明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常

元大学教員が綴るこれまでの経過と現在 。なお、入院と本格治療の経験については、00から34あたりまでをお読みください。 。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常229 個人的に考える「能登の魅力」(2)

こんにちは。

 

能登(のと)という地名の語源はご存じでしょうか。

一説には、アイヌ語の「あご」や「みさき」を意味する「のっ」だということですが、この地域にアイヌ民族が住んでいたという証拠は見つかっていません。また、能登半島自体が朝鮮半島に比較的近い位置にあることから、ハングルの影響を示唆する見解もあります。現在まで、確たる結論は出ていないようですが、いずれにせよ、相当昔から、いわゆる「大和文化」とは異なる文化の影響を受けていた地域であることは確かなようですね。

 

というわけで、前回の続きです。

前回は珠洲市に入ったところあたりまでご紹介しました。珠洲は「市」と言いながら、人口は1万1千人あまり。かつてはそれなりに栄えたものの、現在では過疎の典型のように言われてしまっている地域です。主な産業は農業、漁業ですが、いずれもこれに従事する人の高齢化率が深刻な問題となっており、次代を担う産業や人材の育成も思うようには進んでいません。それでも、平安時代末期から室町時代後期にかけては大きな産業であったやきもの、「珠洲焼」を復興し、広めようとする動きは確実に育っています。灰黒色の落ち着いた美しさは、現代の生活にも十分マッチするもので、値段も手ごろです。また、揚げ浜式塩田で昔ながらの製法で作られる塩は、全国的に高い評価を得ています。珠洲焼の湯飲み茶わんや珠洲産の塩は、土産物としてもちょうどよいので、訪れたなら、ぜひ手に取ってほしいものです。

また、能登半島の先端にある禄剛崎(ろっこうざき)灯台を訪れる人もたくさんいらっしゃいます。ただ、この灯台は海の縁ギリギリに立っているようなイメージを持って訪れると、少々拍子抜けしてしまいます。思いのほか広い敷地にポツンと立っているからです。しかしまあ、ここが先端だという思いを抱くことはできます。ちなみに、ここの地名は狼煙(のろし)と言います。合図や情報伝達の手段としてかつては広く利用された狼煙ですが、ここでは海上交通の安全を確保する手段として、つまりまさに灯台代わりとして、古代から利用されていたのです。

珠洲は、今回の地震でもっとも津波の被害を大きく受けた場所です。特に、漁業への影響は深刻で、細々と続けられてきた漁業関係者の方々には、漁港の再建と漁船の修復が重い課題としてのしかかっているのです。

珠洲をから回り込むと、外浦、つまり日本海の荒波が直接押し寄せる地域になります。そのため、海を臨む風景は内浦とはかなり異なります。この変化も、能登を巡ることの面白さのひとつかもしれません。そして、その眺めを楽しみながらしばらく進むと輪島市に入ります。このあたり、冬の間は岩に白波が打ちつけることによってできる「波の花」が見ものです。とくに、曽々木海岸や鴨ヶ浦付近で多く見られます。また、曽々木海岸には、波の力によって岩に穴が開いた「窓岩」もあるのですが、残念ながら、今回の地震によって崩落してしまったようです。まあ、それだけ厳しい自然を体感できるところだということになります。

また、これは能登半島全体に言えることなのですが、山間部が海の近くにまで迫っていますので、がけ崩れ等の危険が高いところです。このダイナミックな景色が大きな魅力なのですが、今回の地震では、このことによって、多くの集落の孤立化を生んでしまいました。

なお、ここから少し西に進んだところに、「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」という棚田があります。棚田そのものは全国各地にありますが、海に面しているのは数少ないでしょう。そしてその美しさは格別で、冬季にはライトアップもされます。しかし、これも地震のために、その多くが崩落してしまったようです。本当に残念でなりません。

輪島市内には、「朝市」、そして「輪島塗」の工房やショップが軒を連ねていることは、有名ですね。おそらく能登でも随一の観光スポットでしょう。しかし、今回の地震による大規模な火災で、壊滅的ともいえる被害が出てしまったことは、皆さんご存じのとおりです。これらの再興は、輪島市、そして能登全体が復活できるかどうかのキーポイントになるでしょう。

半島の西側は全般的にかなり厳しい風景が続きますが、金沢に少し近づいたところにある「千里浜(ちりはま)」は風景が一変します。延々と続く砂浜なのですが、ここは海のすぐそばまで自動車が進入することができ、俗に「千里浜なぎさドライブウェイ」とも呼ばれています。砂は一粒ひとつぶが約0.2ミリメートルと同じ大きさのきめ細かい砂が海水を含み、固く引き締まることから、二輪駆動でも四輪駆動でも、走行可能となっているのです。ここは、地震の影響はさほど大きくなかったようですが、そもそも近年、波による浸食のため、砂浜の面積そのものが年々小さくなってしまっており、将来的にはその存続が危ぶまれています。

 

いわゆる観光名所を中心に紹介してきましたが、伝統文化についても、見逃すことはできません。とくに、7月から10月頃にかけて、各集落で開かれる「キリコ祭り」は夏の能登の名物です。各地の氏子たちが、能登固有の意匠をもつ、華麗な風流灯籠「キリコ」を担ぎ出し、町内を勇敢に練り回りまる祭で、地域ごとにその華聯さ、勇壮さを競っています。とても見応えのある祭りなのですが、今年はどうなるのでしょうか。能登の人々の心の拠り所であるだけに、心配なところです。

キリコ(wikipediaより転載)


ざっと見てきただけですが、能登という場所がいかに魅力ある地域であるか、少しでもわかっていただければ幸いです。「行ったことない」という方には、落ち着いたら、ぜひゆっくりと観光してもらいたいものです。

しかし、書いてきたように、その多くが今回の地震でかなり深刻な被害、損害を被ってしまいました。もともと人口減少傾向が止まらないこの地域の将来がどうなるのか、本当に心配でなりません。そこで、次回は、「能登の将来」について少し考えていきたいと思います。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常228 個人的に考える「能登の魅力」(1)

こんにちは。

 

1月13日から2日間大学入学共通テストが行われます。国公立大学はもちろん、私立大学の中にもこれを利用している大学は多いので、毎年注目されるところです。皆さんの中にも、懐かしく思い出される方は多いでしょうし、月曜日以降、問題が公表されますから、「腕試し」とばかりにこれに取り組んでみる方も少なくないかもしれませんね。

でも、このテスト、能登半島にはほとんど会場がないことをご存じでしょうか。辛うじて、かほく市にある石川看護大学が会場として指定されていますが、ここでの受験者数はわずか200名程度というように、かなり小規模です。それ以外の受験生たちは、すべて鉄道やバスで金沢まで出向き、ホテル等に金曜日から2泊して、テストを受けるのです。中には、担任の教師がこれに付き添ってくるところもありますが、いずれにせよ、普段とはかなり異なる環境の中でテストを受けなければならないのです。自宅から通うことのできる受験生と比べると、かなりのハンディキャップがあるように思うのですが、どうでしょうか。

この状況は、能登半島という場所が置かれている社会的状況を象徴するひとつと言えるような気がします。しかし、過疎の象徴としてしばしば語られてきたこの地域ですが、昔からそんな場所だったわけではありません。

能登はやさしや土までも」という言葉があります。これは、元禄時代能登路をまわった武士がこの言葉の通りだったと感激し、この言葉を日記に残していますし、もっと時代を遡れば、万葉歌人の大友家持が森の美しさを歌に残しています。

そこで、今回は魅力ある場所としての能登半島について触れるとともに、地震による個別の影響について少しばかり紹介していきたいと思います。

とはいえ、能登半島は思いのほか、広いところです。金沢から輪島まで、自動車専用道路であるのと里山海道を利用して、順調に行っても約2時間、珠洲市まではそこからさらに30分あまりかかってしまうほどの広さです。そこで、金沢から反時計回りでぐるっと一周するような感じで紹介していきましょう。(ここで紹介するのはいずれも私自身が直接知っている場所に限定しています。悪しからず。)


金沢から出発して、たいていの人が最初に訪れるのが七尾市。ここでは七尾駅前から海に向かってまっすぐ伸びる600年以上の歴史を持つ一本杉商店街が観光客を集めます。レトロな街並みは、かつての繁栄を物語っていますが、ただ古いだけでなく、例えば「高澤ろうそく店」のように、和ろうそくを現代の暮らしにフィットさせるための様々な提案を行っているような店も少なくありません。ただ、今回の地震で、ほとんどの店は倒壊してしまい、復興の目途が立つのかどうかわからない状況です。

七尾市には和倉温泉という、大型の旅館が立ち並ぶ温泉街があります。とくに「加賀屋」は専門雑誌が選ぶ「おもてなし日本一」を何度も獲得している旅館として、知られていますが、ここにはちょっとした秘密があります。旅館独自の保育所を設けて、中居さんたちが自由に利用できるようにしているのです。これによって、全国から働きたいという希望が増え、そのことが従業員の質を引き上げることに繋がっているのです。ただ、問題もあります。土産店や遊戯場などを館内に充実させることによって、宿泊客は建物から外に出なくてもたっぷりと遊ぶことができるようになっているのです。そして、これを他の旅館も真似し始めた結果、温泉街を散策する人の数が減ってしまう、という大型旅館街ならではのジレンマも抱えているようです。

和倉の旅館は、現在すべて休業しています。建物の安全が確保されるまで、宿泊を再開することはできませんから、これは止むを得ないことです。しかし、コロナ禍が明けて「これから」という時期に、これは大きな痛手ですね。

和倉のほど近くにある美しい橋、のとじま大橋を渡ると能登島です。この橋ができる昭和30年代まで、この島には自動車というものが走っていなかったそうですが、現在では、「石川県立ガラス美術館」や「のとじま水族館」ができ、観光客がコンスタントに訪れるようになっています。また、現役の漁師さんが営む民宿がいくつも営業しており、新鮮な魚をウリにしています。私自身は、以前、この島では珍しいペンション、「ウインズ」さんによく宿泊していました。前出の美術館や水族館からも近く、さらに「案山子窯」という窯元(ショップを併設)も徒歩圏内だったのです。この窯元、石川県津幡町出身で、信楽で修業した山田剛氏が営んでおり、「普段使いできるけど、ちょっとだけ贅沢な気分」が味わえる魅力的な商品が並びます。我が家にはここで購入した食器が10個ほどあります。ただ、工房、ショップともに、「当面休業」だそうです。ホームページは生きていますので、興味ある方は一度そちらをご覧ください。

