明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常99 2022年4月現在の近況報告です

こんにちは。

 

相変わらず、夏を思わせるような天気になったり、逆に一ヶ月ほど季節が戻ったような寒い風が吹いたり、という不順な天候ですね。それに加えて、花粉やらPM2.5やらも飛んでいるようです。私は花粉症ではないのですが、白内障の手術をしてさほど日数が経っていない身としては、目をごしごしとこするわけにもいかず、時々往生しています。

 

さて、このブログでは時々私自身の病状等についてもご報告していますので、今回はそんな感じで。

お伝えしてきたように、通常の通院による治療・診察に加えて、両目の白内障の手術を受けたことにより、2月、3月はかなり「病院通い」が忙しかったです。いちばんあわただしいときは、一週間に4日も何らかの形で通院しました。また、一日のうちに、「はしご」をした時もあったのです。

しかし、ようやくピークは過ぎ、4月に入ってからは少しゆとりが出てきています。眼科には、手術後のチェックのため、もうしばらくは通わなくてはならないようですが、よほどのことがない限り、治療はありませんので、かなり気楽です。ただ、まだ両目をバランスよく使うのに十分慣れておらず、時々モノがゆがんで見えることがあります。これは慣れるしかないみたいですね。

それから、多発性骨髄腫の治療ですが、ダラキューロは第9クールに入り、通院と治療は4週間に一度だけになりました。これまでは、ほぼ毎週通院していましたので、ずいぶん楽です。治療のたびに、かなり強い薬を注射していましたので、その副作用よる体調変化があるのですが、これも1週間に一度から4週間に一度になったわけで、これは大変ありがたいことです。まあ、体調変化と言っても、私の場合は、胃腸の動きが鈍くなり、これにともなって食欲がやや低下する、というか、食事量を自主的に抑える、という程度のもので、比較的軽い状況が続いています。ただ、ネットの書き込み等を見ていると、薬の副作用にはかなり個人差があり、ひどい場合は、数日寝込んでしまうような人もおられるようです。病院側としては、あまりひどい場合は薬を代える、ということぐらいしか対処法がないようです。そういう話を見聞きしていると、自分はラッキーだったな、と思います。

がんの治療と言えば、がん患者の5人に1人が、コロナの影響で、これまでの治療を変更したり、中止したりせざるを得なくなっているそうです。(がん患者の就労を支援する団体である「CSRプロジェクト」による調査)この2年間、医療機関や医療関係者をめぐる状況も非常に厳しくなっていますので、止むを得ないことではあるのですが、むずかしい問題ですね。たいていの抗がん剤は免疫力低下をもたらしてしまいますので、院内感染や通院途中での感染等のリスクも高まってしまいます。

ただ逆に言えば、こうした人達はこれまで通りの治療を是が非でも続けなければならない、という悪い状況ではない、ということです。つまり、しばらくの間なら代替措置を取ったり、治療そのものを中止したりしても、すぐに生命の危機に瀕する、というような状況ではないのです。現在のがん治療が、一般にイメージされているよりもかなり進化して、「がんと共に生きる」ことができる患者が増えているということの証左で、これは少し喜ぶべきことなのかもしれません。ただ、こういう状況がこれ以上長期間続いてしまうと、根本的な対策が必要になるのかもしれません。

また、他の問題もあります。例えば多発性骨髄腫に関して言えば、武田薬品のニンラーロという治療薬はロシアで製造しているそうで、ウクライナへのロシアの対応次第では、今後、製造や日本への安定供給が難しくなってくる可能性があるそうです。やはり、戦争というものは、思わぬところで私達の生活に影響を及ぼすものです。

 

そんなわけで、今回は単なる近況報告とそれに関連する話に終始してしまい、失礼しました。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常98 改めて思う、イチロー選手の凄さ

こんにちは。

 

春はすっかり本番となり、さまざまな場面での「新スタート」に関するニュースが日々流れています。こういったニュースは、輝きに満ちた未来を見据えたもので、希望に溢れていて、気持ちがいいですね。最近は暗いニュースばかり流れることが多いので、何度かほっとします。

ちなみに、私が以前勤務していた大学でも。新学長が就任し、入学式では、さっそく新入生たちに3つの「学ぶためのヒント」を話したそうです。それは、第一に「人との出会いを大

切にしよう」、第二に「自分で考えてみよう」、そして第三に「他流試合をしよう」だそうです。まあ、社会人の立場からすれば、いずれも当たり前のこと、というか言うまでもないことかもしれませんが、知らず知らずの間に視野が狭くなりがちな受験勉強をくぐり抜けた若者たちにとっては、新生活を始めるにあたって、大事な心構えですね。

また、これらは「学ぶ」ためだけではあなく、自分なりに「生活設計、人生設計をする」ために必ず必要なことだと思います。その観点から、もうひとつ私なりに言えることがあるとしたら、「自分の価値基準は自分で作ろう」ということになります。

 それはどういう意味か?

 わかりやすい例をひとつ出しましょう。野球の話になります。

 ちょうどアメリカではMLB(メジャー・リーグ・ベースボール)も開幕しました。大谷翔平選手をはじめ、何人かの日本人選手がアメリカの球団に在籍していますので、マスコミではかなり大きく扱っていますし、野球には興味のない方も、大谷選手のことはたいていご存じでしょう。

 もちろん彼の実績や存在感は否定するべくもないのですが、今回取り上げたいのは既に引退したイチロー選手のことです。彼のこともまた、「名前も聴いたことがない」という方は皆無でしょうが、少しだけ詳しく説明しましょう。

 彼が、高校を卒業して、日本のプロ野球オリックス・ブルーウェーブに入団したのは1992年。頭角を現したのは3年目からで、この年に一軍レギュラーの座をつかんでいます。その後2000年まで毎年のように数々のタイトルを獲得するなど活躍し、翌2001年からはMLBに移籍して、そこでも周囲が、いや、すべての野球ファンが驚くような実績を残して見せたのです。

少し関心のある方ならご存じでしょうが、野球の打撃に関する主要な指標としてよく使われるのが、年間の打率、ホームラン数、打点数の3つです。イチロー選手はいわゆるホームラン・バッターではなく、主にトップ・バッタでしたので、打点数もさほど多いわけではありません。しかし打率に関しては、日米双方で、誰も真似できないような数字を残しています。日本では8年連続で3割以上、アメリカではなんと10年連続で3割以上の打率を残しているのです。こんな選手は滅多にいません。

しかし、彼が目指していた数字は打率ではありませんでした。彼が最後までこだわり続けたのは、年間の安打数だったのです。つまり、少し打てないとし数字が下がってしまう打率ではなく、きちんと努力していれば数字を積み重ねることができる安打数にこそ、自分の仕事の価値基準を見出していたのです。

さまざまなデータによって選手の力量が語られるプロ野球のことですが、当時、安打数はさほど注目される数字ではありませんでした。もちろん、年間最多安打はタイトルのひとつにはなっていましたし、生涯通産安打数は張本勲選手(少し前まで、日曜朝の関口宏さん司会の番組で『喝!』とやっていた人ですね。)が3000本という金字塔を立てていたことは知られていましたが、先に挙げた3つの数字に比べると、どうしても地味に思われてしまい、注目度も低かったのです。

イチロー選手の凄いところは、自分が安打数にこだわるということをかなり早い段階から公言し、それを実践していたこと、そして、自身への注目を引き付けることによって、次第にその価値を野球界全体に認めさせていったことです。

もちろん、これを実現するために、彼はさ、さまざまな努力を重ねています。例えば、アメリカに渡った時には、MLBのピッチャーに対応するために、バッティング・フォームを改造しています。また、注目を集めるために、マスコミにも積極的に登場しています。一度など、大ヒットしたテレビ・ドラマ「古畑任三郎」のスペシャル版に、犯人役として、つまり準主役として、出演しています。テレビCMには今でも時々出ていますね。

彼が旧来のモノの見方にとらわれていたら、あのような活躍はできなかったのかもしれません。自分の価値基準は自分で決める。そして、決めたからにはその価値基準に照らして満足のいくような活躍ができるように、自分を磨く。彼には、そういった強い信念があったのだと思います。

