、似たような意味の言葉に、Wanderlust(ヴァンダールスト)というのがあり、こちらは一か所にとどまらない放浪をも意味するようで、しばしば詩の世界にも登場すします。これに対してFernweh(フェルンヴェー)はもうちっと単純に、「どこか遠くに行かないと、気が変になってしまうよ。とにかく、どこか遠くへ行きたい。」というような意味合いが込められているそうです。(ドイツ語にそれほど精通しているわけではありませんので、若干不正確かもしれません。悪しからず。)

これって、コロナ禍でのステイ・ホームで多くの人が感じてしまう気持ちそのものですよね。そう、日本人も、オーストリア人も、そしておそらく世界中の人々が同じような感情を持ち続けて、この2年弱を過ごしてきたのです。そう考えると、何だかしみじみとしてしまいます。そして、こうした言葉がテーマに選ばれるというところに面白さを感じます。

ヨーロッパの一部ではデモを通し越して、暴動のような騒ぎも起きているようですが、ああやって暴れている人の多くも、実は、横暴な政府によって人権が制約されるという危機感というよりは、Fernwehに近い感情に揺り動かされているのではないだろうか。そんな風に考えると、もう少し冷静な話し合いの糸口も見つかるような気がしてきます。今、何ができるのか、そして何を避けるべきなのか。一人一人が落ち着いて考えていく必要がありますね。政府による対策もそのような方向で考えてほしいものです。

それにしても、私も旅行に出かけたいものです。できれば、魚の旨い日本海側とか、この時期はいいですよね。まあ、個人的には免疫威力低下という問題も抱えているし、来年にはGo To トラベルのキャンペーンが再開されるかもしれない、とのことなので、もうしばらくは我慢でしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常61 規制への反発について思うこと

こんにちは。

 

前回の投稿で、オーストリアにおけるコロナ・ウイルス再拡大に伴う行動規制強化についてご紹介しましたが、案の定、かなり混乱が生じているようです。報道によると、去る11月19日には4000人規模、そして20日にはウイーンで数万人が参加するデモが行われたようです。そして参加者は「コロナ独裁」とか「社会の分断」などと書かれたプラカードを掲げていた人も多く、中にはナチス・ドイツユダヤ人に着用させた「ダビデの星」を思わせるワッペンに「ワクチン未接種」と書いて、これを付けていた人もいたそうです。

ダビデの星はもともとユダヤ教あるいはユダヤ民族のシンボルで、イスラエルの国旗にも描かれています。しかし、ナチスは迫害対象であるユダヤ人をそれ以外の人達と区別するために、下のような目印の入った腕章等をつけることを強制したのです。映画等でご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。ここでは真ん中に「judeユダヤ人)」と書かれていますが、この部分に「ワクチン未接種」と書いてあるのです。「俺を拘束できるものなら、やってみろ」という挑発でしょうか。)

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ナチスユダヤ人に付けさせた「ダビデの星


もちろん、これに対しては政府側も「ナチスの犠牲になった数百万人とその家族を侮辱している」と強く非難していますが、いずれにせよ、人々が大きな不安感にさいなまれていることは確かなようです。

コロナ感染拡大を防ぐための行動規制やロックダウンをナチスのやったことになぞらえるのは、明らかに「やりすぎ」ですし、コロナ・ウイルスそのものを某国の陰謀とみなす極端な意見と同じで、どう考えても賛同できるものではありません。ただ、デモというものがほとんど行われない現代の日本のおとなしい状況を振り返ると、個人の尊厳を自分で守るという観点からは、どちらが正しいのか、正直なところ少し迷ってしまいます。

今の日本社会では、匿名でのネットへの書き込みは盛んにおこなわれていても、自分の正体を明らかにしたうえで、社会全体で進みつつあることに正々堂々と疑問を呈していくような風潮は、ほとんど見られないですよね。誰もが「炎上」を恐れて、表面上はおとなしくしておき、そのフラストレーションをSNSや掲示板での過激な書き込みで解消しようとする。もっとひどい場合は、特定の人物に対して匿名で誹謗中傷や口撃を行う。

本当にこれで良いのでしょうか。

かといって、過激なデモの結果、死傷者が出てしまうのは、もちろん望ましいことではありませんが・・・うーん、むずかしいところです。「社会の分断」は誰も望んではいないはずなのですが。

 

オーストリアでの話題をもう一回書く予定です。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常60 コロナ感染の再拡大

こんにちは。

 

今朝のニュースをチェックしていたら、気になる記事を見つけました。

ヨーロッパで再び新型コロナ・ウイルスの感染が拡大する中、オーストリアは来週からワクチンを接種した人の外出も制限するほか、来年2月からワクチンの接種を義務化する厳しい措置に踏み切ることになったというのです。去る11月15日からはワクチンを接種していない人を対象に、外出を制限する措置が全土でとられてきたのですが、18日の発表では、新規感染者が1万5000人を超えて、1日の感染者としてはこれまでで最も多くなり、規制強化に踏み切らざるをえないとの判断がなされたようです。

気になって、この1年半ほどの同国の新感染者数と死亡者数がどのように変化してきたのを調べてみました。すると、下のグラフの通り、この1ヶ月で急拡大していることがわかり、正直なところ、大変驚いてしまいました。死亡者数に関しては、ちょうど1年前の最悪の時期と比べると、まだ少ないですが、それでも、感染者数の拡大に引きずられるように、増加し始めています。

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オーストリアにおける新規感染者数の推移

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オーストリアにおけるコロナ感染が原因と思われる死者数の推移



さらに、EU諸国の状況を調べてみると、国によってある程度の違いはあるものの、オーストリアと同じような動きを示している国が多数見られます。(とくに、ドイツのグラフはオーストリアのそれとほとんど同じ形になっています。)

この急拡大の理由は、今のところ解明されていません。それはそうでしょう。日本でなぜ急減退したのか、きちんとした科学的な説明を行っている人は誰もいないのですから、急拡大の理由もまた、「よくわからない」というのはむしろ当然なのです。要するに、まだまだ未知の部分が多い、ということなのです。

ちなみに、オーストリア国民のワクチン接種率を調べると、2回接種した人の割合は70%を少し下回る程度で、日本よりちょっと低いかな、という程度です。つまり、ワクチン接種が遅れていることが原因ではないことは明らかです。

オーストリアに限ったことないのですが、ヨーロッパの諸国は、個人の尊厳をベースにした民主主義の観念が相当根強い伝統を持っており、ワクチン接種の強制やマスク着用の義務化、法律に基づく行動制限等については、強い反対意見が出やすいと言われています。にもかかわらず、今回のような措置が取られることになったのは、政府に相当強い危機感が働いているからだと思われます。今後の展開がどのようなものになるかはまったく不明ですが、もし医療現場のひっ迫が再び起きてしまうならば、そのダメージは相当期間残ってしまうでしょう。コロナ・ウイルスのメカニズムの全貌がなかなか明らかにならない以上、今のところ頼みの綱は、開発が進みつある治療薬の承認と普及しかないのかもしれません。