今回の地震により、水族館では看板であったジンベエザメ2匹が死んでしまいました。また、イルカやアザラシは近隣の福井県松島水族館に「避難」したそうです。都会の水族館のように人で溢れかえることなく、ゆっくりと鑑賞できるところだけに、復活してくれることを祈るばかりです。ガラス美術館では、展示品の3割が割れてしまったそうで、やはり休館中です。すぐ近くにはガラス工房があり、作家志望の若い人が日々修行を重ねている場所でもありますので、早く復活してくれるといいですね。

ウインズさんは、以前は地元であがった魚や能登島産の野菜、果物をふんだんに使った夕食も魅力的だったのですが、現在は、夕食は廃止して、宿泊&朝食(いわゆるB&B)の宿になっています。ここは元々例年3月までは「お休み」していますので、今年の営業がどうなるかはわかりません。

さて、能登島が浮かぶ七尾湾は、小島が点在しており、車窓からの風景は、いつまで見ていても飽きることがありません。いわゆる内浦とよばれるところで、波も穏やかで、風光明媚とはこういうことを言うのでしょう。そこをずっと進んでいくと、やがて珠洲市に入り、ひときわ大きな島が見えてきます。「見附島」。その形から通称「軍艦島」とも呼ばれます。しかし、この数年の群発地震により、次第に崩れ、今回の大地震により、決定的と言えるほど、上部から崩壊してしまいました。残念としか言えません。

ここを過ぎると、いよいよ珠洲市の中心部に入っていきますが、長くなりすぎました。この続きは、次回に回したいと思います。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回は、なるべく早くアップしたいと思っています。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常227 「腰まで泥まみれ」という曲をご存じですか

こんにちは。

 

本年もよろしくお願いします。

新年早々、石川県能登半島を中心に大きな地震が発生し、かなりの被害が出てしまいました。と思っていたら翌日には羽田空港の滑走路上で2機の飛行機が衝突炎上するという前代未聞の事故が発生しました。まったく何という年の初めなのでしょうか。被害、災害に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。また、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

私自身石川県には深いかかわりを持っていますし、知人も沢山いますので、このブログでもとくに今回の地震の件については少し詳しく取り上げようと思ったのは当然です。しかし、まだまだ被害の全容は明らかになっていませんし、亡くなられた方の数は増え続けています。何よりも、私の気持ちが何となく落ち着かない状態です。したがって、この話題を取り上げるのはもう少ししてからにしたいと思います。

 

そんなわけで、今年の正月は例年になくテレビをつけている時間が長かったように思います。次々に流れてくる情報にずっと釘付けになっていたというわけではありませんが、現地の状況が気になり続けていたのです。ただ、それが3日も続くとさすがに疲れてきます。テレビ局側も、そう思ったのでしょうか。1月3日になると、各局とも、もともと予定していた番組に切り替え始めました。正直なところそれらを見ていると少しほっとした気持ちになる自分がいることに気がつき、また、若干の戸惑いはありましたが。

そんななかで、MISIAさんが昨年東大寺で行ったライヴの様子はとても興味深く見ることができました。MISIAさんは、紅白歌合戦の大トリとして圧倒的な存在感を示していましたが、この東大寺ライヴでも、その印象は変わりませんでしたね。さすがです。

このライヴで少し変わっていたのは何人かの歌手がゲスト出演していたことです。私がとくに気になったのは元ちとせさんです。

この人は、奄美大島出身で、独特のコブシの効いたクセの強い歌声と歌唱法で注目された人です。いわゆる島唄をベースにしていて、現在でも奄美を主な拠点として歌手活動を続けていますが、2002年に発表したデビュー曲「ワダツミノ木」が80万枚の売上を記録する大ヒットとなったので、「名前は何となく知っている・・・」という方も多いかもしれません。

そんな元ちとせさん、MISIAさんとのコラボということ自体、私には少し意外だったのですが、それ以上に驚いたのが、ここで披露された曲、「腰まで泥まみれ」です。

この曲は、1960年代に活躍したアメリカ人フォーク歌手ピート・シガーが作ったもので、ベトナム戦争に対する反戦運動の象徴的な曲のひとつとして、注目された曲です。日本では、1970年代に入ってから、 中川五郎さんが訳詞をつけて歌い、その後、小室等さん率いるフォーク・グループ六文銭岡林信康さんが取り上げています。私がこの曲をはじめて聴いたのは、高校生の時、高石ともやさんが歌うバージョンで、痛烈な内容なのに淡々とした高石さんの歌い方がとても印象に残ったことをよく覚えています。

この歌は、1942年にルイジアナ州のある川で、偵察行動の訓練として渡河を行なおうとした小隊のことをストーリー仕立てで歌っています。副官である軍曹の心配を高圧的に無視した隊長は、先頭に立つ自分に続いて前進しろと命じ、最後は首まで泥に浸かる状態になってしまいます。突然、隊長は溺れ、軍曹は直ちに小隊にもとの川岸まで戻るよう命じます。上流で流れが合流し、水深が以前より深くなっていたことに隊長は気づいていなかったのです。

「僕らは腰まで泥まみれ。だがバカは叫ぶ。『進め!』」という歌詞の強烈なメッセージは、私達の心に突き刺さるのです。

ただ、歌詞では、この話の明らかな教訓を改めて語ることはせず、その代わりに、この国が権威主義的な愚か者によって同じような危機にあることを示唆します。ただ「この話を聞いて何を思うのかはあなたの自由」とも述べています。

こんな重い内容を持つ曲を東大寺奉納ライヴという場所で演奏した理由はよくわかりませんが、元ちとせさんは もともとメッセージ性の強い曲を積極的に取り上げる傾向があるので「こういう場所だからこそこの曲を聴いてもらいたい」と思ったのかもしれません。

歌の舞台はアメリカですが、現代の日本社会に当てはめても、色々と想起されることがありますね。前回のブログでも書いたように今年は辰年です。それにちなんで上昇、飛躍を願う人も多いでしょうが、上に登ること、前進することばかりに気を取られるのは足元をすくわれる結果になりかねません。立ち止まること、後退することにも意味があることを肝に銘じて、過ごしていきたいものだと思う今日この頃です。

 

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常226 干支の話

こんにちは

 

前回の投稿では龍にまつわる神社についてご紹介しました。それはもちろん、間もなくやってくる新年を見据えてのことだったわけです。しかし、「来年の干支は何ですか?」という質問に対する答えとしては、「「龍」というのは半分しか正解したことにならないことは、ご存じの方も多いかと思います。

まず、「龍」ですが、十二支の中では本来「辰」と記されるもので、「草木が成長して、形が整ってくること」を表しています。つまり、農作物の成長にも大きく関連する言葉なのです。というより、本来十二支とは植物が種子から次第に成長していく様子を表したものであり、そんななかで5番目にあたる辰はとても重要な意味を持っていたのです。その後、十二支に動物があてられるようになった時に、「龍」の字が当てはめられ、それ以来、このふたつの漢字はほとんど同じ意味を持つものとして扱われるようになったそうです。(なぜ十二支が動物と結び付けられたのかについては諸説あるようです。)

 

ちなみに、「十二支の中でなぜ龍だけが想像上の動物なのか?」という疑問もしばしばされますが、古代中国では、龍は本当に存在する恐ろしい動物と考えられていたのが、ひとつの答えのようです。(霊獣として、皇帝の象徴とされてきたとの話もあるようですが、いずれにしろ、どうやら、十二支の中での「仲間外れ」というわけではなさそうです。)そして、これが日本に伝わってきたとき、蛇神神話と合体し、龍は「龍神」として畏敬の念でみられるようになったのです。大変荒っぽいことを言えば、蛇と龍って何となく似た雰囲気がありますから、これは納得できるところですね。

さて、そんなわけですから現代において年賀状に龍の絵を描いたり、これにまつわる神社に参拝に訪れたりすることは間違っていません。

ただ、「干支」は「十二支」と「十干」の組み合わせです。普段あまり耳なじみのない十干とはもともと陰陽五行説に基づく思想で、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸という10の要素から成り立ち、暦の上では、十二支と同じように、これらが毎年順番に巡ってくるとされています。そして干支とは、このふたつの要素を見合わせたもので、60年で一周するというわけです。だから、60歳を「還暦」というのですね。

そしてこの組み合わせで見ると、2024年は甲辰(きのえ・たつ)の年ということになります。

ではそれはどんな年なのか? これも陰陽五行説の教えにしたがうと、「春の日差しがあまねく成長を助ける年」だそうです。春の暖かい日差しが大地すべてのものに平等に降り注ぎ、急速な成長と変化を誘う年・・・そんなイメージでとらえられるようです。

来る年が何かの飛躍と成長につながるようであれば、それは大変喜ばしいことです。ただ、私はこの説明の中で「すべてのもの平等に降り注ぎ」という言葉にも注目しておきたいです。

現代社会の不平等、不公平については今さら語るまでもありませんが、それがあまりにも理不尽であり、また、どんどん極端になってしまっているのが昨今の風潮のような気がします。

数回前に多田武彦氏という作曲家について書きましたが、彼の残した名曲の中で、今でも男声合唱ファンの心を捉えて離さない曲の中に、「十一月に降る雨」という曲があります。詩は堀口大學氏によるものですが、その中にこんなフレーズがあります。

十一月に降る雨に 

世界一列 ぬれにけり

王の宮殿も ぬれにけり 

非人の小屋も ぬれにけり

 

眩い春の日差しも、晩秋にしとしとと降る雨も、天からは私達すべての人間と動物、そして植物に平等に与えられます。それこそが自然の姿であり、節理であるはずです。来る年が、良いことも、そうでないことも、平等に降り注ぎ、それをありのままに受け入れられるような、そんな年になることを願わずにはいられないのです。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

年内の投稿はこれで最後になるはずです。2024年が皆様にとって実り多い年となる事をお祈りしています。

 

日本画画家、由理本出氏の筆による伏見稲荷大社の絵馬

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常225 初詣は年末に!?