ひとつの組織の中で仕事をしていると、なかなかこのような働き方は難しい、と感じる方も多いかもしれません。しかし、日常的に仕事をこなす中でも、必ず何かしらの「自分なりの目標」「自分なりの価値」を見出すことは不可能ではないはずです。そして、そのことが、自分のキャリアを形成していくことの大きな支柱になると私は考えます。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常97 ロシア料理店「キエフ」

こんにちは。

 

すっかり春らしい陽気になってきましたね。というか、日中は少し汗ばむような気温の上がり方です。でも、朝晩はまだ冷え込むこともありますので、こんな時こそ、体調の変化には気をつけたいものです。オミクロン株は「BA2」が幅を利かせているようですし、さらには

新たな変異株「XE」が出てきているようなので、既にワクチンを接種していても、要注意ですね。

 

さて、ウクライナをめぐる状況は、やはり泥沼化の様相を呈しているようで、なかなか着地点を見出すことができません。最近は、ロシア軍の爆撃によるものとされる被害の実態が次々と明らかにされ、さらには、まるでナチスを思わせるような惨殺行為によって、大変多くの人が犠牲になったという報道も、ショッキングな画像と共に流れてきています。しかし他方で、ロシア側はこれをすべてフェイクであると主張し、国連等の公の場でも猛然と反論を繰り返している状況です。ロシア側に圧倒的に非があるというのが、日本に限らず、多くの国における一般的な見方ですが、他方、ウクライナが発信している情報について一切懐疑的になることなく、すべて信じてしまうのも、問題かもしれません。なにより、ロシアを「悪者」として批判し、制裁を加えようとするだけでは根本的な解決への道のりは遠いことを考えておく必要があります。私達は、こういう時だからこそ、どこまで客観的に物事を見ることができるのかが問われるのでしょうね。

そんななかで、ウクライナの首都名の日本語表記を「キエフ」から「キーウ」に変更することが政府によって決定され、マスコミの表記もあっという間に変わりました。もちろん、「ウクライナの都市名なのだから、ウクライナ語に即するべきだ」という主張は至極真っ当ですが、それならば、他の国名や都市名でこのようなこと(ねじれ現象)が起きていないのか、改めて検証する必要があると思います。人名もそうなのですが、基本的に、固有名詞はそれを名乗っている当事者が希望する発音に準じて読み仮名(カタカナ)がふられるべきなのです。

さて、そうした一般論はとりあえずさて置くとして、キエフがキーウに変わったことで戸惑っている方もいらっしゃいます。

京都に「キエフ」という名前のレストランがあります。開業は1972年。歌手の加藤登紀子さんのお父さんが立ち上げられた店で、ロシア料理の店として、関西では長い間親しまれてきました。キエフという店名は、1971年に京都市キエフ市が姉妹都市提携したことにちなんでいます。実は私はこの店、1970年代から知っていて、何回か家族で訪れたことがありました。キエフスキー(キエフ風カツレツ)とかペリメニ(ロシア風の茹で餃子)など、他ではお目にかかれない珍しいメニューがあったので、よく覚えています。その後、京都で合唱団に入っていたときには、時々そのメンバーと一緒にこの店を利用したこともあります。(今はなくなっていますが、一時はバーも経営されていて、そこにもよく行きました。)

ロシア料理とウクライナ料理というのは、それこそ兄弟のようなもので、ルーツが同じものもたくさんあるようです。例えば、ロシア料理の代表と思われているボルシチは、実はウクライナ発祥のようです。国境とは無関係に、この地域全体で文化交流が進んできたのですから、これは当然ですね。

そういうわけなので、この店は、ソ連崩壊とウクライナ独立以降も、ロシア料理の店として、変わることのない味を提供してきたのです。現在のオーナーは、登紀子さんのお兄さんですが、「国境で隔てられていても、この地域の総称としてのロシア料理だ」という意識で店を続けておられます。そして店のスタッフにも、ロシア出身の人とウクライナ出身の人が混在しているそうです。また、2014年のロシアによるクリミア侵攻後は、両方に友人のいるオーナーの「仲良くしてほしい」という強い思いを店名に込めてきたそうです。

今、この店のホームページを見ると「京都で本格的なロシア料理とウクライナ料理を味わえるお店です」という表記があります。これまでの経緯からすれば、本当はこのように両国名を併記するのは、本意ではないかもしれません。しかし、世の中の風潮は、「総称としてのロシア料理」という位置づけを許してくれないのかもしれません。ひょっとすると、「どうしてもロシア料理を出したいのなら、ロシアの地名を店名にしろ!」といった苦情や問い合わせが寄せられているかもしれません。それを抑えるには、こうした表現にするしかないのです。キーウという名称を使うかどうかも含めて、オーナーの悩み、苦しみはまだまだ続くのでしょう。

今、現地で起きていることと比較すれば、今回ご紹介したことはほんの些細なことです。しかし、ひとつの国が暴走することによる影響は、民間レベルの隅々にまで及んでしまうこと、そしてほとんどの人はこうした争いが一刻も早く終結し、地域を超えた交流が活発になる事を望んでいる、ということを、施政者には忘れてほしくないものです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常96 ドラマ「風のガーデン」をめぐって

こんにちは。

 

4月になり、さまざまな「切り替わり」が行われています。とくに成年年齢の18歳への切り下げは、今後色々と影響が出てきそうな気がします。長期的に注目しなくてはならないことでしょうが。とりあえずはしばらく様子見ということになるのでしょうか。

というわけで、当ブログはこれまでと変わることなく、淡々と進めていく予定ですのでよろしく。

早速ですが、前回の補足から。

白い巨塔」のテレビ・ドラマ化は1978年と書きましたが、それより以前に、まず1965年にラジオ・ドラマ化、そして翌1966年には映画化されています。主演はいずれも田宮二郎さんです。つまり、テレビ・ドラマ化以前から、かなり話題になっていた問題作として位置づけられていたのですね。だからこそ「白いシリーズ」では最終作品として、それこそ満を持する形で放映に至ったのです。

しかし1973年販「白い影」もこれに負けず劣らずの迫力を持った作品だったのです。原作が渡辺淳一さんですから、恋愛ものの色合いがどうしてもある程度は濃くなっていますが、何と言っても、脚本に倉本聰さんがかかわっているのです。(全話がそうだというわけではありませんが、序盤の1~5話、そして後半の12~14話、つまりもっとも重要な回が彼の脚本になっています。)そのためでしょうか。大変重いテーマを扱っているにもかかわらず、どこか柔らかい、そして静かな手触りのドラマとなっています。それはその他の回にも共通しています。さらに、そのテイストは、2001年版にも少なからず影響を及ぼしているようです。また、重要な部分でBGMとしてそっと流れるマーラー交響曲第5番第4楽章の旋律が、大変印象的です。

ところで、倉本聰脚本のドラマと言えば、誰でもすぐに思い浮かべるのが「北の国から」でしょう。でも、今回ご紹介したいのは2008年に放映された「風のガーデン」です。このドラマは、緒形拳さんの遺作になったということでも話題になりましたが、「白い影」と同様、主人公である医師ががん(このドラマではすい臓がん)に罹患し、肉体と精神をだんだんと蝕まれていく、というドラマです。ここでの主人公(中井貴一さん)は大病院の中では私達患者から見て比較的地味とも思える麻酔科医の医師ですが、普段はとても明るく、学生向けの講義は常に笑い声が絶えない、という華やかな存在です。しかし、彼の身体に暗い影が差していることは初回で既に明らかになっています。このドラマは、単なる医療ドラマでも、あるいはがんという病気をテーマにしたドラマでもありません。話は、不倫、家族崩壊、知的障害、在宅医療など、とても暗く重いテーマを背景に進んでいきます。また、北海道の自然とガーデニング花言葉(といっても緒形拳さん演じる老医師が自分勝手に作って悦に入っている代物ですが)、よさこいソーラン生前葬などといった話題も挿入され、全11回がそれこそあっという間に過ぎていきます。そして何よりも光るのが、主演の中井貴一さん、そして知的障害の青年という難しい役を見事にこなしている神木隆之介さんの演技力です。とくに、身体が衰えてからの主人公の姿は、本当にリアリティ溢れるものだと思います。

それから、もうひとつこのドラマで見逃さないのが主題曲、挿入曲を歌った平原綾香さん。曲は、ショパンノクターン第20番を元にしたものですが、これに英語および日本語の歌詞をつけ、見事に彼女自身のオリジナルな作品に仕上げています。また、このドラマで、彼女は主人公の現在の恋人役を演じているのですが、これもなかなかのものです。おそらく中井貴一さんの的確なアドバイスがあったのでしょうね。