もちろん、これは私たちにとって「対岸の火事」ではありません。いつ、日本でも感染急拡大が始まってしまうのか、そして、オーストリアやドイツの例を見るならば、今度はこれまでよりももっと速いスピードで広がってしまうかもしれない、と考えると、なかなか落ち着けません。やれやれ、こうやって今年は暮れてゆくのでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常59 「街の洋食屋さん」のこと

こんにちは。

 

皆さん、コロナ感染者数が下火になってきている最近ですが、外食とかに出かけておられますか? まだまだ多人数での宴会は自粛傾向にあるようですし、早々と忘年会・新年会の中止を決めている職場も少なくないようですが、少人数での外食や飲み会はかなり復活しているような感じですね。ここまで頑張ってこられている外食業界の方々を応援する意味でも、そして自分自身がリフレッシュするためにも、少しはこういう機会を増やしてもいいのかな、と思います。

 

今回は、そんなことに関連する話題です。

皆さんはいわゆる「街の洋食屋さん」あるいは「街中華と呼ばれるような店を利用されることはあるでしょうか。街中にひっそりとたたずむ、数十年も前から営業しているようなお店です。だいたい、こういったお店は特別のメニューがあるわけではなく、出てくるのはありふれた料理ばかりです。そして値段はきわめて手ごろ。店構えや内装は決してお洒落というわけではないけれど、きちんと掃除が行われていて、古びた中にも清潔感が感じられる。そんなお店が、私の住む街にはけっこうたくさんあります。

先日、そんな店の一軒を訪れたのですが、私が入店する直前に一組の老夫婦が入っていかれました。ご主人の方はかなり足が悪いらしく、店の入り口にある2段ほどの階段を上るのさえも、大変苦労しておられましたが、転倒することもなく、何とか無事店内に入っていかれたのです。でも、そこからの動きは素早かったようです。私の席とは少し離れていたので、詳しく観察したわけではありませんが、いかにも慣れた雰囲気で着席すると、メニュー選びに迷うこともなく、素早く注文しておられました。おそらく「いつもの・・」という感じでの注文だったのでしょう。そして、私が食事を終える頃には、とっくに席を立っておられていました。

その店は同じ場所で60年近くずっと営業し続けている洋食店で、メニューも昔ながらの洋食ばかりです。つまり、いわゆる高齢者向けのメニューは一切ありません。それでも、こんな常連さんが足しげく通ってくるのです。繰り返しますが、全然バリアフリー対応になっていないにもかかわらずです。

こんな風に、近くに住む人に、そしてその街に愛され続けている店って、本当に良いな、と思います。こういうところに共通するのは、ドレッシングやソースに決して手を抜いておらず、ちゃんとオリジナルのものを使っていること、そしてトイレがいつも丁寧に掃除されていることでしょうか。長く愛され続けるには、こうした細かいところに気を配れないと駄目なのでしょうね。(余談ですが、私はいわゆる「すごく汚いけれど、旨い」という店の存在をあまり信用していません。「汚さ」の質にもよるのですが、清潔感の伴わないような店は、それだけで食べる気が失せてしまうのです。個人的な偏見からしれませんが。)

こうした店にはいつも多くのお客さんが集まってきます。すると、お客さん同士、そして店員さんとお客さんの間で会話が生まれ、それが店の雰囲気を盛り上げてくれます。それは、一見客(はじめてその店に来た客)にとっても決して敷居の高いものではなく、むしろ暖かい雰囲気で包んでくれる心地よさがあります。さらに言うなら、こうした店の中には、店主催で色々なイベント開催するなど、情報発信の場としても機能しているところもあります。

ミシュランで星を獲得するような高級フレンチはもちろん素晴らしいでしょう。コスト・パフォーマンスと安定感を考えるなら、全国展開のファミリー・レストラン・スタイルのお店も悪くないかもしれません。(最近の外食産業各社はメニュー開発に非常に力を入れているのは事実です。例えば、サイゼリヤなど、なぜあの価格であのクオリティのものを出せるのか、本当に驚異的です。ミラノ風ドリアにシーザーサラダ、プチフォッカつけて、グラスワインを1杯頼んでも900円にしかならないって、やっぱり凄いとしか言いようがありません。)

でも、昔から街並みに溶け込んでいるような、落ち着ける、そして長く通い続けられるお店を大事にしていきたいものですね。私は、これまた大切な「文化」だと思うのです。

 

今回も、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常58 がんリスクと高齢化

こんにちは。

 

11月も中盤となり、かなり冷え込むようになってきました。今年は例年より冬の足音が早く聞こえるような気がします。アメリカ国立気象局(NWS)の気象予報センターは、今冬から来年春にかけて北半球でラニーニャ現象が発生する確率が90%に上ると予想していますが、この影響で、世界中で気温の低くなる傾向が強まり、日本では、ドカ雪になる可能性も高いとのことです。そろそろ、冬支度しないといけませんね。

 

前回の投稿では、がん患者の。10年生存率の最新データを紹介しましたが、今日もこれに関連する話題です。

がんに罹患しても、長く生きられる可能性は少しずつ高くなっていることはわかりましたが、そもそも現在、がんに罹患してしまう確率は高くなっているのでしょうか?それとも低くなっているのでしょうか?

罹患する部位によっても異なるのですが、まず結論的に言ってしまうと、日本のがん患者は増え続けています。また、それ連動するかのように、がんによる死亡者数も増加の一途をたどっています。(下のグラフは少し古いデータまでしか載っていませんが、その後もこの傾向は変わりません。)

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この数字だけを見ると、がんによって死亡するリスクは全然減っていないのではないか、という疑問も湧いてきます。

ちなみに、部位別にみると、増加傾向にあるものと減少傾向にあるものとが以下のように分類できます。

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しかし、これらは主に日本全体で高齢化が進行していることと大きく関連しているようです。国立がん研究センターが高齢化の影響を統計的に除外してまとめたものによると、日本において新たにがんと診断された方の数は、1985年~1990年代半ばに増加、その後2000年~2010年前後に再び増加し、その後横ばいとのことです。なお、男性の場合は、1985年~1990年代半ばに増加して、その後2000年~2010年前後に再び増加、その後減少しています。女性は1985年~2010年前後に増加し、その後横ばいということです。つまり、少なくとも「増加傾向」とは言えないのです。

例えば、私の罹患している多発性骨髄腫を見ると、以前は「発症確率は10万人に1~2人」と言われていたのですが、現在では6.1人にまで上昇しています。数字だけを見ると驚くような増加傾向ですが、これも、高齢者が多くなったことによって罹患する人が増えてしまったということのようなのです。また、医学の発達によって、以前はがんと診断されなかったような症例についても、きちんと診断がなされるようになったという事情も働いているようです。

なお、死亡率に関しても、年齢調整を行うと、1990年代後半からは、たしかに男女とも減少傾向が見えてくるのです。

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なんとも皮肉な話ですね。長生きできるようになった結果として、重い病気にかかる可能性も増えてしまった・・・しかし、考えてみればこれは当たり前の話です。身体中のほとんどの器官は、生命が宿ってからずっと休みなく働き続けているのですから、次第に経年劣化を起こすのは当然でしょうし、がんという病気の発症もその一環だと考えれば、素直に理解できる話です。もともと、がんは高齢になるほど発症率が高くなる「老人病」だという考え方が一般的です。そして、がん細胞ができてしまうメカニズムについてのもっとも端的な説明は、「細胞分裂の際に遺伝子の写し間違い」というものですが、そうした間違いが起きるのも、長年生きているからこそなのです。