こんにちは。

 

あっという間に年の瀬が近づいてきましたね。色々なことがありましたが、今年一年、皆さんにとってはどんな年だったでしょうか。

私は毎年年始に、その年の十二支に関連する神社に初詣することにしています。ただ、最近は同じようなことをされる方が多いようで、三が日はどこも結構な人出になっています。例えば、今年の初めはウサギに関連するところということで京都市左京区の岡崎神社に出かけたのですが、かわいいウサギの置物や像が並んでいることもあって、多くの人が写真を撮りに訪れていました。

そこで、今回は年末の内に出かけようと思って、二つの神社に出かけてきました。

ひとつは、正月になると猛烈な人出でごったがえす伏見稲荷大社の奥にひっそりとたたずむ伏見神寶神社。(ふしみかんだからじんじゃ:通称はしんぽうさん)

伏見稲荷大社の本殿の奥に有名な千本鳥居がありますが、それを抜けたところにあるのが奥の院。ここには「おもかる石」があり、持った感触が「思ったより軽かった」と思えば、願い事がかなう、と言われており、これを試す人が行列を作っています。

多くの観光客や参詣客はここで引き返すのですが、奥の院の左手にある鳥居と石段をさらに15メートルほど登ると左手に見えてくるのが「根上がりの松」。これもかなり目立つスポットなので、目を奪われる人が多く、その向かい側、つまり右手に「伏見神寳神社 150メートル」と書かれた小さな立札があるのを見逃す人がほとんどなのですが、ここからが目指す場所です。ただ、石段も舗装された道もなく、ところどころ木の根がはっていたりしていて少し歩きにくいので、雨の後やハイヒールでの参詣はあまりお勧めできないかもしれません。

千本鳥居 ここを抜けていきます

 

まあ、それはともかくとして、坂道を5分弱昇っていくと、すっかり森。そして見事な竹林が私たちの周りに現れます。この竹林は、かぐや姫伝説誕生の地との言い伝えもあるそうです。そしてお目当ての神社の鳥居が現れます。創祀は平安時代にまでさかのぼる、長い歴史をもった神社です。

伏見神寳神社の鳥居

 

ここでもっとも目立つのが、狛犬ならぬ狛龍。左に地龍、右に天龍が鎮座しています。この二匹の龍。天から地上まで宝物を運ぶのが天龍、そしてそれを地上で守り続けるのが地龍というように役割を分担しているそうです。



その他にもこの神社にはいくつか龍がいますが、そのなかでも目立つのが、キラキラした龍頭像。この龍がくわえている玉を回すと、願い事が叶うという言い伝えがあるそうです。

龍頭像

これも龍ですよね?

 

この神社、一般には知名度は低いですし、なぜだか、伏見稲荷大社の境内案内図には載っていませんので、普段は訪れる人は少なく、ひっそりとしています。その分、パワースポットらしい雰囲気がびんびんと伝わってきます。しばらく佇んでいると、それだけで精神が浄化されていくような気持ちになってくる素晴らしい空間です。

 

もう一か所。今度はJR奈良線および京阪電車東福寺駅すぐ近くという街中にある瀧尾神社(たきおじんじゃ)です。駅から東福寺方面に向かう人は、皆さん駅前の道を右へ、つまり南へと歩を進めるのですが、瀧尾神社へはその反対。つまり北へ向かいます。すると、2分も歩かないうちに、鳥居が見えてきます。ここは住宅街のど真ん中であり、マンションが隣接しているなど、何の変哲もない場所なのですが、注目すべきは拝殿です。写真のように、立体となった木彫りの龍が天井に張り付いています。全長は8メートルという見事なもので、江戸時代末期の彫り物師、九山新太郎の作だそうです。

この迫力は、ぜひ実物を見て感じてもらいたいです

 

また、本殿にも霊獣の彫り物がずらりと並んでおり、この中にも龍の姿を見ることができます。いずれも見事なもので、九山氏の力量には惚れぼれとしてしまいます。

私が訪れた時は、本殿の改修工事中で、拝殿が仮本殿となっていました。このため、普段は誰でも上がってじっくりと見ることのできる木彫りの龍の姿は、外からしか見ることができず、少し残念でしたが、この迫力はさすがとしか言いようがありません。

本殿の彫り物の一部

 

ここも普段は訪れる人が少なく、おそらく近所の子供の遊び場所になっているのだと思いますが、初詣の時はけっこうな人出になるのでしょうね。

今回訪れた2つの神社。いずれも規模が小さく、いわゆる観光スポットとは言えないような場所かもしれません。しかし、普段の姿をゆっくりと味わうことができて本当に良かったです。

大きな神社に行くと、初詣のお参りをするのに、本殿の前に長蛇の行列ができていることも珍しくありませんね。それはそれで、長い時間待たされた方がご利益があるのかもしれない、と思うことも可能でしょうが、やはり、寺社へのお参りは、あくまで自分のペースで参詣し、他の参拝者を気にすることなく、自分だけの祈りを捧げる方が、自然な姿のような気がします。個人的には、今後も、そんなお寺巡り、神社巡りをしていきたいものです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常224 それは突然に・・・最近の体調をめぐって

 

こんにちは。

 

先日、夜寝ていると、早朝4時頃、突然強烈な吐き気に襲われ、あわててトイレに飛び込むと、2度、3度と嘔吐を繰り返すことになってしまいました。ようやく収まったので、うがいをしてから、再度寝床に入ったのですが、1時間ほどとすると、またもや猛烈な吐き気。

個人的には、嘔吐は久しぶりの経験でしたので、本当にびっくりしてしまいました。

 

結局、嘔吐はこの2回のトイレ往復で終わりましたが、その日は一日中あまり食欲もなく、ひたすら体調悪化に恐れ入りながら、ぼんやりと過ごすことになってしまった次第です。

実は、その前日、某レストランで牡蠣フライを食べたのですが、どうやらそれに「あたった」らしいのです。

牡蠣の中毒には主に以下のようなものがあるそうです。

ノロウイルスによるもの

牡蠣にノロウイルスが蓄積されている場合で、潜伏期間は食後1~2日。12時間ほどで症状が現れるケースもあるようです。主な症状は、38℃前後の高熱、腹痛、嘔吐、下痢、胃もたれ、悪寒などです。

貝毒によるもの

有害なプランクトンや菌が海水の中に潜伏しており、それらが牡蠣の中に蓄積されている場合です。潜伏期間は食後30分あるいはそれ以下、というようにかなり短いようです。4時間程度で症状がなくなるケースもありますが、12時間以内に呼吸困難に陥ったりして、重症化することもあるようです。主な症状としては、「麻痺性」のものとして口腔内の違和感、唇や顔、手足のしびれ、頭痛、めまい、「下痢性」として下痢、吐き気、嘔吐があげられています。

腸炎ビブリオによるもの

水温が高いと活発化する食中毒菌である腸炎ビブリオが原因になることもあります。潜伏期間は2~24時間程度。激しい下痢が一日に数回から数十回も続くなどの辛い症状に陥ることもあります。主な症状は、激しい下痢、腹痛、血便、嘔吐、発熱が挙げられます。

・牡蠣アレルギーによるもの

これには、かゆみや蕁麻疹など、いわゆるアナフィラキシー・ショックによるものと、腹痛、下痢、意識障害、呼吸困難など、一般的なアレルギー反応によるものがあげられます。アレルギー反応の場合は、潜伏期間はなく、食後1~2時間程度で症状が出るのが一般的と言われています。

うーん、人によっても症状の出方は異なりますので、何とも言えませんが、私の場合、何となくではありますが、腸炎ビブリオが原因のような気がします。「水温が高くなって」というのも、最近の自然環境に符合していますしね。

ただ、アレルギー反応によるものは別として、それ以外はほとんど、免疫力が低下している場合に発症しやすいことは共通しています。服用している薬の関係で、白血球の値が低くなりがちな私は、気を付けなくてはならないということですね。

今回食したのは牡蠣フライだったわけですが、かなり大粒のもので、ひょっとすると、5個あったうちの1つか2つ、火の通りが必ずしも十分でないものが混じっていたのかもしれません。まあ、それでも、1日で回復して、次の日には、嘔吐も下痢も収まり、普通に食事できていましたから、不幸中の幸いということでしょう。

これで牡蠣が嫌いになったかって? いえいえ、そんなことはありません。もう少し小ぶりのものを食べるとか、十分に火が通っていることを確かめられるような料理を食したいものです。だって、牡蠣っておいしいですよね。

 

さて、もののついでですので、最近の体調等について、少しご報告しておきましょう。

まず、8月から始まったサークリサやポマリスト、そしてレナデックスという薬を使った新しい治療は、今のところ、かなり効果をあげているようで、経過は順調です。予想されていた副作用は若干あるものの、極端に体調が悪化するようなことは起きていません。白血球、赤血球、血小板の値は低下しているものの、危険なほどではありません。まあ、今回の牡蠣中毒のようなことがありますので、注意が必要なことは言うまでもないのですが。ただ、この治療のために、2週間に1回、3~4時間程度の点滴があるのは、いささか気が重いですね。本を読んだり、音楽をスマホで聴いたり、というように時間はつぶせるのですが、決して楽しいひと時ではありません。看護師さん達との雑談が唯一の楽しみでしょうか。

また、ポマリストはサリドマイド系の薬なので、院内処方になるうえ、厚生労働省からは病院や患者に厳重な管理が要請されています。たとえ一錠でも、「なくした」とか「他人に譲った」ことは認められないのです。これは、以前サリドマイドを妊婦が服用したことによって重大な障害が多数報告されたことに起因するのですが、専門家の中には、現在のサリドマイド系の薬は、以前に比べると、かなり改善されており、そこまで厳格に管理する必要はないのでは?という意見もあるそうです。ただ唯一私にメリットがあるとすれば、処方される薬のうちの一種類でも院内処方のものがあると、それ以外の薬も全部院内処方として扱われるので、支払いは治療費と一括になりますし、わざわざ薬局にでかける必要がない、ということでしょうか。