それにしても、医療現場や医師を取り上げたドラマや映画は、本当に数が多いです。病気そのものについての勉強や病院の内部事情についての取材などが重要となる難しいテーマなのに、これを取り上げようとする監督や演出家が多いのはなぜでしょうか。それはおそらく、「ヒトの命に直接かかわる」ことを取り上げるからこそ、視聴者に響きやすい、ということなのでしょう。そして患者が医師自身である場合、その人間性がむき出しになっていく分、余計に私達はそこに様々に入り乱れた感情を抱くことになります。病気に罹患するという経験は、性別にも、年齢にも、そしてもちろん職業等にも関係なく、誰にでも訪れる可能性があるものです。そしてその時、人はどのように振舞ってしまうのか、また、どのように振舞っていくべきなのか・・・本当のところは、実際に病気にかかってみないとリアリティをもって考えることはできないでしょうが、ご紹介したドラマ等をそのひとつの機会にすることはできるのかな、と思う次第です。

 

最後にちょっと変わった写真を一枚。

今朝気がついたのですが、我が家(マンションの6階)のベランダの片隅で、なんと雑草が花を咲かせていました。ここは、ちょうどベランダの角にあたるため、土が溜まりやすいのですが、それにしても、種子が飛んできて、芽吹き、花を咲かせるまでに成長するとは、驚きを通り越して、感心してしまいます。残念ながら花の名前はわからないのですが、その強い生命力には脱帽です。

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今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常95 ドラマ「白い影」をめぐって

こんにちは。

 

あっという間に3月が終わろうとしています。今年はどんな年になるのだろう、と思いながら年始を迎えてから3か月。まさか、こんなに深刻な戦争が起きるとは思ってもいませんでした。毎日ニュースを見ながら、とにかく、とりあえず一刻も早く停戦して、人々の命を守ってくれ、色々と取引や交渉をするのはその後でいい。というように、現状ではなかなか実現しそうにないであろうことを願っているのは、私だけでないでしょう。

 

さて、話は変わりますが、皆さんは「白い影」(原作は渡辺淳一)というテレビ・ドラマをご存じでしょうか。最初に放送されたものは1973年、田宮二郎さんが主演でした。そして2001年には中居正広さん主演でリメイクされています。主演が田宮二郎さんで、「白い・・・」と聞いて、ピンとくる方もいらっしゃるでしょう。当時、大変人気のあった田宮二郎さんを主役に据えたドラマが次々と作られ、俗に「白いシリーズ」などと呼ばれているのです。本作はその第1作に当たります。脚本は、若き日の倉本聰さんなどが担当しています。

ちなみに、もっとも有名な「白い巨塔」(山崎豊子原作)は、このシリーズの最終作です。これも、唐沢寿明さん主演でリメイクされていますね。余談ですが、10年ほど前、宿泊したホテルでぼーっとテレビを見ていたら、韓国版にリメイクされた「白い巨塔」をやっていて、大変驚いたことがあります。国を超えて、人の心に響くところの多いドラマだったのですね。なお、「白い巨塔」が放映された1978年、田宮二郎さんは48歳という若さで、この世を去っています。

話が横道に逸れてしまいました。「白い影」は「白い巨塔」と同じく、天才的な才能と技量を持つ外科医が主人公です。そして、その主人公ががんに罹患してしまう、という点も共通しています。まあ、これはおそらく偶然だと思いますが・・・

そして、罹患したがんが、なんと多発性骨髄腫だったのです。1973年当時、ほとんど未知の病気で、その原因も全く分からず、罹患する人は10万人1人以下、とされていた難病です。これ以上書くとネタバレになってしまいますので、ここまでにしておきますが、主人公は肉体的にも精神的にもかなり追い込まれ、自暴自棄にもなってしまいます。

あらすじや病名は2001年版の中居正広版でもほぼ同じです。私は残念ながら見逃したのですが、調べてみると、平均視聴率が約20%にも上っていますので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょうね。(さすが、中居クンですね)

ドラマの内容ももちろんですが、私が注目したのは、リメイク版が作られたのがわずか20年前だということです。つまり、20年前、この病気はまだまだ不明な点が多い、「治療はほとんど不可能」という位置づけの病気だったわけです。

それからの医療技術や薬剤の進歩は著しく、患者数は以前よりかなり多くなっているにもかかわらず、10年以上生存する人も増えているということは、このブログでも何度も触れてきたとおりです。私も、もし20年前に罹患していたら、今のように冷静ではいられなかったかもしれません。というか、とっくにこの世からいなくなっていた可能性が極めて高いと言えるでしょう。

以前は「不治の病」とされていた様々な病気の治療法が、どんどん進化しているというのは、本当に素晴らしいことです。医療関係者や研究者の仕事に改めて敬意を表するとともに、だからこそ、命を大事にしなくてはならない、と肝に銘じるところです。ましてや、「万人が万人を殺す」ことになる戦争など、絶対にあってはならないことだという思いが改めて強くなりますね。

蛇足ですが、2001年版でヒロインを演じていたのは竹内結子さんです。彼女もまた、40歳という若さで亡くなっていることは皆さんもご存じのとおりです。田宮二郎さんのこととあわせて考えると、あまりにも切なくなります。

 

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常94 親鸞のキャリア形成

こんにちは。

 

ご無沙汰しております。

私にとって、2月中旬からのおよそ一ヶ月半は、白内障の手術を受けたり、3回目のワクチン接種があったり、また、骨髄検査というちょっとハードな検査に臨んだり、というなかなかに気の休まらない日々が続いていましたが、ようやくそれらにも目途がつきつつあります。左目の手術は今週火曜日に無事終わり、明日にはやっと保護眼帯を外すことができ、洗髪洗顔も可能となります。やれやれ、ですね。

目の方は、術後の経過は非常に順調なのですが、とにかく急にすべてのものが明るく見えるようになったもので、まだ戸惑い気味です。両目でモノを見たり、本を読んだりするときに、うまく焦点を合わせることができないことも時々あるのですが、これはまあ慣れていくしかないでしょう。経過を見るために、まだしばらくは定期的に眼科に通わなくてはいけないようですが、とにかく、心配事がひとつ減ったことにほっとしています。

そうこうしているうちに、昼間の気温が20度を超える日が出てきたりして、すっかり春の様相になってきましたね。桜の便りもちらほらと聞かれるようになりました。

ただ、そんなふうに季節が一歩ずつ進んでいるのに、ロシアとウクライナの攻防は相変わらずです。最近は、ウクライナ軍がロシア側を押し返しているのではないか、という報道もあり、これを応援する声は、日本に限らず、世界中で多くなっているようです。もともと侵攻された側であるウクライナを応援する気持ちは、わからないではないのですが、私自身はこれを手放しに喜ぶ気にはなれません。アメリカやNATOが後ろについているとはいえ、両国の軍事力や経済力にはもともと大きな差があります。プーチン大統領の気質から考えても、このままずるずると撤退ということにはならないでしょう。となると、戦局はかなり長期化、泥沼化する恐れが出てきます。その結果、大きな被害を被うるのは両国の一般市民と兵士たちなのです。(兵士たちは、武器こそ手にはしていますが、地元に帰れば一般市民であることには変わりませんし、彼等にも家族はいます。そういう意味では、兵士たちの命がそうでない人たちの命よりも軽いなどということは決してないのです。)

谷川俊太郎の詩にこんな一節があります。

   死んだ兵士の残したものは

   壊れた銃とゆがんだ地球

   他には何も残せなかった

   平和ひとつ残せなかった

(「死んだ男の残したものは」より抜粋)

 

今戦わなければ、祖国がなくなってしまう」というウクライナの人々の気持ちは、もちろんよくわかります。しかし他方で、武力や経済制裁による解決は、必ず後世にしこりを残してしまいます。それは、これまで世界中で行われてきた多くの戦争の経験がはっきりと物語っています。プーチンという人に対して「理性的になれ」というのはとても難しいことなのかもしれませんが、なんとか対話による解決をめざすべく、すべての国には努力を続けてもらいたいものです。

 