もちろん、がんという病気の発症メカニズムのすべてが医学的に解明されているわけではありません。喫煙習慣や偏った食生活、生活習慣などの要因で体調を崩してしまう方は、高いストレスのかかりやすい現代社会の中で、多くなっているかもしれません。

しかし、これらの多くは、日常的に健康に気をつけることによって、あるいは周囲がきちんと気を配ることによって、ある程度は防げるものでもあるのです。高齢化によるリスクを減らすためには、今後の遺伝子治療の発達等を待たなければなりませんが、そうであるならば、せめて、他の要因を少しでも減らすように気を配ることは決して無駄ではないはずなのです。要するに、リスクをゼロにすることはできないけれど、日常的な行動の見直し・積み重ねで、がんリスクは減らせるかもしれない、ということですね。(あくまで「かもしれない」というレベルの話ですが)

 

今回も、最後まで読んでくださってありがとうごあいました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常57 【2021年版】がん患者の10年生存率発表!

こんにちは。

 

昨日で、現在の治療の第4クールが無事終了しました。相変わらず、注射を打った日と翌日は、少し食欲が落ちる(というよりは、胃の働きが鈍くなって、通常より少量しか食べられなくなる)こと以外、大きな副作用は出ていません。あとは、ほんの時々、足先が2~3秒しびれることがあるぐらいでしょうか。こちらは歩行等にはまったく支障はありません。

ダラキューロ治療を開始した当初は、よくしゃっくりが出たのですが、それはどうやら収まっています。もっとも、出そうな気配を感じたら、すぐに水を飲んで対処しているからかもしれませんが。

来週は治療おやすみ。この調子でいけば、年内はあと1クールでしょうか。色々聞いている限りでは、このダラキューロによって激しい副作用が生じたという患者さんは、全国でもあまりいらっしゃらないようですね。このブログを読んでいらっしゃる方で、ダラキューロ治療をしている方がおられましたら、差し支えない範囲でご様子を教えて頂きたいです。それから、昨日は約3か月ぶりに会った看護師さんに「なんだか以前より顔色が良くなったようなきがしますね。」と言われました。自分では毎日鏡を見ていますから気が付かなかったのですが、本当にそうならば、ダラキューロが着実に効果を発揮しているということで、これは少しうれしかったですね。

 

ところで、一昨日(11月10日)、国立がん研究センターが、2005~08年にがんと診断された人の10年後の生存率が、様々な部位のがん全体で58.9%という最新の集計結果を発表しました。ちなみに、つい先日もご紹介した前回集計の04~07年のデータよりも、0.6ポイント上昇しています。メディアによっては、この数字を「微増」と表現しているところもありますが、わずか06.ポイントであっても、数字が上昇することは医療に携わる方々の努力の賜物ですし、患者側としては、それを率直に感謝し、喜びたいと思います。もちろん、約4割の方が10年以内に亡くなっているのですから、「がんは治る病気になった」というのは言い過ぎかもしれませんが、それでも、着実に前進はしているのです。

なお、主な部位別、ステージ別の10年生存率は以下の通りです。(詳細は、直接、国立がん研究センターのホームページで確認してください。)

部位によってのバラつきがありますが、ステージ4になると一気に数値が低下してしまうことは共通しています。やはり、先日も書いたように早期発見が何よりも重要なようです。

      全体     【1期】 【2期】 【3期】 【4期】

食道                     34.4      74.9   39.6              20.7    8.1

胃       67.3        90.3   57.0    37.2    5.8

大腸      69.7      94.8   83.0    76.2   13.8

肝       17.6      30.2   17.5    6.7    2.0

膵(すい)    6.6      32.1   12.2    3.4    0.9

肺       33.6       67.6   34.5    13.1    2.1

乳(女性)   87.5   98.3   88.7    66.6   18.5

子宮頸部(けいぶ)68.2  88.8   68.0    51.7   19.6

子宮体部     82.3  94.0   84.5    62.1   13.3

卵巣       51.0  84.8   62.4    28.5   14.0

前立腺      99.2  100.0  100.0    98.5   45.0

膀胱(ぼうこう) 63.0  74.9   68.9    51.9    9.9

 

ただ、この生存率という言葉に振り回されないほうが良い、という専門家もいらっしゃいます。10年生存率とは、がんに罹患した人数のうち、主要な治療(手術など)をした後10年間生存し続けた人の割合を示しますが、このデータはにほんじんすべての罹患者を集計したものではありません。全国がんセンター協議会に加盟する27都道府県の医療機関32施設で診断を受けた約12万1000人を集計したものに過ぎないのです。そして、これらのうちの多くは、国立がん研究センターの調査に日頃より協力的で、がん治療についてもその知見を十分に活かしている機関と思われます。ですから、日本全体を見た時には、実態はこれより少し低くなっている可能性は否定できません。

また、このデータだけでは、年齢による差異を読み取ることはできません。一般常識として、高齢になるほど他の病気に罹患する割合も高くなります。公表されているデータは、そうした他の病気で亡くなった方は対象としていませんが、その病気ががんの再発や転移などに影響を受けたものであることも十分あり得るのです。つまり、がん患者であるにもかかわらず、死因そのものは別の病気と判断されるかもしれないのです。こうした例を除外してしまって良いのかどうか、もう少し議論すべきだと思います。

上に書いた2点は、統計処理上の問題で、患者側にはどうすることもできないのですが、すべての人が注意しておかなければならない点もあります。それは、生存率はあくまでも生存している人の割合であって、治って元気に生活している人の割合ではない、ということです。なので、中には「途中でがんが再発し治療を受けながら10年後に生存している人」や「手術でがんが完全に取り切れず闘病しているが10年間乗り切っている人」なども含まれているのです。

私たちは、こうしたデータの性格をしっかりと踏まえたうえで、がんという病気に対峙していく必要があります。悲観しすぎたり、ぬか喜びしたりせず、日々の自分の体調をしっかりと見て、主治医の先生等と密なコミュニケーションをとっていく、ということに尽きるのでしょう。

 

今回も、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。次回の投稿はたぶん来週初めになると思いますが、もう少しだけ、国立がん研究センターの最新データをもとにして、私なりの見解を書いていくつもりです。気楽なネタはその後になってしまうかもしれませんが、おつき合いのほど、よろしくお願いします。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常56 あをによし

こんにちは。

 

かなり冷え込んできましたね。皆さん、体調にお変わりはないでしょうか。私は、薬のせいで免疫力が低下しているため、もっとも気を付けなくてはならない季節となっています。

しかし、ずっと家に閉じこもっていてもしょうがないので、先日、久しぶりに奈良に出かけてきました。目的は奈良国立博物館で行われている正倉院展、そして法隆寺です。

ご存じの方も多いと思いますが、正倉院展は毎年この時期に開催されている、いわば奈良の年中行事のようなものです。正倉院というところにはいったいどれだけの宝物が収蔵されているのかわかりませんが、よくもまあネタが尽きないものです。