この治療と並行して、骨を強化するための薬を使用することになりました。ランマークと呼ばれる薬の注射で、こちらは1ヶ月に1回になります。ただ、以前も書きましたように、これに先立って、歯の治療をすることになり、おかげで、虫歯を1本抜くことになりました。きれいにクリーニングしてもらいましたし、むしろラッキーだったと言えるでしょう。

多発性骨髄腫という病気は、骨を弱くし、場合によっては溶かしてしまうという恐ろしい症状をもたらします。私も、9年前にこの病気を発症した時には、腰のあたりの骨にきれいに穴が開いてしまい、激しい腰痛に襲われた経験がありますので、やや神経質にならざるを得ないのです。下手をすると、一生車椅子生活になってしまうのですから、本当に恐ろしいことです。

腰痛と言えば、これも先日に少し書いたことですが、この秋頃から、長時間歩いていると、腰がだんだんだるくなってきて、ついには歩くのが辛くなってくるということが起きていました。腰痛の一歩手前という感じです。そこで、MRI検査で調べてもらったのですが、どうやら、骨髄腫のせいではなく、ごく軽い椎間板ヘルニアの気が出ているのではないか、ということでした。ただ、今のところ脊柱管狭窄症を心配するようなものではないようです。今後は様子を見て、さらに悪化するようだったら、整形外科を受診するように勧められました。しばらくは、軽い運動や自分でできるストレッチ等で対処することになりそうです。最近は、少し付き合い方がわかってきましたので、長時間連続して歩くことは避けて、適当に休みを取りながら歩く等しているためか、一日に合計6000歩から8000歩程度歩いても、それでヘロヘロになってしまうことはありません。まあ、これももっと長い目で見ていくしかありませんね。

 

そんなわけで、相変わらず万全というわけではありませんが、日常生活に支障を来すような大きな障害には見舞われていません。12月も既に半分過ぎましたので、このまま何とか穏やかに年は越せそうです。

 

今回は自分の病気のことばかり書いてしまいましたので、私のことを直接ご存じない方には、退屈至極な内容になってしまいましたこと、お詫び申し上げます。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常223 日大の違法薬物問題を考える

こんにちは。

 

今回は、最近話題となっている事柄について少々持論を。

日本大学アメリカンフットボール部における学生の違法薬物事件が、連日大きく取り上げられています。しかし報道の多くは、理事会をはじめとする大学側の対応のまずさ、危機管理能力のなさといった点に焦点が当てられています。

たしかに、報道されている内容を見る限り、理事会あるいは一部の理事の対応はあまりにもずさんかつ稚拙で、「そんな対応で乗り切れると本気で思っていたのか?」と不思議にさえ思ってしまいます。また、事件とはまったく無関係の一般学生への配慮、サポートの具体的な姿が全くと言って良いほど見えてこないことに、元大学教員という私の立場からは、とても不安に感じます。もともと、日本大学は16もの学部を有し、在学者数は約75000名にも上るマンモス大学です。さらに言うなら、ほとんどの学部はそれぞれ地理的に離れたキャンパスに設置されているため、全体がひとつの大学としての一体感をもっているのかというと、疑問を持たざるを得ません。もっと小規模な大学と比べるとかなり様相は異なるのです。それでも、「日本大学」というブランド・イメージを大事にしている学生や教職員は多いでしょうし、アメフト部の問題が自分とはまったく無関係だと言っても、何かしらの苛立ちや不安感をもつ人が多くても不思議ではありません。(就活への不安を感じている学生も少なくないようですね。)

ただ、この問題、肝心の事件そのものにあまり焦点が当てられていません。つまり、大学生が違法薬物に手を出すという事件が増えていることそのものから出発した問題提起が十分ではないように思うのです。

厚生労働省の発表資料によると、ここ数年、違法薬物使用による検挙人数は、さほど大きく変化していないようです。ただ、例えば大麻事犯における30歳以下の検挙人数を見ると、30歳以下の検挙者が明らかに増加しており、全体の約70%にも達しようとしています。そしてこのうちの20歳未満の割合は約25%となっていますが、この値も徐々に増加しているのです。

違法薬物検挙件数の推移(厚生労働省ホームページより)

大麻事犯における30歳以下の検挙者数推移



大学生をはじめとする20歳前後の若者の周囲には、さまざまな誘惑が渦巻いており、好奇心旺盛で、しかもまだ「世の中の仕組み」を十分に理解していない彼らが、どこかで落とし穴にはまってしまうことは決して少なくないということが、この数字を見ただけでも明白です。もちろん、誘惑は薬物(ドラッグ)だけではありませんが。

私のような世代になると、「誘惑と言っても、そんなもの、どうやって入手するのだ?」と素朴に疑問を抱いてしまうのですが、インターネットを物心ついた時から使っている彼等にとっては、それも造作もないことのようです。相手の見えない商品取引は、売り手にとっても買い手にとっても、比較的安心して使えるツールであることは説明の必要などないところでしょう。(ただし、証拠は残ってしまうリスクがありますが)

関西にある私立四大学(関西大学関西学院大学同志社大学立命館大学)が2023年に行った合同調査によると、大学生のおよそ4割が、大麻覚せい剤などの危険な薬物が入手可能と考え、約10人に1人が使用している人を直接見た経験があると回答しています。また、薬物使用に関しては、89.4%の学生が「どのような理由であれ、絶対に使うべきではないし、許されることではない」と回している一方で、「1回位なら使ってもかまわない」「使うかどうかは個人の自由」と考えている学生も一定数存在しているようです。また、上にも書いたように、友人・知人を介して勧められることもあるでしょうし、自分では違法薬物と知らずに接種してしまうこともあるかもしれませんから、この89.4%という数字も「絶対安全」なわけではありません。

言うまでもないことですが、違法薬物にはまってしまうと、本人の健康状態や経済状態に大きな支障を来してしまいますし、周囲にも大きな迷惑をかけることになります。また、それが暴力団やその関連企業等の反社会的勢力にとって最大の収入源となっていることも周知の事実です。つまり、「やりたい奴が自己責任でやるのだったら、それをとやかく言う必要はない」等とは言っていられない大きな社会問題が、この違法薬物問題なのです。そして、30歳以下の若い世代がその「カモ」としてターゲットにされているのです。ここで彼らが道を誤った場合、下手をするとそれは一生ついてまわる問題になってしまうのですから、周囲のサポートは必要不可欠と言えるでしょう。

では、大学はこの問題にどのように対処すれば良いのでしょうか。いわゆる危機管理の問題なのですが、それは大きく分けて、「事件が起きないようにする」対策と「起きてしまった場合にどうするのか」という対策とに分けられます。ここからは、教員としての経験を踏まえての私見です。

まず、事前の対策としては、とにかく学生との密なコミュニケーションを図り続けることです。最近は、どこの大学も出欠チェックをかなり厳しく行うようになりましたので、まったく大学に出てきていない学生が完全に放置されてしまうことは減っていると思いますが、それでも、高校生の時のような担任制度がある大学は数少なく、普段の学生の行動をどこまで把握できているかというと、あやしいものです。教員は、定期的に担当する学生と直接対話する機会を設け、その結果を記録として残しておくべきなのです。いわば「学生のカルテ」を作るのです。

もっとも、教員の中には、こうした仕事に消極的な人も少なくありません。そもそも大学教員の大半は「学生を教育する」ことよりも「自分の研究に専念する」ことに大きな関心があり、学生との付き合いはできれば最小限にしておきたいと考える人も決して少なくないのです。こうした状況に対しては根本的な意識改革が必要ですし、カウンセラーとしての能力を身につけるための研修も必要でしょう。もちろん、これは教員の仕事を増やすことになります。だからこそ、大学側の促進、支援策が必要となるのです。学生は大学の中で「居場所」を求めています。それは部活やサークル、ゼミ、図書館等さまざまあるでしょうが、個人的には、教員研究室がそのひとつになるのも悪くないと思っています。

第二に、事後の対策について。これにもっとも効果的なのは、理事長或いは学長といった学内で最高の権力を持つ人の下に直轄の対策委員会をつくり、理事会や教授会といった既存組織の決定や指示を待つことなく、迅速・機動的に対処に当たるようにすることでしょう。これは必ずしも常設の委員会である必要はありませんし、5名程度の少人数で十分です。ただ、医師や弁護士、カウンセラー等専門的見地から仕事に当たることのできる外部人材を登用することは絶対に必要です。そして、途中段階で横ヤリが入らないようにするためにも、既存組織とはまったく切り離して動けるようにしなければならいのです。

大学は、あくまで研究・教育機関ですし、学生の本分は勉強することです。それ自体は、どんなに時代が変化しても普遍です。しかし、自分が育った時代と現代の学生の気質、生活パターンが大きく変わっているのならば、それへの対処を適切に行っていかなければ、大学は本来の役割を果たすこともできなくなるのです。一昔前のように、「大学内部のことは大学内部で解決する」ということは今や時代に合わなくなってしまっていることを、すべての大学関係者は認識しなくてはならないでしょう。

 

それにしても、生活習慣等自分にまったく原因が見当たらない病気に罹患してしまった私のような人間から見ると、わざわざカネを払って、自分の健康を害してしまう可能性のあるような薬物を接種する行為は、本当にばかげたものに思えてなりません。それとも、違法とわかっていてもこうした薬物に依存しなければ精神状態のバランスを保つことが困難になってしまう人が増え続けるほど、現代社会は病んでしまっているのでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常222 京都府立植物園の紅葉

こんにちは。

 

前回、男声合唱がらみの話を書いたところ、その筋?の人達からはけっこう反応を頂きました。さらに合唱関連の旧友にもこのブログをご紹介いただきました。そのおかげで、ここ数日、いつもよりアクセス回数が増えています。私の場合はもともと収益目的で書いているわけではありませんが、それでも、多くの方に読んでいただけるのは本当に嬉しいものです。皆さんありがとうございます。