気を取り直して、少し他の話題を。

間もなく4月になりますが、これはこの春大学や高校等を卒業した新社会人達が新たなキャリアを踏み出す時期です。ただ、最近は新卒で企業に就職しても、そのまま定年まで勤め続ける、という人はかなり減っています。彼等もそのことは十分承知していますから、「これで大船に乗ったようなものだ」と考えている人は、おそらくほとんどいないでしょう。自分のキャリア構築は自己責任で、というのがこれからの当たり前の考え方になっていくのでしょうね。

ただ、キャリア構築というのは、必ずしも計画した通り、予定した通りにはいかないものです。さまざまな偶然の出会いや想定外の出来事、環境変化などによって、人生の進路は大きく変わっていくものです。むしろ、そうした偶然性によって決まることの方が多い、、といっても過言ではありません。

一人だけ、象徴的な例を紹介しましょう。

親鸞といえば浄土真宗を開いた日本における仏教史上最も重要な人物の一人であることは誰でも知っていることですが、この人、実は何回か人生を大きく左右されるような出来事に遭遇しています。

一度は、9歳で入山し、その後20年間も修行を続けた比叡山延暦寺で。彼は幼くして仏の道に入ることを決心し、頼みこんで比叡山に入ったのですが、どうも当時の延暦寺をめぐる状況やその雰囲気は、彼が思い描いていたものとは少し異なっていたようです。20年間経っても悟りの境地にはほど遠く、煩悩を断ち切ることもできず、苦しんだのです。現代に当てはめれば、理想だと思って就職した会社がどうも自分に合わず、「何か違うなあ」と思いながら20も経過してしまった、いうところですね。

その後、下山した彼はしばらくの間「迷い道」するのですが、縁あって、法然(浄土宗を開いた人ですね)の弟子になることを決意し、これがその後の人生を決定づけることになります。法然は念仏を唱えることを軸にした教え(専修念仏)で、その頃既に京都ではかなり人気のある存在ではありましたが、親鸞はおそらくその教えだけではなく、生き方や考え方、人柄すべてに心を奪われたのでしょう。もちろん、二人の出会いは、純粋に偶然であるということはできないのですが、いずれにせよ、ここまで人生を変える存在にはなかなか出会えるものではありませんね。

その後、念仏の教えは朝廷や因習に囚われる既存の仏教界からはいわば「異端」あるいは「邪教」とみなされて、法然およびその高弟達は死罪、あるいは京都からの追放(流罪)ということになってしまいます。(承元の法難) 専修念仏崩壊の危機です。しかし、法然親鸞は、むしろこれを「念仏の教えを地方に広く普及させる機会だ」と前向きにとらえ、その活動を継続していったのです。その結果、現在でも全国に浄土真宗の寺院はたくさんあるのです。現代に例えれば、左遷されても、その赴任先で自分を活かし、あるいは自分を成長させようとした、ということになります。

今回は、親鸞のキャリア形成という視点からごく簡単に紹介しましたので、浄土真宗の教えや浄土宗との相違等についてはすべて割愛します。とにかく、親鸞が、ずいぶん大きな波に揉まれる中で、不安にかられながらも何とか自らの道を切り開いていったことだけでもわかっていただければ幸いです。彼がそれを貫徹できたのは「仏の道を進むのだ」という強い思い、ただそれだけです。決してはじめから明確な人生設計図や確固たる自信があったわけではないのです。

現代人も、どんなキャリアを進むにせよ、そこに自分にとっての芯になるような「何か」が必要でしょうね。

 

少し長くなってしまいましたが、今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常93 「美しい」ということについて

こんにちは。

 

まずは、前回に引き続いて京都散歩の巻。

下の写真は、城南宮という神社にあるしだれ梅です。京都市南部に位置し、平安遷都以来の歴史を有する神社ですが、周辺に観光スポットがないせいか、数ある京都の寺社の中では、さほど有名な存在ではないかもしれません。ただ、神苑は見事で、季節折々の花が咲き誇りますし、年中行事として伝統の「曲水の宴」が開かれたりもします。京都にはたくさんの梅が見事なスポットがありますが、これだけ見事なしだれ梅は珍しいかもしれません。その美しさに惹かれる人はとても多いようです。

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人は美しい風景や絵画、音楽等に接するとき、どこに「美しさ」を感じるのでしょうか。もちろん、対象そのものがもつ絶対的な美しさに惹かれる、というパターンもあるでしょう。他方で、その背景や裏側にある「何か」を豊かに想像あるいはは妄想し、そこから美しさを感じ取る、というパターンもあります。そしてこの場合、これを鑑賞する人間の想像の余地が大きければ大きいほど、言い換えれば解釈の仕方が様々であればあるほど、人はそこに魅入られてしまうように思うのです。「こんな風にも見えるし、あんなふうにも解釈できる」というわけですね。例えば、満開のしだれ梅はもちろん堂々としていて素晴らしいのですが、散ってしまった花びらにも美しさ、というか「もののあはれ」のような情緒を感じますよね。それは色々に感じられるからこそ、おもしろいのです。

 

話は違いますが、フェルメールの有名な絵画のひとつに、「窓辺で手紙を読む女」というのがあるのはご存じでしょうか。フェルメールと言えば、部屋の中に差し込む光を効果的に描く、印象的な絵を思いうかべますが、この絵でも、左側の窓からの光の中で手紙を読む女性が描かれています。しかしその表情はさほどはっきりとしているわけではなく、私たちは「この手紙はいったい誰からの、そしてどのような内容のものなのだろうか」と想像することになります。見るたびにその印象は変わってくるかもしれません。そしてそれがこの絵の大きな魅力のひとつになってきたような気がするのです。

しかし、近年の科学技術の進展は著しく、この絵の背景にある壁には元々弓矢を持ったキューピッドの立像が描かれていたことが分かりました。当初はフェルメール自身が塗りつぶしたものと思われていたのですが、実は彼の死後に誰かによって手を加えられてしまったことも判明し、このたびこれをはがす修復作業が行われたのです。現れたキューピッド(愛の神)は、地面に転がる仮面を踏みつけているのですが、これは偽装や偽善を乗り越える誠実な愛の証しとして解釈できるそうです。そのことから、女性が読んでいる手紙は愛しい人からの恋文である、と考えられるようになったそうです。

このことは、作者がこの絵に込めた思いがようやく解明された、ということで美術界では大きな話題になっており、今、東京で行われている「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」でこの実物を見ることができます。

(どんな絵か、写真を張りつけようかと思ったのですが、権利関係のことがよくわからないので、止めておきます。フェルメール著作権がないことは当然ですが。。。 気になる方は、ご自分でネット検索等してみてください。)

私は、こうした科学技術の進歩にも、そしてフェルメール研究の深化にも敬意を払いますが、他方で、壁が塗りこめられていて謎に満ちていた絵の方が「ひょっとしたら面白かったかも」とも思ってしまいます。何が正解なのかはよくわかりませんが、少なくとも芸術分野に関する限り、解釈が明解なものとなり、それが唯一絶対のものとされていくことが、人間の想像力醸成という観点からすると、必ずしも、豊かなことであるとは限らないような気がするのです。

 

今回は、ちょっと独りよがりな文章で、失礼しました。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。なお、ちょっと所用が立て込んでいたり、左目の白内障手術があったりするため、多分これから10日間ほどはブログ投稿をお休みさせていただきます。

それでは、また。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常92 「書くこと」の意味と京都の夜

こんにちは。

 

このブログをはじめた昨年7月頃、私は、自分自身の備忘録として、また、入院していた当時お会いすることができずにご無礼してしまった仕事関係の方々や知人に対する、今さらながらの釈明の場として、このブログを考えていました。まったくの見知らぬ方との交流は、正直なところ、さほど期待してはいなかったのです。

しかし、あれから約9か月が経ち、これまでの総アクセス数が5500に迫る中で、時々ですが、私と同じように厄介な病気に罹患している方等からコメントや連絡をいただけるようになりました。先日も、同じ病気を抱えている私より年上の女性からコメントを頂いたのですが、この方は多発性骨髄腫と診断されてから既に12年経過しておられ、現在は無治療の状態で元気にお過ごしになっているそうです。こうした方のお話を聞くと、やはり勇気づけられますね。ブログをやってみてよかったと思える瞬間です。