今年の場合、展示の目玉は聖武天皇が愛用していた(と思われる)琵琶と尺八、そして蓮の葉が重なっている様子を模したお香の台などでした。これらの細工が非常に細かいこと、そして美しいことは言うまでもありませんが、他に、「宝物」と言えるような、言えないような、珍しいものも展示されていました。それは、当時宮中に勤め、写経の仕事をしていた人達が日常的に使用していた極太の筆や硯、それに、「今日は体調が悪く、下痢がひどいので仕事は休みます。どうか責めないでください。」などと書き記したメモなどです。文房具の多くは消耗品でしょうし、メモに至っては、どういう経緯で正倉院に収蔵されることになったのかわかりませんが、天平の時代に生きた人々の生々しい姿を垣間見ることができたのは、非常に面白かったです。

私はずいぶん久しぶりにこの展覧会に来たのですが、詳しい説明や要所要所での拡大写真展示など、非常に工夫されているなあ、と感じました。入場は完全予約制ですし、高齢者でも、ゆったりと、そして丁寧に鑑賞できるようになっていたのは、今の時代ならでは、というところでしょうか。ただ、当日券販売が一切行われないことについては、もっと広報を徹底した方がよいようです。知らずに予約をせずに来てしまった人がいないか、ちょっと心配になります。

この博物館、東大寺興福寺奈良公園と隣接している場所にあるのですが、いつもここでエサをねだっている鹿たち、なんだかあまり元気がないように見えました。やはり観光客が激減して、鹿せんべいをもらう機会が減っているのでしょうか。早く人出が戻るといいですね。

法隆寺は、奈良市内ではなく、少し離れた斑鳩町にあります。これもご存じの方が多いと思いますが、現在の斑鳩町は、きわめてのどかな田園地帯です。寺の近くには住宅街もあり、比較的交通量の多い国道も通っていますが、基本的には静かな町です。超有名な観光地ではあるのですが、コロナのせいか、それとも若干交通の便が悪いせいか、参道にもさほど人が溢れている様子はありません。

しかし、そんな静かな参道を通って境内に入っていくと、雰囲気は一変します。伽藍にならぶ金堂や五重塔等の建物、そして安置されている数多くの仏像には、思わず背筋が伸びるような威厳を感じます。この、のどかな周辺とピンと張りつめたような雰囲気の漂う境内、というギャップがとても面白いですね。例えば京都や奈良市内などの観光地は、古くからの社寺が街中に溶け込むような形で共存しているという面白さがあるのですが、法隆寺の場合は、推古天皇聖徳太子の時代の威光が、現代とはまったく切り離されたような感じできちんと保たれており、そのことから古代に色々と思いを馳せることができます。

それにしても、飛鳥時代から奈良時代にかけての仏像は、とてもきれいな曲線を描いたお姿をしておられて、威厳のある中にも、こちらの心を穏やかにしてくださいます。とくに百済観音像には、しばらく見とれてしまいました。平安時代以降の仏像とも、また、鎌倉時代の仏像とも大きく異なるそのお姿に、歴史の流れを感じるのも幸せな一時です。

 

古くからある名刹って、中学生あるいは高校生の頃にも色々と見学したように記憶しているのですが、その時と今では、まったく印象が異なりますね。それだけ、こちらの関心や知識が広がっている、ということかもしれません。

これからも、「行ったことがある」と敬遠せずに、どんどん出かけていきたいものです。残念ながら、こういったところは完全なバリアフリー化がなされているわけではないので、足がしっかり動く今のうちが良いのかもしれません。

 

今回は、病気のこととはまったく関係のない話に終始してしまいました。興味のない方には申し訳ありません。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常55 がん検診はやっぱり重要

こんにちは。

 

先月来約一か月続いていたマンションのエレベーター取り換え工事がようやく終わり、昨日の夕方から、元通り使えるようになりました。我が家は6階ですので、荷物がほとんどないときはとくに問題はなったのですが、重い荷物を抱えている時などは、上まで登るとさすがに少し息があがっていましたので、ほっとしているところです。

やっぱり、普段当たり前に思っていることが、実は全然当たり前ではないのですね。便利な生活を享受しているということを、もっと大事に感じなくてはならない、とつくづく思い知らされました。

それにしても、宅配便の配達員の方ってすごいですね。結構大きな荷物を持っていても、まったく息を切らさず、上まで駆け上がってくるのですから。本当にありがたいことです。

 

ところで、昨日ひとつちょっと気になるニュースを見つけましたので、今回はそれを簡単に紹介しようと思います。

日本対がん協会などの調査によると、新型コロナ・ウイルス感染症の影響で、がん検診が中止されたり受診控えが増えたりした結果、2020年1年間で、がんの診断そのものも9.2%減ったそうです。部位別では、減少幅が多い順に胃がん(13.4%減)、大腸(10.2%減)、乳(8.2%減)、肺(6.4%減)、子宮頸部(4.8%減)だったそうです。

この結果、約45000人ものがん罹患発見に遅れが生じた可能性がある、と報告書は述べています。しかもこの調査では、比較的患者数の多い5つのがんを調査対象にしているだけですので、がん全体となると、どのような数字になるのか、ちょっと想像もつきません。

なお、胃がんの診断がとくに減っているのは、この診断や治療には口や鼻から内視鏡を入れることが多いため、これをためらった病院や患者が少なからずいたのではないか、ということだそうです。

今さら言うまでもなく、がんという病気は早期に発見できれば、それだけ治療は容易となり、完治する確率も上昇します。例えば胃がんの場合、ステージⅠの場合は10年生存率が90%以上であるのに、ステージⅣまで進行すると、この数字は10%以下にまで落ち込んでしまいます。

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国立がん研究センターのサイトより引用)


もともと日本という国は、先進国の中ではがん検視率は決して高くありません。少し古いデータですが、2015年現在で、アメリカで80.8%、イギリスで75.8%、韓国で64.3%であるのに対して、日本ではわずか41.0%に過ぎませんでした。(もちろん、部位による差はありますが、話がややこしくなりすぎますので、ここでは割愛します。)

この事態を受けて、近年では厚生労働省も、受診率50%をめざして、各企業・事業所に対して従業員のがん検診に積極的に取り組むよう支援を行うなど、さまざまな取組を行ってきたのですが、コロナがこれに冷や水を浴びせかけたような格好となっています。

この1年間、検診を受けることをためらってきた方の気持ちも、これに注力する余裕のなかった病院の事情も、大変よく理解はできます。しかし、そうこうしているうちに病気が進行し、命にかかわるような事態になってしまえば、元も子もありません。

もちろん、がん検診にはそれなりに身体的負担が伴うこともあります。内視鏡検査によって胃や内臓に傷がついてしまうリスクはありますし、放射線被爆の問題もあり、既に体力を相当失っている高齢者などには安直に勧められるものではありません。

また、結果が必ず100%正しい、という保証もありません。

最近では血液一滴で診断ができる、という方法も開発されつつあるようですが、まだ一般に普及するところまでには至っていません。

それでも「受診した方が良い」と言われるのは、やはり早期発見によって効果的な治療が期待できるからに他ありません。

また、この検診によって、がん以外の病気が発見されることもあるようです。

すでにこのブログでも紹介してきましたように、現在、確率的にみると日本人の2人に1人はがんに罹患する時代です。また、男性は概ね60歳前後から、そして女性の場合は概ね45歳前後からそのリスクは急に大きくなっています。

受診しようと思いながら、控えてきた方は、コロナ感染が比較的収まってきている今のうちに再考されてはいかがでしょうか。残念ながら、病院側の体制はまだまだ完全に元通り、というわけにはいかないようですが、それでも人間ドックをはじめとする各種検診を積極的に行っている所はけっこうあるようです。また、自治体による金銭的補助も探してみることをお勧めします。

 

今回も、最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常54 ラジカセよ、永遠に??