ただ、このブログは、過去のものを一瞥して頂けばわかるのですが、合唱ネタばかりを取り上げているわけではありません。もちろん、音楽は大好きで、ほとんどあらゆるジャンルについて色々と語りたいことはあるのですが、このブログの方向性は少し異なります。もっとも優先して書くようにしているのは私自身の病気のことについて、そして時事ネタ、さらには日常の中でちょっと気になったことなどを、脈略なく取り上げています。そんななかで、時々音楽ネタも取り上げますので、よろしければ、気長に付き合っていただければ幸いです。なお、更新日は毎週金曜日または土曜日を目指しています。

 

さて、前々回は京都の紅葉の話題でした。紅葉シーズンはいよいよ終わりを迎えようとしていて、これを目当てにした観光はおそらく今週末が最後でしょう。それにしても、今年はコロナ禍明けということもあって、外国人の方の姿が例年以上に多く見受けられました。その中で少し気になったのが、彼らの多くが巨大なキャリーバッグを持ち歩いておられることです。階段の上り下りは大変そうだし、混雑する電車やバスの中では、置き場所に困っておられます。もちろん、外国旅行となると、それなりに荷物が多くなるのは理解できますが、それにしてもそんなに大きなバッグが必要なのだろうか? おして、それはホテル等に預けてくるという発想はないのだろうか? と素朴な疑問が湧いてきてしまいます。

多くの都市や観光地では、中心駅にはこうした荷物の預かりサービスがあります。そして、それをそのままホテルまで運んでくれるところも多いようです。ホテルからのチェックアウトの際も同様のサービスを受けることができます。また、ホテル自身もチェックイン前やチェックアウト後の荷物預かりを実施しているところが数多くあります。こうしたものをうまく利用すれば、いちいち大きな荷物を持ち歩く必要はありませんし、その結果、他の方に不要の迷惑をかけることもないのです。つまり、これはオーバーツーリズムを少しでも緩和する方策のひとつでもあるのです。

ただ、こうしたサービスを実施していることについての広報はどうやらあまり進んでいないような気がします。日本の治安や「安全性」を広く情報発信するとともに、現状ではバスや電車で大きな荷物を持ち込むことは他の方に迷惑をかけることが考えられること、だからこそ、自分のためにも、他人のためにも、こうしたサービスを積極的に利用するよう、もっと多くの観光客に伝えていく必要があります。

数回前の投稿でも書いたことなのですが、オーバーツーリズムを解消するもう一つのもっと単純な手段があります。それは「あまり混んでいない所に出かけるよう仕向けること」です。もちろん、観光客自身がそうした所を探すことも重要です。

そんなわけで、先日京都府立植物園を訪れました。まあ当たり前の話ですが、京都まで観光に来て、わざわざ植物園に行こうと思う人は少ないでしょう。しかし、ここはその名のとおり、四季を通じてさまざまな花が見ごろを迎え、いつ訪れても見事な姿を見せてくれるのです。また、かなり大規模な温室もあり、日本ではあまり見られないような花も咲き誇っています。

そんななかでとくに紅葉が見事なのが、「なからぎの森」と呼ばれるエリアです。中心に池を配したその庭園やそこに植えられている大イチョウは、見事に色づいていました。


ところで、この写真の風景が植物園の中にあるということに、少し違和感を覚える方もいらっしゃるのではないでしょうか。それもそのはず。ここはもともと「半木(なからぎ)神社」という神社の敷地なのです。その森がかなりそのまま残されたところなので、このような風景が広がっているのです。

半木神社は今もここにあります

 

この植物園は、2024年1月1日には開園100周年を迎えるという長い歴史を有しているのですが、第二次大戦後12年間にもわたって、連合軍に接収され、主に将校家族用住宅地として利用されたという苦難を経験したのです。この計画は、当初京都御所近隣を候補地としていたのですが、これにはさすがに京都府が猛反対し、妥協策として、植物園が選ばれたのです。そして、それまで25000本近くあった樹木は、貴重なものも含めて、7割近くが根こそぎ伐採されてしまったのです。そんななかで、半木の森だけは、「鎮守の森」として日本人の精神や信仰心の奥底にある信仰心に大きな意味を持つとしてアメリカ人に対しても丁寧な説明がなされ、かろうじて残され、今に至っているのです。

そんなわけですから、ここは植物園の中でも「特別な場所」なのですね。訪れた皆さん、カメラやスマホを片手に、「嵐山なんかに行かなくても、ここで十分だね」と満足気に話しておられました。

紅葉を愛でるというのは単なるレジャーではありません。鮮やかに色づく木々や落ち葉の様子を眺めながら、季節の移ろい、とくに来るべき冬への思いを馳せる。そのような気持ちの整理を行うための大事な行事だと思うのです。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常221 多田武彦合唱曲への思い

こんにちは。

 

今回は、前回、前々回に引き続き、紅葉がらみの話を書くつもりだったのですが、急遽予定を変更して、少し趣の異なる話をさせていただきます。

突然ですが、多田武彦という作曲家をご存じでしょうか。おそらくこれを読んでいただいている方の90%以上の方は、名前を聞いたこともない、どんなジャンルなのか、まったく知らないとお答えになるでしょう。しかしごく一部の方にとっては「おおっ!」という反応を示されるはずです。

この方は、1930年生まれ(2017年没)。大学等で専門的な高等音楽教育を受けたわけではないのですが、京都大学を卒業した後富士銀行(現在のみずほ銀行)に入社し、銀行員として主に民間企業再建の仕事に携わりながら、他方で「日曜作曲家」として100曲以上の作曲を手掛けた方です。そして、そのほとんどは無伴奏男声合唱曲で、北原白秋草野心平三好達治中原中也など、抒情的な香りの高い詩に男声四部(トップテナー、セカンドテナー、バリトン、バス)の分厚いハーモニーを合わせて、独特の世界を作り出したことで、合唱愛好者にはよく知られています。とくに男声合唱経験者で、この人の作った曲を歌ったことがない人はおそらく皆無と思われるほど、愛唱されているのです。

私自身大学生だった4年間には、この人の曲には随分感化されたものです。とくに、1年生(関西風に言えば1回生)のときには、代表曲である「男声合唱組曲 富士山」「男声合唱組曲 雨」に出会い、自然の中で佇む人間の力強さとナイーブさを表した世界にどっぷりと浸ったものです。その後、混声合唱に親しむことが多くなった私ですが、あの独特の雰囲気は、混声合唱や女声合唱にはなく、また、世界中探してもおそらく日本以外には見当たらないものだろうと、今でも思っています。

といってもピンとこない方に1曲だけお勧めするとしたら、前出の「男声合唱組曲 雨」の終曲である「雨」(八木重吉詩)でしょうか。とてもシンプルなメロディが3回繰り返されるだけの短い曲ですが、詩に込められた「生きる中ですべてを乗り越え、そして死んでいくこと」に対する深い思いとそれを見事な和声の展開で表現している多田氏の曲には、ただただため息をつき、しみじみとこれを味わう以外にできることはなくなってしまうのです。

多田氏自身は「今後私がつらいことにぶつかった時にも私を慰め、『そっと世のためにはたらく』ことを私にささやくことであろうし、私が死ぬ瞬間にも、静かに死んでゆける鎮魂曲となるであろう。」と記しています。

(多田氏の合唱曲は、YouTubeに多くアップされていますし、Spotifyでもいくつも聴くことができます)

また、私は在学中にいくつかの高校や中学校の校歌を男声合唱用に編曲した経験があるのですが、この時には、多田氏の使う和声や編曲手法を大いに参考にさせてもらったものです。細かいことは省略しますが、抒情的なのに決して繊細過ぎることはなく、むしろ力強さを感じさせるには、多田氏の紡ぎ出したオルガンのような分厚い響きと畳みかけるような旋律の繰り返しが、とても効果的だったのです。

さて、なぜ突然こんな話を持ち出したのかというと、先週末、学生時代に一緒に歌った仲間と久しぶりに再会し、旧交を温めるという機会を得たからです。同期は全部で19名。6年ほど前に同窓会としてのイベントが復活したのですが、この4年間はコロナ禍のため、やむを得ず中止していました。今回は、久しぶりにもかかわらず、12名が参加し、とても盛り上がった宴席となりました。話題はどうしても健康問題やセカンド・キャリア問題、それにお孫さんのことなどが中心になりがちでしたが、決して昔話に終始して「あの頃はよかったなあ」などと言う感傷にふけるものではなく、あくまで「現在をどう生きるのか」という姿勢を皆が貫いていたのはとても気持ちよかったものです。

それはそれとして良かったのですが、問題?は二次会。カラオケの一部屋で3時間ほど過ごしたのですが、その間、実際にカラオケを入れることはほとんどなく、昔、皆で歌っていた合唱曲をひたすら歌い続ける、という感じで、店の人から見れば「わけのわからない歌を歌い続けている変なおじさんの集団」としか見えていなかったでしょう。それでも、狭い部屋で思いきり歌い、久しぶりにハモる快感は何にも代えがたいものでした。そしてその中で多田武彦作品のすばらしさを再認識したというわけです。

合唱の魅力については、以前にも少し書きましたが、考え方も音楽的志向も異なるメンバーが指揮者の指示のもとでひとつの音楽を作り上げていくというところにあると私は思っています。本当の意味で「心をひとつにする」ことはなくとも、楽譜を追いかけ、お互いの声や響きを聴いているうちになぜか皆の気持ちがまとまっていく。これは経験したことのある方にしかわからない感覚でしょう。こんな醍醐味を経験をできるのならば、また再会したいものだと強く感じました。

「同窓」という言葉がありますね。あれは本来同じ窓、つまり同じ教室で学んだという意味ですが、私は少し違うものとして捉えています。それは「同じ窓から外を見ていた仲間」というものです。窓から見える景色はそれぞれ異なるかもしれません。それでも、同じ場所(教室)にいるというだけで、何か特別の感覚を共有することができ、それを基盤にして、自分が目指すべき空を思い思いに眺める。それこそが単なる懐かしさに浸るのではない「真の同窓」ではないでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常220 それぞれの秋と紅葉の風景

こんにちは。

 

京都にはいわゆる「紅葉の名所」と呼ばれるところが数多くあります。嵐山や東福寺方面に向かう電車やバス乗り場には、朝から長蛇の行列ができています。そのため、普段これらの交通機関を利用している地元の人はなかなか乗れない状況のようです。まさにオーバーツーリズムの典型のような姿ですね。