私にとって、文章を書くということは、軽い頭の体操という意味もあります。2000字から3000字程度の文章を書くことは、これまでの仕事柄、まったく苦にはならないのですが、論文等の原稿を書く時とは異なり、まずは読者に少しでも興味をもっていただけるネタ探しから始まる作業を、けっこう楽しんでやっています。ちなみに、ネタの候補は新聞やネットの記事、そして自分の経験等から考えていますが、常に10本以上は用意していますので、しばらくはネタ切れになることはないでしょう。

本当は、もっと短い言葉で表現できるもの、例えば詩や短歌、俳句等にも挑戦してみたい気持ちもあるのですが、これらにはまだ手を付けられないでいます。できることなら、日本語修業はずっと続けていきたいものです。(テレビ番組「プレバト」を見ていると、俳句という文芸ジャンルの奥深さ、そして合理性がよくわかりますね。俳人である夏井いつきさんの解説や添削を見て、興味をおぼえた方は多いのではないでしょうか。)

 

ところで、ようやく日中の最高気温が20度を超える日がやってきたりして、春本番も近いと感じられるようになりましたね。まだ時折冷たい風も吹きますが、それでも暖かそうな陽の光に誘われて、外に出かけたくなる気持ちも増してきました。まあ、オミクロン株の先行きがなかなか見通せないのが辛いところですが。

そんなわけで、先日は京都市で開催されていた「東山花灯路2022」というイベントに行ってきました。(これは夜のイベントなので、陽の光は関係ありませんが、夜も随分暖かくなってきましたよ。)昨年秋、「嵐山花灯路2021」をご紹介しましたが、その姉妹イベントで、これまで京都市が開催してきたものですが、嵐山と同様、財政難の影響もあって、今回で最終回となるそうです。残念なことです。相変わらず外国人観光客がいませんので、さほど混雑していませんでしたが、清水寺に向かう二年坂、三年坂あたりはそれなりに賑わっていました。この周辺は、もともと観光地として有名なところなので、昼間に訪れたことのある方は多いと思いますが、夜の京都にはやはり独特の風情がありますね。ほどよいウエットな感じが何とも心地よいものです。光量がむやみに多く、自己主張が強すぎる東京のライトアップ・イベントとは一味違います。

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夜空に浮かぶ法観寺八坂の塔

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今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常91 骨髄検査は難物だ

こんにちは。

 

前回は白内障について書きましたが、まずは少しだけその補足を。

先日、バレーボールの男子日本代表選手でもある藤井直伸さんに関する少しショッキングな記事が新聞紙上を賑わせました。彼は、少し前から目の不調を感じていて、「ボールが2つ、あるいは3つに見える」という自覚症状があったようですが、精密検査をしたところ、なんと胃がんのステージ4であることが判明したのです。新聞報道にはあまり詳しくは記載されていませんが、彼自身、おそらく「まさか」という気持ちだったでしょう。つまり、目が不調だからと言って、必ずしも目の病気とは限らないということです。とくに目は脳に近いところにありますから、そちらの方面の病気も疑わなくてはなりません。藤井さんの場合も、胃がんが脳に転移して、それが視覚の異常という形で外に現れたのでしょう。

このことから言えることは大変シンプルです。症状として自分の体に現れる不調から自分の病気を素人判断してはならない、ということですね。

思い返してみると、私の場合も、最初はただの腰痛かと思っていたら、実は多発性骨髄腫という厄介な病気だったという経験があります。医師の判断や診断がいつも必ず正しいとは限りませんし、「重大な病気を見逃した」という事例もしばしば目にします。しかし、少なくとも医学的知識のほとんどない人間が勝手に判断するよりはマシなはずです。もちろん、どの医師のどの言葉を信じ、あるいは信じないかは個人の自由ですが、不調を感じたら、まずはきちんと検査を受けて、判断すべき客観的情報を入手する、ということは必要だろうと思います。

藤井さんの早期回復をお祈りしています。

 

さて、私自身は一昨日新型コロナ・ウイルスの3回目のワクチンを接種してきました。過去2回と同様モデルナです。巷ではモデルナの方が副反応が出やすいという話で、少しばかりは緊張していましたが、結局、過去2回と同様、ほとんど副反応らしきものはありませんでした。発熱や腕の痛みはもちろん、倦怠感もほとんどありませんでした。これから接種される方も多いと思いますが、注射した部分を保冷剤(タオルで巻き付けたもの)で冷やし、水分をいつもより多めに取る、というだけで、随分違うようですよ。会場で接種後肩の部分を冷やしていた方はほとんどいらっしゃらなかったようですが、試してみる価値はあります。

この後どのぐらいの期間で中和抗体が増加してくるのかはよくわかりませんが、とりあえずは一安心です。もちろん、ワクチンを接種したからと言っても感染するリスクはある程度あるので、相変わらず注意が必要であることは言うまでもありませんが。

 

今回はもうひとつご報告です。

以前の投稿でも少し触れたのですが、少し前に骨髄検査を受けました。最近は血液検査や尿検査の結果が非常に良好だったので、「一度、もっと詳しい検査をして、がん細胞がどの程度残っているか確認してみましょう」ということになったのです。

ただ、この骨髄検査というやつ、かなり手ごわいです。これまでにも数回受けたことがあるのですが、何とも形容しがたい独特の痛みがあるのです。まあ、当然と言えば当然です。非常に太い注射針のようなものを骨髄にさして、これを吸い出すのですから。事前には2~3本の麻酔注射を打つのですが、それでも思わず声が漏れてしまうような痛みがあるのです。刺すような痛みではないのですが、あまり何度も経験したくはない代物です。

以前入院していた病院で相部屋になった患者さんは、事前に「けっこう痛いよ」と言われていたらしく、担当医師にしつこいぐらい何度も繰り返して「痛いですか?」と尋ね、最後には、あきれた医師から「私も自分で受けたことはないので実際のところはよくわかりません。」と突き放されていました。気持ちはわかりますが、あれは思わず少し笑ってしまったなあ。

さて、そしてその結果ですが、骨髄中のがん細胞の割合は0.0036%というものでした。つまり1万分の1にも満たない数値ですね。医師の見立てでは「これまでの治療の効果のためか、非常に微量になっていますが、陰性か陽性か?と聞かれたら、陽性になってしまうんですねえ。」とのことで、とりあえずはこれまで通りの治療を継続することになりました。陰性と判断されるには、完全にゼロになってしまわないとダメなようです。そうなれば「深いレベルの寛解(奏功)ということになるのですが、私の場合はその一歩手前のようです。

ただ、この結果には私はまったく失望していません。もちろん、陰性になれば、若干治療方針は変更される可能性はありましたが、いずれにせよ、これで治癒(完治)ということにはなりません。いつまた再発するかわかりませんし、薬のせいで免疫力は低下していますので、なんらかの感染症にかかるリスクは相変わらずです。むしろ、予定通りに治療を進めていけることに安堵すべきなのでしょう。このブログを書き始めた当初にも書いた事なのですが、この病気とは長年つきあっていく覚悟が必要なのです。決して「克服」とか「闘病」などという勇ましい言葉を使うのではなく、日常生活の中で、なるべく平常心で自分の病気に向き合っていきたいものです。もうすぐ診断を受けてから8年になりますが、その頃は「10年以上生存する人もいる」という程度の生存率しかなかったのですから・・・。

 

本日はここまで。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常90 白内障・・・

こんにちは。

 

今朝の報道によると、ロシア軍はウクライナにあるヨーロッパ最大の原発を攻撃し、このため現地では火災が起きているそうです。このニュースに関しては、現段階ではまだどの程度の被害が出ているのか確かめられていませんし、果たしてクレムリンの指示によるものなのかどうかも不明ですが、これが本当だとしたら、ますますロシアは国際的に孤立への道を歩むことになってしまうと思われます。もちろん、あらゆる戦争は否定されるべきものですし、核を用いることには世界中がさらに神経質になっているわけですが、相手国の原発を攻撃するなどという蛮行はその中でも最大の禁じ手ではないでしょうか。これを支持する人は、さすがにほとんどいないでしょう。

 

このことはさておき、今回は予告通り、私自身に起きた白内障について書いていくこととします。

まず、白内障とは、目のレンズの役割をする水晶体が白く濁り、目が見えづらくなるもので、高齢者に非常に多く、年齢と共に発症者が増えます。50歳代で37~54%、60歳代で66~83%、70歳代で84~97%、80歳以上ではほぼ100%の人に、程度の差はあるものの白内障の症状が見られたという調査結果があります。つまりトシを重ねれば、誰でもそのリスクは高まるのです。眼科の医師は「白髪と同じようなもので、必ずしも病気とは言えない」と言っています。