こんにちは。

 

ここのところ、紅葉も少しずつ進み、すっかり秋真っ只中という感じですね。昨日、近隣の比較的広い公園に散歩に出かけましたが、「色づきはじめ」というところでした。ただ、すべての木が真っ赤、あるいは真っ黄色に染まるのはもちろん美しいのですが、私は、今の時期の、青葉も残っているし、紅葉もみられる、というようなさまざまな色彩が楽しめる景色が大好きです。北国に行くと、そろそろ山の上は冠雪しつつありますから、青色、赤色に白という色が加わり、そのコントラストはいっそう美しくなりますね。

 

ところで、先日の投稿でショパン国際コンクールの様子がYou Tubeで鑑賞できることをご紹介しましたが、それを読んでくれた学生時代からの旧友が、さっそくこれを見て「本当に便利な時代になったね。我々の学生の頃はラジカセを持ってウロウロするのが関の山だったのに」という反応をくれました。

ラジカセっていうもの、久しぶりに思い出しました。そういえば、あの頃はラジカセ全盛期で、オーディオ各社はこぞって新製品を販売していました。次第に高機能、大型になり、価格もそれなりに高価なものになりつつありましたが、手軽に音楽に親しむ道具として、誰もが所有していたと思います。

今考えてみると、ラジカセというのは本当に万能の機械でした。ふつうにラジオ番組を雑音なしに録音できることはもちろん、友達同士でカセットテープのダビングを行うのにも活躍してくれました。レコードを買う余裕などなかった学生にとっては、この2つの方法が自分の楽しむ音楽を増やすもっとも簡便な方法だったわけですが、「エアチェック」「カセットテープ」「ダビング」いずれの言葉も、今の若者には??でしょうね。あの頃、FM放送で流れる曲を2週間分ほとんどすべて掲載したFM雑誌が4種類(だったと思います)発行され、どれもそれなりに売れていたのですが、ラジカセがなければ、あれを読んでエアチェックに備えるというやり方も、そんなに広まりはしなかったでしょう。

また、カセットテープには「ノーマルポジション」「ハイポジション」「フェリクローム」「メタル」の4種類があったのですが、音質は良いけれども高価なメタルテープを買う人はきわめて少数で、カネのない学生はみんなノーマルポジションで十分満足していました。ただ、これには大きな欠陥もありました。ノーマルからノーマルへというダビングを数回繰り返すと、みるみる音質は劣化してしまうのです。当時は「こんなものだろう」と思っていましたが、現在のようにデジタル・データでやり取りすることによって、音質劣化などということがほとんど問題にならなくなると、さすがにテープ・ダビングの時代には戻ろうとは思わなくなりましたね。

また、たいていのラジカセは内蔵マイクを備えていましたので、外出する際にもこれを持って行き、簡単にナマ録音をすることもできました。当時すでに、ナマ録音専用ともいえるカセット・レコーダーであるSonyの「カセットデンスケ」がプロの現場では普及していましたが、我々にそんなものを買う余裕があるはずもなく、音質の落ちるラジカセでの録音で、十分と思っていたものです。私は合唱団という音楽系のサークルに所属していましたので、その演奏の録音や記録保存にも、ラジカセが大活躍したのです。

その後時代は、貸しレコード屋でお気に入りのレコードを借りてくるという時期を経て、1980年代末には一気にCD全盛期となり、音楽を聴く上での気軽さはどんどん増していきました。(それまでのLPと比べると、CD4の扱いやすさにも、驚きを感じたものです。)

そして今や、CDも市場からは消えつつあり、音楽を入手する手段はもっぱらダウンロードまたはサブスク(ストリーミング・サービス)になりつつありますね。最近CDショップには全然行っていないな、という方は一度試しに訪れてみてください。驚きますよ。旧譜が10枚組ぐらいのボックス・セットになって、ワゴン・セールで、2000円から3000円などというたんでもない投げ売りが行われていますから。ああいうのを見ると、CDはやがて消える運命なのだな、と痛感させられます。

ただ、若い人に聞くと、聞き流す音楽はサブスクやyou tubeで十分だけど、自分の手元にずっと残しておきたい音源はやっぱりCDで持っていたい、という人もまだ少なくないようです。それより深刻なのは、ゲームやネット・サーフィンに夢中で、音楽を聴く時間そのものが減っている人が多いことのようです。娯楽がどんどん多様化しているなかで、「音楽を聴く」というのは変人の趣味になってしまうのでしょうか。

 

今回の投稿を読んで、うんうんと頷いてしまった方、きっと私とあまり年齢の変わらない方ですね? 何のことだかさっぱりわからないという方、申し訳ありません。質問があれば私のできる範囲でお答えしますので、「年寄りの戯言」と思わずにいてくだされば幸いです。

 

今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常53 やはり合併症は恐い

こんにちは。

 

前回、選挙制度について少し書きましたが、もう一点、まったく異なる視点から気になっていることを、ちょっと記しておきます。

それは「不在者投票」についてです。衆議院選挙に限らず、私たち有権者が投票する際には、指定されている日に投票所に行く方法以外に、期日前投票不在者投票という制度があることは、ご存じの方も多いと思います。(その他に在外者選挙制度というのがあります。)

このうち、期日前投票については、投票所の数は少ないものの、かなり便利な制度で、誰でも気軽に利用できます。総務省のホームページによると、対象者は「投票日当日に用事があるなど一定の事由に該当すると見込まれる方」とありますが、対象となるかどうかについて、会場で詳しく尋ねられることはほとんどないはずですから、日曜日にはちょっと・・という方にとっては、ずいぶん有用なものでしょう。

しかし、不在者投票についてはどうでしょうか。こちらの対象は「選挙期間中、出張や入院などの理由で投票へいけない方」となっており、「仕事などで名簿登録地以外の市区町村に滞在している方は、滞在先の市区町村の選挙管理委員会不在者投票ができます。また、指定病院等に入院等している方などは、その施設内で不在者投票ができます。」となっています。しかし、手続きは期日前投票ほど簡単ではなく、事前に当該選挙管理委員会に届け出て、投票用紙の交付を受ける等の手順が必要です。(詳細は、地域ごとに若干異なるようです。)しかし、例えば障害をもっているために自宅から投票所へ行くこと自体が困難な方はどうでしょうか? 実際に問い合わせたわけではありませんので、その場合の手続きがどうなるのか、あるいはそもそも対象となるのかどうか、確証はありませんが、いずれにせよ、手続きが数段階あることによって、「面倒だから止めておこう」となってしまう方も少なくないのではないだろうか、と思うのです。また、「指定病院等」の数は非常に限られており、実際に入試ている方で投票できる方は限られているようです。