しかし、こうした観光名所を少し外れると、比較的快適に紅葉の名所を回ることも可能です。今回は、そうした中から、最近私が訪れたふたつをご紹介します。

といっても、実はふたつとも東福寺塔頭で、そのそばにありますので、混みあっている時間帯に訪れてしまうと、東福寺駅(JRおよび京阪電鉄)の雑踏に巻き込まれてしまいますので、早朝または夕方に訪れるか、比較的空いているバスを利用することをお勧めしますが。

ひとつは、東福寺からさらに南へ5分ほど歩いたところにある光明院。朝7時から拝観受付を行っています。

ここに訪れるには、「映えスポット」のひとつである臥雲橋を通らなくてはいけないのですが、早朝なら人影もまばらで、橋の上からゆっくりと紅葉の様子を眺めることができます。(昼過ぎだと、「橋の上で止まらないでください」と注意されてしまうことがあるようです。)私が訪れた時は紅葉の盛りまではもう一歩という感じで、少し残念な写真になってしまいましたが、一応あげておきます。

東福寺臥雲橋からの眺め

でも、今回はこれがメインではありません。

お目当ての光明院は、創建が室町時代初期の1391年。白砂と苔の上に石を配した枯山水庭園である波心庭と奥の木々が重なる様子が見事な庭園で知られる名刹ですが、東福寺から少し離れた住宅街の中に建っているので、訪れる人はさほど多くなく、都会の喧騒とは無縁の世界が広がっています。この庭は昭和の名作庭家である重森三玲氏によるもので、同じ時期に作られた東福寺の方丈庭園とはかなり趣が異なります。そして、縁側だけでなく、さまざまな角度から眺めることができるので、どれだけの時間でもここでぼんやりと過ごすことができるのです。

きわめて個人的な感想ですが、重森三玲氏の作る庭は、海の流れや波など自然の姿を現した枯山水とは一味違い、もっと挑戦的というか挑発的というか、見る人に直接訴えかけてくるような強い意志を感じます。彼が単なる作庭家ではなく、すぐれた芸術家として評価される所以なのかもしれません。

光明院の枯山水庭園

石の選び方にも「尖っている」感じがうかがわれます

バックの木々とのコントラストが見事

眺めがよくゆったりと過ごせます


さて、ここで一時間ほど過ごした後は次に移動しました。(その間、ぼちぼちと訪れる人はいましたが、皆さん比較的早く退散されていました。もったいないなあ・・・)

次に訪れたのは毘沙門堂勝林寺という塔頭です。と、その前に小腹が減ったので、東福寺のすぐそばにあった喫茶店(今風のカフェではありません)でモーニングをいただいたのですが、ここがまた、大変趣深かったのです。訪れていたお客さんは、地元の比較的年齢層の高い人ばかり。清水焼の食器を使っていますが、観光客はまったく相手にしておらず、あくまで地元の方々の「憩いの場」で、とても落ち着けるところでした。それなのに、BGMがジャズというミスマッチ感もまた面白い。モーニングは、コーヒーにトースト、ゆで卵、サラダがついて600円ですから、かなりリーズナブルだったと思います。

10時を回ったので、勝林寺に向かいましょう。ここはその名の通り、毘沙門天を本尊としていますが、この仏さま、東福寺建立よりも早い平安時代の作で、江戸時代から、東福寺の鬼門の方向(東北)に立地するこの寺に納められています。相当いかつい顔をしておられて、この姿で東福寺を守っているのだな、ということがよくわかるのですが、実は、この寺が近年有名になりつつあるのは、これとはまったく異なります事情があります。入ってすぐわかるのですが、まず手水にたくさんの花が飾られていて、いわゆる「花手水」が美しい姿を見せています。さらに庭を進むと、あちこちに和傘が飾られています。本堂に入っても、庭に面した縁側近くには、やはり鮮やかな和傘が広げられています。また、その美しさから、吉祥天が宿るともされるもみじ「吉祥紅葉」も見事な姿を見せてくれます。

このため、寺全体の雰囲気がとても華やかで、訪れる人の女性比率がとても高いのです。また、マスコミの取材も来ているようでした。これだけ華やかなら、写真やビデオに収めたくなるのは当然だな、と思いながら、ここでもやはり一時間近くゆっくりと過ごさせていただきました。和傘のディスプレイは2019年から始めたもので、これがなければ、もっと地味なところだったのかもしれませんが、最近の寺院は色々と工夫されているようですね。お守りやマスコットも結構売れていました。

勝林寺の花手水

和傘の花が咲いています

落ち葉を使ったちょっとした演出

 

庭園のあちこちにも和傘

 

勝林寺本堂と吉祥紅葉

 

 

そういえば、光明院では、これほど目立ちはしませんでしたが、かなりの頻度で若手アーティストの作品の展示会を行っています。私が訪れた時は「浅山を行く人々:鳴動する風景」と題して、主に台湾と日本出身のアーティストの作品がいくつか並べられていましたが、余計な説明はまったくなく、寺全体の雰囲気の中に見事に溶け込んでいて、とても自然な様子が好感を持てました。

 

一口に紅葉を楽しむといっても、今回訪れた二つの寺院はまったく違ったもので、とてもゆっくりと、そしてかなり刺激的に過ごすことができました。

これから季節は冬に向かっていきますが、こうした様々な角度で季節の移ろいを感じるのも一興ですね。そして、それを感じることができるのは、とても贅沢なのかもしれません。

 

実は、もう一か所、この秋に訪れた「隠れ紅葉スポット」があります。それについては、次回ご紹介しますが、皆さんも、知名度に頼らずに自分だけのお気に入りの場所を探してみてはどうでしょうか。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常219 天寿庵の紅葉

こんにちは。

 

ここ数日、ぐっと気温が下がってきて、急速に冬の足音が近づいていますね。前回、前々回と続けてクマの話を書きましたが、そろそろ冬眠に入るので、被害は減るのではないか・・・と思っていたら、専門家によると必ずしもそうでもないらしいです。秋の間に十分な食料を摂ることができずに冬眠しそこなっているクマや、肉食を覚えてしまったクマは、いわゆる「穴持たず」という状態になります。彼らは通常、体力温存のため、活動量はかなり減ってしまい、じっとしていることが多いようですが、たまたま人間が遭遇してしまった時には、食料を求めて襲ってくることがないとは言えないのです。こうした「穴持たず」がどの程度森の中にいるのかはよくわかっていないようですが、いずれにしろ注意は必要だということですね。

私が仕事をしていた大学は山を削ったところに立地していますので、しばしばクマ目撃情報が寄せられていました。大きな被害が出たことはないようですが、建物の中にまで入ってきてしまったこともあります。もともと白山系は比較的標高の低いところまでクマが下りてくるところなのですが、近年では大学、住宅街等が山に迫るところに建てられているため、必然的にクマの目撃情報が増えているのです。

私自身はクマに遭遇したことはありませんでしたが、5年ほど前にイノシシと出会ったことはあります。夜8時頃、帰宅するために、建物から外に出てバス停に向かっている時、イヌよりは大きな動物とすれ違ったので、あれっと思って振り返ると、それがイノシシだったのです。その距離わずか約1.5メートル。クマほどではありませんが、イノシシも興奮すると何をするかわかりませんし、人間を攻撃することも珍しいことではありません。ですから「見なかった」ことにして、あまり振り返らないようにして、その場を後にしましたが、よく考えるとかなり怖い経験だったような気がします。ちなみに、後ろを歩いていた女子学生たちは近づいて写真を撮ったりしていたようですが、あれは非常に危険な行為ですね。

 

さて、クマの話はこれぐらいにして、今回は話題をガラッと変えます。

京都でこのシーズンと言えばやはり紅葉です。いわゆる「紅葉の名所」は数えきれないほどありますが、先日、南禅寺塔頭である天寿庵を訪れました。場所は、有名な南禅寺三門のすぐそばで、創建は1339年。その後、何回か火事のため焼失したのですが、歌人としても知られる細川幽斎によって1602年に再建され、今に至っています。現在も細川家の菩提寺となっており、長谷川等伯の襖絵32面があることでも知られています。(ただし襖絵は非公開)

ここは周囲よりも少し色づきが早いようで、10日ほど前にすでにけっこう紅葉が進んでいました。小堀遠州の発案で作られた直線的なデザインが印象的な枯山水の庭園はその奥に見える木々が色づき始めていることとのコントラストが素晴らしかったですし、奥に広がる池泉回遊式庭園は、苔むした燈籠や手水とも相まって、紅葉と見事な一体感を見せてくれていました。ただ、この庭園、通路が大変狭く、人がすれ違うのにはけっこう配慮が必要です。また「映えスポット」がいくつもあるので、順路の途中で立ち止まって写真を撮る人も多く、そのたびに渋滞が起きてしまう、という欠点がありました。開門は朝9時ですので、訪れる場合は、開門直後がお勧めだと思います。ちなみに、私は朝8時45分頃に到着し、開門と同時にゆっくりと見てまわったのですが、10時頃に寺から出てくると、南禅寺境内の雰囲気が1時間前とはがらりと変わっていて、修学旅行生や外国人観光客で溢れかえっていたのに驚いてしまいました。

朝9時前の南禅寺三門は人もまばらです

南禅寺塔頭、天寿庵の門


枯山水庭園

 



同上

細い橋を通って、回遊式庭園へ このあたり、渋滞します

池泉回遊式庭園 ハスもきれいです

 

苔むした燈籠

苔むした手水

ここに限らず、寺や神社を訪れる際には、開門直後か閉門直前を狙った方が良いですね。

来週初めあたり、紅葉が散ってしまわない前にあと数か所、小さな寺院を訪れようかと思っています。それについては、またこのブログでご報告します。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常218 ヒグマの恐ろしさをめぐって

こんにちは。

 