ただ、原因としては、加齢以外にもいくつか考えられるようで、私のように、ステロイド系の薬を長年服用してきたことによってそのリスクが高まることもありますが、赤外線や紫外線の浴びすぎ、基準値を超える放射線の照射、1日20本意上の喫煙なども、この原因となります。多くの場合は、これらと加齢が重なって白内障となるのですが、これ以外にも、外傷性のものもあります。つまり、目に何か硬い物があたってしまい、それが原因でしばらくしてから白内障になる、というケースもあるのです。私の知人である木工職人は、木材の切断中に木片が顔に飛んできたことが原因で、白内障になっています。(今はもう完全に復活しています。よろしければ、以下のサイトをご覧ください。・・・宣伝です 笑)

森風社公式サイト  https://simpoosha.com/

木工といっても、大きな家具等ではなく、主として玩具や置物を製造・販売しています。

 

では、白内障の症状とはどのようなものでしょうか。水晶体の濁り方によって異なるのですが、代表的なものは、モノがぼやけて見える、目がかすむ、目に光が十分に入らないことによって、すべてが薄暗く見える、あるいは逆にすごく眩しく感じる、などがあげられます。当然ながら、視力はかなり低下してしまいます。

厄介なのは、これらの症状はいきなり悪化するのではなく、徐々に進行するために、気がつくのが遅くなったり、また気がついていても日常生活によほどの支障がない限り放置してしまう人がかなりいらっしゃるということです。しかし、このまま放置しておくとどんどん進行し、最悪の場合失明してしまうこともあるそうです。先進国では手軽に行える手術の技術が発達し、そこまで悪化する人はほとんどいないそうですが、発展途上国では貧困や医師不足、医療設備不足などから、いまも白内障によって失明してしまう人が多く、世界全体では失明原因の第1位が白内障だということですから、恐ろしい話です。

私の場合も、しばらく前から症状には気がついていたのですが、まあ、本を読んだりするのが少し不便だな、とか暗い夜道は前より歩きにくいな、と思ってはいたものの、もともとの持病の方が気になっていて、ついつい放置していました。それが、今年に入り、1月下旬になっていよいよ事態が深刻になったため、いつもの病院で相談のうえ、病院内の眼科で診察を受けたところ、すぐに白内障との診断を受けたのですが、このご時世、大きな病院はベッドの空きも細かな手術を行う余裕もない、とのことで、近隣の眼科医院を紹介され、そこで日帰り手術を受けることになったわけです。

医院(といっても、個人医院としてはけっこう規模は大きく、スタッフの数も多かったです。)で詳しく検査を受けると、やはりかなり視力が落ちていることは明らかで、なるべく早めに手術を受けることになりました。ただ、もともと弱視のため、慎重な処置が必要だ、とのことで、一ヶ月に一度だけ手術日のある、外部の大病院から来ている医師に、執刀してもらうことになったのです。そして、まずは右目の手術。これが行われたのが2月21日でした。

白内障の手術というのは、簡単に書けば、濁った水晶体を取り除き、その代わりに人工のレンズを挿入する、というものですが、一人あたり10~15分程度の短いもので、麻酔も注射ではなく目薬で行うため、痛みや肉体的負担は、まったくといってよいほど、ありません。

ただ、手術4日前からは一日4回抗菌のための点眼薬をささなければいけませんし、手術後もしばらくは感染症対策のため、点眼薬が必須となります。(今でもさしています。)

また、手術日はしっかりとしたガーゼで目を保護し、さらに保護眼帯を24時間つけなければいけませんでした。このため、帰宅時は残っている左目(実はこちらの方が白内障は進行していました。)だけで歩かざるを得ず、これはかなり怖かったです。ガーゼは、次の日に医院に行ったときにはずしてもらいましたが、その瞬間は本当に世の中が眩しく見えたものです。保護眼帯はその後も3日間は24時間つけ続け、その後は昼間は外してもよいけれど、就寝時はかけるように、と指示されました。多分、寝ている時に無意識に強く目をこすったりすることを避けるためでしょうね。

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保護眼帯


また、手術日に入浴禁止であることは想像していましたが、その後も4日間は「風呂は首から下だけなら浸かってもよい。ただし、洗髪・洗顔はNG」とのことでした。このあたりはひょっとすると医院や病院によって異なるのかもしれませんが、とにかく、4日間も洗顔ができない、というのはけっこう辛かったです。まあ、顔の下半分はタオルでそっと拭くぐらいはOKでしたけどね。これが真夏だったら、と思うとちょっとゾッとしてしまいます。

さて、そんな感じで慎重な対策を取ったためでしょうか。今のところ経過は大変良好とのことです。目の充血は見られましたが、次第に収まってきています。それで、左目の手術の準備を行うことになったのですが、上に書いたように、1ヶ月に一度しか手術日がないため、次の手術は3月22日になってしまいます。ということは、これが全部無事終わったとして、放免されるのは今月末か4月初めになりますね。まだ先は長いなあ、というのが実感です。

以上がこれまでの私の経緯です。つくづく思うのは、ちょっと気になっただけのことでも放置しておくのは良くないなあ、という当たり前のことです。私と同じような世代の方、他人事だと思わず、ご自身の健康には日々十分留意してください。医師によると、違和感を感じたら、まずは片目でセルフチェックしてみるとよいだろう、とのことです。

手術そのものはすぐに終わる、と書きましたが、やはり繊細な部分にメスを入れるわけですので、術後には角膜浮腫、虹彩炎、眼圧上昇などの後遺症が出ることがあります。また、感染症リスクにも注意を払わなければなりません。手術をしないで薬による治療だけで済む初期の段階で眼科に相談すれば、それだけさまざまなリスクを回避できるわけですから。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常89 ロシアへの想い

こんにちは。

 

突然ですが、ショスタコーヴィチ交響曲第7番(作品60)「レニングラード」という曲をご存じでしょうか。レニングラードとは、現在のサンックトペテルブルグのことで、ソ連時代はこのように名づけられていました。

1906年、この街で生まれたショスタコーヴィチは、その後国家体制がソ連へと変わってから、同国でもっとも人気のある作曲家の一人として活躍し、第二次大戦中の1941年、この街でこれを作曲しています。(ただし第4楽章だけは疎開先で作られたそうです。)当時、圧倒的な兵力をもつナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラードは、いつ陥落してもおかしくないような状況でしたが、人々のナチスに対する抵抗は根強く、推定100万人にものぼると犠牲者を出しながら、90日間にわたって耐え抜いたのです。そんななかで熱い愛国心によって作曲されたこの曲は、多くの人に感動を与え、抗戦意欲を高めるのに役立ったと言われています。とくに、この街での初演である1942年8月9日のレニングラード放送交響楽団による演奏は、まだ包囲網が解かれず、多くの危険が迫る中で敢行され、ソ連国内だけでなく、世界中の人々を勇気づけたそうです。この日はまさにドイツ軍のレニングラード侵入予定日でしたが、ソ連軍の司令官であったレオニード・ゴヴォロフが、演奏会を開催させるために、軍事作戦を発動し、激しい砲撃を行ったため、演奏が始まった5分後には砲撃音が聞こえ、会場内のシャンデリアが揺れたのですが、市民は砲撃音に慣れていたことから、音楽に聴き入ったと伝えられています。ちなみにこの曲、戦争をテーマにしているため、けっこう激しい曲調で、誰にでも受け入れられるようなとっつきやすさ、聴きやすさが前面に出ている曲ではありません。

ショスタコーヴィチは、次のように述べています。

「…私は、かつて一度も故郷を離れたことのない根っからのレニングラードっ子です。今の厳しい張り詰めた時を心から感じています。この町はわたくしの人生と作品とが関わっています。レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります。何千という市民の皆さんも私と同じ想いで、生まれ育った街並み、愛しい大通り、一番美しい広場、建物への愛情を抱いていることでしょう。」

もちろん、この話にはいくつもサイド・ストーリーがあります。ショスタコーヴィチ自身はかなりレーニンに心酔していていた愛国主義者で、強烈な革命思想をもっていたと言われています。またこの曲は、作曲者自身の思いから離れて、ソ連のみならずアメリカをはじめとする諸国で反ナチスの政治的プロパガンダとして利用された、ということも事実です。それでも、音楽の力が戦争に苦しむ人々に勇気と光を与えたことには変わらないのです。