もちろん、本人確認を慎重に行わなければならない等の事情は十分わかるのですが、要介護認定を受けている方や障害者の方等は各自治体で把握できているはずですから、投票券や選挙公報を送付する段階から、もうちょっと工夫できないものだろうか、と思ってしまうのです。

将来を担う若者の投票率を上げることはもちろん重要ですが、だからといって高齢者や障碍者を後回しにしてよい、ということにはならないでしょう。なお、私は投票に出かけた若者に対して自治体が何らかのプレミアムをつける、という方法には若干懐疑的です。「モノ」に釣られて投票所に出かけるような人がきちんとした判断で投票を行うことはあまり期待できないからです。投票率を上げればそれでよい、ということではないでしょう。

 

さて、前置きのつもりが長くなってしまいました。

 

新型コロナ・ウイルスの感染者は、このところようやく減少傾向にあり、ニュースでの扱いも少しずつ小さくなってきています。しかし、海外の報道を見ると、感染再拡大の傾向もみられつつあるようで、油断ならないな、というのが最近の状況です。たしかに、新規感染者の中で重症者の占める割合はかなり減っていて、軽症または無症状という方が多くなっているのは良いことなのですが、こういう時だからこそ、もともと重症化リスクの高い高齢者や基礎疾患を抱えている人間にとっては気をつけなければならないのです。

先日、元アメリ国務長官であったコリン・パウエル氏が84歳で亡くなりました。彼は、黒人ではじめてアメリカ軍統合参謀本部議長(制服組のトップ)にもなった経歴をもっており、「人種の壁を繰り返し壊し、政府機関で働こうとする人々の先駆者となった」という評価を得ています。

ただ、彼は国務長官在任中の2003年、ブッシュ大統領の(当時)の意向を受け、国連安全保障理事会で、イラク戦争(というよりイラクへの集中的爆撃)の開始を強く支持したという、拭いきれない暗い過去を持っていました。後になってみると、この国連での主張はほとんど事実とは異なるものだったことが明らかになっており、「あれは結局イラクの人々と国土を傷つけただけではないのか」とも批判されたのです。当時の閣僚の中でもブッシュの主張に対してもっとも懐疑的であったとにもかかわらず、こうした発言をしたことについて、彼自身は晩年まで後悔し続けていた、とのことですが・・・

話が横道にそれましたが、パウエル氏の死因は新型コロナ・ウイルス感染にともなう合併症、と発表されています。この「合併症」が問題で、彼はそれ以前から多発性骨髄腫(つまり私と同じ病気)およびパーキンソン病を患っていました。ちなみに、コロナのワクチンは、今年に入って2回接種していたそうです。

このニュースに触れた時、まったく他人事とは思えなかった、というのが私の本音です。もちろん年齢差がありますし、彼の病状がどの程度のものであったのかはよくわかりませんが、少なくともワクチン接種を医師が認めていたということは、その時点ではまだ、さほど重症化しておらず、ワクチンの副反応等には十分耐えられると判断されていたはずです。その程度の症状であっても、コロナ感染が引き金となって、命を落とすこともあるのだ・・これは、私に限らず、さまざまな基礎疾患を持っている方、いや、すべての人々にとって、大きな警鐘ではないでしょうか。

かといって、すべてを自粛せよ、というつもりはありません。私自身もぼちぼちと外出する機会は増やしていますし、年末に向けて、外食の機会も今後増えてくるでしょう。でも、こういう事実がある、ということは心に刻んでおきたいものだ、と思います。

 

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常52 「がん難民」と「休眠療法」

こんにちは。

 

衆議院選挙が間近にせまってきましたね。皆さん、投票にはお出かけになりますか? あるいはもう期日前投票はお済ませになりましたか?

私自身は、もちろん投票にはでかける予定です。ただ、選挙公報をみて、ここのところ少しその気が萎えつつあることも否定できません。

というのは、「比例代表ブロック」における重複立候補という制度が、いまひとつピンとこないからです。

私の居住している地域の小選挙区には、今回3名の候補者がいます。しかし、この3名はともに、比例代表ブロックにおいて各党が提出している名簿にも名前が記載されています。つまり、これによって復活当選する可能性があるわけですね。

実は、このうち2名は前回の選挙にも立候補しており、激しい1.2位争いをしているのですが、結局2位になった方は復活当選を果たし、結果的には2名とも議員になれた、という顛末がありました。ちなみにその時はこの2名と3位以下の候補者には得票数に相当開きがありましたので、今回もこの2名の争いになる公算が強いのではないか、という予想もたてられているようです。

ただ前回は5名の立候補者がいましたので、単純比較はできません。さらにややこしいことに、今回まったくの新顔を候補者としてたてている党から前回立候補していた方は、得票数4位であったにもかかわらず、復活当選を果たしています。つまり、今回も前回と同様の顔ぶれの2名の争いになるとは限りません。もう一人の方、つまりまったくの新顔の方がここに割って入ってくる可能性も十分あります。

ただ、いずれにせよ、得票数とは関係なく、当初は涙をのんだはずの人が、復活当選によって、結局笑顔で万歳するかもしれない、ということには変わりがないのです。しかも、この復活当選という仕組み、「借敗率」やあらかじめ政党が出している「順位」等によって決まるらしいのですが、これが非常に複雑で、とても一般有権者が簡単に理解できるようなものではないのです。

得票数1位の顔ぶれは変わっても、結局新たな議員として登院する顔ぶれはほとんど変わらない、というようなことが起きたら、と思うと萎えてしまうのも無理ないですよね。こんな状況で、「あなたの一票が今後の政治を変えるかもしれない」と言われても、何だかなあ、という気持ちがわいてくるのはしょうがないと思います。

この制度があることによって、いわゆる「死に票」が相当減る、とかのメリットも一応理解はできるのですが、もう少しわかりやすい制度設計をしてもらいたいものです。

とはいえ、選挙は小選挙区の分だけ行われるわけではありません。私は、とくに最高裁判所裁判官の信任投票に関しては、毎回選挙公報をわりとしっかり読んで投票しているつもりです。その方が、過去にどんな裁判にかかわり、そこでどんな意見を表明していたのか、とても興味ある所だからです。

 

さて、それはさておき、昨日からダラキューロによる治療の4クール目が始まりました。事前に行った血液検査や尿検査の結果も良好で、予定通り治療は継続されます。また、昨日から今日にかけて、今のところ強い副作用はとくに出ていません。(若干の食欲不振はありますが)今使用している薬が、わりと自分の体になじんでくれているのは、本当にありがたいことです。

ただ、これまでにも書いてきましたように、同じように治療して同じような薬を使っていても、どのように副作用が出るのかには、相当の個人差があります。製薬会社はそのことを想定して、治験の段階で副作用があった事例については、かなり細かく公表していますし、多くの医師も、担当患者に副作用が出る兆候があれば、ただちにその薬の使用を中止して、別の薬を探すなど、かなり気を配っているはずです。