前回の投稿ではツキノワグマによる被害の増加について触れましたが、その後の報道によると、被害がもっとも多いとされている秋田県では、これを食い止めるためにクマの駆除を行っているのですが、これに対して「可愛そうだ」「殺すな」など抗議の電話が多く寄せられているそうです。こうした苦情を言ってくる人の多くは、自分自身が直接クマによる被害を受けない場所や立場で発言しているため、地元の方々や秋田県知事は当惑と苛立ちをにじませて、これに反論していますが、これは当然の反応でしょうね。

前回も書きましたように、クマによる被害の原因を探っていくと、人間側の社会生活等にも大きな問題があることは事実で、クマが一方的に悪者というわけではありません。しかし、私達が安全に暮らしていくためには、まずは人命を最優先しなければならないこともまた確固たる事実であり、県の対応は決して間違ってはいません。秋田に住む人たちも「駆除」が根本的解決ではないことは百も承知のはずなのです。ただ、個人的な感想ですが、「駆除」という言葉が少し刺激的すぎて、県への批判の声を助長してしまっているのかもしれない、とも思います。クマとの共生を志向するような、もっと穏やかな表現に言い換えることはできないのでしょうか。

それにしても、10月末現在までの全国の被害数180件の内40件以上が秋田県に集中しているというのは、少し異常な気もします。どこにその要因があるのか、おそらく専門家の分析がこれからなされていくのでしょう。

さて、今回のテーマは、北海道に住むヒグマです。

ヒグマとツキノワグマ。両者の見た目の違いは下の表のとおりですが、ヒグマの方がかなり大型であることは一目瞭然です。また、ツキノワグマが比較的臆病であるのに対して、ヒグマはかなり凶暴な性格で、人間の存在を怖がることはほとんどないようで、食物を求めて人家を襲い、農作物だけではなく、人肉を食することを目的として行動することも珍しくないのです。


ヒグマによる人間への被害はかなり昔からあったようで、1915年12月苫前村三毛別(現:苫前町三渓)の開拓地に現れた大型のヒグマは、わずか5日間の間に何度も同じ集落、同じ民家を襲い、最終的に8名もの死者を出すという悲惨な事件が起きています。もちろん、住民たちは何とかこれに抵抗しようとしたのですが、いざヒグマに直面すると恐怖で体が動かなくなったり、至近距離からでも銃を撃ち損じたりしてしまい、なかなか被害を食い止めることができませんでした。「それでは罠を仕掛けよう」ということになり、かなりの批判があったのを押し切って、クマが食い散らかしていった遺体を囮のエサにしてクマをおびき寄せようとしたのですが、クマはそれが罠であることをやすやすと見抜き、人間の裏をかいた襲撃を繰り返したのです。

当時、この事件は地元ではかなり話題になったらしく、地元新聞等には詳細な記録が残っています。また、作家であり、北海道で林務官を務めていた経験のある木村盛武氏は、さらに詳細な記録を整理し、『慟哭の谷:北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(文春文庫)というノンフィクションにまとめています。そのうえで、ヒグマの生態について、以下のようにまとめています。

  1. 火炎や灯火に拒絶反応を示さない
  2. 遺留物(食べかけの遺体等も含む)があるうちは、クマはそこから遠ざからない
  3. 遺留物を求めて、何度でも同じ場所に現れる
  4. 食べ残しは草むらなどに隠す
  5. 最初に味を覚えた食物や物品に対する執着が強い。
  6. 行動の時間帯に一定の法則性がない。つまり昼夜を問わず出没する。
  7. 攻撃が人数の多少に左右されない。つまり、多くの人数が集まっているからと言って、それを警戒して襲ってこないということは必ずしもない。
  8. 人を襲う時、体毛と衣類をはぎ取る。
  9. 加害中であっても、そこから逃げようとする者がいれば、そちらに矛先を向ける。
  10. 厳冬期でも冬眠しない個体もおり、そうしたクマは食欲が旺盛である
  11. 手負い、穴持たず、飢餓クマは凶暴性をよりあらわにする。

 

これを読むと、凶暴化したヒグマの前では、人間がいかに無力であるのかよくわかります。ましてや、「死んだふり」などはまったく通用しないのです。ちなみに、この書では木村氏自身のヒグマ遭遇経験も紹介されているのですが、これもまた大変リアルで、ヒグマの恐ろしさを感じるには十分な内容となっています。

なお、三毛別の事件は後に吉村昭氏が『羆嵐 』(新潮文庫)というタイトルで小説化しています。(余談ですが、羆という一文字で「ヒグマ」と読むことを私ははじめて知りました。)

では、結局ヒグマの凶暴さに、人間は屈するか、それとも銃等でこれを殺すのか、つまり「殺すか、殺されるか」という選択肢しかないのでしょうか。

色々調べていると、必ずしもそうではない事例もあるようです。知床の漁師である大瀬初三郎氏は「クマを叱る男」として一時マスコミでも注目された人です。この人が、捕ったサケやマスを盗みにきたヒグマに対して「コラ!来るな!」と一喝すると、なぜかヒグマはすごすごと退散してしまうというのです。知床は北海道の中でもとくにヒグマが多数生息している地域ですが、そんな危険な地帯で、見事にクマとの共生を実現している人物がいるのです。もちろん、一般の人がそんな真似をすることはとても危険ですし、例外中の例外なのかもしれません。しかし、こんなエピソードのどこかに本当の意味での「共生」につながるヒントがないのか、考えていく意味は大いにあるように思います。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常217 クマとの共存を考える

 

こんにちは。

 

今年は、クマの出没、そして人間に危害が加えられた例は急増しているようですね。環境省による速報値を見ると、今年4月から10月まででクマに襲われることによってけがや死亡などの被害を受けた人の数は全国で180件に上っています。この数字は、これまで最多だった2020年(年間で158人)を既に上回っていて、これからの冬眠前の時期にどれだけ増えてしまうのか、非常に大きな警戒が必要となっています。実際10月に入ってからの件数がとくに増えていることは決して軽んじてよいものではありません。


クマという動物、大変不思議なもので、誰もが恐ろしいとわかっているはずにも

かかわらず、ディズニーのキャラクターである「くまのプーさん」や、童謡「森のくまさん」等の可愛らしいイメージが先行しているせいか、その被害のことを差し迫った危険として考えている人はさほど多くないようです。「都会に住んでいれば、クマに遭遇することなんてあるはずがない・・・」という先入観がそうさせていることもあるでしょう。

しかし、最近のニュースを見ていると、必ずしもクマは森や草原にだけ生活しているわけではないことが明らかになってきています。もちろん、ねぐらは森の中の目立たない所にあるのでしょうが、エサを求めて、次第に里山、あるいは住宅街へ降りてくることも珍しくなくなってきているのです。クマが好んで食べるのはドングリなどの木の実ですが、冬が近づくと、そういったものは減ってきてしまいますので、さらに山から下りてきて、えさにありつけそうな住宅街や商店、そして畑等に出没するようになっているのです。

クマは大変頭の良い動物ですので、一度「あそこに行けば食事にありつける」ということがわかれば、何度でもそこを訪れます。また、イヌよりも数千倍嗅覚が優れていると言われていますから、匂いを頼りに、やって来ることもあるのでしょう。

ただ、ツキノワグマに関して言えば、そもそも比較的臆病な動物なので、人間側が下手に騒いだり、攻撃しようとしたりしない限り、向こうから襲ってくることは滅多にないはずです。ただ、屋内に入ってしまったものの出口がわからず、パニックになってしまった時などは危ないようで、そんな時は、とにかくクマから離れてそれ以上刺激しないように見守り、可能ならば、出口を大きく開けて、クマがそれに気づくように仕向けることが、私達にできる最大の防御策であるようです。

ただ、数年前から「人肉を食べるツキノワグマ」が話題になっていることもたしかです。例えば、2016年、秋田県鹿角市では、タケノコを採りに来ていた男女4人が次々にクマに襲われるという事件があったのですが、ここで地元の人が恐怖におののいたのは、たくさんの人がいれば、クマは逃げていくと信じられていたことが見事に裏切られたこと、そして、遺体の一部は食べられた跡があったということです。クマは臆病だ、そしてヒトを食べることなどありえない、という古くからの言い伝えはもはや迷信でしかないのか? 人肉を食べることをクマが覚えてしまったなら、今後どうなるのか?・・・ 恐怖は膨らむばかりです。

ただこの事件に関しては、私が少し調べた限りでは、幸いなことに続報はあまりないようです。つまりクマ社会の中で「人肉を食べる」という行為はさほど一般化していないようです。

 

そうは言っても、クマの活動域が人間のそれときわめて近くなっていることは事実ですから、今後どのような被害が出るかわかりません。これに対しては、専門家も大きな危機感を持っているようです。

例えば、世界的な環境保護団体であるWWF(World Wide Fund for Nature:世界自然保護基金)の日本支部であるWWFジャパンは「クマとの共存を目指して」というリーフレットを発表しています。それによるとそもそもの原因は、山が荒れて、山中にクマの食物が少なくなってしまったことに加え、中山間地期における高齢化、過疎化、耕作放棄などの問題が重なり、こうした自然的・社会的要因が複雑に絡み合った結果にあるため、即効性のある対策はないとされています。では何ができるのか? それは結局のところ、生ごみや廃棄果樹等の放置を極力減らし、さらには電気柵を設けるなどして、クマが人間の住む領域に入ってくることを避けるようにする、つまり「棲み分け」による共存の道です。

要するに、お互いのテリトリーを荒らさず、遭遇を避けるようにすれば、被害は相当減らせるはずだ、ということですね。

クマ1頭と人間1人の間には圧倒的な体力差がありますから、これを愛玩動物または役務をさせる動物として飼いならすことはほぼ不可能です。だとしたら、こうした道が「共存」を進める唯一の選択肢なのかもしれません。これを「共存」と呼んでよいのかどうか、少し判断に迷うところもありますが、とにかくおたがいを傷つけ合わないようにすることこそ、唯一の解決への道筋と理解すべきなのでしょう。

 

ただ、ここまで書いたことは、あくまで本州およびそれ以南に生息するツキノワグマに関してです。しかし、北海道に住むヒグマとなると、かなり様相が異なってきます。そこで次回は、ヒグマと人間の関係について、少し書いていきたいと思います。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常216 オーバー・ツーリズムにどう対処するのか

こんにちは。

 