さて、そんなことがあってから80年もの月日が経った今、ウクライナで起きていることは何なのでしょうか。国家体制はソ連からロシアへと変わりましたが、この国の周辺国に対する接し方に大きな変化があったとは思えません。今のロシア(というよりプーチン政権)は一体どんな気持ちでキエフ等への爆撃を行おうとしているのでしょうか。あの時、国土と人民がとんでもない危機に瀕した記憶は、もうとっくに失われてしまったのでしょうか。

もっと言ってしまえば、人は、自分が殴られた痛みをあっさり忘れて、平気で他人を殴ることができるような愚かな存在なのでしょうか。

ちなみに、私の所有しているこの曲のCDはロシア出身のワレリー・ゲルギエフが指揮をしていますが、この人、つい先日、現在のポストであるミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の座を解任されてしまいました。もともとプーチンと親しいとされていた彼ですが、ミュンヘン市の「明確に、無条件に距離を置くように」との要請にまったく反応を示さなかったためだそうです。彼の気持ちも聴いてみたいものですね。

私は、スポーツや芸術の世界にまでロシアをディする風潮が急速に広がっていることに、全面的に賛成するわけではありません。ただ、大国同士の軍事力による争いになってしまうことは絶対に避けなければならないですし、経済封鎖はどこまで効果を発揮するのか不透明な現状では、ある程度このような動きが広がるのもやむを得ないのかもしれない、と思ってしまいます。とにもかくにも、一日も早く冷静な話し合いが行われ、銃声が止むのを願うばかりです。

 

今回は、白内障について書くつもりでしたが、ウクライナのことはどうしても一度は書いておかなければ・・・と思い、テーマを変更しました。次回こそは、もっと身近なテーマでブログを書きたいものです。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常88 お久しぶりです

こんにちは。

 

ご無沙汰しています。ブログ投稿に関しては、少し長めのお休みをいただきましたが、皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。

実は、まだ白内障の治療はまだ右目だけしか済んでいないのですが、左目の手術も含めて全部終わるのは来月末になってしまいそうなので、このあたりで再開することにします。

この短い期間に、北京オリンピックが終わったり、オミクロン株は猛威を振るったり、最近ではウクライナをめぐる情勢が緊迫化していた李・・・というように、世相は相変わらずせわしないですが、今日のところは久しぶりなので、私の身の回りのことで感じたことについて書きます。

 

白内障に関しては、いつも通っている大病院ですぐに診察結果が出たのですが、今のご時世「こちらでは手術を受け付けていないんですよ」と言われ、この方面の経験が豊富にある眼科医院を紹介してもらいました。ひとつの病院でまとめて面倒を見てくれると楽なのですが、まあしょうがないですよね

訪れた眼科医院は、白内障緑内障の手術から眼鏡やコンタクトレンズの新調・調整に至るまで、かなり幅広く扱っている所で、その分、患者数も大変多かったです。ということは待たされる時間もそれなりに長く、それはちょっとうんざりするところですが、高齢者の方から今度小学校に入学するのかな?という感じの子供まで、患者の個性もヴァラエティに富んでいて、それを観察しているとけっこうおもしろいです。

もっとも感心したのは、看護師さん達の子供とのやり取りでした。2つだけ、ご紹介しましょう。

看護師さん「あ、新しいゲームやっているんだ。これ○○っていうやつだよね。これって、△△すると、××になって、パワーアップするんだよね。」→すみません。こういったゲーム事情にはまったく明るくないので、何を言っているのか、さっぱりわかりませんでした。ただ、看護師さんがこんなところにもアンテナを張っていることに、まずはびっくりです。

子供「うん。(嬉しそうに)でも、××にはなかなかならないんだよね。」

看護師さん「そうなんだ・・・それで夢中になってるんだね。」

子供「そうだね。昨日は2時間ぐらいやってたかな。」

看護師さん「そうね。でも××になってしまうと、その先の楽しみが減ってしまうみたいだから、一日30分でゲームは止めておこうね。」

子供「はーい。」

もう一つの例はもっと簡単です。

看護師さん「○○ちゃん、その眼鏡、すごく素敵。多分世界でいちばん可愛いよ。だからきっと、お友達がうらやましがって、ちょっと貸して、って言うと思うんだ。でもおもちゃじゃないんだから、貸しちゃだめだよ。」

子供「(嬉しそうにスキップしながら)はーい!」

ふたつの例に共通しているのは、決して頭ごなしに、命令するような言い方はしない、ということでしょう。子供とは言え、いや、子供だからこそ、病院に来るというのはそれなりに緊張するだろうし、そこで叱られるような言い方をされてしまっては、どんどん委縮してしまいます。そうならないように雰囲気づくりに気を配っていることがよくわかりました。

もちろん、高齢者、例えば耳が遠くなっている方や杖がないとうまく歩けないような方には、それなりの接し方をされています。そのあたりの切り替えも見事なものでした。

この医院にかぎったことではありませんが、患者に接する時間がもっとも長いのは、医師ではなく看護師です。ですから彼らの果たすべき役割はとても大きいのです。そして、もっとも要求される能力のひとつが、こうしたコミュニケーション能力だと思うのです。私もこれまでにずいぶん色々な看護師さんにお世話になってきましたが、比較的話しやすい方、そうでもない方、色々いらっしゃいます。もちろん、専門職なのだから、医療技術やその周辺のことがきちんとできればそれで良い、という意見ももっともなのですが、彼らの言葉ひとつで、その場の雰囲気や患者の気持ちは随分変わることも事実なのです。

 

昨日、いつもの病院に通院した時こんな会話をしました。

看護師さん「目の具合、どうですか?」

私「おかげさまで、ずいぶん明るくはっきりと見えるようになりました。まだ片方だけなんですけどね。」

看護師さん「よかった。でも、今日はあまり近づかないでおこうっと。私の肌荒れがはっきり見えると困るもん。」

私「・・・(笑うしかない)」

変な気の配り方よりも、ずっと良いと思いませんか?

 

こうした直接的な対人コミュニケーション、最近減ってはいませんか?まあ、我々のような年代の人間は大丈夫でしょうが、例えば10歳代の青少年で、これから人との付き合い方を自分自身で経験し、学んでいかなければならない世代の人達の関しては、ちょっと心配してしまいます。オンラインのコミュニケーションだけでは、やっぱり不十分ですよね。

それとも、「そで十分だ」という時代がやってきてしまうのでしょうか。すべてのことをキーボードやタッチパネルで行うほうが気楽だ、という人達もすでに多くなってきているみたいですし、そういう志向の人から見れば、私など「旧世代」にしか見えないのかもしれません。

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。そして、今後ともよろしくお願いします。次回は、白内障について、もう少し詳しく書きたいと思っています。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常87 ご報告

こんにちは。

 

今日で、ダラキューロ治療の第7クールが終了しました。血液や尿の検査結果が良好なので、次回診察時(再来週)で、骨髄を採取したうえでのより精密な検査を行うことになりました、この結果がOKなら、「深い寛解状態に入った」と判断できるとのことです。まあ、あまり期待しすぎずに、この検査を待つこととします。ただ、骨髄の採取ってけっこう大変なんですよね。部分麻酔をしたうえで、かなり太い針を腰に入れて採取するので、きちんと同意書も取られます。後に少し痛みが残ることもあるので、ちょっとへっぴり腰になってしまいます。(笑)

ところで、前々回の投稿でお知らせしましたように、白内障の手術を受けることになりました。様子を見ながら、片目ずつ行うので、全部終了するのは、おそらく3月上旬あたりになるだろうと思います、それまでの間、なるべく目に余計な負担を与えたくないので、パソコンやスマホの使用もなるべく控えていこうと思っています。したがって、このブログへの投稿も、小休止します。再開は、3月中旬頃になってしまうかもしれませんが、忘れずにいてくだされば幸いです。

なお、日常生活に何らかの支障を来しているわけではありませんので、心配なさらないでください。

 

それでは皆さん、再会できる日までお元気で。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常86 あなたにとっての「学び」とは?