私自身も、過去入院中に軽い薬疹(薬の使用による発疹)が出たために、皮膚科で詳しく調べてもらい、その薬の使用を止めたことがあります。

そうは言っても、実際の治療現場では、複数の薬を同時に使用していますので、その複合的な作用で副作用が出てしまうことは決して稀ではありません。また、患者のもともとの疾患によっては、あっという間に重症化することもあるそうです。とくに高血圧や糖尿病などの基礎疾患をかかえている場合は要注意だそうですが、悪いことに、これらの疾患は健康診断で指摘されていても、仕事の忙しさにかまけて、診察を受けず放置したままという方も少なくありません。最悪の場合、脳梗塞や心臓病など、副作用というレベルを超えた新たな病気の発症につながることすらあるのですから、恐ろしいことです。

そこまでいかなくても、副作用が辛くて、結局治療そのものを止めてしまう方も少なからずいらっしゃるようです。標準治療というものを柔軟に考える医師ならば、そういった場合にも色々と対処方法を考えてくれるのですが、「標準」にこだわる方も当然いらっしゃるわけで、そうした方と患者の間にはうまく意志疎通ができなくなってしまうこともあります。その結果、医師の方で「そういうことなら、うちの病院では診察・治療はこれ以上できません」と突き放してしまうこともあるし、患者側が自らの意志で強引に退院してしまうこともあります。しかしもちろん、がんという病気そのものが治ったわけではありませんので、その患者はこれからどうしてよいかわからずに、彷徨ってしまうことになります。これを「がん難民」と呼ぶこともあるそうです。

がんが末期まで進行しており、本当に手の施しようがない場合は、「緩和治療」という選択肢もあります。しかしこれは、「もうこれ以上積極的な治療は一切しない」という決断でもあるので、なかなかそこに踏み込む勇気を持てない方もいらっしゃるでしょう。

そこで最近注目されているもののひとつに「休眠療法」というものがあります。これは、別に休眠してしまうという意味ではなく、個々の患者の体調等に合わせて、継続しうる量の抗がん剤で治療する(最大継続投与量といいます)という考えです。何よりも患者の負担の軽減を最優先にし、可能な範囲で化学療法等を続けるということになるでしょうか。もちろん、入院はできるだけ避け、通院による治療継続をめざします。

休眠療法の目指すところは、がんの克服ではありません。むしろ「同居、共存」とでもいえるものなのです。

がんという病気はこの10年間ほどの間にずいぶん治療法が発展し、「治る病気」としての認識も次第に広まりつつあります。しかし、すべての患者が完治するわけではありませんし、年齢によっては、強い身体的負担を伴う治療はできません。また、私の発症している多発性骨髄腫のように、そもそも今の医療技術ではせいぜい寛解をめざすしかない、という種類のがんもあります。そのような中では、このような考え方が出てくることは当然だと思いますし、「がん難民」になりそうな方にとっては救いの手と言えるかもしれません。

ただ、インフォームド・コンセントがしっかりと機能し、医師側が、標準治療をきちんと踏まえながらも、それを逸脱しない範囲内でさまざまな選択肢を用意し、それを必要に応じて患者側に伝える、ということが日常的に行われていれば、わざわざ「休眠療法」という新たなネーミングをつけなくても、ちゃんと患者側の意志に沿った治療が継続されていくのではないか、とも思うのです。そして、そのような方向で、地に足をつけた医療体制がもっと整備されれば、と願わざるを得ません。

 

今回も、最後まで読んでくださってありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常51 個性を発揮できる場所は無限にある

こんにちは。

 

今回は、前回の続きです。

前回の投稿で、ショパン・コンクール出場者たちの「個性」について少し書きましたが、彼らはピアノという楽器に対峙するピアニストである前に、一人の人間であり、幅広く音楽を世界中に届けようとしている音楽家でもあるので、そうした面でも色々と個性が出てくるのは当然です。

例えば、今回の日本人出場者を見ても、最終的に2位という好成績を収めた反田恭平さんは、「演奏家が永続的に活動の場を獲得し、経済的活動を展開できるように」という志を以て、Japan National Orchestra株式会社という会社組織を立ち上げています。つまり、クラシック音楽を安定したビジネスとして成立させるために、将来的には、現在既にプロとして活動しているが、経済的には必ずしも安定していないような若手演奏家に、プロの卵たちを養成する機会(対面とオンラインの組み合わせ)を提供していくことが考えられています。そして反田さん自身は、その代表を務めるとともに、自分の知名度を活かして、看板あるいは広告塔としての役割を積極的に担っていく心づもりのようです。

また、三次予選(セミ・ファイナル)まで進んだものの、惜しくも本選(ファイナル)には進むことができなかった角野隼斗さんは、Cateen(かてぃん)という名前でyou tuberとして活躍しており、既に世界中から多くのファンを集めています。登録者数は85万人にものぼっています。彼の場合、おそらく「にわか」ファンも多いと思われますが、クラシック音楽の間口を広げるという意味でも、また自分自身の精神的バランスを保つためにも、こういった活動が必要なのでしょう。蛇足ですが、彼は、東京大学大学院情報理工学系研究科創造情報学専攻で「機械学習を用いた自動採譜と自動編曲」に関する研究行っていた、という顔を持っています。つまり、その気になれば、研究者としての道も開けるかもしれないわけですね。

もちろんこの他にも、私が知らないだけで、ユニークな活動をしている人はたくさんいるはずです。いずれにせよ、個性というものの発揮の仕方も、どんどん多様に、そして自由になってきているということですね。20歳代の人達がこうした柔軟性をもっていることは、とても頼もしく思えるものです。

 

二回連続の音楽ネタの投稿になってしまいました。あまり興味のない方には申し訳ありません。ただ、私自身はクラシック以外も含めて音楽やアートに色々と興味を持っているほうなので、これからも、あまり深入りしない程度に、こうした投稿をすることがあるかもしれません。その時は、よろしければつきあってやってください。

 

今回も、最後まで読んでくださってありがとうご会います。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常50 「個性」って何だろう

こんにちは。

 

今回は、前々回に引き続き、クラシック音楽ネタを少し。

先日まで、第18回ショパン国際ピアノコンクールポーランドワルシャワで開催されていました。これは5年に一度(ただし、今回はコロナ禍のため6年ぶりの開催)、約一か月間にわたって行われる、若手演奏家にとっての一流ピアニストへの登竜門とも言われるコンクールで、世界中から将来を嘱望される才能が、ショパンの生まれ故郷であるポーランドに集まってきます。5年に一度の開催であるため、ほとんどの挑戦者にとっては生涯で一度、多くても二度ぐらいしかチャンスがなく、まあ、ピアニスト達のオリンピックといってもよいものです。ポーランドの人々にとってショパンは郷土の誇りであり、このコンクールはいわば5年に一度の「祭り」であるようです。

これを主催しているショパン協会というところは大変太っ腹で、参加者すべての演奏が、ライブでYouTube上に無料公開されているだけでなく、アーカイブでいつでも好きな演奏を視聴することができます。しかも、音質、画質ともに、そのまま商品になるほどの高いレベルのもので、世界中のクラシック愛好家が夢中になるのです。かくいう私も、全部とは言いませんが、けっこうたくさんの演奏を視聴させてもらいました。このコンクール、現地の会場で聴こうとしても、チケット入手はきわめて困難なのですが、インターネットは本当に便利なものです。