今年は季節の進むのが早いようで、どんどん紅葉が進みつつあります。緑もまだ残っているこの季節が私は一番好きです。もっと北国の方に行くと既に山頂は雪をかぶっていますので、山麓付近は緑、中腹は赤、そして山頂付近は白というように見事なコントラストを見せてくれますね。

しかし観光地はそんな呑気なことを言っていられません。コロナ禍の旅行制限がなくなった今年、秋の観光シーズンは昨年度までよりもかなり盛り上がっているようで、いわゆるオーバー・ツーリズムの問題が深刻化しているからです。

この言葉自体は2000年代に入ってから、アメリカで広まったものですが、日本ではそれ以前から「観光公害」という名称で、しばしば大きな問題として取り上げられてきました。JTB総合研究所によると、それは「観光客や観光客を受け入れるための開発が、地域や住民にもたらす弊害を公害にたとえた表現」と定義されています。要するに観光客が押し寄せることによって、それまでの地域住民の生活環境が大きく変わってしまうことによるさまざまな問題を総称して、このように呼んでいるのですね。

具体的には道路や公共交通機関の混雑の常態化、ポイ捨てによるごみの増加などが目に見える形での弊害としてしばしば指摘されていますが、それだけではありません。

私が最も懸念するのは、こうした地域に立地する商店がどんどん「観光客向け」の売り方をするようになり、地元民にとってはとても利用しにくいものになってしまっていることです。

京都や鎌倉、さらには奈良など、コロナ禍の時期には観光客が激減した地域では、それを機会に、もっと地元に目を向けた「地に足を付けた商売」を目指していこうとする動きが見られました。しかし、いざ観光客の足が元に戻ってくると、結局元の木阿弥。それを優先したやり方になってしまっているように思えるのです。

もちろんせっかく訪れてくれた観光客をしっかりともてなすことはとても大事なことです。外国人向けに英語や中国語によるメニューを用意することも、良い取り組みだと思います。もっとはっきり言ってしまえば、観光客向けを自負する店が存在することも、その地域が観光によって経済的に成り立っていることを考えれば、当然のことと言えるのかもしれません。しかしそこに地元民が入り込む余地がどんどん狭くなってしまうならば、少し話は違ってくるように思うのです。また、いかにも観光客だけを相手にしているような店が立ち並ぶ場所は、結局のところ観光客から見ても魅力を感じないものになってしまい、もう一度訪れようとは思わないところになってしまうことが心配されるのです。

こうした現状に対して、観光地側が無策であるわけはありません。

例えば京都では民泊への厳しい制限を行ったり、「オーバー・ツーリズム対策に関するプロジェクトチーム」を立ち上げ、地域滞在者の位置情報を活用したAIによる混雑予測情報を観光客に発信し、観光地への旅行者の分散化を促進する取組が行われたりしています。

居住者の3000倍もの観光客一年に押し寄せるようになった岐阜県白川郷はもっと深刻な観光公害に直面していると言えるかもしれません。

当地では以前からマイカーの乗り入れ制限等を実施していましたが、最近ではレスポンスレスポンス・ツーリズム」という考え方を推し進めようとしています。これは日本語に翻訳すれば「責任ある観光」という意味になります。要するに観光客が主体性や責任をもって行動する旅行のことです。例えば、観光客が地域やその環境に負担をかけないよう配慮し、なるべくゴミを出さないように、マイボトル等を持参することが挙げられます。さらに、地元側として、来てもらいたい観光客はどのような行動をとる人々なのか、情報発信をし始めているのです。また、訪れた人にミッション・ラリーに参加してもらうことも行われています。これは主催者側が出題するミッションをRPG(ロール・プレイイング・ゲーム)感覚でクリアしてもらうもので合掌造りの建物のみに注目されがちな白川郷のもっと多面的な魅力を楽しみながら理解してもらおうとする試みです。

ここで重要なのは、地元側も、急激に増えた観光客を「平穏な生活を乱す厄介者」あるいは「単なるカネを落としてくれる人々」というように見なさず、自らその地域の魅力を積極的に情報発信し観光客側の理解を深めてもらうように努力し、そのことによって持続的な観光立地としての立場を確立していくことなのです。こうした方向性はしばしば「サステイナブル・ツーリズム」と呼ばれるようです。

日本には古くから「旅の恥は掻き捨て」という言葉があります。しかしこれからの旅行においてそんな刹那主義的な、そして地域の状況を考慮しないような行動は許されるべきではないでしょう。私達もまた旅行先についてしっかりと考え、責任ある行動をとるように、気を付けなくてはいけないだろうと思うのです。

「そうは言っても、人気スポットへの人の集中はどうしようもないのではないか?」と言う方もいるでしょう。しかし、いわゆる人気観光地にも、さほど人が訪れないような「隠れスポット」はたくさんあります。例えば京都でなら、超人気スポットである清水寺やその周辺をまわって、それで満足してしまうのではなく、そこから少し足を延ばして、古いものと新しい物が混在する「街歩き」をしてみるのはいかがでしょうか。実は、京都には大正時代や昭和初期に建てられた魅力的な洋館が点在しており、それらを見て回るだけでも興味深い発見があるかもしれません。それから、いわゆる大寺院の付近に建っている塔頭(たっちゅう)の中には、公開しているものの、訪れる人が少なく、ゆっくりと庭園等を鑑賞することのできるところもたくさんありますよ。

 

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

明日を生きる多発性骨髄腫患者の日常215 「ヌエ派」竹内栖鳳

こんにちは。

 

先日、新型コロナ・ウイルスのワクチン接種をしてきました。これで7回目です。

最近はニュースで取り上げられることも少なくなってきた感がありますし、実際、厚生労働省の発表を元にNHKがまとめた統計によると9月頃から次第に患者数は減少傾向にあります。しかし、これからは季節性インフルエンザの流行時期にもなりますし、それとの同時流行も懸念されています。まだまだ予断は許されない状況なのです。

マスクを外して出かける人も多くなっていますね。もちろんこれは自己判断によるものですから、それに対して色々と言うつもりはありませんが、私に限らずさまざまな病気のために免疫力が低下している人もたくさんいますので、咳をするときは周囲に唾液が飛び散らないように配慮するなど、最低限のマナーは守ってもらいたいものです。


ところで、竹内栖鳳という日本画家をご存じでしょうか。明治から大正、昭和初期にかけて活躍した人で、近代京都画壇に大変大きな影響を与えたと称されている人です。そしてもっとも有名な作品として、東京の山種美術館に所蔵されている「班猫」というものがあります。この絵は、猫のさりげない仕草を見事な筆致で描いた作品としてよく知られており、どこかで見たことがあるという方も多いかと思います。私も10年以上前に山種美術館で拝見しましたが、猫の毛一本一本を柔らかで繊細なタッチで描いたこの絵に見とれてしまい、しばらく前を動けなかったことを覚えています。

この竹内栖鳳の大規模な展覧会に少し前に出かけてきたのですが、人物や動物、風景そしてヨーロッパや中国を描いたものなど、対象も、そしてそこから漂うテイストも非常に多岐にわたっていて、半ば圧倒されてしまいました。(ただし先述の「班猫」は出展されていません。)



竹内は1864年に料亭の長男として生まれ、そこを継ぐものとして期待されていたようなのですが、店の常客であった友禅画家がさりげなく描いた絵に魅せられてからは画家を目指し、10歳代の頃から早くも頭角を現していました。しかしこの人は単なる「若き天才」ではなく、当時厳然と存在していた日本画のさまざまな流派(四条円山派、狩野派その他)をはじめとして、西洋の絵画にも深い興味を覚え、それらを自分のものとして作品の中に取り込むべく、徹底的に研究していくというスタイルをとっていました。そのため一部の評論家や画家からは「ヌエ派」と揶揄されたそうです。ちなみにヌエとは平家物語にも登場する想像上の生物で、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビという姿をしていて、「ヒョー、ヒョー」という鳴き声はツグミにも似ていた、とされています。つまりさまざまな生物の寄せ集めで、その正体がよくわからないが故に不気味な存在として怖れられていたのです。これが、伝統的な流派の枠組みにまったくとらわれない画風の蔑称として流布されたのです。ただ、私自身はこの蔑称に、当時の人達の「自分たちの固定観念では捉えきれない画家が出てきた」という戸惑いや畏怖を垣間見ることができるように思うのです。

この展覧会では、「破壊と創世のエネルギー」という副題がつけられています。「破壊」という言葉は竹内自身が使った言葉で、周囲の関係者を叱咤激励するために使った言葉だと伝えられています。しかし私には、伝統的な日本画の枠組みを「破壊」しようとしたのではなく、もっと軽々と乗り越えて、新しい日本画の可能性を模索していったと感じられたのです。そこに思想的な背景や伝統的枠組みの持つ強い閉塞に対する反発心をもっていたというよりも、あくまで自分が魅力を感じたものを積極的に吸収していった結果が独自の画風構築につながっていたと思うのです。

ですから、ヌエ派と呼ばれることに対しても、おそらく彼自身はとくに気にしていなかったと思うのです。(ただ、彼はしばしばサルを描いています。ひょっとしたらヌエと呼ばれることに対する軽い皮肉だったのかもしれません。「ヌエですが、何か問題ありますか?」とでも考えていたとしたら、古い固定観念に縛られていた画壇に対する軽いジャブのようなものだったのかもしれません。)

現在では、絵画の世界に関わらずさまざまなジャンルで、伝統的な枠組みを打ち破ろうとする動きは当たり前のように息づいていますし、それが新たな機軸を形成していくことにつながることを頭から否定する人もあまりいないだろうと思います。ひょっとすると竹内栖鳳という人は、そうした動きの先駆けとも言える存在であり、いわばコスモポリタン的なスタンスを貫いた人だったのではないでしょうか。

私達は何か新しいものに出会った時にどうしても、それまでの自分の経験からそれについて判断しようとしてしまいます。経験を積み重ねれば積み重ねるほど、つまり、トシを重ねるほどにその傾向は強くなるような気がします。しかし本当に世界に新風を吹き込むものは、そうしたモノの見方では決して測ることのできない価値を持っているのだ、ということを改めて感じさせられた次第です。

 

今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。