こんにちは。

 

北京の冬季オリンピックが始まりましたね。当たり前のことですが、冬の協議はすべて「滑る」競技なので、一瞬のミスで終わってしまうことも多々ありますから、選手には相当の集中力が要求されるでしょう。そんな阿呆なことをぼーっと思いながら、チラチラとテレビを見ています。

このオリンピックについては、色々と論評や批判がありますが、開会式の演出そのものは、おおむねとてもよくできたものだったのではないでしょうか。聖火ランナーウイグル族のスキー選手を起用したところは、露骨な政治的意図が感じられましたが、その他、とくに映像面の演出はとても優れていたと思います。全体の時間が少し短めだったのもよかったですね。

 

ところで、今日は抽象的な話題になります。若干読みにくいかもしれませんので、あらかじめご容赦ください。

先日、知人で、時々このブログも読んでいただいている梶山亮子さんというキャリア・コンサルタントの方から、「学びの入り口の探し方」と題する玉稿を送って頂きました。この方、実は以前私の元で社会人大学院生として学んでおられた方で、狭い意味では、私が「教え」、彼女が「学ぶ」という関係だったのですが、社会人としてのキャリアが豊富な方で、私自身も随分勉強になったものです。

彼女は、学びの入り口には2つあると言います。ひとつは身近な人から得られるもの、そしてもうひとつは目的を達成するためのものです。このうち、後者については目的がはっきりしている、つまり学んだことをどのように活かしていくのかの道筋が最初から明確なので、比較的わかりやすいですね。これに対して前者は、必ずしも「学ぶ」ことを前提にしていない日常的なコミュニケーション等も含めて考えなければならないので、かなり広範囲で多様なものになります。プログラム化することも困難です。しかし、実はそこに大きな意味があることは、テレワーク推進のために、職場の同僚との対話が減ってしまっている方の多くが感じておられるのではないでしょうか。私自身、この2年間ほとんどの学会や研究会がオンライン開催になってしまって「つまらないなあ」と思ってしまうのは、こういった学びが減っているからだろうと思います。ただ、後者についても、例えば資格取得のための勉強のつもりで読んでいた本から想定外の「学び」を得るということもありますよね。

そんなわけですから、基本的には「学び」の入り口あるいはルートは多種多様なものであった方がよいだろうと思います。最近の学生は何かを調べようとすると、すぐにインターネットによる検索に頼りがちですが、それだけが道筋ではありません。まずは「マルチ・ルート」を意識することでしょう。(要するに、アンテナを幅広く張り巡らす、ということです。)

ただ、そうやって得られたものは、そのままでは決して自分のものにはなりません。得られた「データ」(客観的なもの)を自分の価値基準や主観的意図に基づいて、自分にとって有用な「情報」へと変換していかなければならないのです。

コロナ禍のために直接的対人コミュニケーションが減っている現状では、まずはその不足、欠乏をどうやって補っていくのかが当面の課題なのですが、いずれにせよ、集めたデータをパソコンのハードディスクに保管しておくだけでは、さほど意味はないのです。

実は、この「データを情報へと変換する」(一般には、情報処理と呼ばれる作業ですね)という行為こそがとても重要であり、本当の意味での「学び」につながるのではないか、と思います。そして、この変換プロセスを正しく機能させるには、自分自身の立ち位置を客観的に把握しておくことが必要です。これは「メタ認知」とも呼ばれるものです。

ちなみに、メタ認知とは、「自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」などと定義されます。ご参考まで。

これがしっかりしていないと、溢れかえるデータに振り回されて自分を見失うかもしれません。あるいは、知らず知らずのうちに極論、暴論に走ってしまう、などということが起きてしまいます。そしてその結果のひとつが、ネットにおける「炎上」という現象だろうと思います。ところが、「すぐに役に立つ」ことを念頭に置いた教育では、このような「自分の基準を正しく作り、認識する」ことをまったく教えない傾向にあります。

 

結局、「学ぶ」とは「知る」→「整理・分析する」→「身につける」という一連のプロセスの総称であり、それらをきちんと認識したうえで学んでいかなければ、他者にとっても有用な「発信」はできないような気がします。これを学校で教えるのは大変難しいことでしょうが、そのきっかけを与えるような教育は、もっと見直されるべきではないでしょうか。

 

今回は面倒くさい文章になってしまいました。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常85 抗がん剤と白内障

こんにちは。

ここのところ、私自身の体調や健康状態については、全然書いてきませんでしたが、今回はちょっと大きなことがありましたので、ご紹介しておきます。

今のダラキューロを中心とした治療は、現在第7クールに入っています。今のようにほぼ毎週通院して、注射を受けなければならないのは、第8クールまでで、その後は経過に問題がなければ、ほぼ1ヶ月に1回の通院に切り替わる予定です。3月末か4月初めあたりからそうなるのかな。ちょうど春を迎える時期なので、これは少しうれしいですね。

ところで、「ダラキューロを中心とした」という言葉の意味はあまり詳しく説明してこなかったと思います。実は、この注射を受けるにあたっては、いくつかの薬を併用することが、強く推奨されています。その主なものが、ベルケイド(注射)、そしてレナデックス(内服薬)です。両方とも、いわゆる抗がん剤の一種で、ダラキューロだけでなく、さまざまな薬と併用されています。2000年代に入ってから認可された、比較的新しい薬ですが、今ではかなり普及しており、私も、ダラキューロ治療以前から、単独で、あるいは他の薬と併用して、使い続けてきました。少し間が空いた時期もありましたが、もう5年弱になると思います。

そういうわけで、私にとってはもはや日常になりつつある注射や薬の服用なのですが、実は、少し気をつけなければならないことがあるのです。

レナデックスという薬は、いわゆるステロイド系に分類される薬です。

ステロイドは、もともと体内の副腎(ふくじん)という臓器でつくられているホルモンで、このホルモンがもつ作用を薬として応用したものがステロイド薬(副腎皮質ステロイド薬)です。外用薬(塗り薬)をはじめとして、内服薬や注射薬などもあり、さまざまな病気の治療に使われています。私達がよく耳にするのは、スポーツの世界におけるドーピングの一種としてのステロイド注射ですね。ここで問題とされるのがタンパク同化男性化ステロイド薬(Anabolic Androgenic Steroids:AAS)というもので、大きくわけて「男性化作用」と「タンパク同化作用」の2つの作用をもつ薬剤であり、これを外因的に投与された場合に禁止薬物となります。要するに、体外からこれらのホルモンを注入して、いわば「肉体改造」を行うもので、これがまん延すると、選手の身体の状況を無視して、「試合に勝つため」の肉体を作ることだけを目的にした無制限な使用が広がってしまい、結果的に健康被害を引き起こすからこそ、厳しく禁止されているわけですね。

私はもちろんアスリートではありませんが、それでも長期使用による弊害はあります。それが「白内障を発症するリスク」なのです。

ご存じの方も多いでしょうが、白内障そのものは、加齢によって、かなり多くの方が患ってしまいます。(医師の説明によると、必ずしも病気ではなく、白髪と同じようなものだ、とのことですので、発症という表現は正しくないのかもしれません。)

白内障のメカニズムは、簡単に書けば、目の中のレンズの役割をしている水晶体が濁ってしまい、光が通りにくくなり、見えにくくなるというものです。 主な症状は、ぼやける、かすむ、まぶしい、視界が暗く感じる、視力が落ちる、だぶって見えるなどです。そして厄介なのは、今のところ、特効薬のようなものはなく、放置しておくと、どんどん進行してしまうということです。有効な治療法は、手術しかないようです。

というわけで、私は見事に?白内障になってしまいました。「年齢の割には進んでしまっているので、やはりステロイドの影響だろう。」とのことです。血液内科の先生からも、「これぐらいステロイドを使っていれば、白内障になっても全然おかしくない。」というお墨付き?をいただきました。。

まだ手術の日程は決まっていませんが、遅くとも来週には、手術の方針やタイミングを含めて、担当してくださる眼科医と相談してくるつもりです。

ご存じの方も多いかもしれませんが、私はもともと弱視で、視力は正常な方よりも相当悪いのですが、やはり「これ以上悪くはしたくない」という気持ちは強いので、なるべく早く手術を受けようと思っています。日帰りの手術になることもありうるという話なので、スケジュール的には、比較的決めやすいはずです。

この件については、また進捗があればこのブログでも書いていきます。

それにしても、色々ありますね。やれやれ、です。でも、他のもっと深刻な病気ではなかったことに、少しほっとしています。

 

今回も、最後まで読んだくださり、ありがとうございました。