ここで演奏されるのはすべて「ピアノの詩人」とも称されるショパンの曲。それを約100名もの参加者が入れ替わり立ち代わり弾くわけですから、当然、演奏曲目はかなり重複してきます。ふつうに考えれば、同じような曲ばかり延々と聴くことになるのですから、飽きてくるだろう、と思いますよね? ところが、これがまったく退屈しない。むしろ、さまざまなタイプの演奏に接することによって、次第にちょっとした違いやそれぞれの演奏者の意図もなんとなく見えてきて、おもしろさが増してくるのです。

これをありふれた言葉で表現すれば「個性」ということになります。

 

私は、すべての人は二種類に分けられると思っています。一方は、個性を強く押し出そうと努力し続ける人、そしてもう一方は、なるべく個性を前面に出さず、平均的な「普通の生き方」をしていこうとする人です。そのどちらが良いのか、ということを論じるつもりはありません。ただ、本来人間には、それぞれ隠そうと思っても隠し切れない、その人だけがもつ個性があり、それが色々な機会ににじみ出てくるものではないでしょうか。ですから、変に「自分の個性」とか「自分らしさ」などというものを意識しすぎることは、かえって自分を見失うだけなのです。上に紹介したコンクール参加者は、これから音楽界でスターになろうという人達ばかありですから、当然自分の個性をいかに前面に出そうとするでしょう。そのアピールのための演奏でもあるわけです。ところが、これを意識しすぎると、バランスの崩れた、不自然な演奏になってしまうのです。

私達の日常生活は、彼らのような厳しい競争環境にさらされているわけではありませんが、それでも、日々の言動には「自分らしさ」が表れるものです。それは、たとえ他人から押し付けられた仕事であっても、あるいはマニュアルに沿って遂行することが求められる仕事でも、変わりません。そこに人間というもののおもしろさがあり、一人一人の人間にしか出せない「味」というものがあるのです。

そのように考えれば、生活の中で自分の精神をすり減らしてしまうような感覚には襲われないのではないでしょうか。自分の行動をひとつの枠にはめ込もうとする試みも、そこから飛び出そうとする試みも、結局のところ「枠」を強く意識してしまっているという意味では、同じなのです。近年は、さまざまな理由でメンタルヘルス問題を抱えておられる方がたくさんいらっしゃいますが、ぜひ、自分の構えをもっとゆったりした自然体に近いものにできるようになっていただければいいなあ、と思わずにはいられません。私自身はそちらの方面の専門家ではありませんので、そうした人を助ける具体的な方法を提示することはできませんが。

 

本日も駄文を最後まで読んでくださって、ありがとうごあいました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常49 インフォームド・コンセント

こんにちは。

 

約一か月前の投稿で、十五夜と十三夜について書きましたが、去る10月18日が、その十三夜でした。この日、月をご覧になった方はいらっしゃったでしょうか。私は、残念ながら曇天だったため、この日はまったく月見をすることはできず、片見月になってしまいました。まあ、一応夜空を2度ほど見上げてみたので、月を見ようとする努力はした、ということで月の神様には許してもらい、栗でも食べましょうか。(十三夜の月は、別名「栗名月」とも呼ばれています。)

ところで、この十三夜の月見、始まりは平安時代にまでさかのぼるようです。もっとも有力な説は、醍醐天皇が月見の宴を催した時だ、というものだそうです。そして、日本以外でこのような「少し欠けている月」を愛でる習慣はないそうです。完ぺきではないものに美しさを見出す、というのは日本独特の美意識、文化のようですね。なお、十五夜を一日過ぎた十六夜を満月の名残として大事にする習慣も、日本以外にはないようです。同じものを見ていても、どこに美を感じるのか、国や地域によって異なるというのはおもしろいものです。

 

ところで、前に父の入院の話も書きましたが、今週ようやく無事に退院してきました。結局ちょうど3週間かかってしまいましたが、トシもトシですし、急に冷え込んだりしましたから、しょうがないですよね。入院生活で足腰は弱っているようですが、杖を頼りにすれば自力で歩いています。段差のある所はむずかしいですし、当面は風呂に入るのも恐いでしょうが、少しずつ慣れてくれれば、と思っています。介護用品専門店からレンタルで手すり等も入手しましたし、ゆっくり経過をみていきます。食事はちゃんと摂れていますから、体力は次第に回復する筈ですし。

退院の一週間ほど前、主治医の先生から説明がありましたので、私も病院に出向き、同席させてもらいました。実は、この日は私自身の通院もあったので、「病院のはしご」をすることになってしまったのですが、仕方がありません。

一度でも入院した経験のある方ならわかると思いますが、現代医療の世界では、ある程度大事な医療行為が行われる際には必ずインフォームド・コンセントが実施されます。つまり、医師や看護師からデータや画像に基づいて病状の詳しい説明とその後の治療方針・予定について詳細な説明があり、患者およびその家族側は自由に質問することができる機会を、病院の相談室あるいはカンファレンス・ルームのようなところで行うわけです。病院によっては、それらをすべて記録し、「たしかにインフォームド・コンセントを受けた」というサインを患者に求めるところもあります。もちろん、記録された書類は、そのコピーを貰えます。看護師がその場でパソコンに速記入力している場合もあります。

「患者が自分の治療について自分で決める」ことの大前提となるこの制度は、現代では必須となっていますが、日本で紹介され、この考え方が広まり始めたのは1960年代以降です。そして、日本医師会生命倫理懇談会が「説明と同意」と表現してその意義を認め始めたのは1990年のことですから、意外なほど新しい話です。

では、インフォームド・コンセントにはどんな意味があるのでしょうか。私なりに整理してみると、以下のような感じになります。

① 患者側に納得感、安心感を与える。そして、治療方法等の「自己決定」の材料とする。

② 医師側は、納得してもらえるだけのデータ等をきちんとそろえて、これに臨む必要があるので、事前にかなり正確かつ丁寧な検査、診療を行うようになる。

➂ インフォームド・コンセントで示したことについては、責任がともなうようになるため、医師側と患者側、そして医療機関の間で、責任の所在が明確になる。(そのためにも、記録文書は大事なのです。これがないと「言った、言わない」の争いになってしまいかねません。)

④ 自由な質疑応答がなされることによって、医師と患者のコミュニケーションはかなり密になる。

⑤ ともすれば感情的、悲観的になってしまいがちな患者側が、少しでも冷静に、客観的に自分の病気に向き合うきっかけとなる。

 

とはいえ、要するに両者の会話がスムーズに行われることによってこそ成立する制度ですから、話下手だったり、妙に遠慮したりすることによって、せっかくのインフォームド・コンセントがさほど効果を発揮しなくなることもあります。医師の方々には、経験を積み重ねることによって、柔らかで自然な雰囲気を作れるよう、努力を重ねてもらいたいですね。

ちなみに、私自身の経験からすると、医師は、まず悪い結果になる場合のことをきちんと説明します。決して「絶対に大丈夫です」とか「失敗はありません」、「すべて任せてください」などという、ドラマで出てきそうなセリフは喋りません。これは、その後の責任を考えると当然のことだろうと思います。発言に、明快さと柔和さを併せ持つことができるような医師が求められるのです。

 

今回も、最後まで読んでくださってありがとうございます。

急に冷え込んできて、季節が一気に進んだような気がします。皆さん、くれぐれも健康にはお気をつけください。